泥沼

蒼樹葉月

小説

9,847文字

一度帰れば二度と這い上がれない。田舎は、泥沼だ。

旧国道のアスファルトの割れ目から雑草が青々と茂る。その割れ目の真横にしゃがみこんで雑草へそっと触れる。顎から汗が地面へと滴り落ちる。触れた葉先は刀のように鋭くて、指先に微かな一筋の傷ができた。その傷から赤い血がじんわりと滲み出る。

立ち上がって周囲を見渡す。旧国道の左側にはS川が蝮のような青色に輝きながら流れ、右側には蛙のような緑色の山々が迫り、その麓には百足の足のように数多くの黒い蔵が一直線に並んでいた。これが故郷、S郡S町である。蔵が立ち並ぶこの地域は江戸時代からある街で、江戸時代中期にS川の河川舟運の拠点として繁栄した。蔵は町人の財産を守るため恐ろしく堅牢に建てられ、この地域が衰退しきった令和の現代でも重々しい雰囲気を放ち続けている。その蔵の中に一際大きい蔵が見えた。その蔵の隣には真新しい二階建ての家が建っている。S町随一の地主・遠藤家の家屋だ。その家屋は「泥沼」と呼ばれている。まともな人間なら誰も入りたくない家だ。

今からその泥沼へ行く。上京して必死に働いたが会社にクビを切られて、追い出されるように故郷に帰った無職のこの身は、何も責任を追わないし、何も怖くないからだ。

旧国道を道なりに進み、遠藤家の立派な門へ着く。僕は深呼吸をした後、ポケットからスマホを取り出してLINEを開き、「凜々花」にメッセージを飛ばした。凜々花は遠藤家の跡取り娘で、高校の同級生。そして泥沼の主だ。

「家の前に着いた。入っていい?」

「いいよ。こっちは準備できてる」

すぐに返信が来た。

門の扉を横に開いて入る。目の前には苔むした石畳の小道があり、立派な盆栽がずらりと並び、その小道の奥に泥沼があった。この立派な家屋は田舎のS町にまったく似合っていなかった。小道を歩いて泥沼の玄関へ着く。

もう一度深呼吸をして玄関を開けると、そこにはすでに泥沼の主・遠藤凜々花が柱に寄りかかって林檎を食べて立っていた。その凜々花の姿を見て驚いた。凜々花はなんと全裸だった。大きな乳房、重量感のある尻、黒い森のような陰部をあられもなくさらけだしていたが、凜々花本人は平然としていてなにも恥ずかしがってないようだった。

凜々花は黒く長い髪をかき上げて、透き通るような目で僕をじっと見つめきた。

「何、ずっと黙ってるのよ。高校を卒業してから十年ぶりに会ったんだから、なんか言うことないの?」

凜々花は気怠げに微笑んだ。その笑顔は新雪のようにしっとりとしていて冷やかだった。心臓を直接冷やされるような感覚に襲われる。

「お前、どうしたんだよ。なんで裸なんだよ」

喉の奥から無理やり言葉を搾り出す。

「はあ? なに、童貞みたいなことを言ってんのよ。優樹、ここは裸になって楽しいことをする場所なのよ。優樹をもてなすために全裸になっているんじゃない。まさか、知らないで来たわけじゃないよね?」

凜々花は軽く蔑むような目線をして僕を見て、残っていた林檎を一気に頬張った。

玄関を上がって、右手の居間へ入る。中央のテーブルの上には空になったペプシコーラのペットボトルが転がっていた。テーブル脇の椅子に腰かけると椅子の表面がじんわりと温かい。

「さっきまで大介が来てたから、まだ片付けられていないの」

凜々花は大きく欠伸をして脇腹を掻きながら奥の冷蔵庫へ向かっていった。

「大介って?」

「高三の同じクラスに大介っていたよね? 大介もS町に帰って来たのよ」

「え? あの大介が? 帰ってくる理由がわからねえ。あいつ、学年で一番頭がよかったから東京の国立大学に行ったって聞いたのに」

「東京で地獄を見たのよ」

凜々花は、それ以上聞くなというばかりに冷たくはっきりした口調で言い放った。冷蔵庫からアイスコーヒーの紙パックを取り出してテーブルまで持ってきた。凜々花の裸体が目の前に迫る。凜々花の白くて滑らかな肌、甘ったるい匂い。その美しさがあまりに現実離れしていて鳥肌が立った。

