スケッチブック

麦倉尚

小説

33,181文字

長めなので、時間があるときに読んでください。内容があまりないので、読まなくてもいいかもしれません。

 

 舌を強く噛んでしまい口の中に血の味がする。成島は洗面所へ移動して、舌を出し眺めると、表面に傷ができている。予想よりも浅い。見た目よりも痛みは鋭い。その様子を見ていた熊畑が、

「自分にあっかんべーしてんの?」

 と成島を冷やかした。

「それとも、鏡に写ってるのが自分って気付かなくて煽った?」

 冗談とわかっていても成島は熊畑に苛立ってしまう。成島は熊畑がいつか自分で失敗に気づいて、成長してくれると期待し、何も言わないを貫いてきたが、知り合ってしばらく経つのに変わらない。成島は疲れていた。しかし注意し熊畑を怒らせて、せっかく捕まえた女を逃がしてしまうのも惜しい。成島は舌に水を流した。鋭く舌が痛む。

 仕事帰りの熊畑は、洗面所から成島を押し出し、顔を洗い始めた。成島は相手を子供と決め込み、パソコンの前に移動し座り、作業に取り組むが、全く進まない。夜勤終わりの熊畑は機嫌が悪い。そういうときに限って突っ掛かってくる。成島は背中を丸めた。

 化粧を落とし、服を着替えた熊畑が、

「今から寝るから静かにしてね」

 と成島に伝えたが、成島は返事をしないでいると、

「机が汚い」

 と文句を付けた。いつからかスケッチブックが机の上に置いてあるが、成島は熊原はのものを勝手に触らない。成島はまだ返事をせず画面に向き合う。熊畑は布巾を持ってきて机の掃除を始めた。

「いつから掃除してないのよ」

 熊畑は茶色く変色した人参の一片を、埃を被った湿気とりの容器の影から持ち上げて、パソコンのキーボードの上に置いた。成島は指を口にいれ、舌の傷を触ってみた。凹んでいるかと予想したが、指先では凹みを確認できない。ただ痛いのみだ。

「何よ、気色の悪い」

 仕事が進まない。寝ろ。

 熊畑がリビングから出た。やる気が削げた成島は、寝転んでフローリングに指を這わせた。この生活から抜け出すにはどうすればいいのだろう。目の前に固くなった米粒がある。成島はそれをつまんだが、ゴミ箱が遠いのでもとの場所に戻した。指先をシャツに擦り付けた。身体を起こすとキーボードの上に、人参のごみが落ちている。成島はまた寝転んだ。

 明日はアルバイトだから、今眠ると良くない、成島は起き上がり、台所へ行き鍋に水を入れ、火をかけて沸騰したらパスタを投入した。のち、塩を入れ忘れていたと気付いたが、茹で上がってから入れればいいと彼はそのままにした。パスタの隙間からあぶくが現れては消える。成島は舌を上顎にこすり傷の具合を確かめた。痛みはほとんどない。彼は菜箸を取り出しパスタをかき混ぜた。

 一本だけ箸先で掬い、冷まして口に含んだら舌の傷が痛んだ。成島はパスタを盛り塩をかけ、舌の傷に当たらないように台所で立って食べた。

「パスタソースぐらいかけなさいよ」

 と熊畑がそのさまを見ながら言う。熊畑の顔にはくまが目立つ。成島は

「面倒だからいいんだよ」

 と返事をした。うるさいから目が覚めたのよ、もお、モー。熊畑は水を飲みまた寝室に消えた。成島は熊畑に仕事の内容を教えてもらっていないが、大体の予想はついている。彼女の苦労は顔に滲み出ている。成島はパスタを吸い込むと器を水に浸け、またパソコンの前に座った。人参のゴミを捨て画面に向き合うがやはり仕事が進まない。

 成島は寝室を覗き熊畑の寝顔を見た。出会った頃は名前で呼び合っていたが、最近は互いに苗字を使い話しかけている。熊畑が寝返りをうち、布団から足が出た。子供の足みたいだと成島は思った。

 

 

 朝になり成島は目覚めた。早朝だが朝日が上って辺りは明るく、彼はカーテンを開けて自らを日に曝し、外の様子を眺めた。雲が無く青空だ。爽やかな。

 成島は朝の支度を済ませ玄関に向かう。熊畑の靴が見当たらない。二日連続夜勤となれば疲れるだろう、熊畑の苦労に胸が痛くなった成島は、自らの生活態度を思い返して後悔した。外に出て駅まで歩くとその後ろ暗い念は消えていて、肉体労働への倦怠のみが彼の心にある。改札にスイカを当て駅構内へ入り、時刻表を見ると次の電車まで時間がある。今日は土曜日で電車が少ない。彼はベンチに座り電車を待ち、潮のにおいがしていることに気が付いた。

 成島と熊畑はここへ越してきて三ヶ月になるが、まだ二人で海まで出掛けたことがなかった。いつか行こうと口約束はしたものの、すれちがいが続いている。電車が着たので成島は立ち上がり列に並んだ。前の人は作業着を着ている、金色の髪をした若者だった。今日、古賀はいるだろうか。

 電車に揺られ着いた倉庫の更衣室で、成島は服を着替え、今日居る面子をホワイトボードで確認した。古賀はいない。

「最近、古賀を見ないがどうかしたのか?」

 と成島は竹田に問うと

「さあ、別にいいところみつけたんじゃないの」

 スマートフォンを見ながら答えた。いつ見ても汚いひげ面の男だ、成島は中年にも関わらず、こんな仕事をしている竹田を下劣に思ったが、この感情はいつか自分を痛め付けるかもしれないと予想し、今日は自宅で根を詰めて編集作業に取り掛かると決めた。ついでに熊畑へ何か買って帰ろうとも決めた。待機室は冷房が効きすぎている。

