スプリング・エフェメラル

篠乃崎碧海

小説

24,527文字

令和二年の春休みは突然に始まった。暇を持て余した高校生の一也は、久しく連絡を取っていなかった同級生の汀にメッセージを送る。
《ひさしぶり。今から行ってもいい?》
たとえば何ひとつ変わらない春が訪れていたとして、僕らはもう一度出会えただろうか? 問いかけたところで答えは見えてこない。あの年の春が短くなったのも、汀の命が残り少ないことも、きっと変わりようのないことだった。

 令和二年の春休みは突然にやってきた。

 春休みといえばインターハイの予選に向けて調子を整えていく時期だが、登校を禁止されてしまったので部活動自体がなくなってしまった。中学からずっと陸上部、種目は長距離。体を動かすのは好きだし大会でいい成績を残せれば勿論嬉しくはあったが、スポーツ推薦を狙うわけではないので、自主練習するほどの情熱はない。部活がなくなったからといって毎日ランニングに精を出すなんてことも勿論なかった。

 とはいえ次の大会まで引退するつもりもさらさらないので、春期講習に行く予定だってない。学校がいつから再開されるのかわからないけれどとりあえず勉強しよう なんて思えるほど真面目ではない。もしそうなら今頃はもっと偏差値の高い高校で清く正しい受験生をしていたはずだ。結果として、中途半端なもやもやばかりが募った。

 では気が済むまで遊びまくるか? ということになるのだが、そうもいかないのがこの降って湧いた春休みの一番厄介なところだった。いつもつるんでいる友人は揃ってカラオケにもゲームセンターにも行けないと嘆いている。スマホが今日何度目かわからない鳴き声をあげ、見れば未読のメッセージが二桁になっていた。みな暇を持て余している。

 学校がなくなればやることもなくなる。何もすることのない時間がにわか雨のように降り注いだのだった。しかもこの雨はしばらく止みそうにない。小雨だからいいやとそのまま歩いていたらいつの間にかずぶ濡れになっていた、そんなやるせなさが全身をじっとりと覆い始めていた。

 高校二年生、十七歳の他愛ない日常は突然に、ドライヤーと電子レンジとエアコンを一度に使った瞬間バチンと音が跳ねて真っ暗になるみたいに呆気なく、余韻も感慨も残さず終わってしまったのだった。

 本当なら今日は期末テストが返ってくるはずだった。一夜で薄味に漬けこんだ物理はどうなっただろう。赤点にはかからないだろうが、平均点は割っているに違いない。数学はたぶん大丈夫、現国は雰囲気でなんとなく解けたが、古文はどうせ駄目……。

 テストが返却されて、午前授業になって、寒い体育館で卒業式の練習をさせられて。全部、全部なくなった。追試があるのかさえわからずじまいだし、弁当持参で部活に明け暮れることもないし、卒業式は三年生だけでひっそりと行われることになった。

 いよいよオリンピックイヤーだなんて盛り上がっていたのが遠い昔のことのように思える。たった数ヶ月の間に、変わらなかったものがないくらいに全てがひっくり返ってしまった。

 実感がわく暇もない。高速回転する扇風機の羽をぼんやりと眺めている気分だった。指を差し出せば簡単に切り刻まれてしまうというのに、とてもそんな力を持つようには見えない。しかし現に世界はあっという間に細切れにされてしまったのだ。欠片を拾い集めてつなぎ合わせても、きっと元の形には戻せない。

 何もすることがない。先のことを考えるのさえ面倒臭い。

 からっぽのまま布団の上に転がると、太陽のにおいがした。午前中のうちに母が干しておいてくれたからだ。こんな日々が訪れるまでは、晴れた日には毎日干してくれていたなんて知りもしなかった。太陽のにおいを当たり前に享受しているという意識すらなかった。生活がひとつ、またひとつとくしゃくしゃに丸められ不必要の張り紙を貼られていく中で、こういう小さな当たり前に救われながらなんとか息をしている。

