ディンゴ・ブルー 11

ディンゴ・ブルー(第11話)

河野沢雉

小説

3,804文字

カリフォルニア州ロンポック連邦拘置所における北見誠司の接見メモ その11

鵜飼いには多くの人が詰めかけていました。僕たちは予約していた船に乗るための列に並び、出船の時間を待ちました。空は薄暗くなり、見物客のためにいくつもの明かりが灯されました。ところどころに本物の松明が焚かれ、鵜飼いの気分を盛り上げています。でも松明は煙と脂と煤をもばら撒くため、目をやられた僕はたびたび涙を拭いました。視界はぼやけ、松明の炎や電灯の明かりが滲んでしまってどっちがどっちかも判じつかなくなります。

ふと後ろから肩を叩かれ、振り返るとそこには雄ちゃんのお父さんがいました。お父さんはあそこ、と僕の視線を誘導するように川上の方を指差しました。数十メートル離れたところに何艘かの小さな木造船と、数人の人影が明かりに照らされて浮かび上がっていました。鵜飼い舟と鵜匠に違いありません。

観光船は意外に大きくて、長い人の列を苦もなく呑みこみました。僕たちは舳先近くの右舷に陣取りました。辺りはいつの間にか真っ暗になって、川は墨を流した中にときどきオレンジ色の絵の具を散らしたように色づいています。

「鵜飼で一番得をしているのは誰だと思う?」

「地元の観光協会でしょう」

「良い読みだけど残念」

「じゃなんだよ」

「鵜だよ」

「鵜は別に鮎食べられるわけじゃないし、そのために捕まえられて泳がされて、むしろ損してるじゃん」

「ばかだなあ、人間に飼われて餌もらって安全に過ごせるんだ。自然の中で生存競争するよりいいに決まってる」

そんな会話が隣の団体客の中から聞こえてきます。なんとなく聞き流したつもりなのに、「飼われている」「いいに決まってる」というフレーズが僕の頭の中に残り、ずっと繰り返されていました。

「鵜匠だろ。鵜飼がなけりゃそもそも鵜匠の仕事もないんだから」

「鵜飼がなかったら鵜匠だって他にもっと良い仕事みつけてたかも知れないじゃないか」

「鵜匠だっていい仕事だろ」

「いやたいしたことないだろ」

「鵜よりはマシさ。ごちそうの鮎を喉元まで入れて、食べられないんだから」

二人はそれ以上続けても不毛なやりとりが続くばかりだと気づいたのか、黙りこんでしまいました。それでお終いかと思っていた矢先、松丸さんが突然彼らの会話に割って入りました。

「鵜飼の鵜はウミウなんですよ。あと鵜匠のほとんどは宮内庁の職員らしいですよ」

雄ちゃんが隣で苦笑を漏らすのが聞こえました。

「そうなんですか」

「ええ」

議論をしていた二人はあからさまに興味のなさそうな態度で、松丸さんの豆知識を受け取りました。それきり、会話は終わってしまいました。

鵜飼いが始まりました。松明の炎が筋をひいて流れ、水面に吸い込まれていきます。その合間を縫ってウミウたちが首を突き出したり、潜ったり、弧を描いて泳いだり、なるほど船の周りで舞を踊っているようにも見えます。観光船の上ではガイドが何やら解説していましたが、ほとんど誰も聞いていませんでした。皆、鵜匠の巧みな綱さばきとウミウの滑らかな動きに見惚れていたんです。

僕はときどき、隣にいる雄ちゃんの横顔を盗み見ました。暗がりの中で雄ちゃんは口を真一文字に引き結び、睨みつけるように鵜飼いを見ていました。電灯や松明の明かりがゆらめく度にその頬の上に陰影をかたちづくります。

雄ちゃんの顔は僕のそれよりも数センチ高い位置にありました。そしてそこに投げかけられる陰影は横顔を余計に大人びて見せました。僕は自分の頬を指の腹で触れてみます。頬も指も、なにか未発達のもののように柔らかい。

僕には、それがたった二週間の生まれの差によるものだとはどうしても思えませんでした。

 

鵜飼いが終わると、やめておけばいいのに松丸さんが鮎を食べたいと言い始めました。すると雄ちゃんのお父さんもその気になって、帰り道に養殖場の直売所に寄って、活き鮎を十匹ばかり買いました。

クーラーボックスを水で満たして鮎を放り込み、車を飛ばして帰りました。雄ちゃんちに着くなりキッチンのシンクに水を張り、そこに鮎を移しました。時計は八時を回っており、疲労と空腹で身体は悲鳴をあげていました。でも生きている鮎を見る珍しさに、僕も雄ちゃんもずっとシンクを覗きこんで鮎の泳ぐさまをいつまでも観察していました。

そのうち、僕の意識にひとつの疑念がすっくと立ち上がってきます。隣でシンクに身を乗り出している雄ちゃんもおそらく同じことを考えていたはずです。ほどなくしてその推測が当たっていたことを僕は知りました。