 外に出ると暑い。朝九時でも汗が出る。ストレッチを済ませ倉庫に入り配置に付き、男達は作業に没頭した。ラジオ音声が流されているが誰も聞いていない。成島は熊畑のことを思い浮かべ、段ボール箱に向き合っている。今日を乗り越えれば八千円が手に入る。家賃が四万五千円なので、俺は月のうち六日この仕事をすれば家には住める。汗が段ボール落ちたので彼は手で拭ったが、跡がついてしまった。捨てようか、報告しようか。成島はそれをラインへ渡した。

 倉庫の天井が高いのは夏、冷房を使わなくても作業員に冷気が渡りやすくするためだ、と古賀に聞いたことがある。古賀は自分のことをあまり話さない、素性を明かさない男だった。話していて面白く、ただものではないと成島は感じていたが、もう会えないと思うと悲しい。汗が頬を伝ったので成島はタオルを顎に当てた。降りてきた汗の玉はタオルに吸い込まれた。十分休憩のベルが鳴り、成島はトイレへ行き顔を洗い持ち場に戻ると竹田がいた。

「お前、汗落とした段ボール流しただろ?」

 竹田の坊主頭はしっとりと水分が着いている。

「すいません」

 成島は竹田に残りの休憩時間を奪われてしまった。竹田の鋭い声は注目を集めた。誰の視線も声の主ではなく成島を見ている。この仕事は八千円の割りに合うのだろうかと成島は訝った。

 午後の仕事を終え誰もが疲れきっている。休憩室では何も話されず一心不乱に着替え、職場を後にする。この生活から抜け出すにはどうすればいいのだろう。成島はいつも休憩室で自分にそう問いかけている。

 電車を待つ途中、舌の傷の癒えに気付いた。彼は嬉しくなったと同時に自分の小ささも自覚した。口の中の傷なんて早く癒えて妥当だろうがよと自分をなじった。電車が来た。風と共に来た。

 成島は最寄り駅につくと、熊畑に何を買って帰るか考えた。彼はスーパーへ寄り、熊畑が好き好んで食べていた柏餅をかごに入れた後、栄養ドリンク剤を探しレジへ向かった。

 成島は帰路で熊畑の笑顔を想像した。月が照っている。なんだかいい夜だ。

 扉を開けると、熊畑の靴が転がっていたので成島は並べて直した。リビングに入るとマックを開いている熊畑に柏餅を渡した。

「なにこれ?」

「柏餅だよ」

「そう」

 熊畑はYouTubeを見ている。若い男性が川を渡ろうと、がらくたでいかだを作っている。「それ面白い?」

「まあうん、何よ見てるからあっち行って」

「柏餅食べないの?」

「今はいい、後で」

「なんで、食べたらいいのに」

「さっきご飯食べたから」

「何食べたの?」

 明るい髪色をした若い男が、いかだと共に川に沈んでいく。作り直しのテロップが出て、またがらくたを組むシーンが写る。熊畑はマックを閉じた。

「うるさい、疲れてるんだから、あんたいつまで子供なのよ」

 寝室に去った。成島は自分のパソコンを開け、栄養ドリンクをビニール袋から出し机に置き、自分の夕食が無いと気付いた。成島は空腹を感じていなかった。子供はどっちだよ。作業に取り掛かろうとしたすがイライラして仕事が進まない。成島はシャワーを浴びると空腹を覚え、パスタを食べようと鍋に水を汲み、火にかけたが身体に疲れを感じた。パソコンの前に座ると柏餅がある。プラの箱を開け柏の葉を捨て、成島は白い餅を口に運んだ。もうひとつも同じように食べた。夜は深まっていて室内は静まり返っている。成島はパソコンを開け、YouTubeにアクセスし、熊畑が見ていた動画を思い返し、当たりそうなキーワードで検索したが、ヒットしたのは丁寧にいかだを作る、年取った自称冒険家の動画だった。子供はお前だろ。

 

 揺さぶられて目が覚めた成島の視界には熊畑の顔が入っている。

「ねえ、仕事行くね」

 いつもは何も言わずに出るのに、何故今日は声を掛けた。成島は玄関で靴を履く熊畑の後姿を見て、いつの間に太ったと彼女の背中に投げた。熊畑は成島の視線に気付いたのか振り返り、成島と目を合わせ、何も言わず外へ出た。朝の七時だった。成島は背中を伸ばし、机に置かれた栄養ドリンク剤を飲んだが、何も効果がある気がしない。台所に立つと昨日、鍋に汲んだの水がある。火は消したか、消していなかった気がする。しかし今消えている。成島は寝室を覗いた。布団が畳まれている。

 成島は靴を履いた。成島の靴が一帯から無くなると、玄関にあるのは熊畑のクロックスのみになった。野外に出た成島は突然、身体に熱くなるものを感じ、歩みを速めた。黄色い栄養ドリンクは彼の腹の中で燃料になり、体と心を盛り上げている。焦らせている。動画編集を進めなければいけないが、彼は海の方向へ足を進めている。途中でコンビニに寄りガムを買った。食べるつもりが無かったホットスナックも注文してしまった。夏の朝は白い気がする。成島は歩きながら視線を上げ、海の上に浮かぶ雲を見て、ジャンプすればそこに着けると感じ跳ねてみた。着地時に足の裏に痛烈な痛みが出た。舌の傷はもう完全に癒えている。このアスファルトに膝や肘を擦れば外側の皮がめくれるだけなく、中の肉にも地面の凸の部分が食い込むだろう。彼は大股で歩き、汗だくになり、海岸沿いの道路に着くころには息が上がり、汗が顎から垂れている。地面に汗の跡ができた。ぽつぽつと。持参の椅子に座り、釣りをしている男性が遠くを見ている。成島は釣り人の視線の先を見た。水平線は真っすぐに横に伸びている。空の青と海の青は違う。外国の人は今何をしているのだろう。朝起きて仕事をして、帰ってくると家族とあたたかい時間を過ごす。成島は今の生活を抜け出す方法を思いついた。広大な海は俺たちを助けてくれる。成島は柵に肘を着きホットスナックを食べた。海面には波が無い。油の味が口内を満たすと、成島はガムを口に含み噛んだ。ミントが彼の嗅覚を狂わせ、潮のにおいが鼻の奥を痛めたが脂のぬめりは彼の口から消えた。