凜々花は紙パックの口を勢いよく開いて、テーブルの上のマグカップにコーヒーを注いだ。コーヒーの苦い香りが漂ってきた。

「ふーん、エリートにはエリートの挫折ってのがあるんだな」

凜々花がマグカップを差しだしてきたので僕はそれを受け取って口をつけた。コーヒーがとてもまずい。おそらくとても安いコーヒーだろう。泥沼は凜々花が開いている集会場だ。そこではどんな卑猥なことでも許される。町の男たちが隠れて凜々花を犯しにやってきてお金を落としていく。だが、凜々花には泥沼にやってくる男たちをもてなす心掛けがあまりないらしい。

だが、ここで本心を言ってはいけない。お世辞よりも本心のほうが噂になってどこまでも延々に広がってゆき、自分が損するだけだからだ。

「このコーヒー、おいしいね」

「優樹。あんた、口調がひどく醒めているね」

「醒めているんじゃない。そう見せかけているだけ。凜々花とこれからヤるんだから」

実際、手を胸に当てると心臓が激しく鼓動していた。

凜々花は大量のシュガーをコーヒーへ入れて流し込むように飲み干した。幕カップから口を離したときの凜々花の目は焦点があっておらず、瞳は虚無へ堕ちていきそうなほど黒かった。その瞳を見て一瞬ぞっとしたが、凜々花が手を掴んで乳房へ押し当てたので一気に興奮し、そのまま凜々花の身体を抱きしめた。山で鳴く蝉の声と、乳房の真下にある凜々花の心臓の音だけが感じ取ることができた。

 

凜々花との最初のセックスは予想に反してあっけなく終わり拍子抜けした。服を着て玄関へ向かうと、凜々花はまどろんだ目をしてこちらをじっと見ていた。

「また来るんでしょ?」

「おう、また来るさ。いつでも、暇だから」

垂れ流すようにすらすらと言う。

「優樹、冷たく言わないでよ。あんた、どうせまた来るんでしょ? あ、あと、寝ている間に指の傷に絆創膏を貼っておいたから」

凜々花はだらしなく笑った。指を見ると絆創膏が丁寧に巻かれていた。

玄関を出て石畳を歩き、再び門を開けて旧国道へ出る。熱い風が吹いてきた。S川の対岸へ行くため、近くのF大橋を歩いて渡ることにした。

F大橋の欄干は醜く赤錆に覆われ醜い。その赤錆からS町の衰退を感じながら歩道を歩く。太陽の痛々しい光線が直接肌に当たって苦痛だ。ふと、目の前から誰かが呼ぶ声がした。

「優樹! お前もS町に帰ってきてたんだ!」

視線の先には、眼鏡をかけた小柄な男がいた。それはまさに、高校の同級生の大介だった。

「大介! 久しぶり!」

急に嬉しくなって大介に手を振る。大介も笑顔で手を振り返し、走って近づいてきた。だが、近くで見た大介の顔を見て一気に戦慄した。大介の顔があまりに不気味だったからだ。眼窩はくぼみ、眼球は全体が充血していて赤く、目の焦点は定かでない。歯はところどころなくなっていた。

「大介。お前の顔、大丈夫か……?」

「ああ? これ? ……東京でいろいろあってね」

大介は曖昧に言葉を返した。これ以上今は聞いていけないような気がした。

「ところでこれから何しに行く?」

「特に予定はないよ。ぶらついていただけ」

「んじゃあ、一緒に遊ばねえか」

「いいだろ。こんな年になって二人で遊ぶなんて。ガキかよ」

大介に厭味ったらしく吐き捨てる。

「んじゃあ、いいや。またどっかで会おうな」

大介はそのままF大橋を進んだ。振り返ると大輔は自動車のワイパーのように手を大きく左右に振っていた。昔から、大介は妙に子供っぽいところがある。

(どうせ、いつか泥沼でばったり会うんだろうし……)

毛虫を足で潰したような嫌な気持ちになる。その嫌な気持ちを晴らそうと、コンクリートのかけらを拾ってS川に思い切り投げつけた。腑抜けた音がして、川面に波紋がだらしなくどこまでも広がった。

 

