残像

谷田七重

小説

6,890文字

日々のあわいに入り込んでくる祐二の残像。希はその面影を振り切ろうと、名前も知らない男たちに抱かれ続ける。

森閑とした木立に囲まれてひっそりと眠っているように、底知れぬ池は静かに水をたたえている。水面に青々とした空を映して。その透明な水色に見とれていると、木々がざわめきだして、池もかすかにさざなみを立てた。水面に浮かぶ空がゆらゆらと波打つのを眺めているうちに、うっとりとして妙なことを思った。「ああ、まるで空に溺れているかのようだ、これは倒錯の夢だ」

開け放った窓に背を向けてベッドに横たわり眠っていた(のぞみ)は、生ぬるい風に煽られたカーテンが(うなじ)をくすぐるのを感じて目を覚ました。体中にじっとりと汗をかいているのに気付いて、軽い不快感に眉をひそめる。上半身を起こしてベッドの上から机上の時計をうかがい見ると、午後四時過ぎだ。休日とはいえ特にこれといってすることもないので、希はここのところ妙にだるさが続く体をふたたびベッドにあずけて、目をとじた。

しかし、今度は寝付けなかった。眠れないまま、まんじりともせずにベッドに横たわっていると、二日前の夜の記憶がまとわりついてきた。生ぬるい微風はあの男の息づかいに、背中をなぞるカーテンはあの男の手の動きであるかのように思えてきた。だんだんと苛立ってきた希は、億劫そうに起き上がって窓とカーテンを閉めながら呟いた。「邪魔しないで」

その後もやはり妙な脱力感には勝てず、希はベッドの上で胎児のように体を丸めてうずくまった。そうして焦点の合わない虚ろな瞳をぼんやりと開けたまま、さっきまでみていた静かな夢のことを考えた。希はあの夢が今の希自身を暗示するものだということに、とうに気付いている。

……私は美しい青色をたたえる空に恋焦がれている。しかし空は遠すぎる、手を伸ばしても届かない。ふと足元を見ると、空の青を映して静かに波打つ池があることに気付く。私は何の迷いもなくその中に飛び込むだろう。そうして「ああやっと辿り着くことができた」という歓喜と恍惚のうちに溺死して、この恋は成就する。しかしこのように、求めるものが手の届かないところにあるとき、歓喜と恍惚を得るためには、限りなく実像に酷似した虚像が必要だ。池の水面は空の青を忠実に映し出すことができるが、あの男は役不足だ、自分の役割の何たるかを分かっていない。ひび割れた鏡にすら劣っている。

希はしばらく思考をめぐらせて深いため息をつき、たまりかねたかのように呟いた。

「祐二………」

湯気を立てる夕食を家族と囲みながら、希は平静さを装いながらも箸が進まずにいた。母親は心配そうに見ていたが、口に出して咎めたりはしない。三ヶ月前に希が失恋し、それを未だに引きずっていることを知っていたからである。しかし最近また、希に新しい彼氏ができたようだ。母親は少し安心したが、前のように希が異性関係について話さなくなったことが気になっていた。それどころか、どんどん元気がなくなってきているようだ。しかし母親は、娘から何も言わない限り問いただしたりしたくなかった。祐二と別れたことは希にとってかなりの痛手だったということを、家族の誰よりも知っていたからである。

家族の何気ない会話が途切れて一瞬沈黙が流れたとき、窓の外の遠くに乾いた破裂音が(こだま)した。

「あ、花火の音だ。まだ夏休みにもなってないのに」

希の二歳下で大学一年の妹が箸を置いて席を立ち、窓の向こうを眺めてから言った。

「なんだ、ここからじゃ見えないや」

つまらなさそうに席に戻った妹は、もうすぐサークルの夏休みイベントで花火大会をすることを話しだした。「ああ、もうそういう時期なんだねえ」などといった相槌は両親に任せて、希はなおも遠くに轟いている花火の音に聞き入っていた。それはやがて希の胸の内にまで染み渡り、心の奥底を揺り動かすかのようだった。

食事が終わって自室に戻ると、希はまた気だるげにベッドに横になった。目を閉じて、ここからは見ることのできない花火の音を聞いていると、目蓋の裏に去年祐二と肩を並べて眺めた花火の残像が映っているような気がした。

 

 