 身体が重くなり、成島は来た道をたどり始めた。栄養ドリンクの効き目が切れた。彼の身体から排出される汗は、シャツに沁み込み染みを作っている。成島は自宅に着くと玄関に頭から滑り込み、そのまま沈黙した。

 

 3

 

 成島と熊畑は海に近い家から離れ、高いビルが立つ都会へ来ていた。

「昨日どうしてたの?玄関で寝てて」

「いや、特には」

 熊畑のシャツはくたびれている。夕方、二人は夕食を食べ店を探している。

「昼寝しすぎじゃないの、顔むくんでるよ」

 熊畑は昼間の勤務を済ませた後、廊下で寝ている成島を起こした。人の間を通り過ぎ商業ビルを目指す。

「こんなのあったっけ?」

 熊畑が見ている先にオブジェがある。

「わからない」

 二人は目的のビルに着くと階段を降り、空いている店を探したが、どこも混みあっている。

「しんどい、どうしよう、決めて」

 熊畑が成島の背中のシャツを掴んでいる。成島は進み、右手にある黄色い看板に目が付いたので、そこへ入ろうとすると、

「カレーは嫌だ、気分じゃない」

 と熊畑はショウウィンドウの食品サンプルを見ながら言う。ガラスには指紋が付いており汚い。きたない。キタナイ。そもそもこの地下街自体が汚らしく、天井の隅や電灯には蜘蛛の巣が張っているし、地面はところどころぬるぬるする。文句言うならお前が決めろと成島は言わず、進みうどん屋を見つけその前に着くと、

「うどんってないでしょ、馬鹿」

 熊畑のくまは前よりも濃くなっていように見えた。成島は進んだ。消火器が埃をまとっている。

「早く決めないよ怒るよ」

 成島は、あの家を出るなら実家に帰ろうか、と考え始めていた。成島は京都の舞鶴出身で、よく海を臨んだ。海辺の道を歩くだけで彼の心は晴れ渡るので、都市に来てからもどうしても海の近くに住みたく、今の賃貸を選んだ。

「あ、あれがいい」

 長浜はオムライスの店を見つけ、近寄り食品サンプルを見た。

「人少ない、ここにしよう」

「いいよ」

 成島は子供を連れてその店に入った。

 成島は熊畑をソファー席に座らせた。成島は椅子に座った。変な高さで座りにくい。あーつかれた。あーつかれたぁ。熊畑は小さく呟きながらメニューを見た。

「オムライスがいい」

 成島は一通り見て、

「俺もオムライスにする」

 と言い店員を呼び注文をした。二人は会話なく食事をした。

 実家に戻るとして、俺はまた漁師の仕事が出来るのか。倉庫・引っ越しの仕事で腰や膝が悪くなってしまい、魚や貝の入った網を上げるのは難しいと思われ、そうなれば別の仕事を探さなければならない。思いついたのは実家近くのコンビニの店員だが、そうなればアルバイト勤務になるだろう。他には工場がある。そうなれば漁師の方が、そもそも父親は若手をひとり使っているらしく、俺の出る幕はあるのだろうか。ああ。アー。中のチキンライスが冷えていて鶏肉が硬く、奥歯の隙間に挟まった。成島はそこを舌で舐めたが取れない。水を飲んで成島は冷たさに驚いた。小さい氷がガラスの容器の中でひしめき合っている。

「ねえ、食べるの遅いけど何考えてるの?」

 熊畑は食べ終わっている。

「遅い遅い遅い」

 成島は気にせず自分のペースでオムライスを食べた。会計を済ませてまた地下道へ出た。

 熊畑は成島の前を進んでいる。この子は俺に見放されたらひとりで生きていけるのだろうか。熊畑も俺と同じく漁師の家庭で育った。知り合った時から気が合い、こうして同棲まで至った。熊畑が階段を上がり地下街を出ていく。成島も続いた。

「何これ?見たことある?」

 花壇が改装され水場が出来ている。覗き込むと中には水草があり、ちいさい魚が泳いでいる。

「ビオトープかな」

 熊畑が一本の指を水に浸けると魚が驚いて泳ぎ回る。朱くなった日が照る。成島の首の裏を焼いている。熊畑のいる位置には日は当たらない。熊畑は水の中を視線で探し回っている。魚が見たいのか、魚が好きなのか。

「今度、海見に行こうよ」

 熊畑は水の中を見つめたまま、

「いいよ、時間あるときに」

 熊畑は手のひらを水に向けて開き、目線では魚を探している。こんなやつだったかこいつは。手のひらが動いて水面に近づく、成島はその手を掴んだ。

「行こう、居酒屋でも行くか?」

 熊畑は背を伸ばして立った。二人は見つめ合っている。

「何故?行く意味が分からない」

 

 自宅に帰った二人は同じ部屋にいる。成島は動画編集を始め、熊畑はテレビを見ながらスマートフォンを触っている。

「パソコンばっかり面白いの?」

 熊畑は高校を出た後、都市の専門学校に入学したが、一年で辞めたと成島は聞いていた。

「面白くはない」

「私そういうソフトとか触らないから分からない」

 会話が途切れ成島は画面を見つめた。あのビオトープの生物はあの範囲から出られないが、俺はここからすぐにどこにでも行ける。作業に興が乗る。成島は胡坐を崩して右足を放り出した。眠気が疲れになり彼を苦しめるが、この流れを逃すまいと成島は躍起になり作業を進める。

