勿忘草

谷田七重

小説

6,088文字

ForGetMeNot――かすかに聞こえてくるピアノの旋律。年老いた調律氏は甘やかなメロディーに誘われて恋を思い出す。

やさしい飴色の陽ざしに一音一音が溶けいるように、高く低くたゆたうようなピアノの音色が聴こえてくる。白髪混じりで初老のピアノ調律師は、傾いた陽光がセピアに染める閑静な住宅街の小道で、ふと足をとめた。

音のする方に首をめぐらせてみると、小ぢんまりとした瀟洒な佇まいの家があった。その二階のバルコニーの窓は開け放たれていて、カーテンがかすかに風に揺れている。

これは、リヒナー作曲の『勿忘草』だ。英語名はForget Me Not  ――「私を忘れないで」、これは勿忘草の花言葉とも同じだ。このピアノ曲は易しいもので、練習をすれば、ピアノを習い始めた者でも弾くことができるだろう。

しかし彼は立ち止まったまま思っていた。

「それにしてもなんと情感のこもった、なんとやさしい音色だろう。これはとても心のきれいな人が弾いているに違いない」

その儚げで切ない、そこはかとなく哀しい旋律は、弾き手の細やかな情感と指使いによって聴く者の心を震わせ、無垢なものだけを残して結晶化させ、まるでひとつの繊細なガラス細工に仕立ててしまうかのようだ。そうして何故だか彼は、その透明なガラス細工の真中に、淡く発光する蛍火のようなものがほのめいているような気がした。

ところで彼は、さっきからあることに気付いていた。このピアノは音が狂っているのだ。ピアノも弦楽器なので、定期的に調律をしなければ音律がずれてしまう。それをきちんと標準音に調整するのが、調律師の仕事だ。しかし妙なことだが、彼にはこのピアノを調律するのが惜しいように思われた。

「音律の狂った『勿忘草』は、弾き手の哀切な声音

を聴いているようで、味わい深いものだ。時間の中に取り残された弾き手とピアノが奏でるForget Me Notという、祈りにも似た呟き。これを弾いているのは、一体どんな人なんだろう」

彼はしばらくそこに佇んで、繰り返し弾かれる『勿忘草』に耳を傾けていたが、あたりが暗くなってきたので、家路をたどることにした。

だんだんと遠ざかるピアノの音を背中に聴きながらゆっくりと足を進めていくうちに、いつしか彼の心は、遠い日の追憶をたどっていた。それはあたかも、透明なガラス細工と化した彼の心にゆれるともし火が、いよいよ輝きを増したかのようだった。彼は小さくゆらめく炎にほのかに頬を染めながら、その灯心のありかを探そうとつとめた。……そうしてようやく探しあてた。

「そうだ、あの人だ」

彼は遠い日の、まだ彼が若かったころの恋を思いだしていた。折りしも夕陽の残照は最後の閃きを放った。代わりに夕闇が支配しようとするこの時刻、辺りに響くのは彼の靴音だけだ。

「そうだ、『私を忘れないで』……あの人だ」

彼は心の中で繰り返した。彼は思いだしていた、遠い日の恋を、遠い日の恋人を、自分の身勝手ゆえに別れをつげた恋人を。

「自分はあの頃、恋だとか愛だとかいうものに対しての想像力が欠けていた。いつも何となく始まり、何となく終わる、ということの繰り返しだった。しかしそんな中、あの人と出逢った。どちらかといえば地味な、しかしその静かな瞳の奥に、限りないやさしさと情熱とを秘めた人だった。彼女は何も言わなかった。一言も私を責めるようなことは言わなかった。ただ、私の全てを、静かにやさしく受け止めてくれた。……」

深まる夕闇のなか音もなく街灯がともり、ひとり道をゆく彼の影を、歩道に落とした。彼には、街灯が追憶への旅を、道案内してくれるかのように思われた。しかし、彼は歩を進めるたびに絶えず路上に現れては消えてゆく寂しげな自分の影に気付かない。