大学三年にもなると、講義の数は減ってくる。今日の講義は三、四限だけなので、希は十時ごろに起きてゆっくりと支度をし、一時からの講義に間に合うように家を出た。

空いている電車に乗り込んで座席に座り、希は向かい側の窓から見える空をぼんやりと眺めていた。夏空にふさわしく、まばゆいほどに白い雲が浮かんでいる。風に流されて刻々と変化し続ける雲の姿態を見とどける暇も与えず、電車は目まぐるしいスピードで走行していく。

希はふと、正面に座っている一組の母子に目をやった。三十手前くらいの母親が、三歳くらいの小さな男の子を横に座らせて、唇の端に微笑みを浮かべながらうつらうつらと居眠りをしている。小さな男の子はきらきらとした目を見開いて、周りの光景に首をめぐらせている。まっさらで無垢な瞳に何が映っているのだろう。……希はこの母子しか目に入らなくなった。

この母親はなんて幸福そうな寝顔をしているのだろう。頭をすこし息子の方に傾けて、気持ち良さそうにまどろんでいる。「かわいい坊や、私の坊や」という心の声が聞こえてくるようだ。しかし母親がまどろんでいる間にも、小さな息子の無垢は刻々と失われていく。大きく見開かれた小さな男の子の瞳には、目にしたもののいくつもの残像がのこり、それはやがてこの小さな命を色づけ、形づくるものになるだろう。

この一秒一秒にも、あらゆる色をした絵の具の飛沫が男の子のまっさらなキャンバスを塗りかえ、いつ完成するとも知れない抽象画が描かれていく。キャンバスがずっと白いままでいることなど有り得ない。眠る前に見た息子と起きてから見る息子との変化に、この母親は気付くだろうか。……そうだ、恋人同士も似たようなものだ。女が幸福にまどろんで恋人の夢をみているあいだ、男の方も同じように眠っているとはかぎらない。そうして女は目覚めると同時に、恋人の不在に気付く。男はとうに違う世界に足を踏み出していったのだ。そう、祐二のように。

希はふと、小さな男の子と目が合った。男の子はきらきらした瞳で、まっすぐに希を見つめている。希は思わず視線をそらした。それでもなお、男の子は希を直視しつづけていた。

 

 

教室前方のスクリーンに、モノクロの映像がうつしだされている。映像の人物たちが動くたびごとに、心理学の講師がぼそぼそとした声で解説をしている。だだっ広く薄暗い教室の中で講師のぼそぼそ声がマイクでいやに誇張されていることに、希は苛立っていた。あの講師の解説は独り言のようなものだ。どうして独り言をマイクで拡声する必要があるのだろう。それならばいっそ、ここにいる学生たち全員にもマイクを与えたらどうだろう。そうしてそれぞれが思い思いにマイクで独り言をいえばどうなるだろうか。それこそ心理学の実験にふさわしいのではないか。

希はとりとめもないことを考えながら、シャーペンも握らずノートを開きもせずに机に頬杖をつき、うわのそらでスクリーンを眺めていた。そのうち映像にも飽きて、希は掌のふちに軽く顎を置いたまま、かすかに眉根をよせて目を閉じた。隣では友人の早苗が真面目にノートを書いていて、そのシャーペンの音がさらさらと聞こえてくる。試験直前にも関わらずここのところ妙に無気力な希を心配して、早苗がしょっちゅうノートを貸してくれることを心苦しく思っていた希は、早苗のシャーペンの音を聞いているうちに思いなおしてふたたび目をあけてノートを開き、シャーペンを握った。

しかし、ノートに講義のテーマと今日の日付を書いたとき、改めて祐二と別れてからの三ヶ月という期間が身にしみて感じられた。希はいつのまにかノートの空白に目を落とし、祐二と付き合った一年半とこの三ヶ月間の残像を映してその走馬灯を見ているような気持ちになり、またもや講義どころではなくなってしまった。そうしているうちに、教室の薄暗さがホテルの照明を思い出させ、やがてそれは希の中で、あの男と像をむすんだ。

祐二と違って荒々しいだけの口づけしかできないあの男。祐二と違って軽薄で奥行きのない目をしたあの男。あの男に祐二の代わりを求めることが間違っているのだろうか。肉体をまとった幻を求めること自体が間違っているのだろうか。しかしいま私に、他に何ができるというのだろう。耐えられないほどの寂しさ・喪失感から一瞬でも逃れていたい、この願望が間違っているとでもいうのだろうか。………

