死んで地獄に行きたい

蒼樹葉月

小説

18,543文字

メンヘラ女子と安易に付き合ってはいけない(戒め)

「死んで地獄に行きたい」

華織がスマホを操作しながら唐突に呟いた。僕は、驚きのあまりスマホを落としてしまった。

午後一二時五〇分。大学の第二学生食堂のなかにはほとんど誰もいない。華織と僕の周囲には、ただ虚ろな空間が支配していた。

「華織。なに、言っているの?」

「結樹、ごめんね」

華織はさらっと謝った。その手にはスマホを持っていて、カメラのレンズがテーブルの上の安っぽい杏仁豆腐に向いていた。

華織は慣れた手つきで写真を撮り始めた。だが、華織の視線は杏仁豆腐もスマホの画面も見つめていないようだった。

カメラの乾いた撮影音が鳴り響く。カメラのシャッター音がやたら大きく、食堂の調理場で働いているおばちゃんにまで聞こえそうだった。

「写真、こんな感じで投稿していいと思う?」

華織がスマホの画面を見せてきた。

「もうちょっと、写真全体を明るめに。僕の姿がわかるようにして。そうすれば、いい感じに映える」

「わかった、やってみる」

華織は指先で写真アプリの設定ボタンを指先でなぞった。華織の細くて白い指が滑らかに動き、画像は少しずつ明るくなった。その指を見ると、昨日の夜に華織と指を絡み合わせた時の感触を思い出した。華織の指は細い割に骨が硬い。その硬い感触が急にはっきりと思い出して恥ずかしくなった。

これ以上華織の指を見ていられず、僕は第二学生食堂の大きな窓へ目を向けた。窓の向こう側は大海原が一面にわたって広がっている。海は柔らかい日光に照らされて瑞々しい。僕は、この海が好きだ。

「ちょっと、結樹? こんな感じでどう?」

華織が強めに呼びかけてきた。スマホの画面には、明るく加工された写真が写っていた。

「まあ、これでいいんじゃない?」

僕がなげやりに答えると、華織はSNSの投稿ボタンを素早くタップした。

その後、華織は午後の講義があるからと言って、足早に食堂から出て行った。僕は華織の後ろ姿を見送った後、また窓越しに海を眺めた。大海原はどこまでも穏やかで、時が止まっていた。その海を眺めながら、華織が「死んで地獄に行きたい」と言った理由を考えることにした。

華織に出会ったのは、大学一年生の春だった。当時の華織は教授、同級生、先輩、とにかく誰からも好かれていた。だけど華織は時々、講義中に教室の隅でぽつんと座ってうつむいていた。その姿が気になって、僕は声をかけた。それから色んなことを話すようになった。売店のおばちゃんが面白いこと、通学途中に道端で見た野良ネコ達がかわいいこと、好きなアーティストの好みがまるで逆なこと、お互いの家族のこと、お互いに好きになったこと、恋人になろうと決めたこと……。

華織にとって僕は初めての彼氏だという。華織の父親があまりに厳しかった結果、誰とも付き合ったことがないらしい。高校生でも門限は七時。塾以外の外出は原則禁止。定期テストの成績がよければ父親は喜び、悪ければ怒鳴りつけて殴りつけたり蹴り上げたりする。華織は「父親は医学部の教授だから、勉強できない人間の気持ちがわからない」と言いながら僕の前でよく泣く。自分の父親のことを、「お父さん」でも「パパ」でもなく、「父親」と呼ぶ華織の目は、生きている輝きが全くなくて虚ろだった。

だからといって、それは華織が「死んで地獄に行きたい」と言った理由にはならない。考えても考えても、納得する理由が思いつかない。

僕は考えるのをいったん止めて、目の前に広がる大海原をただ眺めることにした。海はずっと黙っていた。

 

午後の講義が終わったあと、僕は華織を落ち合うために大学の正門へ行った。夕陽が血のように紅く、形はゆらゆらとぼやけている。華織はすでに正門の前で立っていた。華織は下を向いていて、話しかけても返事をしなかった。

正門から最寄り駅までは下り坂がダラダラと長く続いている。坂を下りながら華織の顔を見つめる。華織の眼は、坂の遠くにある海をずっと見ているようだった。

「華織? 少し疲れた?」

「別に。結樹には関係ない」

華織が素っ気なく返事した。こういう時は、たいてい僕のことで怒っている。気まずくなった。

少し歩くと、右手に公園が見えてきた。確か、公園の中に自販機があったはずだ。僕は華織の手をくいっと引いた。

「なんか飲む? 公園の中に自販機があったはず」

「……ミルクティーが飲みたい」

華織は素直に答えた。

公園の中はやや薄暗い。蛍光灯はあったが、点灯していないものが多かった。

自販機はベンチの脇にぽつんと立っていた。ミルクティーのペットボトルが売っていた。僕は華織と自分の分のミルクティーを買って、ベンチへ腰かけた。隣には華織がもう座っている。

「なんか悪いことしたかな。ごめん」

「怒ってないよ。というか、私、怒っているように見える?」

華織は不機嫌そうに言った。僕は黙るしかなかった。女の子はわがままなお姫様なんだ。男はお姫様のためなら何でもする。世界の歴史なんていうのも、おおざっぱに言えば、男たちがわがままなお姫様のために頑張った物語だ。

華織は、持っているミルクティーのペットボトルをじっとみつめて、飲むのをためらっている。それを見て、心がズキズキと痛くなる。

ふと、ベンチの後方から微かに音が聞こえた。何かの生き物の声らしい。やや甲高い声で、正確なリズムを刻んでいる。最初は鳥の鳴く声だと思った。けど、どうも違う。どうやら、これは人間が放つ声だ。しかも、これは女性がセックスの最中に出す喘ぎ声だ。華織も、セックスをしていて気持ちよさそうな時はこういう声を出す。

「華織、早く飲み終えて。駅へ行こう」

「やだ。あんたの言うことなんて聞きたくない。昼休みに私のことを見ないで、ずっと窓の外ばかり見て。とにかく、ここにいたい。なんなら、後ろで何をやっているか、見に行く?」