――そうだ、あいつのところへ行こう。

 それは悪くない思いつきだった。布団に転がったら頭も回ったらしい。

 勢いがしぼまないうちに、外行きにはくたびれすぎたシャツの上にまともなパーカーを羽織り、ベッドの隅に丸まっていた二日目のジーンズに足を通して、部活用のジャージを引っ掛けて玄関を出た。

 錆びが回ってギシギシ鳴る空気入れと格闘しながら自転車のタイヤを膨らませ、軽くなったペダルをひたすら漕ぐこと二十分。いかにも美味しくなさそうなチョコレート色の壁に囲まれた病院が見えてきた。幅の広い歩道へ自転車に乗ったまま進み、塀に沿ってしばらく進むと、褪せた色の看板と駐輪場への入り口が現れる。

 あいつ――みやさかなぎさはひと月前からここに入院している。より正確に言うならば、別の病院からひと月前に転院してきていた。

 

 駐輪場からメッセージを送る。

 

《ひさしぶり。今から行ってもいい?》

 

 行ってもいいも何も、もう病院の下まで来てしまっている。駄目だと返されたらどうしようか、そもそも家を出る前に連絡しておくべきだったんじゃないのか――今更なことに頭を悩ませる間もなく、手の中のスマホが素っ気なく震えた。

 

《いいよ》

 

 いつも通りの春休みを恙無く迎えていたとしたら、はたして会いに行っただろうか。

 沢山の人が亡くなった年、オリンピックが無くなった年、世界中が未曾有の混乱に包まれた年――二○二○、令和二年という年を思い返すとき、多くの人がマイナスのイメージを、漠然とした不安を、悲しみや忍耐の記憶を掘り起こす。古くなったカサブタから新しい血が流れ出すこともある。

 しかし、俺の持つものは少し違っている。

 自転車のタイヤが乾いた地面を踏みしめる埃っぽいにおいと、アスファルトの隙間から芽吹いた小さな緑。病室の窓から遠く見下ろしていた桜の花片が、上昇気流に乗って一気に目線の近くまでやってくる瞬間。晴れた空に飛んでいくシャボン玉が、淡いピンクと青色をいったりきたりしていたこと。ハッピーバースデーと吹き消されたロウソクが、一本だけ取り残されて揺れたときの寂しさ。いつだって晴れ渡っていた、あいつの柔らかな横顔。何も知らない、責任もない高校生だからこそ持ち得た、蜃気楼のように重さの欠けた都合のいいことばかりの穏やかな記憶たち。

 もしも春がこんなに早くやってこなかったなら。俺はもう一度だって、汀に会えなかっただろう。会いに行かなかっただろう。生きることの意味なんて考えもせず、なんとなく流されるままに歳をとって、大人と呼ばれる何かになっていったのだろう。

 地球上の全てが浮足立って重力を無くしていたあの年月にだって、きっと何かの意味はあったのだ。そう考えなければ遣りきれなかっただけかもしれない。そうであったとしても、そこに意味を見出したいと思う。些細でも良いことに繋がる何かがあったと信じたい。

 少しだけ長い高校二年生と三年生の狭間にあった、淡く儚い春を思う。

 あの日々が与えてくれたものの意味を、いつかはっきりと知るときが訪れたなら。俺は真っ先に、あいつに話してやろうと思っている。

 あいつは笑ってくれるだろうか?

 

1 Adonis ramosa

2020 0304

 

「バナナ持ってきたけど、食う?」

 昨日は手ぶらでやってきてしまったが、入院している友人を見舞うならばやはり、外の空気を持ち込むのが面会者の務めではなかろうか。……などと堅苦しく考えるでもなく、ただなんとなく何もないのも寂しいように思えて、コンビニで安売りしていたのを買ってきただけだ。

「ありがとう。果物はなんでも嬉しい」

 ビニール袋から透ける黄色を見て、汀は満足げな顔をした。手に持っていた文庫本をサイドテーブルに戻すと、ここに置いて、と掛け布団の膝のあたりを指差す。

 薄いカーテンの向こうから差し込む光が、汀の淡い黒髪に柔らかく照っている。俺のとは似ても似つかない、うっかりすると女子よりも繊細なんじゃないかと思えるくらいにサラサラの髪は、学校で毎日会っていた頃よりも透き通って見えた。