「楽しいの?」

 熊畑が成島の横に座る。

「どんな感じ?」

 成島は怒ろうかと思った。しかし何も言わないで作業をしていると、

「違うよ、こう」

 熊畑はマウスを握り作業を妨害した。成島はパソコンを閉じて立ち上がり、家から出た。熊畑は追って来ない。

 道を歩いていると海に足が向かう。なんか疲れた。成島は素足に靴を履いており、膝が痛みを感じている。汗の沁み込んだシャツが自分でも不快だ。自分とは何だろう。疲れが彼の頭を占めていてため息が出る。

 成島は海沿いの道を歩き、フェンスをつたい行き止まりまで来た。テトラポッドがある。鼓膜をこするような波の音がする。服を脱げば気持ちいいだろう。潮の香りが濃い。成島は上着を抜いだ。海側から吹く風が彼を揺らした。彼はその風が南国から来たと考えた。自分の全く知らない土地で生まれた風は、海の長い旅を終え俺に覆いかぶさる。成島は靴を脱ぎ捨て、フェンスを登り海に飛び込んだ。彼はもがいて顔を海面に出し、手をゆっくり動かして身体を安定させ、水平線の方向を眺めるとどこまでも続く海が恐ろしくなり、彼の身体の体温は急激に下がった。成島はフェンスの下部を持ち、腕の力で身体を持ち上げ、元の場所に戻った。服を着て家に帰ると熊畑は眠っているようで扉が開かない。成島はその前で座り、いつのまにか眠りに落ちた。

 

 4

 

 新聞配達員が隣の部屋のドアポストへ冊子をほおり込んだ音が成島を起こした。明るくなった空が彼の頭を起こすが、身体はまだ疲れていて、首回りに海の粘り気が残っている。

「何してんの、あんた」

 半開きのドアから熊畑が成島の顔を見下ろしている。

「海行ったの?」

 熊畑は成島の頭に塩を見つけて、手を伸ばし取り、足元に捨てた。

 熊畑は手を成島に差し伸べている。成島は掴んで立ち上がり、室内へ入り、入浴して海の塩を落とした。浴室を出て携帯電話を確認すると、着信が複数来ているので折り返した。倉庫の管理職、川本からの連絡で、どうしても人が足りないから今から来れないか?と言う。今は朝の七時だ。濁った色の雲が空には広がっている。

「いいですよ」

「助かった、来る時間は遅くてもいいから、じゃあ頼むわ」

 成島は支度を始めた。いってらっしゃいと熊畑は成島を見て言う、成島はうんとだけ応えると、熊畑はマックを見た。熊畑の顔はつやつやしていて、くまは消えていた。仕事は?と心の中で熊畑に問いかけて、成島は出立した。

 成島は電車で座れなかった。疲労が濃くなり眠気がある。職場の最寄り駅に着くと、照りつける日差しが成島を苦しめ、倉庫に着くと彼は汗だくになっていた。川本が成島を見つけ近寄り、

「今日はすまんな」

 と声を掛けた後、一歩後ずさり彼のようすを眺め、

「あんまり、無理しなくていいからな」

 と労わった。更衣室でシャツを脱ぎそれを眺めると、汗の量に驚いた。成島は作業着に着替えた後、そのシャツを持ちトイレに向かい、汗を絞り水で流した。疲労が腕に流れ込んだ。

 作業場に出ると川本が朝礼を済ませた後、成島に、

「今日は磯田のところに入ってくれ」

 と肩を叩いた。磯田は前科のある大男で、一番きついと評される作業を担当している。その配置は追い出しとも取れたが、磯部には世間へ対する憎悪があるらしく、絶対にここで長く居座る、もし致命的な嫌がらせを感じたら訴える等、底意地の感じられる妄言を古賀に話していたらしい。成島はそれを古賀から聞いていた。その位置に俺がはいるのか。成島は疲れ、睡眠不足、多量の汗、それに加えハードな仕事を八時間、おそらく残業になるため九時間は覚悟した方がいい、朝礼のようすでは今日はそもそも人が足りていない。成島はタオルで汗を拭いた。

 チャイムが鳴り荷物が流れ始め、成島は段ボールを積み上げていく。その山が高くなるほど成島への負担が増える。肩の高さ以上に荷物が重なった。腰の辺りにあるレーンの段ボールを持つ時点で、腰への負担を感じているが、腕、肘、膝をバランスよく使い、段ボールの下方から押し上げ、顔の前に持ってくればひと段落で、箱の表面に傷がつかないように山の上にそれを載せる。腰をかばううちに膝が痛くなり、膝を使わないようにすれば腕が疲れ、彼の全身に疲労がたまる。午前の短い休憩のころには彼は既に疲れ切っていた。成島が作業場で座り込むと、川本が成島に寄りスポーツドリンクを手渡し、

「大丈夫か、俺と変わるか?」

 川本は年のせいもあり楽な作業を担当していた。天の助けかと思ったが竹田がその場に来て、

「成島、まだ出来るだろ」

 と顎ばかり成島に見せながら話す。成島は川本に、

「まだできますよ」

 と言うと川本が、

「そうか、頼む」

 と呟いた。二人は去った。成島はもう一口スポーツドリンクを飲んだ。チャイムが鳴り作業が再開した。成島は昼休みまでの作業を乗り越えたが、上の作業着が汗でびとびとになっていて、腰に重い痛みがある。