華織はくすくす笑った。そのままベンチから立ち上がると、僕の顔面を見下ろし、手を差し伸べた。僕は、差し伸べられた華織の手を握り返し立ち上がった。

ベンチの後方を振り返る。そこには小さな花壇があって、その向こう側は駐車場になっていた。

「あの車から声が聞こえる」

華織は、駐車場に停まっている白いミニバンを指さした。そのミニバンの車内から三人分の声が出ていた。女性が一人、男性が二人。車体は小刻みに揺れている。間違いない。僕たちはカーセックスの現場を見ているんだ。

「華織、これってカーセックスだよね?」

僕の声は華織に届いていないようだった。じっとミニバンを見つめていた。華織の視線は熱く、ミニバンの窓ガラスが溶けそうなぐらいだった。

僕は、車の中でセックスしている連中になぜか妬いた。僕は華織の手に触れた。華織は待ってましたとばかりに指を絡み返してきた。その手は熱を帯びていて、じっとりと汗をかいていた。指の骨が硬い。ドキドキする。

しばらくして、安っぽい電子音が鳴るとミニバンのスライドドアが横に開いた。車内のシートはすべて倒されていて、後部座席の場所には、顔が火照った全裸の女が寝っ転がっていた。そして女の脇には男が二人いて、全裸の上にパーカーを羽織っている。

男たちは女の尻を軽くぺちんと叩いたあと、サンダルを履いて地面に降りた。男たちは車体の後方へ回り込んで勢い良くバックドアを開けると、そのまま三脚を取り出して手際よく組み立て、ビデオカメラを設置した。

「派手に犯そうぜ!」

男たちは飢えた獣のように雄叫びを上げた。

女が後部座席からバックドアの縁へ動いた。バックドアから女の白く細い脚が出てくると、男たちはその足首をつかんで大きく広げた。

僕は横にいる華織を見た。華織の視線は目の前の行為へ釘付けになっていた。頬が赤らんでいて、口が開けっぱなしだ。幼稚園児が友達のいたずらを見て、もっと悪いことをしてやろうという様子にそっくりだった。

「華織? こういうのに興味あるの?」

華織はうなずいた。華織には変態的な性癖がないと思い込んでいた分、目前で繰り広げられている痴態に興味津々な華織に、少し引いた。

僕は華織に耳元へ「華織、ここから逃げよう」と言った。だが、華織は全く反応を返してこなかったので、繋いでいた手を無理やりひっぱって、公園の入り口まで連れ出した。華織の息は弾んでいた。顔は艶やかで、頬の表面が普段よりなめらかに見えた。

そのまま二人で坂を下り続け、駅へ着いた。改札を通り抜け、ホームへ立っている間も、さっきまで公園で見たカーセックスの光景と、それを嬉しそうに見つめる華織の顔を思い出してしまう。今、横にいる華織の顔は、カーセックスを見る以前の華織と確実に違う。なにか、おそろしいことに気づいた顔だ。華織の意識自体も、もう二度と以前の華織には戻れないだろうと感じた。

 

華織と同棲しているアパートへ着いた。玄関を閉めると、華織が「私たちもああいうことをしたい」と話しかけてきた。

「ん? カーセックスしたいってこと?」

「違うよ。セックスしているところを動画で撮って、みんなに見られたいの……」

華織は両手で顔を隠しながらつぶやいた。

華織が注目を浴びたがる性格なのは付き合った初めの頃から思っていた。自分たちの恋愛の様子をSNSに投稿しようともちかけたのは華織の方だ。「結樹と私が愛し合っている様子を全世界に発信したい」と言っていた。

そのまままっすぐ華織と同棲しているアパートへ帰った。華織が玄関でスマホを取り出して、カメラを起動させた。華織はスマホを持った右手をぐいっと高く上げて、自撮りを始めた。

パシャ、パシャ

カメラの乾いた撮影音が鳴り響いて、耳が痛くなりそうだ。

華織が見られたがる性質だというのは付き合った当初から思っていた。自分たちの恋愛の様子をSNSに投稿しようともちかけたのは華織の方だ。「結樹と私が愛し合っている様子を全世界に発信したい」と言っていた。

華織は常に誰かに見られたがっている。他人の眼差しを常に欲しがっている。逆に言うと、誰かに注目されていないと華織は自我が保てなくて、たちまち崩壊する。

 

その週の土曜日の夜、華織と僕は再び公園に向かっていた。風が強い。満月が気の抜けたようなぼんやりとした光を放っている。

「月がきれいだね」

「そうね、こういう美しい夜ってすごく悪いことがしたくなる」

華織が恍惚の表情を浮かべて言った。その表情を見て、僕の心拍数が上がった。ドキドキする。

撮影場所は公園の公衆トイレにした。中に入ると蛍光灯が不気味に明るい。夜の闇に飲まれている周囲に比べ、あまりにも明るすぎて、このトイレだけ世界と切り離されているようだった。

華織は洗面台の上にスマホ用の小さな三脚を置き、姿勢をかがめながら三脚の向きを指先で器用に調整していた。

本当に撮影するのだと思うと少し怖気づいてしまう。

「華織、こんなことしていいのかなあ? やっぱり悪いことじゃない?」

「いいじゃない。どうせ、私たちは悪い子なんだし。死ぬまで、とことん悪いことをたくさんしましょ?」

華織は上機嫌に返事をした。まるで、処刑場に連れていかれる罪人が開き直っているかのようだった。

かがんでいる華織のうなじがはっきりと見えた。うなじの一面をやけどでただれた赤い跡が覆っていて、罪人に罰として入れられた入れ墨のようだった。

「そうだね、華織。僕たちは悪い子だね。なんて悪いんだろう」

僕は華織の首を両手で握って、少し力を入れてきゅっと軽く絞めた。華織の口から、乾いた空気音が漏れ出る。数秒してから手の力を緩めると、華織の目は涙で潤んでいた。

「結樹って変態なの?」

「お互い様じゃん、そんなの。堕ちるところまで堕ちよう」

華織は少し嬉しそうだった。僕は華織を誉めてやろうと頭を軽く撫でた。上機嫌になった華織は、スマホを三脚へ取付け始めた。

 