 教室にいると目立たないのだが、こうしてひとりきりの姿を見るとはっきりと感じる。汀は、みんなとはどこかが違う。何かが欠けているのか、はたまた持ちすぎて溢れているのか――その正体や理由を突き止めるまでには至らないが、とにかく『どこかが決定的に違う』そう直感的に感じるのだ。

 今日はやや風が強いのだが、この部屋には穏やかなものしか入れないようになっているらしい。穏やかな光、穏やかな室温、穏やかな声と表情。『太陽の恵み』とでかく印字されたバナナのパッケージでさえも、この部屋の中ではなんとなく大人しくしている。異質なのは、突然に春休みが始まらなければ今頃はグラウンドをひたすら走っていたはずの俺だけだった。

「バナナの他に、もうひとつ入ってる」

 開けてみ? ずっしりとした袋を膝に置いてやると、汀は細い指を器用に動かして、自転車の揺れにも負けなかった袋の結び目を容易く解いた。

「そっか、今日は雛祭りか」

「ネタに走ってから今更言うのもアレだけど。ひなあられとか桜餅とか、無難な方がよかった?」

 特設コーナーの中でも一際異彩を放っていたミニ菱餅を思わず手に取ってしまったのは、暇を持て余した男子高校生の悪い習性ゆえだ。

「ううん、嬉しい。菱餅食べたことないから」

「餅っていうか、それグミでできた偽物だけどな。大したことない味だと思うけど、気分だけ」

「気分だけじゃなくて、気持ちも一緒に貰っておくね」

 よかったら一緒に食べない? これ、使って。汀はベッドの側にひっそりと置かれていた丸椅子を片手で引っ張り出した。しばらく使われていないのか、座面には薄く埃が積もっている。

「じゃあ遠慮なく、バナナ一本貰うわ。まだ昼食ってねえんだよな。チャリ漕いできたら腹へった」

「実は僕もまだなんだよね。お昼の時間は寝ちゃってて、食べそびれた」

 僕はここから動いてないからそんなにへってないけど。汀は気まずさを紛らわすように目を逸らすと、水はポットから自由に使ってね、とサイドテーブルを指差した。全てのものがベッドから手を伸ばせば届くところにあって、便利でいいなと少し思う。

「看護師さんに言って何か出してもらえば?」

「今日はもういいや。かずとこれ食べる方が楽しい」

 今食べるなら夕食は減らしてもらおうかな、ああでもお昼すっぽかしておきながら勝手に間食して、挙句に夜は減らしてくれなんて言ったら怒られるかな。菱餅のパッケージをくるくると回しながら、汀は楽しそうに呟いた。

「菱餅って、どこから食べればいいの?」

「は? ……その、とんがった方の角からじゃねえの。まあ俺だったらまず上のピンクの層をひっぺがして食うけど」

 汀はころころと笑った――じゃあ、僕もひっぺがして食べる。一也にはピンクのところあげるから、僕は白と緑ね。

「そういやさ、食事制限とかはないんだよな?」

 ふと不安になって尋ねてみた。これからも何かと持ってくるかもしれないし、知らずに食べられないものを渡してしまうのは避けたい。

「平気。もうなんでも食べていいんだ」

 入院してる間に胃が小さくなっちゃったから、あんまり入らないけどね。なんでもないことのように言うと、汀は菱餅の一番上のピンク色を綺麗にはがした。断面についたザラメが粒々と零れて、白い布団の上に転がる。

「ピンク色、何味?」

「んー……砂糖味。強いて言うなら、桃風味の砂糖味」

 本物の菱餅はどんな味がするのか、俺も汀も知らない。見た目だけを真似たおもちゃの世界しか知らないままで生きている。

「白はね、……砂糖味? なんだろう、これ」

「全部同じじゃん」

 穏やかな光を映す瞳が、一瞬悲しげに揺れたように見えたのは気のせいだっただろうか。

「緑も砂糖味?」

「うん、砂糖味。でも美味しいからいいや」

 布団に落ちたはずのザラメはいつの間にか見えなくなっていた。

 