 成島に話しかけるのは竹田だ。

「なあ、この前俺がなんて注意したか覚えてるか?」

 ひとつの段ボールを抱えた竹田が、上部の面を成島に見せる。

「これ、お前だよな」

 差し出されている面には汗の落ちた後がある。

「だめだって言ったのに、なんで同じこと繰り返すんだよ」

 成島は汗が落ちないように、首に巻いたタオルで頻繁に顔を拭いていた。成島自身は落としていないと認知しているし、この暑い中では倉庫の誰でもが汗をかくので、成島が落としたとは限らない。長いレーンは複数人で担当されている。成島は竹田の汚らしく髭の生えた顔面や、彼の家庭環境や食べたもの、着ている服を憎く思った。

「次汗落としたら、磯田さんの代わりにずっとここの作業してもらうことになるかもな」

 竹田の髭はところどころ白髪になっていた。昼食を外へ食べに行こうかと成島が準備をしていると、川本が成島に、

「疲れてるなら今日は帰ってもいいぞ、十分助かったから」

 小声でそう勧めたが、成島はいらぬ同情を感じて、

「まだできますから」

 と差し伸べられた手をはねのけてしまった。ファストフード店で昼食を取りながら、疲れ・眠気を強く感じ、川本の誘いを断って後悔した。倉庫に戻り午後の仕事が始まると、開始十分も経たないうちに成島はへたばってしまい、川本に、

「もう帰りなさい」

 と命令を受け帰宅した。竹田は、

「やっぱあいつ、古賀がいないと何もできない」

 と吹聴して周った。

 家に着くと熊畑がソファーで眠っている。成島はそばに立って熊畑の顔を見下ろした。やはり顔に生気が戻っているし、ほとんどの時間、家でYouTubeを見ている。机の上にある熊畑のマックを開くと、

「ちょっと」

 と制された。

「どうせログインパスワードわかんないでしょ、意味のないことしないで」

 ユーザー名 Kumabara shizu 熊畑しず、熊畑志津。成島は熊畑と知り合ったばかりの頃、初めて下の名前で呼んだのは動物園へ行った時だと思い出していた。熊畑のマックの背景は、その時成島が撮った、珍しい虎の画像だった。

 ねえーと熊畑が成島のベルトに手を掛けた。ベルトまで汗を吸い込んでいるので、熊畑は手に湿りを確認した。

「今日頑張ったんだね」

 と熊畑が成島にねぎらいの言葉をかける。室内にはエアコンが効いており、心地よい気温が保たれている。ベランダに面したガラス戸から日光が照っている。熊畑が腕に力を籠め、成島のズボンをずらした。疲れてんだよ俺、今日は特に。成島はズボンを引き上げ、顔を熊畑の顔に近づけて見合った。

「仕事辞めた?」

 熊畑は頭をうんと動かした。成島は「おつかれさま」と言うと熊畑が泣き出したので、ソファーの上で向き合い熊畑の身体を抱き寄せた。いつも小柄な女を抱きしめる時、子供の頃に家族で行った遊園地を思い出す。ヒーローのイベントを見ていると客いじりが始まり、三列目にいた小学生の俺を司会の女性は指名し、ステージに来るよう促した。俺は嫌がったが家族が面白がるので、俺はヒーロー達に並び、好きな食べ物はなんですかと問われる。なんと答えたか忘れたが、紆余曲折あり俺は司会の女性に抱きしめられた。俺はその時背中に周った手を覚えている。あかんぼう程の手の大きさに思えた。俺は熊畑の両方の手を俺の両方の手で持ち、背中に持ってきた。熊畑は泣き止んで俺の目を覗く。「何してるの?」成島が熊畑の手をふたりの間に移動させ眺めていると、熊畑は手のひらを引っ込め、ソファーの上に立ち、しゃがみ臀部を俺のふとももに乗せた。熊畑は成島に抱き付いて、顔面を俺の心臓に当てるように擦り付ける。熊畑は俺の勃起に気付いたようでこう言う。

「今日の朝から生理になった」

 何故さっきズボンを脱がそうとした。エアコンが急に音を立て始めた。ふたりは音の方を向いた。「壊れたら大家さんすぐ替えてくれるかな?」熊畑はひとりごとのようにつぶやいた。「たぶん、すぐ替えてくれるよ」エアコンが停止した。成島は勃起したまま熊畑を腿の上からどけ、立ち上がりエアコンの下に立って緊急運転ボタンを押してみたが動かない。そのまま色々触ったがやはり稼働しないので「やっぱ、もうだめかもしれない」と熊畑に伝えると、

「あんた、何もできないのね」

 そう言って彼女は寝室に移動した。成島は勃起した陰茎を触りながらソファーに寝転び、そのまま抜いて眠った。

 

5

 

 悪質な業者が確認されているので気を付けてください。編集した動画ファイルを雇い主に送ったものの返事がなく、電話しようか迷っている時にその注意喚起のメールが仲介サイトから送られて来た。成島は立ち上がり、身体を伸ばすとそこらじゅうが痛む。前科者の力強さを思い知らされた。冷蔵庫の前に移動し、扉を開け中を確認すると、あるのは熊畑が好んで飲んでいる炭酸飲料のみだった。冷蔵庫から放たれる光が成島の影を作っていて、寝室の扉の手前でそれは止っている。扉を閉じると影は消えた。成島は流し台へ向かい、蛇口から水をマグカップへ汲んで飲んだ。寝室では熊畑が寝息を立てている。

 動画編集がダメになれば、頼りは倉庫のみになるが、あの事件以降肩身が狭くなっており、成島は職を変えようかと画策していた。求人サイトを開き手頃そうなものを探したが、しっくりくるものはなかなか見つからない。また登録している派遣会社に電話してみようか、成島がスマートフォンを取り出し、画面を見ると電話がかかってきた。出ると動画編集依頼を受けている会社で、要約すれば入金遅れる、仲介サイトには何も言わないでくれ、という話だった。通話が切れた後、成島は仲介サイトに相談するか迷ったが、報告して仕事が完全に途切れるほうが困るので止めておいた。いずれにせよ明日の昼からは倉庫で仕事だ。成島はソファーで横になり眠った。