トイレで撮影したセックスの動画を次の日の昼に編集し終えて、そのまま僕たちは海外のアダルト動画投稿サイトにアップロードした。してはいけないことをしてしまった感覚で単純に楽しい。

「これから僕たちの恥ずかしい姿を全世界の人たちに見せつけようね」

僕は華織の頬を指でさすった。華織は仔犬が飼い主に褒められたように、身体全体を震わせていて口元がゆるんでいる。パソコンの画面上には、公衆トイレで華織と僕が首を絞めあいながらセックスをしている様子が再生されていた。

「あ。誰かからコメントが来ている。うわ、なにこれ」

華織はサイトのコメント欄にカーソルを動かした。自称イタリア人だというアカウントから英語のコメントが来ていた。文章自体は少なく、けばけばしくて動く絵文字で埋め尽くされていた。

 

 

* * *

 

 

二人の様子を撮影し、アダルト動画投稿サイトにアップロードする。そんな活動をして数年が経過した。華織と僕は大学を卒業して東海地方の某県へ引っ越した。僕は自動車部品を製造する会社で働き、就職でまったく内定をもらえなかた華織はレンタルビデオ店でアルバイトをしている。

日曜早朝の快速電車は空いていてガラガラだ。平日の同じ時間帯だとおそろしく混雑しているから、人混みが苦手な華織には電車通勤は難しいだろう。

快速電車が職場の最寄り駅へ着く。ホームに降り、改札を抜ける。このあたりは工場か畑、それと海しかない。田舎だ。

新卒で会社に入社し、板金プレス工場の工場管理室へ配属されて二年が経った。だけど、いまだに工場に馴染めなくて、工場の隣に新築の立派な社員寮や社宅があるのに、わざわざ電車で三十分程度をかけて通勤している。

新製品は量産する前に、実際に工場で量産できるかを試験する必要がある。会社ではそれを量産試験と呼んでいて、実際の工場で土日にかけて行う。今日の業務は、その量産試験で安全に行われているか監視することだ。事故が発生したら会社の安全管理が問われる。

工場の正門を通過して、正門近くにある管理棟に入る。階段を上って二階にある工場管理室に入って、自分の席から必要な書類を持ち出す。

眠気が襲ってきたので缶コーヒーを飲んだ後、板金プレス棟の中へ入り、ロッカールームで作業着に着替えていた。すると隣から同期入社で検査部の智貴)が話しかけてきた。

「おお、結樹。おはよう」

「智貴じゃん。今週も日曜出勤?」

「そうだよ、これで今月三回目だよ、まったく……」

智貴は不機嫌そうにシャツを脱いだ。上裸がやせこけている。智貴はカバンの中から作業用のポロシャツを取り出して素早く着た後、電子タバコをポケットから取りだした。

「智貴、タバコを吸うなら、上司のいないところでやれよ? 最近やたらと『禁煙しましょう!』って会社がうるさいし」

「まあまあ、堅いこというなって」

「お前を密告しようと思えばできるんだからな」

智貴は黙った。そのままロッカールームから二人で出て、板金プレス棟の事務室のドアを開けた。事務室の壁には大きなホワイトボードがあり、そこには新製品の開発スケジュールが張り出されていた。

智貴は開発スケジュールを見ながら電子タバコで一服した。今回のスケジュールは過酷だった。取引先からの圧力で量産開始日が一か月前倒しされた。量産試験もそれに合わせなければならず、回数も普段の半分の二回しか実施できない。

「あー、早く帰ってエロ動画サイトでかわいい子を漁りたいよ」

智貴が頭を掻きむしりながらぼやいた。女性社員が事務室にいなくて、僕はほっとした。

「智貴、お前いつもどんなの見ているの?」

「ん? 見たいの?」

智貴はスマホのブラウザアプリをタップし、ご丁寧に「エロ」と名前が付いたフォルダを開いた。

「最近だと素人が投稿した動画を見ているかなあ。例えばこのアカウントの娘。かわいいなあ、すんごくかわいい」

智貴は動画をなんのためらいもなく再生した。海外の女の子が男のペニスにしゃぶりついている。

もしかしたら、僕と華織の動画も見つけられるかもしれないと少し焦った。

 

量産試験が始まる時間になった。智貴と僕は壁の脇の棚からヘルメットを取り出した。ヘルメットの後頭部にはシールが貼られていて、そこには名前と血液型が書かれている。もしも、工場内で事故に遭って病院へ搬送されても、その際にどの血液型の血を輸血すればよいのかすぐ判別できるからだ。

ヘルメットの顎ヒモを閉めて、工場へ入る扉を開ける。すでに人が集まっていた。皆、疲れ切っている。全員で集まって軽い朝礼を行った後、僕は工場全体を巡って、危険箇所がないか、作業している人間が危険なことをしていないかをチェックしていた。

工場は打ちっぱなしのコンクリートの床が一面に広がっていて、そのど真ん中には高さ一〇メートル弱の三台のプレス機が置かれていた。プレス機の周囲はたくさんの設備が並んでいたが、その役割は詳しく知らない。そのプレス機の脇へ行くと、製品設計部と生産技術部の社員が数名、輪になって集まっていた。その輪の中心部には新製品と思われる物体が、二つに割れている状態で横たわっていた。