F大橋を渡って、S駅のある北の方角へ行く。国道に出ると、道の脇には学習塾や小さなガソリンスタンド、スーパーがある。S町のなかでも新しい建物が多くて栄えている。国道やS駅があるこちら側の地域は昭和初期にできた新しい街だ。新しい街へ住んでいる住人も昭和初期以降にやってきた人間で、旧国道側の街に江戸時代から住む人間からは令和になった現在でも余所者として差別される。泥沼がある旧国道側の地域とはどこまでも対照的だった。

国道の横断歩道を渡ると目の前にS駅の白い駅舎が見えてきた。駅舎は昭和初期に建てられたままだったが、洗練されたデザインで見栄えもよい。その駅舎へ近づいて脇の踏切を渡って、少し行った先に実家が見えた。

実家の玄関をあがって居間をのぞくと、妹の美咲が畳に寝転がってスマホをいじっていた。美咲は高校指定のジャージをだらしなく着ていて、脇腹を大きくさらけ出していた。

「美咲、ただいま。高校は?」

「お兄ちゃん、おかえり。今日は午前授業で早く帰れたの」

美咲は甲高く滑舌の悪い声で言った。ずっとスマホの画面を見ていてこちらを見てくれない。

「ならいいんだけど」

「お兄ちゃんこそ、今までどこへ行ってきたの」

「え? 外をぶらぶらしてきただけだよ」

嘘でも本当でもないことを言ってごまかそうとした。

「それってホント? お兄ちゃん、服からいい匂いがするね。甘ったるくて、むせかえるような濃い匂い。まるで女の人の匂いみたい」

肝が冷える。泥沼に行ったことに気づかれたのではないかと血の気が引いた。

「お兄ちゃん。まさか、彼女ができたの?」

美咲がこちらを振り向く。まるで、悪戯を思いついて楽しそうにする子どものように満面の笑みをしていた。

「はあ? 違えよ。こんな無職になって田舎へ出戻ってきた俺に彼女ができると思ってんのか。バカ」

近くにあった新聞紙を丸めて、妹の脇腹を軽く叩く。

「な、なにすんのよ!」

「脇腹を出すなんてみっともないぞ。脇腹をみっともなく出すのはコスプレしている時だけにしておけ」

「お兄ちゃんに私のコスプレの何がわかるっていうの! もー!」

妹が拗ねる。妹はコスプレイヤーをしているが、いったいどんな活動をしているか具体的には知らない。

妹が怒ってる様子を見ながら欠伸が出た。凜々花とのセックスで少し疲れたのだろう。

「知らねえよ。それより、俺、疲れたから昼寝するわ。おやすみ」

そのまま妹と別れて居間を出て自分の部屋へ行き、ベッドに倒れこむ。白いシャツから凜々花の匂いがした。その匂いを嗅ぎながら泥沼でのセックスを思い出す。ペニスが勃起してきた。そのペニスを掴んで扱き上げた。脳裏に凜々花の裸体が浮かぶ。その裸体は自分を優しく受け入れて包み込む。その自分の姿はまさに底なしの泥沼に嵌った人間なのだろう。沼から抜け出せず、ただ死を待つばかりの人間……。

ペニスから鋭い快感が走る。手を見ると、絆創膏に精液がべったりとついていた。

 

次の日も泥沼へ行くことにした。玄関を開けたら、凜々花が暗い紫色のワンピースを着て立っていた。今度はブドウを食べていた。

「優樹、いらっしゃい。そうそう、ちょうど今、大介も来ているわよ」

凜々花の後をついていくとなぜか仏間に通された。金色に輝く大きな仏壇があり、その仏壇の前に大介がジャケットを着て正座して、線香を供えていた。やはり大介の顔は不気味だった。

「大介の大叔父さんがウチに仕えていて、それから大介の家系は代々ウチに仕えているのよ。優秀な大介の学費を出したのもウチ。だから仏壇に線香をあげているの」

こちらから聞く前に凜々花が説明してくれた。すると大介がこちらを振り返った。

「え、なんで優樹がここにいるの?」

「それは……」

言いかけたところで言葉がつかえた。凜々花とセックスするためなんて直接言えるわけがない。

「ん? どうした?」

「ほら、この家って泥沼って言われてるよね。そういうことだよ」

察してもらうように言葉を濁した。

「ああ、そういうか……」

大介はなぜか失望した様子で言った。

「まあ、三人で集まったし、お酒でも飲む?」

そう凜々花が提案してきた。大介と一緒に頷く。

凜々花は一度仏間から出たあと、アサヒスーパードライの五〇〇ml缶を数本と大量のカルパスを持ってきて、紫檀の大きな座卓の上に乱雑に置いた。

「さあ、どんどん飲んで」

凜々花が手を広げて勧めてくる。缶ビールを手に取って開けて、ぐいっと飲む。おいしい。

ふっと腕時計を見る。時計の針は十一時半を差し、文字盤の曜日表示窓には「TUE」の三文字が浮かんでいた。今は火曜日の昼。酒を飲んでだらだらしていい時間ではない。こんな時間に酒を飲む自分は、堕落してしまったのだ。そう思った途端、とても悔しくなって、目頭に涙があふれてきた。

