赤毛のブリュンヒルデ

合評会2021年09月応募作品

大猫

小説

4,223文字

ナチズムと芸術のグロテスクな結合のエピソードの中に、こんな物語もあったかもしれない。
舞台はチェコ。当時はチェコスロバキアです。ドヴォルザークを生んだ万華鏡のように美しい国です。
それにしてもなんてお題を出してくれたんですか。調べれば調べるほど体の具合が悪くなるし精神状態は悪化するし。
2021年9月合評会参加作品。

穴を掘る者は初老の髭面男ばかりだ。若者や壮年は別の作業所へ連れて行かれ、労働能力の低い者がここに割り当てられた。近在する三つの村から連れてこられた男たちは、二日以内に縦四メートル横十メートル深さ三メートルの大穴を二つ掘れと命じられていた。防空壕だと言う話は誰も信じなかった。人のいない草原の真ん中に防空壕を掘るわけはない。西の村々での恐るべき受難が漏れ聞こえてきている。我々が掘っているのは死体を埋める穴であろう。そして最初の死体となるのは掘っている自分なのであろう。願わくば村に残してきた女たち、子供たち、老人たちがここに来ることのないように、と祈りながら汗まみれでスコップを振るい、砂利層を切り崩し粘土層を削って行った。

 

曲がりくねった山道をガタガタとトラックが走る。夜中に小雨が降って道はしっとり濡れていた。峠を越えると麓の森が見える。森は朝日を浴びて萌黄色の蒸気を放ち、その上には虹がかかっている。山を降り切って道が平坦になり、白樺とブナの森に入った。日射しがまだら模様に差し込んで、ところどころに小さな日向ができていた。白い百合、赤い百合、棘の中の野ばらが、朝露に濡れていた。青い絨毯みたいにびっちり密生しているのは矢車草。釣鐘草はもっと濃い青で、俯いた花弁から水滴がきらきらと落ちている。森の奥に分け入るほどに日向は途絶えがちになり、暗がりに覆われていった。

オーリャが小声で歌っていた。

―岩山に住む鷹は、黄金の籠と茨の巣を取り替えたりしない。美しい手綱に繋がれても、野を駆ける馬は喜ばない

ドヴォルザークの『ロマの歌』の第七番。一緒に歌ってくれる人はいない。荷台が揺れて歌どころではないし、こんな歌は誰も知らないのかもしれない。

音楽院の卒業コンサートで『ロマの歌』歌曲集を歌うことに決めた。衣装は黒生地に金糸の刺繍のドレス。古着だけど本物のサテンだ。新入生の頃、ソプラノ歌手ヨハンナ・シュルツが我が校を訪れて、この曲を披露した時の感動が忘れられない。豊かな声量、美しい高音に腹まで響く低音域、繊細な感情表現。何もかもに圧倒され、いつかはあの人のように歌いたいと修業に励んだ。

 

森を抜けると広い牧草地で、ところどころ初夏の花が赤や黄色やピンクの群生地を作っていた。遠目に「事務所」が見えてきた。どうやら旅が終わりに近づいている。

―昔、老いた母がこの歌を教えてくれた時、なぜだか母の目には涙が溢れていた

『ロマの歌』四番目の「我が母の教えたまいし歌」。歌曲集で最も美しいこの歌はなかなか仕上がらなかった。ピアノ伴奏はあっさりしすぎだし、歌は感情過多でくどかった。オーリャはピアニストと幾度も議論し、短いこの歌の各小節の解釈に何日もかけて取り組んだ。その甲斐あって率直で瑞々しい歌になった。優しい旋律に淡い悲しみを帯びた甘い声はすっと心に入ってくる。今度は周りの人たちも徐々に口ずさみ始めた。有名な歌でチェコ人ならだれでも知っている。