量産試験が終わり、僕は事務室へ戻った。智貴はすでに戻っていて、パソコンに向かっていた。キーボードをカタカタと叩いている音が騒々しい。

「智貴、ちょっとキーボードを静かにたたいてくれ」

「うるせえな。今日出勤しないといけなくなって、デートにいけなくなった

んだよ。彼女にすごく怒られたし。くそ、会社なんて死んでしまえ」

智貴は口角をゆがめて、べらべらと文句を言った。

「そんな大げさなこと言うなよ。俺の彼女はそんなことで怒らないし」

「黙れ。休日出勤しても彼女に怒られないなんて、実は彼女に飽きられているんじゃないか? ていうかさ、結樹。あんなよくわからない製品のために、俺たちの大事な時間を使う必要ってあるのか? 会社がつぶれたり、クビになったりしない限り、六十歳になるまでこのまんまだぞ。くそ、大金が手に入ったら会社なんてやめてやる。一生遊びまわりたい。もっともっと楽な生活がしたい」

智貴の顔面は、何の根拠もないのにこの世の終末が来たような大げさな虚無感を漂わせていた。そのまま智貴は、パソコンの脇にあった電子タバコに手を伸ばして口にくわえ吸い始めた。

僕は智貴に「管理棟へ行くついでに少し休憩してくる。なにかあったら携帯電話にかけて」と言って、事務室から出た。廊下を歩きながら、智貴の言動にあきれ返っていた。でも確かに、智貴の言うことはわかる。会社の倒産や、クビになることがない限り、定年退職する日まで自分がどんな人生を歩むか、たいてい想像がついてしまう。そんな人生に意味はあるのだろうか。

板金プレス棟から出た後、少し歩いて管理棟に入る。二階の工場管理室に入り、僕は大きくため息をついた。

ふと、この部屋の窓から海が見えることを思い出した。窓にはブラインドがかかっていた。そのブラインドを上げると、窓からは工業地帯特有の巨大なプラントと、その彼方にある海が確かに見えた。

僕は海を見つめた。海は黙っていた。

再び板金プレス棟に戻り事務室へ入ると、智貴がソファーで横になってスマホを操作していた。どうやら麻雀のゲームアプリで遊んでいるらしかったが、その瞳は虚無をみつめているように哀れだった。

 

帰宅したのは夜七時だった。ベッドの上で華織が横になっていた。

「華織、ただいま」

「結樹、聞いてよ。バイト先の店長が、また私に向かって、『君はお客様に挨拶すらできないのか』って、散々罵ってくるんだよ? あいつ、死んだような眼をして、怖くて怖くて。あいつの顔って、いったい裏で何考えているんだかわからなくて、ホントに気持ち悪くて。けど、怒られることをする私が悪いんだよね。まだ仕事を覚えられない私が。それだとしても、店長にも言い方ってあるんじゃないかって」

華織がまくしたてるように言った。今まで聞いた華織の言葉をそのまま受け止めるなら、アルバイト先のレンタルビデオ店とは、人間の悪という悪をかき集めた恐ろしい場所らしい。

そのレンタルビデオ店では、仕事ができる華織に嫉妬して、極悪非道な店長がこぞって虐めてくる。さらに、それ以上におぞましい常連客たちがクレームを華織に浴びせてくるという。

その劣悪な職場で何としてでも生き残るため、華織は戦っているそうだ。

「華織、今日は早く寝よう。俺は疲れた」

「結樹ね、私の苦労がわからないから、そんな冷たいことが言えるのよ。ああ、あの店長、早く死んでしまえばいいのに。生きていても何にも価値がないから、死ねば少しは世のため人のためになると思うのに。結樹もそう思うでしょ? ねえ」

華織は同意を求めてきた。僕は無視した。それでも華織は、店長の悪口をしゃべり続けた。その喋りはゆるやかに速くなっていき、身振り手振りがおおげさになっていく。

「店長の顔を見ると、父親のことを思い出しちゃう。私のことを怒鳴りつけ、攻め立てて、殴って、蹴って、髪をつかんで張り倒して、熱湯をあびせて。あんなのは殺人者よ。店長の顔もそんなゲスな殺人者。私の周りってなんておかしな人が多いんだろう。私がバカでダメな子だからかな。だから、死んで地獄に行きたいの」

華織は膨れ上がった自己愛がコントロールできなくなっていた。小刻みに震えだすと同時にワンワンと泣き出して枕に伏せた。

「華織、少し落ち着こうか。よしよし。華織はダメな子じゃないよ」

僕は一応、華織に同情した。華織を胸に抱きしめて、頭をポンポンと軽く撫でた。華織の顔はすっかり青ざめていた。

華織は髪をかき回し、僕の方へ顔を見上げた。しばらく静かになった。

「そうだ。今度の撮影は海辺でしよう。次の休みに下見に行く?」

ふいに僕の口から言葉が出た。

「いいね。海って開放的で、今の私でも受け入れてくれそう」

華織はだらしなく笑った。蕩けるような笑顔だった。

 

会社の門へ近づき、端末へ社員証を当てる。おそろしく頭が重い。前の日に華織と一緒にウイスキーを飲んだが、そのせいじゃない。量産試験が遅れていることを係長に報告しなければならないからだ。そもそも、今回の量産試験は製品設計部と生産技術部がトラブルを起こして遅れている。僕が責任を負う必要ない。しかし、係長は「遅れている」という単語を聞いただけで軽く二時間は怒鳴りつけるだろう。怒り狂ってバインダーで頭を叩きつけてくるかもしれない。自分が怒りたいだけだから怒る、そんなとんでもない人間だ。だから社内の人間全員から厄病神のように嫌われている。本当の嫌われ者は、自分が嫌われているなんて一ミリも想像できていない。自分のことを空前絶後の人気者だとさえ思いこんでいる。

構内へ入り、大通りを歩く。管理棟が見えてきた。鉄筋コンクリートの直方体がそのまま置かれたような外観が重々しい。刑務所のようにも見える。

通用門から管理棟へ入る。コーヒーを買おうと通用門脇の自販機コーナーへ入ると、同期の小山がいた。同期のなかでもずば抜けて仕事ができるが他人のことを平気で陥れる。腐った目が糸のように細く、顔は丸々と太っている。そんなふてぶてしい顔面をして、にたらにたら笑って気味が悪い。