「なに泣いてんの。突然すぎて引くんだけど」

大介が迷惑そうにちらっと見てきた。その目はやはり充血していた。

「なんでもねえよ」

シャツの裾を無理やり顔まで引っ張ってきて目をぬぐう。

「大介こそ、目が真っ赤だぞ。どうした」

「……あんまり言いたくない」

大介はそっぽを向いてカルパスを食べ始めた。

他人へ絶対本音を見せてはいけない。本音を無遠慮に吐いて場の空気を乱す人間は嘲笑されて見捨てられるからだ。それが自分たちの世代の常識なのだ。最大の悪は、場を乱す人間。最大の全は、空気が読める人間。正論を言って好感度を下げれば場を追放され負け組に、空気を読んだことを言って好感度を上げて場を支配すれば勝ち組になって得をする。それは学校や社会から学んだことだった。損得だけを気にして生きること。得をして成功すればなんでも許される。そんなことを教えてくれたのはまさに親や教師、上司たちなど、周りの大人たちの行動からだった。

その常識は、大介と凜々花との三人の間にも、当たり前に適応されていた。どこか上っ面な会話をしている。本音を隠している。なにが正しくして、何が間違っているか。それすらも、判別できるものではない。

「あれ、優樹。カルパスを食べないの?」

大介がじっとこちらを見ながら聞いてくる。

「ああ、歯の調子が悪くて……」

「ふーん」

大介は冷たく返事をした。

お互いに話しているはずなのに、目の前には絶対的な孤独が広がっていた。仏間には、黙々と酒を飲み、カルパスを食べる音だけがしていた。

 

凜々花とのセックスが終わった。大介はすでにベッドから出て服を着始めていた。窓の外は暗く、雨粒が激しく地面へ降っていた。大介はカバンから電子タバコを取り出して電源をつけると、窓の外をただじっと見つめながら吸い始めた。その姿はあまりに寂しく、孤独を一身に背負っているようだった。そして、その背中から、虚無感が煙のように立ち昇っているように感じた。