 

 朝になり成島は熊畑に起こされた。

「朝ごはん作ったから食べて」

 基本的に食事は別々だが、熊畑は気まぐれにこうして何か作る。机の上に散らかったものを下ろし、食事が盛られた食器をそこへ置いた。ふたりは会話なく朝食を済ませた。

「この前言ってた、海見に行くやつ、今日の午後からにしない?」

 午後から仕事なんだ。

「午後から仕事だから、今から昼までならいいよ」

 熊畑は嬉しそうな顔をした。成島は仕事の支度を済ませ、玄関で靴を履き熊畑を待った。熊畑は帽子を被って玄関に来た。「これ、昨日かった」二人は並んで海まであるいた。進んで、地面に落ちている、大きいピンクの花の首を見つけた。熊畑はそれを拾った。

「大きい」

 彼女はそれを持ったまま進み、海に着くとそれを水面に投げた。

「わたし、戻って漁師になろうかな」

 花の首が波に流れて去る。成島と熊畑は海沿いのコンクリートに座って水面を眺めたが、水の色が暗く奥が窺えない。波が立つと表面は白くなる。潮の香りがする。

「女だけど、体力には自信あるし、魚はみんなが食べるからある意味で、くいっぱぐれないかも」

 お腹空いたらわたしが魚食べればいいし、と付け足した。花の首が海水に飲まれた。あっちいこう、熊畑は成島の手を引いて海沿いの道路を歩いた。漁船が見えた。

「懐かしい」

 ふたりは立ち止まり、船のある一帯を見ていた。小さい波でも船は大きく動く。俺たちの気を引きたいのかもしれない、と成島はそのようすを見て考えていた。足元に海鳥が飛んできて、すぐに去って行った。海の方角ではなくその鳥は内陸へ飛んでいく。

「行こう」

 成島が熊畑の手を掴もうとすると熊畑は腕を引っ込めた。

「仕事、行ってらっしゃい」

 熊畑は道を戻り始めた。成島は駅の方向へ歩いた。

 

 成島が倉庫に着き休憩室へ入ると、磯田が着替えていた。磯田は右腕の一部を隠せるサポーターを付けている。使い込んでいるようで布の表面に毛玉が見える。視線に気づいた磯田が作業着を羽織り、

「この前はすまんかった」

 成島は目を合わせない。

「いや、いいですよ」

 成島は自分のロッカーの前に移動し扉を開いた。中には作業着がある。

「じゃあ」

 磯田はロッカールームから去った。成島が安堵したの束の間で、竹田が入ってきて、おはようございますと挨拶をした。成島はおはようございますと返し、急いで着替え、その部屋を去った。成島はどうせアルバイトだしいつでもやめられる割り切って、自分の持ち場に着いた。始業のベルが鳴る。

 熊畑は本気で地元に帰ろうとしているのだろうか、手を動かしながら浮かぶのは熊畑のことばかりだ。成島はタオルで顔の汗を拭いた。

 帰り、成島は竹田に挨拶をしたら、

「う」

 という短い音が返された。成島は竹田と目を合わさず、足元を見て話したので表情は分からなかった。

 帰りの電車で、

「う」

 と挨拶をするクソ男の気持ちを考えてみたが分からなかったし、竹田がどう考えていようが俺には関係ない、成島は家に着くころには竹田の挨拶など忘れてしまっていた。

 自宅の家の前に立ちポケットを漁るが、鍵が見つからない。リュックを足元に置きチャックを開いたが、頭に詰まったつかれのせいで探せなく、立ち上がってドアをノックした。足音が部屋から近寄り、ドア越しに、

「としき?」

 と聞こえた。熊畑に名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。扉が開かれたのでリュックを持ち上げ中に入ると、熊畑が俺の手から鞄を取り上げて、

「お疲れ様」

 と声を掛けた。上目遣いで俺の目を見ていた。

「お風呂沸いている」

 成島は入浴を済ませリビングに行くと、夕食が用意してある。魚の塩焼きだ。

「普段用意しなくてごめん」

 熊畑はソファーに座り、マックでyoutubeを見ている。俺は机に向かい床に座り食事をした。「何見てるの?」俺は熊畑に聞くとマックの画面を俺の方へ向けた。

「これ」

 いかだに乗った青年が河を進み、もうすぐ海だと叫んでいる。潮のかおりがした。海の近所だとこうして海風に室内に届くことがある。エアコンはしばらく直さなくてもいいだろう。開いている窓から近所の子供のはしゃぎ声が入ってくる。また子供に戻り、潮干狩りへ行き、水平線を眺めたい。

「今度、潮干狩りいかない?」

 熊畑は頷いた。成島は魚をていねいに箸でほぐし始めた。

「どう、上手く焼けてるでしょ」

「ほんとにそう」

 魚の白身は脂で淡く照り返っている。別にうまかないと思いながら、成島は食べ進めた。

 

6

 

 竹田は困ったやつで、ちょっとでも出来そうなやつ見つけると虐めるんだよ。川本と成島は喫煙所で向き合っている。

「あいつ、ここの社長の親戚らしいんだ。だから何も言えないんだよ」

 川本の頭は剥げている。頭の中心部が薄くなっている。年相応のはげだと成島は心中で思っていると川本が立ち上がり、灰皿にたばこを押し付けた。

「前も若い子と揉めてさ、その男の子急に来なくなっちゃた」

 まあ、何事も気にしないことだよ。川本は独り言のようにそう付け足して、喫煙所を去っていった。

 かいつまむと、会社側から何か対策してくれるという訳でないらしい。成島は灰皿を覗き込んだ。灰で覆い尽くされた水。成島は胸のうちに重さを感じていた。もうここはいいか。成島は結論を心臓に抱えてしまった。