―今、私も浅黒い頬に涙を流す。ロマの子らに歌を教えながら

歌はどんどん広がって、ついには荷台中の人々の大合唱となった。見張りの兵がうるさいと怒鳴り、すぐそばに座っていた爺さんを殴りつけた。丸一昼夜のトラック輸送中、ほんの一瞬の慰めも楽しみも分不相応だと許容されなかった。

 

「防空壕」をほぼ掘り終えた男たちは、「事務所」の向こうに次々に到着するトラックを見た。自分たちと同じように、下ろされた人々が二列に並ばされ、機関銃を背負った兵士に囲まれて持ち物検査をされ、最後まで肌身離さず持っていた品々を没収されている。遠目が利くヤンが行列の人々を見定めて、苦痛のうめき声をあげた。あれはうちの村の年よりだ。あれは隣村の長老の奥さんだ。あれは水車小屋の婆さんだ。あれはトマーシュの子供たちだ。あれはハナだ。俺の女房だ……

 

この辺りは二十年ほど前まで陸軍の訓練基地で、司令部だった頑丈な建物が臨時の「事務所」になっていた。二階の窓から司令官が顔をのぞかせ、何やら短い指令を出すと、自動小銃や機関銃を下げた兵士が数十人一斉に走り出し、掘り終えた穴の周りに整列した。

行列の先頭で人々は服を脱ぐように指示される。上着はここに置け、シャツはここに、ズボン、スカートはこっち、下着や靴下はここ、靴はここに積め。皆、服を脱いで裸になった。家族同士、友達同士で抱擁しキスを交わして別れを告げ合うと、ゆっくりと処刑の大穴に向かう。小さな子供も丸裸にされ、母親の乳房の中にしっかり抱かれている。少し大きな子供には年寄りが何か話しかけて空を指さし、手を引いて歩いて行く。

人々は一足先に穴の前に立たされている裸の男たちを見た。それが数日前に村から拉致されて行った父や夫や兄たちだと分かった時、あちこちで小さな悲鳴が起こった。せめて最後の別れだけでもと嘆願する暇もなく、銃声が空気をつんざき、男たちは肉親や隣人の目の前で穴に落ちて行った。

 

タマラおばさんがオーリャを連れて兵士に掛け合っていた。

「この子を並ばせてはいけません。ユダヤ人ではないのです」

兵士数人が顔を突き合わせて相談し、二人を事務所へ連れて行った。

無表情な将校の前でタマラおばさんは熱弁をふるった。集団銃殺の掃射音で壁が振動し鼓膜が麻痺する中、音に負けまいとおばさんは声を張り上げる。

「この子は村の娘ではありません。たまたま知り合いの葬儀で村に来ていただけです。プラハ音楽院の学生でチェコ人です。ユダヤ人ではありません」

「なんで村にいるうちに言わなかったのか」

「無理矢理連れてこられて、話は行った先の事務所で大尉殿に言えって言われたからです」

将校は執務机に掛けたまま、薄青色の目でオーリャをじろじろ見た。

「髪を解いてみろ」

言われるまま、オーリャは編み込んでいた髪を解いた。髪は今朝の雨や汗や埃でべったり黒ずんで固まっていた。将校は少しの間、オーリャを見つめてからこう言った。

「行水させろ。髪を洗って来い。裏に井戸がある」

女の軍人がいないのでタマラおばさんが洗ってやることになった。娘の身体を隅々まで洗い清めながら、おばさんが喋り続ける。

「あたしの見立て通りだ。きっとうまく行く。あんたは若くて器量がいい。あの将校に手籠めにされても逆らうんじゃないよ。他の連中にやられてもじっとこらえるんだ。村は全員殺される。でもあんただけは生きておくれ。最後に残ったたった一つの希望なんだよ」

洗いながらおばさんはこんこんと諭す。手桶に水を汲んで長い髪を洗う間も、機関銃の爆裂音が壁を震わせている。壁の向こうでは村の人たちが肉片となってどさどさ穴に落ちて行く。

オーリャはみんなと死ぬつもりだった。幼い頃に母に連れられて出たけれど、この村は大切な故郷だ。けれどもおばさんに説得されると心が揺れる。

 