2020 0304

 

 玄関を開けて初めて気がついた。小雨が降っている。

「あー……めんどくさ……」

 天候のわりには空が明るいのと、雨音が聞こえなかったのとで気がつかなかった。本降りなら迷わないが、靴を脱いで部屋まで雨合羽を取りに戻るのは面倒だと思うくらいの微妙な雨具合だ。

 しばらく玄関先で迷ってから、己の運と空の明るさを信じてそのまま自転車に跨った。部活のジャージは多少の撥水加工がされているし、少しくらい濡れたところですぐに乾くだろう。三月の雨は冷たいが、ペダルを漕いでいれば体も温まる。運悪く本降りになってしまったら、途中の売店でレインコートを買えばいい。

 いらっしゃい。スライド式のドアを開けると、小さな声が出迎えてくれた。

 ヒラヒラとふられた薄い手だけが見える。病室の中へと進むと、窓の方を見ていた顔がゆっくりとこちらに向いた。

「雨のにおいがやってきたと思ったら、一也か」

 汀の声は掠れていた。言葉の終わりに空気が混ざりこんで薄れたみたいに聞こえる。

「悪い、もしかして寝てた?」

「もう起きようと思ってたところ。だからちょうどいいタイミング」

 背中を高めに起こしたベッドの上で、汀は枕に埋もれるような恰好でいる。枕だけだと落ち着かないのか、腰のあたりには丸めたバスタオルを挟んでいた。

 けほ、こほ、と力無い咳が背中を揺らして、汀は苦しげに顔を背けた。凪いだ水面を泡立てるような弱い咳の波が立て続いて、その合間に短く息を継ぐ。

「具合悪いなら今日は帰るよ」

「勿体ないこと、言わないでよ……寒い中、せっかく来てくれたんだから」

 そこ、座って。咳をやり過ごして、汀はゆっくりと指差した。昨日帰り際に元の場所に戻したはずの丸椅子が、ベッドの横に用意されている。まるで誰かが来るのを待ちわびていたかのようだった。

「どうせ明日も明後日も暇だし、時間だって早くても遅くてもいいし。今日は休めよ」

 待っていてくれたという喜び半分、無理をさせているという罪悪感半分で、どうにも座る気になれなかった。俺がここにいる間は、汀は無理をおして笑ったり喋ったりするだろう。それは本意ではなかった。苦しい思いをさせるために来たわけじゃない。俺が来たのはただ、暇だったからだ。学校もなく、繁華街に遊びに行くのも禁止され、スマホのゲームも飽きて、そうしたらふと汀の顔が浮かんだ、ただそれだけのこと。俺の気まぐれに、汀をつき合わせているに過ぎない。

「また来てくれるのは、嬉しいけど。雨の来訪は、今日だけでしょ」

 間隔の広い瞬きの後に、汀はぽつりと言った。

「雨?」

「そ。最近晴れてばかりだったから、雨のにおいが恋しくて。でもいざ雨が降ると途端に身体が重くなって、窓を開ける気力もなくなっちゃった。一也が来たとき、ああ、雨が向こうからやってきてくれた、って嬉しくなった」

 きこえる? 吐息の多い声で呟くと、汀は目を閉じた。

「窓の向こう、風のない中を雨が真っ直ぐに落ちてくるのが、きこえる? 目を閉じても、雨が見えるでしょ。感じるでしょ。それが、雨のにおい」

 言われるがまま、目を閉じてみる。

 汀の声の向こうから、静かな雨がさらさらと近づいてきた。声も雫も、風のない中を切り裂いて落ちてくる。じっと耳をすませないとわからない、しかし一度聞こえればはっきりと脳内に灯るもの。