 その日、倉庫勤務が終わり、帰りの電車に乗った。熊畑は今何をしているだろう。家でユーチューブを見ているだろう。ひとりでさみしいだろうか。足元を見ると使いふるされた靴に穴が開いてる。もう買い換えなければと、成島は右足の五本の指を動かした。

 最寄り駅のコンコースから出た成島は、帰ると熊畑がいると思うと、足が自宅に向かわない。彼は帰り道中にあるコンビニに寄り、だらだら店内を見回っている。一時、ふたりの関係は回復したように思えたが、積み重ねたお互いへの不満・不信が両人の心中にある。成島は店内のガラスに反射する自分を見ている。流れている音楽は何度かCMで聞いた、映画のBGMだ。最近映画館には行っていない。昔はよく熊畑とよく通った。

 彼は柏餅を買い店を出た。家に帰る途中、空を舞うこうもりがいた。

 自室のあるアパートに着いた成島は、ステンレスで出来た扉に耳をつけて中の音をうかがうも、何も聞こえない。ドアを開けて中に入った。成島は意味のない緊張に苦しみながら廊下を進んだ。

 リビングにやつは居ない。寝室にも居ない。ならどこだろうと成島は焦り、浴室へいくと熊畑が湯船に浸かり眠っていた。成島は起こさずに台所へ戻り、冷蔵庫に柏餅をしまって、パソコンを開き動画編集を始めた。

 しばらくして、成島は編集を中断し、動画サイトを閲覧していた。途中で広告が自動で再生された。ウェブなんとかかんとかに数ヵ月でなれる!成島はブラウザのバッテンをクリックして動画編集に戻った。腰が痛む。

「起こしてくれればいいのに」

 熊畑は身体にバスタオルを巻いている。成島は脛に生えた毛に一瞥をくれてしまった。

「最近は家にいるからムダ毛処理してないのよ」

 なぜかバスタオルを身体から離して全裸になり、俺の隣に座った。

「パソコンばかりして」

 髪の毛が濡れている。熊畑は長いあくびをしたあと、俺の腹側のシャツのしたに手を潜り込ませた。

「いいからだしてる」

 熊畑は俺の腹筋に指を沿わしている。俺の勃起に気が付き手を股間へ当てた。

 まず、熊畑は親指の腹を俺のうらすじに当てた。細かく動かしたのち、五本の指で陰茎をつかんだが、どうしても熊畑のムダ毛が気になってしまい、なかなか陰茎はかたくなりきってくれない。それを不満に思った熊原は手に力をこめてこする。痛い。

 体毛で萎えた成島の態度に苛立った熊畑は陰茎をこすり続けている。

「はやく勃起させてよ」

 無茶苦茶なことをと熊畑の子供っぽさに苛立つ。

 一方が苛立てばもう一方も苛立つ。頬を叩いてやろうかと成島が右手を上方に上げると、

「叩いてみなさいよ」

 熊畑は顔を強張らせている。

 この家には物が多い。熊畑はよくネットで買い物をしてものを増やしている。最近、エアロバイクを購入した。買ってしばらくは毎日うれしげに漕いでいたが、いつからかほとんど使われなくなり、今では寝室の隅でほこりをかぶっている。要らねーもんなら買うな。成島は一発頬を叩いた。

「痛いよ、痛くない」

 熊畑は下を向いてそうつぶやくと俺の陰茎を口に含み、舌でなめ始めたが勃起しない。

 成島は叩いた手のひらを見た。刻まれた線が気色悪かった。

 

 7

 

 来ているのは公園に隣接する池の前だ。年取った男たちが連なって釣っているのは鮒らしい。

「釣るの?」

「今日はいいかな」

 水面が黒い。水から魚が跳ねた。熊原はスケッチブックを持っている。写生でもするのだろうか。

「魚ってよく跳ねるよね」

 熊畑の言葉は風に流れてしまった。釣りをする男性たちは普段何をしているのだろう。仕事は何を。手前の肌が日に焼けている男性は農家だろうか、釣り竿を持つ手に浮き出た血管は日頃、身体を鍛えている者の手だと成島は予想した。あの手は竹田と同じものだ。

「この池なんか暗い」

 熊畑は遠く水面を見ている。

「水面、黒いもんね」

「違うよ、そういうことじゃないのよ」

 私分かるのよ。成島の声はだんだん小さくなっていった。熊畑が池の周り歩き進むので俺はそれに着いた。釣り人が少ない寂しい場所に差し掛かると熊畑は止まり、池の中心を眺めている。こうして見ると広いものだ。静かなものだ。日曜だというのに。熊畑が池のふちにしゃがんで水に手を浸けている。スケッチブックは足元に置かれた。

「冷たいよ」

 夏が過ぎ去るのか。熊畑は汗ひとつかいていなく清潔だ。俺は汗をかいている。そういえばちょっと前よりもかなり過ごしやすくなったと成島は右手で左腕を触った。

 成島は自分の生活を思っている。まず自分には熊畑がいる。わがままだのバカだの心中で文句をつけてはいるもののひとりではない、寂しくない。あちらも俺に不満はあるだろうがまあまあの合格点を付けていだろう。心残りなのは昨日のビンタだ。DVだのなんだの言われなければいいか。

「水、冷たいね」

 最近、どんどんばかみたいな発言をするようになった。夜の仕事をしていて金があったときはぽんぽんものを買うので注意するか迷ったていたが、いざ困窮するとぱったり金を使わなくなった。倹約家だ。おそらく元はそうだったのだろう。人間、金を持つほど使ってしまうというのは本当らしい。