虚無。虚無。虚無。すべては虚無に服す。

窓の外にある空は灰色の雲が覆っていて、それは無限に拡がっているように思えた。その雲は、あたかも首を絞めつけるかのように、地上の人間たちの心を窒息させる。

「……この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」

大介はまったく表情を変えずにつぶやいた。その目ははっきりと、確かに虚無を見つめていた。

すると凜々花が起きだした。

「ほら、あんたたち。さっさと出ていきなさいよ」

凜々花は醒めた表情をしていた。そして、ベッドから這い上がると頭を片足で踏みつけてきた。

「な、なにするんだよ!」

「うるさいわねえ。昔のことを思い出してイライラするの。優樹の声、すんごくうるさい。すこし黙っててよ」

凜々花はもう片方の足を口へ突っ込んできた。凜々花の足はしょっぱくてむせてしまった。じたばたもがく。

「止めてやれよ」

大介はこちらを見てゲラゲラ笑っている。凜々花は足をのけた。急いで着替えて大介と一緒に泥沼から出ていく。

旧国道を大介と一緒に歩く。二人でF大橋のたもとまでやってきた。

「なんだよ凜々花のヤツ。俺のことを足で踏んだり、足を口へ突っ込んだり。突然変な行動するから怖いんだよ。あいつ、サイコパスかよ」

「あんまり言うなよ。どっか変なやつじゃないと泥沼みたいなことしないだろうし」

大介はへらへら笑った。

どことなくその笑いが気に食わなく、前から気になっていることを大介に聞いてみた。

「そういえば大介、これからどうすんのさ」

「どうするってなにが?」

大介が鼻をすする。

「この町に帰っていつまでも遊んでいるわけにいかねえだろ」

「それは優樹、お前もだろ」

「質問にきちんと答えろ」

大介の曖昧な態度にいらつく。

「わかったよ、きちんと答えるよ。 ……S町から逃げたい」

大介はガムを吐き捨てるように言った。

「逃げてどうするのさ」

「もういちど東京へ行きたい。東京でやり残したことがたくさんあって未練がある」

大介はやや顔を歪ませた。その顔からどことなく恨みの感情があふれていた。すると突然、自分の中で大介に対する関心が急激になくなった。一気にどうでもよくなった。大介に感情をぶつけられても困る。大介がこれからどうしたいかなど自分には関係ないことだし、金銭的に得することでもない。大介本人がなんとかすればいい。迷惑は受けたくない。大介をはっきりと拒絶しないといけない。

「ふーん。偉そうだな、さすがエリート」

くだらないギャグを見た時のように冷たく反応する。大介は不機嫌そうな顔で黙りこくっていた。

大介と別れてF大橋を渡りながら考える。結局、人間関係は損得なのだ。損得でしか繋がれない。他人を好きになる基準はすべて損得。条件がないと愛せない。凜々花だって、セックスさせてくれるから好き。大介だって、自分よりひどい境遇に遭っていて見下せるから好き。今の感情はそれでしかないのだ。

なぜそんな思考になるのだろうか。ふと、会社員時代のことを思い出す。

 

 

「てめえ、営業目標を達成できないなんて頭おかしいんじゃねえか! 殺す! 死ね!」

課長が耳元で怒鳴った次の瞬間、拳を振り上げて、思いきり頭を殴ってきた。椅子から床に落ちて倒れこむ。前みたいに歯が折れなかっただけでマシだ。差し歯がゆらゆらしてきたので急いで嵌めなおす。

暴力に遭っているのは自分だけでなくて、新卒社員の半分以上は毎日毎日殴られていた。向かいの営業二課の男子は課長に蹴り飛ばされ、事務の女子も、お局に思いきり頬を叩かれていた。

これが勤めていた会社の日常だった。

朝礼の時は、営業所の全員が所長の前に横一列に並び、社長が考案したスローガン・『生命の原則』を叫ぶ。

「おはようございます! それでは『生命の原則』を本日も叫んでから仕事に取り組みましょう。『弱者は滅びろ! 強い者だけが生き残って成長する!』」

「『弱者は滅びろ! 強い者だけが生き残って成長する!』」

社長直筆の『生命の原則』は立派な額縁に飾られ所長の席の真上から皆を見下しているようだった。会社に入って一年二カ月、毎日毎日『生命の原則』を叫ぶと、まさに、弱者は本気で滅びてほしくなるし、強い者だけが生き残ってどんどん成長してもらいたくなる。

「それでは、本日の連絡事項を伝えます。最初に……」

ここ数日、営業所長の言うことが理解できなくなってきた。頭がぼんやりする。

その数時間後、社有車を運転しているときに交差点を曲がり切れず、歩行者用信号機に衝突した。救急搬送された病院で両親に「田舎に帰ってこい」と泣きつかれ、もっと成長したかったけど仕方なく会社を辞めることにした。

 

 

今は、あの会社が社員を洗脳するひどい会社だと冷静に考えられるけど、毎日毎日『弱者は滅びろ! 強い者だけが生き残って成長する!』と朝礼で言い続けると、本気でその考えがこびりつく。その洗脳は、気を付けていないとまた戻ってしまう。

ああ、こんな自分が醜くて嫌らしい。ため息が出る。

夕方五時、家に帰る。冷蔵庫からブラックニッカクリアの一八〇mlの瓶を取り出して一気飲みし、脇のゴミ箱を思いきり蹴飛ばす。ゴミ箱は勢いよく倒れ、ゴミ袋がはみ出してくる。そのゴミ袋からヨーグルトのカップが転がってヨーグルトの白い液体がだらだらと垂れる。一瞬、その白い液体が、凜々花とのセックスで射精した精液のように見えた。