五月の日差しはオーリャの長い赤毛を綺麗に乾かした。腰まで伸びた燃えるような赤い髪が白いブラウスに映える。くっきりした赤い眉と黒い大きな目の二十二才の娘を、タマラおばさんは満足そうに見つめた。

オーリャは再び将校の前へ連れられて行った。着いて行こうとしたおばさんは犬のように追い払われた。

ぎこちなく突っ立っているオーリャに、将校はずんずん近づいてきて、首の後ろから髪を鷲掴みにした。そうして針金で髪をぎゅうぎゅうに縛り、乱暴に引っ張って根元からざくざくと切った。オーリャは悲鳴を上げた。鋏の刃が頭の皮まで切り裂いたのだ。将校は髪束をざっと点検し、席に戻って机の上に放り出した。

「髪の毛というのは頭に付いていないと洗いにくいからな、乾く間だけ生かしておいてやったのだ」

オーリャの後頭部から血が流れて、生暖かく背中に伝って行った。

「ちょうどさる方が金色がかった赤毛を欲しがっていてね」

将校は薄い唇をめくり上げて微笑した。

「せめて茶色の目であれば考えてやっても良かった。お前は東洋人の黒い目をしているし、眉毛も下品に太い。シラミどもの血が混じっているに違いない。生き残る資格はない。処刑場へ戻れ」

踵を返してドアに向かったオーリャの耳に、他の将校がブリュンヒルデの赤い髪ですか、と話しかけるのが聞こえた。

「そうだ。今年のバイロイト音楽祭に間に合いそうだ。丁寧に梱包してベルリンへ送れ」

オーリャは足を止めて振り返った。

「ヨハンナ・シュルツ先生に差し上げるのですか?」

将校が感情のない顔で振り向いた。

「私はシュルツ先生を知っています。先生はプラハ音楽院を訪問されたことがあります。私たち学生に指導して下さいました。私の髪を見て、こんな燃えるような髪の色でブリュンヒルデを歌いたいとおっしゃっていました」

「ほう、劣等人種にも偉大なドイツ芸術の役に立つ機会があったわけだな。おめでとう」

将校は顎をしゃくって、連れて行け、と合図をする。兵士が二人、オーリャの腕を掴んだ。

「先生は、コンサートで『ロマの歌』も歌ってくださいました」

「ドヴォルザークか。あれはドイツ語の歌だ」

「先生は、チェコ語で歌いました!」

オーリャは殴られた。

 

外はすでに薄暗くなっている。追い立てられて歩いていくと、裸のタマラおばさんが一人で佇んでいた。オーリャを見ると何もかも察した様子で、こっちへおいでと手招きして、服を脱がせてくれた。さっき丁寧に洗ってもらった白い胸が残りの夕焼けにほんのりと浮かんだ。

処刑場に近づくとひどい血膿の臭いがする。穴の中には懐かしい村の人々の死骸がうず高く積もっている。

「今行くからね」

おばさんが声をかけ、オーリャの肩をしっかり抱き寄せると、兵士が二人を邪険に引き離した。

「この穴はもういっぱいだ。お前は向こうへ行け」

タマラおばさんが先に撃たれてボロ屑のように穴に落ちて行った。オーリャは隣の穴の縁に一人で立たされ、今日の仕事納めだと待ち受けていた十数人の兵士の一斉射撃を受けた。

 

ドイツの著名なソプラノ歌手ヨハンナ・シュルツは、歌劇「ニーベルングの指環」のブリュンヒルデを演じる際に見事な赤毛の付け毛を用いて、ヴァルハラの炎に身を投げるブリュンヒルデにまことにふさわしいと評判を呼んだ。

戦後、裁判が進んで、かの付け毛の出どころについての証言が出されると、シュルツは一切の音楽活動を停止し公から姿を消した。その死後も赤毛の付け毛は見つかっていない。

2021年9月20日公開

© 2021 大猫

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"赤毛のブリュンヒルデ"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2021-09-20 14:11