希は早苗に「トイレに行ってくる」と小声で言い、教室を抜け出した。

外は、相変わらずの鮮やかな夏空だった。木々の緑が風にさわぎ、まばゆい木漏れ日が踊っている。希は大学構内の木陰のベンチに腰掛けて、二ヶ月前から吸い始めた煙草を取り出して火をつけた。空を仰いで真っ白な雲の流れていく様を眺めていると、通学の電車の中で見た母子のことを思い出した。

きっと今頃あの母親は、小さな息子の手を引きながらどこかを歩いているだろう。彼女は息子が手中にあり、自分の行く先々に忠実についてくることを疑わない。しかし息子は母親に手を引かれながら、なおも次々と現れる新しい光景に目を見張っていることだろう。ああ、あのきらきらとした瞳。私があの瞳から目をそらしたのは、なにか自分にやましさがあるからだろうか。あの男の子は私の中に何を見、そしてそこから何を吸収していったのだろう。彼のキャンバスに、私はどんな色の、どんな形の飛沫を残したのだろう。………

希は、どこに行ってもまとまりのない考えばかりが渦巻くのに倦み疲れ、同時に異様な眠気に襲われながら教室に戻り、席につくなりうつ伏せになって眠ってしまった。早苗は隣でその様子を心配そうに見ながら、トイレに行くと言って席を立った友人から、かすかに煙草の匂いがするのに気付いた。

今日のすべての講義を終え、希と早苗は夕暮れのせまる空の下で、ベンチに腰掛けて他愛ないお喋りをしていた。希は何気ない会話の合間に自分が持っている煙草の紫煙に見入り、そのたびに軽い寂寥を覚えた。紫煙は細く小さく立ちのぼり、まるで痩せ細った病人が苦しむかのように歪み、もつれる。しかしすぐに空気と溶け合って和合し、昇華して消えていく。その様を眺めていると、自分を慰めるために始めたはずの煙草が、自分ひとりを取り残していくかのような気がしてくる。

そうしているうちに、女同士の会話の常として、話題は恋愛の話に移っていった。

「早苗、そういえば彼とはうまくいってるの?」

早苗ははにかみながら、いつものように控えめに答えた。

「うん、まあぼちぼちかな」

希は、早苗の右薬指にいつも光っている指輪に目をやった。それがいかにも幸福の証といった感じで、希は自身との対照性を改めて認識させられる。早苗はその気配を感じながら、言いにくそうに聞き返した。

「……希は? やっぱりまだあの人と会ってるの?」

希は早苗の目を見ずに、自嘲気味に笑いながら頷いた。

「うん、いまだに本名とか知らないけどね」

「ナンパされた人についてって、そのまま関係を続けてるなんて……祐二くんと別れてから、希はどうかしてるよ。今日も講義中、トイレに行くとか言って、ほんとは煙草吸ってたんでしょ?」

希は笑うしかなかった。早苗はなおも続ける。

「希はそれで気を紛らわせてるつもりかもしれないけど、それじゃどんどん自分を苦しめてるだけだよ。やめなよ、そんな関係。あの人は祐二くんじゃないんだよ」

早苗はまっすぐに希を見て言った。思わず激して「そんなことわかってる、じゃあ私はどうすればいいの?」と言いたくなるのをこらえて、希は言った。

「祐二には前から新しい彼女がいて、自分ひとりが取り残されたような感覚なのかな、とにかくそんな感じで。でもやっぱり今でも祐二が好きだから、祐二と対称でありたいの。だから男が必要なの」

早苗は組んだ足の上にうつむくように頬杖をつき、すこしの沈黙ののち口を開いた。

「それで、希は幸せなの?」

幸せなわけない、とはさすがに言いかねて、希は煙を吐き出しながら苦笑して答えた。

「わかんない。………」

ふたたび二人のあいだに沈黙が流れた。いつの間にか、空は暮れかけていた。もはや昼に見たような、もくもくとした弾力のある雲は見られない。頼りなく希薄になってほのかに夕陽に染められた雲が、もつれてはちぎれながら細くたなびいていくばかりである。希は思っていた。早苗は、恋慕に赤く染まったちぎれ雲が一体どこに流れていくのか、といったことを、ただの一度でも考えたことがあるだろうか。私はその答えを知っている。あのほのかに赤い儚げな雲は、やがて夜の闇に染められ、そうして失意のうちに闇に溶かされ、消えるしかないのだ。