近寄りたくない。挨拶したくない。黙ってコーヒーを買う。

「おいおい、渡辺君。無視かよ。同期どうし仲良くしようぜ」

小山の意地汚い声が聞こえる。うるさい、黙れ。お前の陰湿ないじめのせいで同期が何人辞めたと思っているんだ。SNSに罵詈雑言を投げつけて同期をいじめたり、上司へあることないことを吹き込んで同期を左遷させたり。ルーティンのように「いじめはいじめられる奴が悪い」と発言する、その憎たらしい面。許せない。コーヒーを持つ手がかすかに震える。

席へ着くと隣の席に先輩社員の熊谷さんが座っていた。ひとまず話しかける。

「おはようございます。熊谷さん、量産試験が遅れています」

熊谷さんが振り返る。

「まずいな、大崎係長が切れるぞ」

熊谷さんの目がカッと開いた。

そこに大崎係長がやってきた。顔の彫りが異様に深くて、古代ローマ時代の彫刻のようだった。目つきはおそろしく冷たくて、鼻はおそろしく突き出ている。高いスーツをきっちり着こなしている。外見だけ見ればハイスペックなビジネスパーソン。だけど、社内の誰もが嫌っている。仕事ができない人間を容赦なく潰してくるからだ。

熊谷さんと大崎係長と目が合う。

「おお、量産試験はどんな感じだ?」

「それが遅れているらしいですが……」

係長の目が一気に殺気立つ。

「熊谷! お前、ふざけているのか。頭が狂っているのか。殺すぞ。死ね!」

大崎係長は両手でデスクを叩きつけた。熊谷さんが硬直して、額から汗が噴き出ている。コンプライアンスがもっと緩かった昔は、熊谷さんは大崎係長から拳で殴られていたという。だから逆らえない。

大崎係長は大声をあげて怒鳴った。荒れている中学生のヤンキーがそのまま四十代になったような人。おそろしく幼いのだ。高いスーツを着て立派な肩書きの名刺を持ち歩く大人でも、他人に向かって「頭が狂っている」「殺す」だの「死ね」だの平気で言うことは働くようになって初めて気づいた。

「おい、渡辺結樹。お前も同罪だ。蹴り殺すぞ」

大崎係長はこちらにも怒鳴りつける。聞き流す。ひたすら聞き流す。この人の言うことをまともに聞いてはいけないのだ。ひたすら耐える。周囲にいる社員たちはみんなだんまりを決め込んでいた。誰も味方に放ってくれないのだ。

大崎係長は、「熊谷が馬鹿なのをここまで育て上げた。俺って賢くて優しいだろ?」と言い、熊谷さんと一緒にした仕事を語り始めた。その喋りは、吐き気がするぐらい支離滅裂だった。主語と述語、修飾語の関係が曖昧で、何を言っているのかわからない。それを喋る大崎係長の目は爛爛とかがやいる。

大崎係長は気持ちよくなっているんだ。オナニーだ。大崎係長にとって、他人をいじめることが最高のオナニーなんだ。恐ろしい馬鹿だ。

ふと、怒鳴っている大崎係長から、すっと虚無感が顔をのぞかせた。ぞっとするような形。殺人鬼のような顔。その顔から虚無がにじみでる。大崎係長は、虚無にとりつかれているのかもしれない。

熊谷さんは大崎係長の暴言を真面目に聞いていた。泣きそうな目になって、顔面が白くなっている。熊谷さんは大崎係長のいいなりになっているのだ。反抗できないように洗脳されているのだ。かわいそうな人だと思った。

午前中は長ったらしい説教で終わった。心の中が虚無感で覆い尽くされている。昼休み、社員食堂でラーメンを食べていた。小山が通りかかってきて目が合った。

「お前、顔が虚無みたいだな。先輩があれだけ怒られたら、お前も目をつけられて出世もできねえだろうな」

小山は卑屈に言った。蔑むようなその目つきは大崎係長と同じように、殺人鬼のようだった。

 

虚無を抱えたまま家に帰る。華織はうつ伏せになって倒れていた。まるで死体のようだ。華織はふざけて死んだフリをする癖がある。僕は華織の手首を掴んで持ち上げる。華織は力いっぱいバタバタと暴れた。僕が手を離すと華織の腕は元の位置に戻り、また死体に戻った。腋をこちょこちょすくすぐる。華織はジタバタともがき始めた。

「結樹のいじわるー」

「華織、早く起きて。ご飯を食べるよ」

「食べる食べるー!」

華織が勢いよく起き上がる。目が輝いていた。子どものようだ。

冷凍庫を開けて、冷凍ご飯をとりだす。レンジへ入れて温めながら、作り置きしておいた餃子を冷蔵庫からとりだす。

野菜が欲しくなった。塩キャベツを作ろう。キャベツもとりだす。キャベツをまな板の上に乗せたあと、包丁を持つ。すると、華織が背後から抱きついてきた。

「こら、危ないぞっ」

華織を叱る。

「だって寂しいんだもん……」

華織がにやけながら、少し強く抱きしめる。可愛い。悶えた。包丁を持ったまま、動けない。顔が火照る。

しばらくしたら離してもらえた。キャベツをブツ切りにしたあと、タレをかけて塩キャベツができた。温かくなったご飯をレンジから取りだし、餃子も温めて、塩キャベツとキッチン脇に置いたウイスキーを部屋に持っていく。

華織と一緒に食べる。ウイスキーも飲む。二人で酔っ払って上機嫌になる。そのまま押し倒す。二人だけの世界になる。虚無が消える。そうして毎日を過ごす。二人だけがこの世界にあれば、それだけで幸せなんだ。

 

水曜日の夜九時。N港近くの浜辺は意外と暗かった。闇にどっぷりと浸かっていて、波のさざめきが延々と鳴り響いている。波音はあまりに騒々しく、何かの生き物が一斉に断末魔を放っているように聞こえた。

僕は浜辺に突っ立ちながら、もう少し着込んでくればよかったと後悔した。吹いてくる風が冷たくて鳥肌が立つ。暗闇は目の前に果てしなく存在して、そのまま宇宙に繋がっているように思えた。