「きこえた。雨のにおい、わかった」

 目を開けると、汀と視線が交わった。遠ざかりつつある雨の隙間、薄い雲の向こうから届いた光が、汀の睫毛にぽたりと落ちた。

 ぴしゃん、と頭の中で涼しげな音がひとつ鳴る。汀の睫毛に降った雨の音だ。

 座って? もう一度促されて、俺は椅子を引いた。

「雨の日は、ちょっとだけつらい。でも好きなんだ」

 汀は満足げに笑うと、また目を閉じた。睫毛にたまった雫が一筋流れ落ちて、白い頬を伝っていった。

 

 2020 0305

 

「一也。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いいかな」

 白く清潔な病室にはまるで似合わない、ケバブ味のポテトチップスを二人であらかた食べ尽くしたところで、汀はおずおずと切り出した。

「何?」

「おつかいを頼みたくて。図書館で借りてきてほしい本があるんだけど……」

 塩辛いフレーバーのついた指を几帳面にティッシュで拭いながら、汀は申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「お安い御用。……今更だけど、入院って不便なんだな。ちょっとそこまで、なんてのも駄目なんだ?」

「薬の影響で免疫力が落ちてるから。……そうでなくても、今は特に気をつけないと」

 言われて、俺は慌ててマスクをつけ直した。そうだった、ここは病院で、汀のように人一倍気を遣って過ごしている患者が他にもたくさんいる。

「そういうつもりで言ったんじゃないよ、ごめん

「いや、大事だろ。これから気いつけるわ」

 わかった、ありがとね。頬に小さな安心を浮かべて、汀はくたりと枕に頭を預けた。昨日よりは元気そうに見えるが、長く体を起こしていると疲れてしまうらしい。

「図書館でもデパートでも代わりに行くから、遠慮なく言えよ」

「ありがとう。とりあえず、今は図書館だけで十分すぎるくらいに助かる」

 汀は気遣いがすぎるのだと思う。歩いてほんの数十分程度の場所にすら自由に行けない身なのだから、もう少し人を使うことに慣れてしまえばいいのに、とも思う。

「借りてきてほしいのは、これ」

 汀はサイドテーブルの引き出しに手を伸ばした。青い表紙のキャンパスノートを取って、間に挟まれていた新聞記事の切り抜きを引っ張り出す。

「前の病院にいたときに大部屋で一緒だったおじさんが勧めてくれたのを、最近になって思い出して読みたくなったんだ」

 記事の日付は一年半ほど前のものだ。長い間そのままにしていたのか、切り抜きは全体に茶色っぽく変色して、折り目が擦り切れかけていた。本の表紙の写真の上に「おすすめ」の文字が書き足されている。汀の字ではないから、この切り抜きを汀に渡したおじさんの書き込みだろうか。

 紹介されている本はタイトルも著者も全く聞いたことのないもので、この記事だけでは小説なのかエッセイなのか、普段読書とは縁のない俺にはさっぱり見当もつかない。

「図書館のカードはこれ。たぶんまだ使えると思う」

「オーケー。うわ、このカードすげえな。年季の入り具合がすげえ」

 いつから使っているのか、端の折れ曲がったカードは表面のつるつるしたコーティングが半ば剥げかけていて、バーコードも読み取れるかどうか怪しいくらいに薄くなっていた。おまけに俺の知っているものとはデザインも違っている。数年に一度変わるらしいからこれはひとつ前、いやもしかしたら二つ以上前のデザインなのかもしれない。だとしたら相当に年代物だ。

「小学校に上がった春に作って、それ以来ずっと使ってる。……裏、見てみてよ。今となっては受付で毎回ちょっと恥ずかしいんだけど」

 言われた通りにカードを裏返すと、真ん中に小学一年生らしいたどたどしい筆つきで〈みやさか なぎさ〉と書かれていた。苗字を大きく書きすぎて、名前が右端にぎゅうぎゅうに押し込められている。真剣な顔つきでマーカーをぎゅっと握りしめて名前を書く小さな汀を想像して、思わずくすりと笑ってしまった。

