学校も世間もどんどん夏休みモードになっていくなか、僕の気持ちは画鋲でカレンダーに留められたように、海の日の連休初日に突き刺さっていました。
雄ちゃんは仮病で休んだ翌日からは何ごともなかったかのように学校に出てきて、まあまあ普通に過ごしていました。なんとなく雄ちゃんには話しかけづらいような気分だったけど、当然ながらそんなこと知るよしもないクラスの連中は雄ちゃんにも僕にも、当たり前に接していたから僕としてはなんだか一人で気を揉んでいてばかみたいでした。
姉ちゃんや両親は学校説明会の準備に色々忙しくて僕は家庭内で存在を認知された幽霊みたいなものでした。その状態は何気にゆるく自由で気が楽で、僕は夏休みがいつまでも来なければいいのに、とあらぬ願望さえ抱いてしまいました。
もっとも、時間の流れはそんな僕の気持ちを斟酌してくれるはずもなく、無情にもあれよという間に海の日の連休初日を迎えてしまいます。
当日は朝ごはんが終わるのを見計らったように雄ちゃんが僕を呼びに勝手口へやってきました。隣家の裏につくられたスズメバチの巣は業者によって駆除され、ぼうぼうに生えた丈の高い草もきれいに刈られて通れるようになっていました。隣家の老夫婦はハチの巣をどうするというつもりもなかったらしいんですが、子供はもちろん大人だって危ないと近隣の何件かから苦情めいた要望を散々受けてとうとう専門業者に駆除を依頼したそうです。作業は残念ながら僕たちが学校に行っている間に行われたので駆除の様子を観戦することはかなわなかったけど、お母さんによると「見ものだったわよ」ということでした。
財布とケータイとタオルと帽子と虫除けスプレー、それに麦茶を入れた水筒をリュックサックに詰めて僕は雄ちゃんと一緒に隣家の裏手を戻り、雄ちゃんちの車庫に入りました。白いレクサスのトランクに荷物を積み込んでいる雄ちゃんのお父さんに挨拶をしていると、助手席に誰かが座っているのに気づきました。松丸さんでした。
「今日は一緒に行くことになったんだ」
僕が助手席に目を奪われているのを見とがめて雄ちゃんが言いました。僕は正直面食らいました。てっきり雄ちゃんと雄ちゃんのお父さんと三人だと思っていたからです。
「お父さんが誘ったんだ。普段出かけることもないしせっかくだからってね」
松丸さんは曖昧な笑顔とも困惑顔ともつかない変な表情を貼りつかせて僕たちの方を見ています。もし姉ちゃんがこの場に居たら間違いなく「キモっ」と言ってそうでした。
「さて行こうか、トイレはいいかい?」
雄ちゃんのお父さんがトランクを閉めながら言いました。僕は雄ちゃんと顔を見合わせて同時に頷きました。
途中一度だけ道の駅に寄ってからそのままばあちゃんちを目指しました。道路はよく整備されているけれど周囲の風景からはどんどん建物が減っていき、とうとう農家の他にはたまに農協の倉庫とか地域の集会所とか、消防団のガレージとかが見えるだけになりました。標高が上がるにつれて景色も変わり、ついに谷あいの渓流に沿って鎮座するごつごつした岩と、棚田を縁取る背の低い草木、あとは両側に迫った山を覆う雑木林ばかりになってしまいました。
道路はいつしかレクサスの車幅プラスアルファくらいしかなくなり、もし対向車がきたら離合が大変そうでした。結局ばあちゃんちまで一台も対向車に行き違わなかったのは幸いでした。
カーナビで近くまで案内されたらあとは僕でも道順を憶えていました。憶えていたといってもほぼ一本道だから家に入る道さえ間違えなければいいんです。僕はお父さんに連れられて行くたびに遊んでいた柿の木を目印に曲がり角を指示しました。雄ちゃんのお父さんは言われるままに運転し、優雅に車を未舗装路へすべり込ませました。バッテリー駆動になった車は異様に静かに、ばあちゃんちの庭先に入って止まりました。元農家らしく広い納屋と土間をもつ家は静まり返り、ただセミの音と遠くから降ってくるトンビの鳴き声ががらんどうの空気をゆすっていました。
玄関の引き戸を開けるときゅるきゅるといういかにも油の足りない音とともに戸が動きました。僕が玄関からばあちゃんを呼ぶと、居間の方から着物姿のばあちゃんがゆっくりと歩いて出てきました。
「やあ誠司ちゃん、大きくなったね」
ばあちゃんは見たところ前に会ったときと変わっていないようでした。前に会ってから一年半しか経っていないのだから当然といえば当然でしたが、僕には前回ここに来たのがもう三年も四年も前のような気がしていました。