隣にいた華織を見ると、顔面が青白くなっていた。この前、ウイスキーを一緒に喜んでいた華織とはまったくの別人だった。瞳はまっすぐ、海の彼方を見ていた。

「結樹、海ってすごく恐ろしいね」

華織は眼を大きく広げていた。

「華織、大丈夫?」

「大丈夫じゃない。なんだか、私、海から拒絶されているような気がする。いいえ、そもそも、世界そのものからも。これって地獄なのかな」

華織は震えだした。目の前の海は華織など気にも留めず、ただ一定のリズムで波音を繰り返している。

「ねえ、結樹。私、こんなに怖くなったの、初めてかも。海を見ていると、ちっぽけな自分を突き付けられる感じがして」

「ちっぽけな自分? それってどういうこと?」

「そう、ちっぽけな自分。自分が小さく感じて怖い」

華織はそのまま砂浜にしゃがみこんだ。そして、立っている僕の足元に、すがりつくように身を預けてきた。そして華織は、しくしくと静かに泣き始めた。

遠くから汽笛の甲高い音が聞こえてきた。その音は、やけに寂しかった。僕はその寂しさを紛らわすために、眠気覚まし用のガムをポケットから取り出して口へ放り込んだ。少し辛かった。

 

次の週から仕事で嫌なことが続くようになった。工場はガソリン・灯油など危険物を大量に貯蔵している。燃焼すると工場火災の原因になり、工場は時々消防署へ書類を出さないといけない。僕はその書類の提出をすっぽかしそうになった。熊谷さんのフォローがあって、なんとか提出期限には間に合ったが、大量の始末書を書かされる羽目になった。それに加えて、法務を担当する総務部長から直々に呼び出され、ひどく叱られた。

嫌なことはさらに続いた。小山が優秀な業績をあげて、社長から直接表彰された。会社の入り口にその時の写真が大きく飾られていて、写真の中で社長の隣にいる小山は、満面の笑みを浮かべていた。

仕事がうまくいかない自分と仕事がうまくいっている小山。比較するだけ無駄だとわかっていても、自分が惨めだ。どうしようもなく、心が痛い。そう思うと嫉妬心が心の中に湧いて出てきた。その嫉妬心は火山の火口から噴出するマグマのようにじわじわと全身を流れていく。苦しい。つらい。どうしようもない。むなしい日々が続いた。

智貴も仕事に腐っているようだった。板金プレス棟の脇には喫煙所があって、その喫煙所で智貴が電子タバコを吸っている光景を頻繁に見かけるようになった。勤務時間中に業務のために板金プレス棟へ行くと、智貴が喫煙所にいた。こそこそとスマホをいじってゲームをしているようだった。喫煙所は薄暗く、少ししか日の光が当たらない。スマホの画面の青白い光が智貴の顔を下から照らし、顔に影を作っていた。その顔が怪物のように不気味だった。

その不気味な顔を見て、智貴の顔を潰してやりたくなった。もっとひどい顔にさせたかった。八つ当たりなんだろうが、今の智樹なら僕のことをわかってくれるだろうと思った。

 

次の日の昼休み、社員食堂でラーメンをすすっていると、目の前の席に智貴が乱暴に座り込んできた。智貴の眼は赤く血走っていた。

「結樹、彼女とどうよ?」

智貴は語気を強めにして聞いてきた。

「突然だな。別に、なんもないけど? というか、智貴の方はどうなんだよ。彼女とはうまくいっているのかよ」

逆に質問することにした。ラーメンのナルトを口へ運ぶがいつもより不味く感じた。

「いいや、あいつとは別れた。ほら、ここ最近、残業代が出ないから給料が思いっきり下がったろ? 彼女、俺の給与明細を勝手に見てさ。『なにこの給料。冗談なの? ふざけているの? あんた、きちんと働いてないんじゃないの? そんなクソ男なんてゴミ以下。死んでしまえ!』ってキレてさ。こっちから振ってやった」

智貴は笑った。だが、笑ったはずなのに頬の肉が歪んで気色悪かった。

「大変だったんだなあ。智貴」

「ああ。で、別れた後に知ったんだけどさ、あいつ、イケメンの医者と二股かけていたらしい。ブランド物のバッグを買ってもらったって満面の笑みで話していて、正直、ドン引きしたよ」

今の智貴なら、どんなことを言っても凹んでくれるだろう。僕は、なるべく酷い言葉を考えて、智貴に返すことにした。

「結局、『女は金に寄ってくる』って言いたいのか? それは違うだろ。ただ単に、彼女に愛想をつかされたんじゃないか?」

僕は冷たく言い放った。すると、智貴の動きがピタリと固まった。すると、智貴の顔面がみるみる青くなっていた。その顔を見て、智貴がそのまま虚無の底に行って潰れてくれるのではと思った。そう考えると僕は少し嬉しくなった。

社員食堂にチャイムが高らかと鳴り響く。昼休み終了五分前のチャイムだ。チャイムが終わると、それに続いて社歌の前奏が明るく流れ始めた。

「そろそろ、昼休みが終わる。んじゃ、またな」

僕は立ち上がり、智貴を見下ろした。智貴はまだ固まったままだ。ラーメンの丼を食器返却口へ運びにいくと、丼の中には食べかけのナルトが醜く浮いていた。

 

アパートの玄関へ入ると、華織はベッドでふて寝していた。その脇のゴミ箱を見ると、ゴミ箱の中に使用済みのコンドームが捨てられていた。それは僕と華織が使ったものではない。中の液体が新鮮で、数時間前に使ったものだろう。ゴミ箱の中のティッシュも、ローションを拭いたらしい。