「これ、やっぱり食べるのかなあ」

雄ちゃんが不安そうな声色を抑えもせずに、言いました。それに応える僕の声は雄ちゃんのそれよりもっと沈んでいました。

「だろうね。鮎だから、やっぱり塩焼き?」

「甘露煮ってのもあるみたい」

言いながら、二人とも実のところ目の前を泳いでいる鮎たちがそのような料理に姿を変えてしまうのを想像できませんでした。料理になるということは、誰かがこいつらを捕まえて、水から引き揚げ、生きながらにして包丁を入れ、はらわたを引きずり出すということです。雄ちゃんのお父さんかお母さんがそれをやるのでしょうが、そんな所業を為せるのはおよそ人でなしか冷血漢に違いないとしか、僕らには思えませんでした。

長い逡巡の末に、雄ちゃんは言いました。

「僕、お父さんに言ってみるよ」

まるで浅田への思いを僕に告白したときのように、雄ちゃんの頬は緊張の糸で突っ張っていました。僕はその大役を雄ちゃんが買って出たことに素直に感謝しました。

結果として、その請願は拍子抜けするくらいあっさりと認められました。この鮎たちを川へ逃がしたいという雄ちゃんに対して、雄ちゃんのお父さんは「そうか」とだけ言い、鮎をクーラーボックスへ戻すのを手伝いさえしました。松丸さんは「逃がしちゃうんですか?」と不満げな様子だったが、雄ちゃんのお父さんの決定には逆らいませんでした。

僕たちの家の近くにはそれなりに大きな川の支流がありました。清流とは言い難いですが、鮎はともかくとしてフナやウグイやオイカワくらいは普通に棲んでいる川でした。おそらく、ここに鮎を放流しても長くは生きられまいと僕も雄ちゃんも分かっていました。それでも腹に包丁を入れるよりは自分たちの目の届かないところで死んでくれた方が罪悪感を覚えずにすむ。偽善的ですがそのときの僕らの正直な気持ちでした。

車を降り、クーラーボックスを抱えて川岸へ下りました。夜の河原は真っ暗で、車に残った雄ちゃんのお父さんがヘッドライトで上手い具合に足元を照らしてくれました。水で満たされた重いクーラーボックスを僕と雄ちゃんは必死の思いで水際まで引きずるようにして運んでいき、蓋を開けました。暗くて中はよく見えませんでした。二人で力を合わせ、クーラーボックスを倒すようにして中身を流れの方へとぶちまけました。ぶちまけたつもりが、水と魚はその場にみっともなく広がったように見えました。流れ出た水が僕の靴を濡らし、生ぬるい感触が靴下を漬してくるぶしまで伝わります。

僕と雄ちゃんは開いたままのクーラーボックスを引きずるようにして、足早にそこを立ち去りました。幽霊かなにか恐ろしいものでも見たかのように、一目散に逃げてきました。互いに相手のことを思いやる余裕さえなく、むしろ相手よりも一歩でも先に逃げようと、暗い河原の石に足をとられながら走りました。

雄ちゃんのお父さんにお礼を言って、僕は家に帰りました。松丸さんはそのまま雄ちゃんちで食事をして帰るということでした。雄ちゃんちの食卓には既にビールやおかずやおつまみが並べられているのが見えました。また松丸さんは顔を赤らめ、臭い息を吐くまで飲むのでしょう。そして雄ちゃんのお父さんが松丸さんを送っていくまで、雄ちゃんは二階の部屋に閉じこもるのでしょう。

雄ちゃんのお母さんからは、夕飯を食べていかないかと誘われましたが、僕はお父さんとお母さんに言われていたとおり、それを丁寧に断りました。僕はどんなに遅くなっても夕飯の申し出は固辞し、家に帰ってから夕飯をたべるようにと事前に言い含められていました。

家には明かりがついていました。お父さんとお母さんと姉ちゃんが帰りの遅い僕のことを待っているはずでした。学校説明会の首尾はどうだったのか、真っ先にそのことを聞こうと考えながら、僕は勝手口のドアを開いて「ただいま」と呼ばわりました。

 

暗闇の河原に放った鮎のことは忘れようと努めました。もしかして十匹の鮎のうち何匹か、下手をするとそのすべてが川へは泳ぎ出せずその場にクーラーボックスの水とともにうち捨てられ、のたうち回り、干からびて死んだかも知れないと思うと、口の奥に苦い感覚がひろがりました。だからその河原へはその日以降近づきませんでした。もしその犯行現場に戻って干物になった鮎の死骸を見つけようものなら、一生もののトラウマになるかも知れないと思ったからです。

できることなら十匹とも無事に川の流れに逃げおおせていてほしいと僕は切に願いました。

祈るような気持ちを抱えたまま、何年かが過ぎ、僕はついにその河原を再訪しないまま生まれ故郷を離れました。雄ちゃんと一緒にクーラーボックスをひっくり返したあの夜の記憶を残すのは、生ぬるい水に濡れた靴下の感触だけでした。僕のくるぶしには、まだ生臭い水の匂いが染みついているような気がしました。

 

2021年9月10日公開

作品集『ディンゴ・ブルー』第11話 (全12話)

© 2021 河野沢雉

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