歩きながら、彼は夜空にひとつ、小さな星を見つけた。今夜のように月の見えない晩には、人は無意識に星をさがすものらしい。たとえごく小さな星であっても、それを見つけると、嬉しいような、安心したような気持ちになる。月であれ星であれ、闇空の中に光るものをさがす者は、それらに小さな救いを求めている。事実彼には、彼の目に見えている小さな星が、まるで誰かの見えぬ手が彼の孤独を癒すために、月なき夜に砂金の一粒を天に据えたものであるかのように思われる。

そうした情緒を感じながら、彼は心の中で、追憶の旅を続けていた。

「……しかし私は、彼女の深く穏やかな愛情に、応えることができなかった。私は人の愛し方を知らなかった。そうしてある日突然、彼女に別れを告げたのだ。彼女は最後まで、私を責めなかった。静かに涙を拭いながら、微笑みさえした。彼女は言った。『ずっとあなたのことを想っていてもいい?』と。私は答えなかった。『せめて』と彼女は続けた、そうして言ったのだ、『私のこと忘れないでね』と。その瞬間、彼女の瞳に涙があふれ、一しずくの光のようにきらめきながら、つややかな睫毛からしたたり落ちた。……」

やさしくも哀しい旋律。『勿忘草』。Forget Me Not――「私を忘れないで」。先に彼が聴いたピアノの音色は、彼が長らく忘れていた恋物語を鮮やかに彩色し、蘇らせた。あのピアノの音はとうに聴こえなくなっていたが、彼の胸の内にはさっきにも増して、『勿忘草』の旋律が、しめやかに美しく繰り返されていた。

「もしかすると」

その彩色の人工的なまでの鮮やかさ、幻の音色の美しさに身と心を震わせながら、彼は思った。

「もしかすると、あのピアノは彼女が弾いていたのかもしれない」

彼はふたたび、闇空にひとつだけ瞬いている小さな星を振り仰いだ。彼には、それがまるで闇のなか震えながら今も彼を待っている、彼女自身の姿のように思われた。そうして小さいながらも健気に輝いている星を、たまらなく愛しく思った。遠い遠い、真っ暗な空の彼方から、彼女の「忘れないで」というか細い声が聞こえてくるかのようだった。

「あの人はピアノを弾くのが好きだと話していた。あの人のピアノを聴くことはついになかったけれど、彼女はずっとピアノを弾き続けていたに違いない。そうしてある時から、ピアノの音律を調整することをやめてしまったのだ。ピアノと一緒に、時の流れの底深く沈み、たゆたいながらとどまることを選んだのだ。そうしてきっと、『勿忘草』を幾年も幾年も繰り返し弾いてきたに違いない。もしかしたら、私が調律師になったことを知っていたのかもしれない。そうして彼女はずっと私を待っている、待っている。……」

傍目から見れば、すこし背を丸めて独りゆっくりと夜道を行く初老の男の姿は、寂しげに見えることだろう。しかし彼は目を大きく見開いて小さな星を見つめ、そのかすかな光の中に全身が溶け込んでいくかのような錯覚を覚え、うっとりとしていた。そうして同時にその星の一点から、『勿忘草』の旋律の一音一音が、まるで天上の音楽のようにこぼれ落ちてくるのを聴いた。

 

 

調律師は、一人住まいの小さな部屋のドアを開けた。必要最小限の家具たちが、暗い部屋のなかに濃い影をまとっている。

いつもならば帰宅するなり部屋の明かりを点ける彼だったが、今日は日常的なものは出来るだけ目にしたくなかったので、ソファ脇の小さなランプだけ点けることにした。

ランプのほの暗い明かりを頼りに台所に立ち、彼は冷たいスープを温めなおし、戸棚からパンを取り出した。いつもの機械的な作業をしながら、彼の心はなおも夢うつつの中にあった。