「昔から本好きなんだな。俺なんていまだにカードすら作ったことないのに」

「母親が、本が好きだったから……物心ついた頃にはもう身近に存在してた、ただそれだけのことだよ」

 汀はなんでもないことのように言うが、教科書を読んでいるだけで眠くなってくる俺からしてみれば、すごいなあとただただ感心するばかりだ。

「貴重なお品、確かにお預かりしました。今日はもう閉まってるだろうから、明日行ってくる」

 こんな些細なことでも、不自由な友人の力になれるのなら暇を持て余していてよかったと思う。会いにいってよかったと思える。

「ありがとう。よろしく」

 楽しみにしてる、と汀は笑った。

 

2020 0306

 

 ピッとバーコードを読むと、カウンターの内側にあるパソコンがポーンと警告音を鳴らした。

 このカードはご利用になれません、と受付の女性は言った。ATMの方がまだ柔らかく答えてくれるのではないかというくらい、事務的に乾いた声だった。

「え、なんでですか」

「最終のご利用日から一年以上が経っているため、利用者様情報が消えています。身分証明証があれば、再発行もできますが」

 いかがいたしますかと訊かれても困る。このカードの持ち主は図書館に来られない。来られないからこそ代わりにやってきたというのに、この仕打ちはあんまりだ。

「いや、頼まれて代理で来たんで……再発行とか、そういうのはちょっと」

 ひとまず今日のところは諦めて、汀に訳を話すしかない。学生証を預かってきて、本人は入院中で来られないと事情を説明すれば、代理人でも再発行させてもらえないだろうか。

 また明日ね――嬉しそうにしていた汀の顔がぱっと浮かんだ。白いばかりの病室で、汀の瞳の輝きだけがやけに印象的だったことを思い出した。思い出してしまった。

「とりあえず俺が新しく利用登録して、カード作ります。それで貸出し手続きしてください」

 手ぶらで会えない。借りられなかったなんて言えない。

 綺麗に笑った瞳が白い部屋の中に埋もれていってしまいそうで、何より落胆した顔を見たくなくて、気がつけばそう答えていた。

「かしこまりました。ではこちらの用紙の太枠で囲まれた欄にご記入を――」

 ちら、と後ろをふり返ると、いつの間にか手続きを待つ人の列ができていた。普段と違う光景なのかはわからないが、誰も彼も時間を持て余しているのか図書館内にはやけに人の姿が多い。一番前に並んでいる人は余程急いでいるのか短気なのか、もたもたするなと言わんばかりの気配を全身から漂わせていた。

「こちらのカードはいかがいたしますか。よろしければ処分しておきましょうか」

 慌ててペンを取った俺の頭上に、追撃のように女性の声が降ってきた。

「は、処分? なんで?」

 一瞬意味がわからなかった。顔を上げると、マスクの向こうの無表情な視線とぶつかった。感情がわからない。何を考えているのか読み取れなくて怖い。

「もう利用者様の情報は消えておりますし、再発行するにしても新しくカードをお作りすることになりますのでこのカードはもうご不要かと、」

「だめです、やめてください

 飛び出した声は図書館には不釣り合いな大きさだった。隣のカウンターにいたスタッフが何事かと目を剥く。

「すみません。……持ち帰らせてください。そもそも俺のじゃないんで、勝手に捨てたりできない」

 かしこまりました、と女性は丁寧な手つきで汀のカードを返してくれた。この人だって、別に意地悪をしたくて言ったわけではない。それどころか親切心から提案してくれたくらいなのだ。そう頭ではわかっていても、喉の奥がツンと痛くなった。

 あの、早くしてくれませんか。先頭に並んだ人についに声をかけられて、すみませんすみませんとあちこちに頭を下げながら、再びペンを取った。

 名前、名前書かなきゃ。宮坂……違う馬鹿、俺がカード作るんだから、自分の名前書くんだろ。インクの出が悪くて文字が掠れて、ますます泣きそうになった。喉の棘がこれ以上食い込まないように上を向くと、蛍光灯の白さが目に刺さった。散々だ。

 汀になんて言おう。どんな顔をして本を渡せばいいのだろう。そればかりが頭の端から端まで往復運動を繰り返していた。答えは出そうになかった。

2021年11月24日公開

© 2021 篠乃崎碧海

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