「お邪魔します」僕の後ろで雄ちゃんのお父さんを先頭にしてその息子と雇われバイトの中年男が揃って頭を下げます。
「まあそんなところに立ってないで、上がりなさい」
僕たちは居間に上がり、そこで居心地の悪い時間をしばらく過ごしました。ばあちゃんと話すことは特にないし、かといってばあちゃんはそこに座ってニコニコしているし、松丸さんはたまに意味不明の言葉を呟いてるし、雄ちゃんもいつになく寡黙でした。頼みの綱は雄ちゃんのお父さんでしたが、最初は会話を繋げようと盛んに話題を振っていた雄ちゃんのお父さんも、そのうち全員の間を取りもつのに疲れてしまったらしく、次第に言葉少なになって縁側から外の景色を眺めているだけの時間が多くなりました。
「そこの谷川に遊びに行こうか」僕は停滞した空気を破るべく思い切って提案しました。これにはばあちゃんを含めて全員が賛同しました。ばあちゃんはお腹が空いたら食べなさいと干しいもの袋を持たせてくれました。
歩いて谷川に下りるとひんやりした空気が流れていて、初めてここに来てよかったと感じました。僕と雄ちゃんは何度も渓流に落ちそうになりながら遊びました。そこらに落ちている木の枝のなかからそれっぽい形のものを拾い出し、銃器に見立てて互いに岩の陰から撃ち合う「DINGO BLUEごっこ」をやったり、あり合わせのもので魚を獲るわなを作って仕掛けたり、しまいには持ち上げられそうないちばん大きい石を探してそれを渓流に投げ込んだりして遊びました。最初は石で流れをせき止めて川の形を変えてやろうとか言っていたんですが、汗をかきながら大きな石を次から次に投入してもいっこうに水はせき止められないばかりか石は放り込む端から流れに吸い込まれるようで、まったくの徒労に感じられました。僕たちはまったく歯が立たないのを覚ってもしばらく空しい努力を続けていましたが、僕が大きめの石を持ち上げざまに取り落としもうちょっとで足の甲を直撃しそうになったのを機にやめてしまいました。
雄ちゃんのお父さんと松丸さんはその間ずっと岩の上に並んで座り、しじゅう何か話をしていました。普段から店でずっと一緒に仕事しているのによくそれだけ話すことがあるもんだな、と僕は思いました。大人は本当に話し好きなんですね。話しながら、時々思い出したように松丸さんは岩の上から僕たちに声をかけました。その内容はやれこの辺りの川の水はきれいすぎて魚は住めないだの僕は岩を見れば地層がわかる、ここら一帯は海底が隆起してできただとか相変わらず意味が分からなかったので、僕たちは生返事をしてそれをやり過ごしました。
僕と雄ちゃんが沢遊びに飽きて疲れてきた頃合いで大人たちはちょうど話をやめました。これから一度ばあちゃんちへ戻って休憩し、鵜飼い見学に行く段取りでした。僕のお父さんはばあちゃんちで昼飯でもご馳走になってこいと言っていましたが、さすがにそれは図々しいと、雄ちゃんのお父さんは知り合いの仕出し屋に頼んで弁当やら飲み物やらおやつやらを用意してきていました。鵜飼い会場の近くにキャンプ場なんかがある広い河原があって、そこで昼飯にしようと決めていたんです。
ばあちゃんちに戻り、汚れた手や足を洗ってからばあちゃんの作ったおはぎを食べました。ばあちゃんが納屋にある道具を処分するにあたり、明日引き取り手の人が見にくるのだが、せめて表に道具を出しておきたいので手伝ってくれないかとばあちゃんが言うので、大人たちは納屋のほうに行ってしまいました。居間に残った僕と雄ちゃんはしばらく無言でおはぎを口に運んでいました。雄ちゃんとまともに二人きりになったのは雄ちゃんが仮病で休んでプリントを届けに行った日以来でしたから、なんとなく気まずい空気がおはぎの皿を乗せたちゃぶ台の上に漂っていました。ちゃぶ台を挟んでそれぞれ座布団の上に座った僕たちは、空気が動く気配を見せる度にその動きを打ち消そうと身体を前後させたり、斜めに倒したり、天井を仰いだりしました。
「北見、僕はやっぱり決めたよ」
最初に口を開いたのは雄ちゃんでした。
「留学の話?」
「いや」
「そうか、アメリカに行くのはこないだもう決めたって言ってたもんな」
じゃ何を決めたのか、という疑問は不思議と浮かびませんでした。僕は勝手に、雄ちゃんの話はもう終わったのだと決めつけていました。でも雄ちゃんは改めて呼吸を整え、最後に大きく息を吸ってから言いました。
「違うんだ、僕が言うのは浅田のことなんだよ」