華織に浮気されたのだと悟った。一瞬で怒りがこみあげる。許せない。華織も、華織を犯した男も。

「華織、誰とヤッた?」

「……結樹には関係ない」

華織はふて寝しながら小声で言った。

「関係あるから言ってるんだろ」

「私を構ってくれない結樹が悪い」

話がだんだんと平行線になる。

「ふざけんなよ。裏切って」

声を荒らげる。

「裏切ったのは結樹でしょ。何回も何回も私を置いて出ていって。見捨てられるかと思って心がいつも痛くなる。だから、浮気したの」

仕事で忙しいだけだ。だけど、休みがすくなくて華織と遊ぶ時間がないのは確かだった。だけど、それだからって浮気する理由にはならない。

華織は指を机に向かって指さした

「アプリで出会った。コヤマって人。エッチしたあとに『今度、いいセミナーがあるから来てみない?』って言われた」

コヤマという名に引っ掛かりを覚える。まさか、会社の同期の小山じゃないだろうか。

「どんな奴だった?」

「んー、目が細くて、顔がまん丸で、すごく目が腐ってた」

華織はすらすら言った。小山の外見にそっくりだ。本当に小山かもしれない。怒りを覚える。それは、華織と身体を交えた小山本人への怒りでもあり、華織を犯された僕自身への怒りだった。

「アプリを見せろ」

華織へ言う。華織はすぐ画面を見せた。プロフィールに写った顔は、まさに小山だった。

小山を許せない。痛い目をみせてやりたい。刺す。華織を犯した小山へ復讐をしてやる。自尊心の問題だ。スマホを取り出して、同期のグループから小山を探す。「お前、今日どこにいた」とメッセージを送る。すぐ返事が返ってきた

「渡辺くん。突然なに?」

僕はメッセージを打ち込む。

「てめえ、彼女に手を出しやがったな」

「え、どっち?」

わけがわからない。白を切るのか。

「どっちってなんだよ」

「今日は休みだったからセックスを二件ハシゴしたんだよね」

こいつは正気なのか。本当に性根が腐っている。

「華織って子のほうだよ」

返事を打つ。

「ああ、そっちね。ところでさ、華織さんが彼氏とエロ動画を撮って、ネットにあげているらしいけど、それって会社にバレたらまずいよね?」

小山が遠回しに脅してきた。

「俺を脅す気か」

「違うよ。俺も撮影に参加したい」

 

その夜、僕はアパートの部屋に戻っていた。華織は小山を連れてどこかへ出かけていた。

していることはわかっている。僕は華織に裏切られたのだ。

無。すべてが無。なにもない。交わされる友情も愛も、すべてがない。それだけだ。そんな思いで生きる意味は本質的にないんだ。

しばらくして華織が帰って来た。僕は泣きながら華織の顔を思い切り殴った。倒れこんだ華織はただ黙っていた。

 

次の日、仕事が終わって家に帰ってスマホを開いた。SNSに智貴からメッセージが届いていた。智貴とはスマホではあまり連絡をとったことがない。少し警戒した。

「いい女がいたら紹介してくれー」

画面に映った智貴のメッセージを読んでふきだしそうになった。なげやりすぎだ。

どう返事すればいいか迷っていると、横から華織がひょっこりと現れて画面を覗きこんだ。

「こいつ、誰? へー、女を紹介してくれって? 馬鹿なんじゃないの?」

蔑む華織の口調があまりに強く、僕はむっとした。

「馬鹿って言うなよ。こいつは会社の同期の智貴って奴で、僕たちよりかなりいい大学を出ているよ」

「いーや、私の直感は正しいの。こいつは救いようのない馬鹿。でも面白そう。今度、動画を撮るときに誘ってみない?」

「どういう意味?」

「そのまんまの意味。私と結樹で3Pして、私の股にちんぽを突っ込んでいるところを撮影するの。もちろん黙ってね。そして、こいつの馬鹿面を全世界にさらすの。『私の股にちんぽをはめて必死に腰振っている。下手くそ。馬鹿じゃないの?』ってコメントをつけてさ。楽しそうでしょ?」

華織はひとりでに笑い出した。目が輝いている。そのまるで、もらったおもちゃを破壊しようとする幼稚園児のようだった。

「それはダメだよ。というか、同期の動画をネットへあげるなんて嫌だよ」

僕がそう言うと、華織の眼が突然ギッっと鋭く引き締まった。その眼は、僕を刺し殺すように見つめてきて怖くなった。

「なんで? 私が誘おうって言っているのに。結樹は言うことが聞けないの? どうして?」

「普通に考えておかしいだろ。もしさ、華織がバイト先の同僚に『お願い。華織と私の恋人で一緒にセックスしたいの。大丈夫? できる?』って言われたらどう感じる? しかも、その同僚が華織のこと馬鹿にして、コメントを書いているのがバレたら? 頭おかしいんじゃないって思わない?」

「そんなの知らない! 私が良ければいいの!」

華織は僕の意見をはっきりと拒絶した。

「俺たちって、発信力が結構あるよ。フォロワーも数千人単位でいる。へた智貴にバレるかもしれない。こじれたらそれは嫌だよ」

「別によくない? 迷惑をかけて困る人なんて私にはいないし。父親からは勘当されて、もう連絡も取れないし」

「そういうこと言っているんじゃないよ。俺が不愉快になる」

「結樹が不愉快でも、私が愉快だったら、世界がおもろくなるの。当然でしょ?」

華織は堂々と言い切った。困った。何を言っても、華織の主観で答えられてしまう。

僕が黙り込んでいると、華織はさらに話し続けた。

「結樹? いまさら私に忠告するなんて馬鹿じゃないの? ねえ、私たちって今までエロ動画を何回アップロードしていたっけ?」

「なんだよ」

「結樹も私の顔をネットに晒した悪い奴なんだよ。クズなんだよ。いまさら私に忠告なんてできないじゃん」

「だから、それはそれ。今は智貴を参加させたくないって話を……」

「智貴も共犯にすればいいじゃない。楽しいね、救いようがないね」

華織の口調は甘ったるい。悪いことをした園児を諭す保育士のようだった。その一方で、華織の口調はとても憎たらしかった。ねちねちと一歩ずつ精神的に追い詰める、そんな陰湿さがあった。