いつもと同じの簡素な食事を終えてから、彼は深々とソファに身をうずめて目を閉じた。しかしふと思い立って、どこかにあるはずの『勿忘草』のレコードを探し始めた。こまめに家を掃除してくれる者もいないので、部屋の隅の方には埃が溜まっているところがある。『勿忘草』のレコードは、レコードや道具類が乱雑に置かれた一角の中に混ざり込んでいた。

彼は『勿忘草』のレコードをそっと拾い上げ、そのカバーの表面に薄く積もった埃を指でなぞるように静かに払った。そして、たそがれ色のランプの光に包まれてForget Me Notという文字がはっきりと見えたとき、彼の心はふたたび感動に震えた。

彼は蓄音機にレコードを入れて針を落としたあと、ふたたびソファに腰掛けた。そうしてパイプを手に取り火をつけて、静かに煙を吐き出した。背後の壁には、たそがれ色のランプの光に包まれた彼の孤独な影が、大きく映し出されている。……

レコードの温かみのある音が『勿忘草』を奏ではじめ、そのやさしくも切ない旋律が部屋中を満たしたとき、目をとじた彼の心は、その甘い感傷の中にとろけるように漂いはじめた。

彼はレコードを聴きながらうっとりとして、薄くぼんやりと目を開けた。そうしてランプの控えめな光のなか、いつもよりも不思議に美しく立ち昇るパイプの煙に見入った。それはまるで、透き通るような天女の羽衣が、しめやかな夜風にゆるやかに舞っているかのようだ。しかし、もつれるように絡み合いながら薄闇のなかで燻る

紫煙は、自分と遠い日の恋人との魂が相抱いてたゆたっているかのように、彼には思われた。そうして『勿忘草』の三拍子のリズムはワルツを思い出させ、いつしか彼は空想の物語に没頭していた。

 

その廃屋では真夜中を過ぎると

埃をかぶった蓄音機がひとりでにワルツを奏ではじめるという

その高く低くたゆたうような音色に誘われるように二つの白い影がぼうっと現れ

手と手をとりあい静かに踊っているという

二人が現れるとどんなに重たい曇り空にも雲間が生じ

そこから月が淡いやさしい光で廃屋の窓に降り注ぐという

 

二人は踊る、静かに踊る

じっと互いの目を見つめたままで

ひとことの言葉も交わすことなく

死霊か、あるいは生霊か

 

ともかくの世では相抱くことの叶わぬ恋人たち

生身の体で触れ合うことの叶わぬ恋人たち

夜が白々と明けるころ

唯一の証人である月の光が弱まると

音楽はぴたりと止まり

恋人たちもふっと消えてしまうという

 

その廃屋がどこにあるのか

そもそもそんな廃屋が本当にあるのかどうかは

誰も知らない

 

どうしてこんな物語が脳裏に浮かんだのかは分からなかったが、彼にはこれまでというもの、こうして夜な夜な人知れず、遠い日の恋人と夢の中での逢瀬を重ねていたように思われてならなかった。

……彼は昔の恋人の形見を持っていない。写真もなく、顔すら曖昧にしか覚えていない。それにも関わらず、彼は感情が高ぶるにまかせて思った。

「今になってこそ分かる、私は彼女を本当に愛していたのだ。愛していたからこそ別れたのだ。……しかし私は愚かなことをした。彼女は今も『勿忘草』を弾きながら、私を待っているのだ。ああ、彼女のピアノを調律することができたら。そうしたら再び、二人とピアノの時計の針は動き出すだろう。そうして再び、二人で新しい時を刻み、手を取り合って生きることができるだろう」

いつの間にかレコードは鳴り止んでいた。しかし彼はそれにも気付かず、年月によって皺が刻まれた頬を燃え立たせていた。

「そうだ、今こそあの人を迎えに行こう。きっと時を経て相見た瞬間から、この世界は生彩をおび、ピアノの音律も元に戻り、ああ、そうして何もかもがあの頃と同じように息づき、輝きを放つだろう。……」