「そろそろ帰ろっか」

希は煙草を揉み消してから何事もなかったかのように快活に言い、立ち上がった。しかし、早苗が瞳に哀しげな表情を宿しながらもやさしく微笑んで頷く様を見て、何故かは分からないが胸が締め付けられるような、切ない気持ちになった。

 

 

あくる日の講義も三限からだったが、希は昨日よりも大幅に遅れて家を出た。というのも、体のだるさがピークに達して体が思うように動かなかったのと、それに加えて昨日の早苗の哀しげな表情が頭から離れなかったからである。

祐二と別れてからというもの、希は自分でも気付かないうちに、誰に対しても虚勢を張るようになっていた。しかし昨日の帰り際に見た早苗の瞳の色は、希がこの三ヶ月のあいだ誰にも触れさせまいとしていた心の琴線を震わせるかのようだった。

希は煙草を吸っていることを家族に隠していて、学校や出先でのみ吸うことにしていた。しかし今日は明らかに講義に遅れる時間に家を出たのもあって、大学に行って早苗と会う前に煙草を吸ってすこし気分を落ち着けようと、久しぶりに近所の公園に足を運んだ。

ありきたりな遊具がぽつんぽつんと配置されている寂しげで小さな公園は、まだ子供たちの歓声を響かせておらず、代わりに木々の茂みに隠れた蝉たちの統一性のない途切れ途切れの鳴き声のみが、耳に入るものの全てだった。希はベンチに足を組んで座り、体の内側からどうしようもなく染みでてくる疲弊感を拭うかのように、ハンカチを額に当てた。

バッグから煙草を取り出し一息ついて、希はあらためて公園内を見回した。すると、少し離れたところのベンチに、先客らしい老婆が座っていることに気付いた。老婆は身じろぎもせずベンチに腰掛けていて、膝の上に小さな赤ちゃんを抱いている。きっと孫を連れて日なたぼっこをしているのだろうと希は思ったが、老婆の膝の上の赤ちゃんも、動きもしなければ声も上げない。不思議におもって二人を注視しているうちに、希はあの赤ちゃんが人形であることに気付き、その瞬間に戦慄をおぼえた。

それはこの上なく孤独で、寂しげな光景だった。老婆はぼんやりと顔を前に向けたまま、毛糸でできた赤ちゃん人形の髪を、萎びた(しな)指先でまさぐっていた。おびただしい陽光に呑まれて白昼夢を見ているかのように、その瞳は焦点をとらえていない。無数の皺のあいだに穿たれた(うが)あの深遠な瞳には、何が映っているのだろう……それとも、遠い日の残像を目の内に宿しているのだろうか。

希はここまで思い及んで、はっとした。「あれは昨日みた若い母親の、年を重ねた末の姿ではないのか。幸福にまどろんでいたあの母親は、ついに息子をそばにとどめておくことが出来なかったのだ。……そうして、まだ自分の手を必要としていた頃の息子を人形に重ねて、愛撫を繰り返している。これほど孤独で哀しい光景はない。実体をもつ幻に取りすがっているのだ。そう、あれは息子などではなく、ただの人形にすぎない。……」そしてそれは、あの男に祐二を重ねている自分自身の姿であることに気付いたとき、希は吐き気に襲われた。

母親は、いつもよりも遅れて家を出た希が、三十分も経たないうちに帰ってきたことに驚いた。「どうしたの?」という問いにも答えず、希はトイレに駆け込み、ドアを開けたまま便座にかがみ込んで嘔吐を繰り返した。母親はそれを見て血相を変えた。

希と母親は、病院の待合室にいる。名前を呼ばれて、希は立ち上がった。

「一人で大丈夫?」

「うん、大丈夫」

希は一人で診察室に入った。十分後、希はモノクロのエコー写真と対峙し、その中央に浮かび上がる白い残像のようなものに見入っていた。

「おめでとうございます、ご妊娠です。ちゃんと子宮内で受精しているので、心配ありませんよ」

女医の言葉をよそに、希はなおも白い影を見つめながら、自身の中で何かが終わり、何かが始まるのを感じた。この白い影は過去に失くしたものの残像ではなく、今まさに希の胎内で脈打つ、ひとつの命だった。

2007年8月14日公開

© 2007 谷田七重

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