    「ホロコースト」というテーマで、どんなことでも書けたはずで、私は思いっ切りコメディーにしてしまったのですが、ここでは一番悲惨なことについて語られますね。これって考えてみたらそんなに昔のことじゃないんですよね。ドイツは戦後謝罪をしたけれども、ドイツ人ってやっぱり今でも人種差別的なところがあると、ドイツ人の若者、昔のルームメイトが言ってました。

  • 投稿者 | 2021-09-21 15:03

    最後、オーリャにも何か奇跡的な事も、気まぐれ的な事も起きることなく死んだのが安心しました。なんとなく。なんとなくそれでこの話は良かったんじゃないかなって。

  • 投稿者 | 2021-09-22 03:57

    胸糞悪くなる話ですが、これこそがホロコーストなのですね。
    冒頭、他の歌は周りの人が歌わなかったのに「我が母の教えたまいし歌」はみんなが歌った、というのがちょっとわかりにくかったです。二度読んで納得しました。

  • 投稿者 | 2021-09-23 01:32

    たとえば処刑を目前に控えているというような極限状況、危機的状況の設定は通常時とまるで強度の異なる言動を人物から引き出しますので(『誰がために鐘は鳴る』で崖から跳躍させられるファシストたちのように)、これはそういう力強い作品であると思いました。幕切れも見事でした。脱帽です。

  • 投稿者 | 2021-09-24 11:04

    十分な取材と考察に基づいた良作と思う。ホロコーストで何が起きたか、を体温の感じる近接的な視点で丁寧に描いているのではないか。にしても4000字でよくここまで書けますねえ。

  • 投稿者 | 2021-09-26 00:47

    ドヴォルザークの歌の歌詞と物語がうまくからんでいる。よくあるホロコーストの残酷譚の一つといった感じで目新しさは感じなかったが、上手に書けていて読ませる。おもしろかった。

  • 投稿者 | 2021-09-26 15:22

    アウシュビッツ収容所で見た刈り取られた髪の毛が積まれた部屋を思い出しました。金歯や指輪と共に髪の毛は生地に使えるからと保管されていたそうです。付け毛に使われたこともあったのでしょう。オーリャの救いとはならない物語のまとめ方は残酷ではあるけれど見事でした。

  • 投稿者 | 2021-09-26 20:03

    髪を切るときに頭の皮まで切られるのが痛そうでした。血が伝ってくるのも。切られたことないのに切られた気分でした。
    このテーマにもしっかり直球で描ける造詣の深さと真面目に向き合う度胸を感じました。すごい。

  • 編集者 | 2021-09-26 22:41

    大猫さんの野草に関する知識と描写には毎度感嘆させられます。悲劇を真正面から描いていながら、どこか美しく感じるところも魅力的です。

  • 投稿者 | 2021-09-26 23:43

    ホロコースト関連の悲話や映像作品はたくさんありますが、この作品も映像で見たくなるような、そんな作品でした。
    説得されるまでオーリャが抱いていた、みんなと死ぬつもりだったという諦念も虐殺に劣らず残酷ですが、そのオーリャの内心の変遷も読んでみたい気がしました。

  • 編集者 | 2021-09-27 16:03

    淡々と死に向かっていくオーリャらが悲しくも美しい。ホロコーストという行為は、ただ殺すだけでなくその体の様々な部位を資源とすら見なしていた事を思い出した。本当にこの様な出来事があった、と思わせられる程に描写が素晴らしい内容の作品だった。

  • 投稿者 | 2021-09-27 18:45

    お題に対して大猫さんが持ってこられる題材の豊かさには驚かされます。見てきたかのような描写でありながら、物語としての距離感と構成力とで、教科書に載せて欲しいようなお話だと感じました。教科書に載るには残酷なお話ではありますが。また、残酷が美しく映ることについて、考えさせられました。

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