彼は洗面所に立ち、顔を洗ったあと、鏡の中の自分を見た。ランプの明りはここまでは充分に届かなかったが、鏡に映った自分の姿をこうしてまじまじと見るのは、ずいぶんと久しぶりのことのように思った。

「それにしても、ずいぶんと年をとったものだ」

彼は思った。白髪まじりの髪に、皺が目立ちはじめた顔。そこらにいる初老の男と何ら変わりはない。しかし彼は、明日彼女を迎えに行くときに、せめて目だけは昔と同じように若々しく輝いていることを願った。

「……しかし、彼女も同じように年をとっているだろうな」

そう考えると、彼の頬は微笑にゆるんだ。

寝支度をしながら、彼は子供の頃に聞いた、勿忘草の名前の由来となった花物語を思い出した。あの青い、儚げで可憐な花には、こんな言い伝えがある。

昔、若い騎士が恋人と川辺を散歩しているときに、岸辺に青い可愛らしい花を見つけた。騎士はそれを恋人に贈ろうと思って岸辺にかがみ、花を摘み取った。しかしその瞬間に、身に着けていた鎧の重さのために川に落ちてしまう。騎士は川の急流に流されながらも花を高く掲げ、「忘れないで」と叫びながら、ついに川の中に見えなくなってしまった。

この騎士の最後の言葉が、そのまま花の名前と花言葉になったという。哀しい話ではあるが、残された恋人は騎士の言葉を死ぬまで忘れず、いつも髪に勿忘草を飾っていたという。これにちなんで勿忘草の花言葉はもうひとつある。「真実の愛」だ。

「真実の愛。……」

調律師は思わず声に出して呟いた。

「この年になってようやく愛というものに目覚めることになるとは。人が聞いたら腹を抱えて笑うことだろうな」

彼自身も自分に呆れながら、しかし幸福感に口元をほころばせながら、ランプを消してベッドに入った。壁に映し出されていた彼の大きな影も、暗闇に同化して静まった。

 

 

昨日と同じ時刻、飴色の陽ざしに包まれながら、調律師はまた例の家の前に佇んでいた。しかし今日は、ピアノの音が聞こえない。

「どうしたんだろう。……いや、もう少ししたら弾き始めるかもしれない」

彼は待った。しかしピアノは鳴らなかった。今日は諦めて明日にしようかと彼が思ったとき、バルコニーから人の影が現れた。

それは若い女で、何か喋りながらバルコニーに小走りで駆け寄ってきた。そうして欄干にもたれながら、部屋の中にいる誰かに語りかけている。すると部屋から同じく若い男が出てきて、女の腰に手を回した。女は外の景色を眺めて腕を伸ばし、何かを指差している。するとはっきりと女の声が聞こえた。

「見て、夕陽があんなにきれい」

二人はしばらく夕陽を眺め、そうして顔を近づけて口づけをした。

調律師はその様子を、身じろぎもせずに眺めていた。最初、彼の唇は一瞬こわばった。しかしそれが徐々にやわらいで、いつしか彼はほのかな微笑をたたえていた。彼はようやく気付いた、「忘れないで」と願っていたのは彼自身だったということに。初老にさしかかってなおもひとり身でいることの寂しさから、ありもしない夢を見たのかもしれないということに。ともすると、彼は昨日ここで聴いた『勿忘草』が、本当に自分が耳にしたものかどうかさえ分からなくなった。やさしい飴色の夕陽にさそわれたノスタルジーが奏でる、幻の音色だったのかもしれない。

昨日と同じように、空は暮れかけている。若者は夕陽を純粋に「きれいだ」と思えるかもしれないが、彼はもう若者ではない。彼は調律師でありながら、自身を調律する術を知らない。

彼はバルコニーに背を向けて、老境という夜へと、静かに歩いていった。

2007年9月25日公開

© 2007 谷田七重

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