僕は思わず咀嚼中のおはぎを噴き出すか、喉に詰まらせるかしそうになりました。まったく予想外の場所から予想外の名前を聞いて頭の中が真っ白になったんです。
「浅田? 浅田ってなんのことだ?」
僕は我ながらもっとまともな質問ができないものかと思いました。でもそれが僕の精いっぱいであった。浅田の名前が雄ちゃんの口から唐突に飛び出せば、それだけでもうパニックにならざるを得ません。
「浅田梨沙のことだよ。知ってるだろ、僕は浅田が好きなんだ」
これ以上ないくらい明白な言葉が、まるで意味を成さないもののように頭のまわりをくるくると回って止まりません。もう、一度、言ってみろ。と絞り出す反問さえ、僕の口から音になって発せられることはありません。
「アメリカに行くなら、浅田のことは諦めなきゃいけない。それで僕は迷ってたんだ」
つまりはそういうことだった。雄ちゃんが苦悩のあまり仮病まで使って学校を休んだのはアメリカに行くかどうかなんて簡単な問題に頭を悩ませてのことではありませんでした。今になって思えば、雄ちゃんの意思が留学に固まっていたのは間違いありません。そんなこと、雄ちゃんのことを誰よりもよく知悉する僕ならわかっていて然るべきでした。なのに雄ちゃんが何を苦慮していたのか僕は考えもしませんでした。おちんちんがきゅーっとなりました。
「それで?」
僕はむろんただ一つの回答を期待していました。留学は譲れないから浅田のことは諦める、と今ここで宣言してくれさえすればよかったんです。それで万事丸く収まるはずですから。雄ちゃんが慎重に言葉を選んでいるその永遠と思われるような時間が過ぎるのを待つ間、僕は自分が座っている座布団の角から生えている房をむしり取っている自分の手に気づきませんでした。
両方諦めない、留学はするし、浅田とも付き合う、と雄ちゃんが一つ一つ厳選した言い回しで語るのを、聞き終えて僕ははじめて自分の手の中にある糸の束を認識しました。間抜けなことに、僕はその繊維の束がどこから発生したのか、気がつくまでしばらくかかりました。
マジかよ、と独り言を脳内で呟くことができるようになるまではさらに時間を要しました。さっきまで夏の午どきの強い日を受けてまっしろに明るかったばあちゃんちの居間が、急に陰ってひんやりした石の塊だけでできた玄室のように見えてきます。おはぎを食べていて甘かったはずの口の中も、錆を溶かした水を含んだように苦くざらざらしていました。
こんな時こそ完全武装の襲撃者たちにこの場をめちゃくちゃにしてもらいたかった。山間部だからヘリでアプローチです。二機の輸送ヘリに分乗した部隊がやってきます。土埃と枯葉を巻き上げて低空をホバリングするヘリから幾条ものロープが垂らされます。襲撃者たちはロープを伝って地上へ降りてきます。着地した者からすぐにばあちゃんちの周囲へ散開して身を隠します。ばあちゃんちは要塞です。いかに民家とはいえかつては農家の母屋だった建造物だから、それなりにしっかりした造りで十分な広さがあります。どうやら襲撃者は三班に分かれて突入してくるらしい。最初の班は厠のある裏手から、次のは主を失った鶏小屋に隠れながらお勝手に回りこみました。最後の班は後背の崖から屋根に上り、縁側へ上から攻めてきます。
いつもの妄想と勝手が違うのは、守るべき浅田がそこにはいないことでした。僕は必死に畳の上を這って土間に下り、隙を見はからって納屋へとダッシュしました。背後でカービンライフルの炸裂する音が何十奏にもなって響いてきます。雄ちゃんはどうなったろう。恐らく助かるまい、と僕は納屋の耕耘機に身を隠しながら考えました。いまごろ居間は銃弾の雨嵐ですから。
しばらく物陰に息をひそめて隠れていたら、銃撃の音が止みました。僕は慎重に辺りを窺いながら納屋を出ました。周囲に人影のないことを確認してから母屋の方に向かいかけた刹那、
──パアン
乾いた音とともに僕の脚が止まりました。軽く衝撃を受けた胸元に右手を遣り、その指の腹についた液体をまじまじと見ます。続いて音のした方向に目を向けると、母屋の脇に生えているコノテガシワの立木の陰からゴーグル越しにこっちを見ている双眸と対峙しました。構えられたカービンの銃口からひとすじの薄い煙がたなびいています。
白昼夢で僕が致命傷を受けたのは初めてのことでした。僕はひどくゆっくりと、その場に倒れました。
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