ヨーグルトを片付けていると、美咲が帰って来た。

「お兄ちゃん、話を聞いて……って、ゴミ箱どうしたの?」

妹がひどく暗い口調で話しかけてきた。

「ん? ああ、気にしないで。どうした?」

「私、家出しようと思う」

妹が真っ直ぐな瞳で見つめてきた。

驚いて言葉が出ない。十秒程度の静寂。

「なんで?」

言葉を喉からねじりだす。

「私、もう耐えられない。学校で良い子を演じるのに疲れた。いつも誰かとの競争。友達とも繋がれない」

「……は?」

美咲が何を言いたいかわからなかった。なぜなら、誰とも繋がれないのは当たり前のことで、美咲がなぜいちいち当たり前のことを言うのかわからなかったからだ。人生は他人と生きるか死ぬかの生存競争。甘えなんて許されない。甘えを見せたら、強者に負かされ、弱者になって滅びるだけなんだ。そんな当たり前のことをいまさら言われても、美咲が馬鹿にしか見えない。

美咲は早口でまくしたてた。

「LINEのグループチャットなんて、誰が本音を言っているかわからないの。みんなで場を盛り上げて、その場のノリにまかせて終わり。みんなをしらけさせた人はいじめをして叩きまくるの。それが楽しみでみんなグループチャットをしている。みんなに合わせるふりをしなきゃ。でも、それがつらい」

そういうと美咲が泣き出した。

「美咲、さっきから何が言いたいかわからねえ。お前の言っていることは当たり前のことなんだよ。学校や会社なんて、みんな敵だらけ。蹴落とせ」

「なんで? それが普通なの? なんで、みんな、それに耐えられるの? お兄ちゃん、なんで?」

美咲の顔が歪む。

「うるっせええええええ!! 黙れ!! 俺なんて、会社で働いていた時なんて、毎日毎日所長から歯を折られるぐらいブン殴られても耐えたんだぞ! 会社なんて誰も助けてくれねえんだぞ! それが社会なんだ! 甘ったれるな! 弱者は滅びろ! 強い者だけが生き残って成長するんだ!」

そう言った瞬間、美咲の掌が頬をひっぱたいてきた。頬をひっぱたく乾いた音がして、その直後にヒリヒリして鋭い痛みが頬全体に走る。

ひっぱたいた美咲は無言でこちらをじっと見ていた。

「いってええええ! なにするんだてっめええ! 弱者は滅びろ!」

美咲の身体を思いきり突き飛ばす。美咲の身体が、その場に倒れこむ。

「なにするのよ!」

美咲が金切り声をあげる。美咲のむなぐらをつかむ。

「俺はな、会社でそう教えられてきたんだ! 弱い奴は社会のゴミなんだよ! 死ね!」

「お兄ちゃん! おかしいよ! 会社ってところは殴ってもいいの!?」

「ああ、いいんだ! 弱い奴は殴っていいんだ! 俺はたくさん殴られて、『弱者は滅びろ』ってさんざん言われて、それでも耐えて頑張ってきたんだ!」

「お兄ちゃんの会社、狂っているよ! それを早く言ってよ! お兄ちゃんが会社の人に殴られているって聞いてたら、すぐにお母さんと東京へ行ってお兄ちゃんのことを連れ戻していたのに!」

むらぐらを掴む手が自然と緩まった。

「だけど、『弱者は滅びろ! 強い者だけが生き残って成長する!』って正しいことじゃない? それを否定されたら、俺、今まで何を信じて生きてきたってことになるんだよ……!」

美咲の髪をつかんで引っ張る。美咲は絶叫しながら、足で股間の急所を蹴り上げる。激痛が走って、その場にうずくまる。美咲はそのまま立ち上がって居間から出て行った。泣きじゃくる声がする。

 

翌朝、ベッドで目が覚めると窓の外は霧がかかっていた。

窓辺に近づいて、外を見る。すべてのものが分散して存在していた。世界は統一されてなく、ただ細かい要素に分割され霧の中に溶け込んでいるようだった。

正しいこと、良いこと、美しいこと。それらの基準はなくなってただ一切の要素がだらしなく浮遊していた。その物事たちは互いに互いを攻撃して殺しあう。『生命の原則』のように弱い要素は滅びる。

弱さとはなんだ。

弱いのは俺じゃないか。

恐ろしい不安が起きる。怖い、怖い、怖い。

窓を一気に開けて叫ぶ。

「俺は弱くねえ! 生きさせろ!」

その声は霧の彼方へ虚しく吸い込まれていった。窓のサッシを手でつかみながらその場で倒れこんで、虚しさに首を絞められたように息ができなくなりうずくまった。(了)

 

(注  作中の台詞「……この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」は、ブレーズ・パスカル著『パンセ』(中公文庫)から引用した)

 

 

2021年10月7日公開

© 2021 蒼樹葉月

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