「だからといって、智貴を共犯にしたくない」

「それは結樹の自分勝手な主観でしょ? きちんと考えて。私の言うことを聞いて、智貴を撮影に誘っても、何も失うものはない。そうよね? もし、失うものがあっても、私と一緒に死んで地獄に行きたいんだから」

華織から不快な笑みがこぼれる。この場から逃げ出したくなってきた。

すると華織は、僕の首元へぐいっと顔を近づけてきた。僕の顔を上目遣いでのぞき込んでくる。眼は、いつのまにか発情期の雌犬のように潤んでいたが、その瞳の奥はひどくさめていた。

「わかったよ。誘えばいいんだろ?」

「あー、やっぱり、言うことを聞いてくれるから結樹って好き。言うことを聞かない結樹なら捨てるけど」

その華織の言葉を聞いて僕は戦慄した。そして、悟ってしまった。華織は僕という存在そのものではなく、「誰かを思い通りにして支配している私」が好きなんだ。僕じゃなくていいんだ。小山でもいいし、智貴でもいい。本当に誰でもいい。

華織は他人を人でなく、モノだと思っているのだ。彼氏の僕でさえ、自分の思い通りにならないと捨てようとするのだ。鬼畜だと思った。そんな華織の心は、まさに地獄そのものだ。

華織から逃げないといけない。僕はそう察してしまった。

華織は僕をぎゅっと抱きしめてきた。砂糖菓子のように甘ったるい声を放ちながら、華織は手を僕の首へ絡ませてきた。その手から華織の歪な愛が、僕の肉体へどす黒く流れ出ているように感じた。その自己愛は激しく、僕を燃やすようだった。指の骨の硬さをはっきりと首で感じたが、そこからは好意も快感も興奮も湧かなかった。

僕は一気に興ざめして、僕は思いきり華織の腕を掴んで首から払いのけた。華織はひどく驚いていた。

 

次の日の夕方、会社の社員食堂の脇で僕は智貴を待っていた。定時が過ぎた後で、夕陽が痛いほど照っている。

智貴が横からすっと現れた。頬がげっそりやせている。ここ三か月、毎週連続で日曜出勤をしているので、相当疲れがたまっているのだろう。

「結樹、話ってなんだよ。こっちは忙しいんだ」

智貴が仏頂面で聞いてきた。

「智貴、お前、女を紹介してくれって言ってたよな? 僕の彼女を紹介したい」

「は……? 理解できない。どういう意味だよ」

「そのままの意味。女に出会いたい奴がいるって話を彼女にしたら、興味を持ってさ」

「だからって、お前という彼氏がいながら、俺と会いたいって、頭おかしいんじゃねえか? というか、お前も相当おかしい。わけわかんねえ」

「実は、あいつのこと、もう愛していないんだ。そろそろ別れを切り出すつもりだし。まあ、付き合ってあげたら?」

僕は堂々と言いきった。そのことが功を奏したようだった。智貴はすぐ乗り気になったらしい。智貴は連絡先を教えてくれと持ち掛け、スマホをポケットから取り出した。

その後、会社の最寄り駅のホームで僕は大学時代の友人へ電話をかけた。その友人は、都内で小規模の家電メーカーを経営している。久しぶりに話したが、元気そうだった。少し雑談した後、「お前の会社へ転職したい」と僕が言うと、友人の口調はいっきに冷静になった。友人の会社では製造しているマニアックな電化製品がジワジワと人気になっていると聞いていたので、僕は、自分がやってきた工場の安全管理のスキルを売り込んだ。友人は興味を示してくれて、面接したいと言ってきた。感触はよかった。電話を切ると、僕は手帳に面接日を書き込み、その日は有給休暇を取得しようと考えた。

 

 

* * *

 

 

「今日から入社しました、渡辺結樹といいます。一生懸命がんばります。よろしくお願いします」

オフィスにいた全員が立ち上がって拍手した。温かく迎えてくれて、僕は感極まりそうになった。

今日は転職してから初めての出勤日だった。不安があったが、面接のときに「大丈夫、結樹のためなら精一杯サポートするから!」と友人は力強く言ってくれた。僕は、この会社で働いているうちならば、安心して自分の人生を生きていけるだろうと喜んだ。

退勤後、僕はA駅の総武線ホームからC行きの電車へ乗った。

華織が今なにをしているんだろうか。急に気になった。誰もこちらを見ていないことを確認して、アダルト動画の投稿サイトを開き、華織と使っていたアカウントを覗いた。そこには新しい動画が投稿されていた。イヤホンをスマホへ差し込んでその動画を再生すると、画面の中では華織が全裸でアルファードの車中に寝っ転がっていて、ひどくやせこけた智貴がペニスを華織の股に挿入していた。華織はやたら太っていて醜い。

「死んで地獄に行きたい! 行きたい!」

華織はそう叫びながらみっともなく喘いでいた。別れてから華織にまったく愛情がない。今の華織がとても気持ち悪く思えた。

スマホが鳴り、画面を見ると、智貴から「投資のこと勉強したくない? いい教材があるから、紹介するよ」とメッセージが送られてきた。僕は智貴のアカウントをすぐにブロックした。ふと、あのアルファードは智貴が華織にそそのかされて買ったのだろうかと思った。

初出勤の緊張が解けて、疲れが襲ってくる。少し眠たくなり、顔を上げて大きく欠伸をした。窓の外に紅い空が見える。この方向には海があるはずだ。もちろん見えない。しかし、見えない海を想像したとき、その想像上の海がぼそっと呟いたような気がした。呟いた内容は、華織が「死んで地獄に行かなきゃいけない」と言う理由だった。それは、あきれるほど簡単だった。華織自身が地獄へ行きたいと熱く願っていたからだった。

なんだ、そんなことかとがっかりした。家に帰ったらビールを飲んで、華織の動画を見ながらオナニーしよう。                                         (了)

 

 

2021年10月16日公開

© 2021 蒼樹葉月

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