#6

ディア・バチュエ(第6話)

挽混座

小説

1,821文字

 研究所の職員であることを証明するカードも持っておらず、白衣も着ていない突然現れたその男は誰がどう見ても部外者で、誰かの知り合いかどうかも確かめる術がない。

 津山のような女受けの良さそうな顔立ちは年下だろうか、基本的な顔の造形や髪や目の色は酒井さんと同じで、唯一彼女と違う身長は僕と同じくらいだ。男は出されたコーヒーに口をつける素振りもないまま、じっと酒井さんを見つめていた。

「何のご用でしょうか」

 受付を超えてきているのだから不審者ではあるまいと頭ではわかりつつも、自身に向けられる視線に異様なものを感じているのか、一定の距離を取りつつ酒井さんが尋ねた。

 男は口角を上げ、スツールから立ち上がった。

「え、え……」

 そのままつかつかと酒井さんへ近づき、跪いて、慌てる彼女の手を取る。

「一度でいいからお会いしたかったのです」

 その言葉が耳に届くか届かないかの刹那、酒井さんは男の手を振り払った。

「触らないで」

 群青色の瞳をいつにも増して吊り上げて、怒髪天を衝くとはまさにこのことかと思わず納得してしまいそうになるくらいの、初めて聞く声色だった。酒井さんは厳しい表情のまま続ける。

「私に触れていいのは、私の認めた人だけよ。あなたではないわ」

 男は少しだけ目を丸くしたものの、彼女を見上げる形で相好を崩した。

「人でなければよいのですか?」

「何を言って——」

 男は指をパチンと慣らしながら立ち上がった。周りで大人しくしていたハイドラたちが——あの自力で動くのが困難な魚状のハイドラさえ——男の下へと集まる。

 入れ替わるかのようにベンチの近くで様子を伺っていた僕の隣まで酒井さんが後ずさった。

「五十嵐」

 僕を見上げる双眸はさっきと打って変わって揺れていた。この人もこんなに不安そうな顔をすることがあるのか。

「大丈夫です」

 根拠もなく返しながら、いざという時のために部屋に設置してある非常用のボタンを押した。押した、とは言っても簡単には押せないようになっているため手間をかけ力を加えないといけない。

 これでカメラは非常事態に切り替わるだろう。何かあっても、すぐに然るべき処置が取られるはずだ。今のように死角なく観測できるようにカメラを取りつけたのは、あの事故があった後からだと聞いている。そんなに重大な事故だったんだろうか。僕にはまだ詳細を知る権限はない。

「本当は、今日は挨拶だけのつもりでした。あなたに一目会えればいいと、そう思って」

 男は淡々と、しかし笑顔は崩さぬまま話し続ける。僕のことは眼中にないらしい。男の熱い視線は酒井さんにだけ注がれている。

「しかし、先ほどの……ええ、まさか、ああくるとは。気に入りました。ますますあなたが欲しい」

「勝手なことばかり言っているけれど、そもそも、あなたはどちら様なのかしら?」

 男の下に集まったハイドラたちが一斉に鳴き出した。単調な音の集合のはずなのに、不気味で背筋が冷える。まるでそれはブーイングのようにも聞こえた。

 まさか、感情があるのか? 酒井さんに対して、怒っている……?

「あなたが可愛がっているハイ・エルドラド。それを統べる上位個体と表現すれば、人間にもわかりやすいですか?」

 ドアの解除音が響いたのと、雨のように薬剤が室内に降り注ぎ始めたのは同時だった。なんだ、この匂い。初めて嗅ぐ刺激臭。露出した部分が痛みを持つ。酒井さんも同様に感じたようで、男のことを気にしつつ、天井を見上げている。

「もう時間ですか。次は、あなたを迎えに来ますので、そのつもりで準備しておいてください」

 男は酒井さんの制止の声からも、防護服の人間からの拘束からも逃げ、たちまちに姿を消した。聞きたいことは山のようにある。まだ遠くまでは行っていないはずだと追いかけようにも、防護服の人間たちは僕たちを足止めし、シャワールームへ行くように執拗に促す。そんなに危険な薬剤なら部屋中に降らすのはおかしい。それほどまでに切羽詰まっていたということか?

 酒井さんは自分の体のことなどどうでもいいと、男が向かったであろう方向へ防護服たちを押しのけ行こうとする。

「酒井さん!」

 僕も加勢しよう。

 体を押さえつける防護服を振り払おうと躍起になっていると、閉まるドアの隙間から見えた光景に一瞬時が止まった。言葉を失った。先ほどまで合唱していたハイドラたちが薬剤を浴びて溶け、死体となって倒れていた。人間の血の色ではない、形容し難い、汚いと感じる色だった。

 こみ上げた嘔吐感に僕は素直に従った。

2021年9月15日公開

作品集『ディア・バチュエ』最新話 (全6話)

© 2021 挽混座

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