 俺も池の側でしゃがみ指を水に浸けた。冷たい。風が吹いた。もうほとんど冬のものだった。生活に何が足りないのか、成島は指先の冷たさや風の寒さにそれについて考えるように促されたが、嫌だった。考えるのが。

「あーあ」

 熊畑が退屈そうに水面に手を這わしている。もっとちゃんとしてほしい成島は明確に熊畑に、もっとちゃんとしてほしい、と感じた。

 まず第一に自分勝手だ。約束した時間には確実に遅れてくる、一時間遅れならマシな方で2時間、3時間遅れが普通になっている。遅れてきたことを注意すると怒るので俺は注意すらできない。ここはこいつのかなり嫌なところだ。

 次に嫌なのは責任転換だ。スーパーマーケットのポイントカードが失くなってしまった時、熊畑は俺が無くしたというふうに怒り出したが、俺はそのカードを使ったことがなかった。こう思い出してみて苛つくのは、他にも責任転換されて何度も嫌な目に遭ってきた。仕事が続かないわけだ。こうした深い仲になっても責任の押しつけはかなり嫌だ。ただ熊畑は人に迷惑をかけていると気がついていなさそうだ。十中八九気がついていないだろう。仮に気がついていても意地になって認めない、とかそういう人間的な部分が幼稚なんだ。今も水で遊んでるし。背中を蹴って水に沈めてやりたい。顔を殴って骨折させてやりたい。怒りが唐突に湧き上がる。

「なあ、いつまでいるの?」

「知らない」

 こいつはよく知らないという。責任は自分にないと主張しようとする。だからどこででも嫌われている。

「お前は本当に漁師向きかもな」

「は、どういう意味よ」

 少しの嫌味でしつこくキレる。そっちは散々言うくせに。自分を全く客観的に見ることができない。

「漁師向きって、どういう意味よ」

 きいー。怒り始めた熊畑。

 こうなると狂った人だ。

 成島はここで謝るか迷った。そもそもこいつが馬鹿なのが悪いのに何故俺がこいつに謝らなくていけないのか。

 成島はその場から走って逃げた。道には誰もおらず世界に自分が一人になった気がしていたが、離れれば離れるほど熊原が気掛かりになった。空には雲があった。

 いつの間にか知らぬ路地で迷っていた成島は立ち止まり、電柱を眺めたものの何も感じない。疲れていた。足がかゆかったので掻いた。振り返ったが誰もいない。成島は知った場所を探して移動して、突然不安に襲われた。知らぬ場所では心細い。近所のはずだがと成島は見回す。

 ポストがあった。埃が積もっていた。熊原と別れ別れになって長い時間がたった気がした。郵便局の人が来てバイクをポストの脇に止め、郵便物を回収し始めた。成島がその様子を見ていると「何か御用ですか?」と郵便局員が話しかけるので返事をせずにをその場を立ち去ると、よく通る道に出る。身近にも知らない場所はあるものだ、成島はまた歩いて自宅へ向かうが鍵は熊原が持っている。こちらから連絡するのはしゃくだと成島は向かう先を変えることにしたが、どこへ行けばいいのだろう。

 引っ越す前成島は都会で暮らしていた。成り行きでそうしていただけで、別段に暮らす場所にこだわりはなかった。バス停が見えた。誰も並んでいないのでまだまだバスが来る時間ではないのかと彼はバス停へ近寄ると、あと一分で来るようだ。その場に立っているとバスが到着してしまった。中を見ると乗客はいないようなので成島は乗り込んだ。行き先を運転手がアナウンスしている。その場所へ行ったことがなかったが、天気がいいし、今日は休みだし、そこまで行こうかと成島は席に深く腰掛けた。バスはよく揺れるが彼は不安を感じていない。終点までは遠いのかすぐなのか、わからない。

 バスが信号で停止した。少年が自転車で横断歩道を渡っている。そこへワゴン車が来て少年に当たった。運転手が警察に連絡しているのでバスが動かない。車内を移動して少年が見やすい席に変えると自転車が壊れているのみで、少年はその近くに平然と経っている。怪我をしていないようで安心した。轢いた犯人が少年に熱心に話しかけている。あのスケッチブックに書き込むべきシーンがあるならここだなと、成島は運転手の焦る顔を眺めた。

「お客さん、ちょっとの間バス動けないかもしれません」

 運転手が成島に伝えた。はいとだけ言うと運転手は続ける。

「どうしますか、待っていますか」

「待ってますよ」

 運転手は運転席へ向かう。成島は少年を見ている。少年は泣きも喚きもしていない。

 

8

 

 バスが終点に辿り着いたのは夕方だった。少しだけ肌寒く半そでを憎んだ成島はパン屋の前に立ち、陳列されているパンを眺めた。メロンパンがあった。熊原はメロンパンがぱさぱさしていると嫌う。その隣にウインナーのパンがある。熊原がこのパンが好きなのかわからないが、調理が簡単だからという理由でウインナーをたまに購入している。俺にはくれないが。

 腹が減っていた。終点のバス停から少し歩くと駅前だった。街の明かりは暖かく優しく、成島は商店街を少し歩いた。かかとが痛むのでベンチに座って靴を脱ぎ目視すると、靴下が赤く染まっている。赤い。目視すると痛みが増してしまった。

 靴を履いて百円ショップへ行き絆創膏を買って患部に貼り付けた。痛みが減った、ような気がした。あの少年は怪我をしていなかった。血は出ていなかった。あの事故現場には痛みを感じた人はいなかった。不幸中の幸いと言えるだろう。俺のこの靴擦れも車にぶつかられるのと比べたらほとんどないものと同じだ。何も問題ないだろう。成島は携帯電話を取り出して画面を見たが熊原からの連絡はない。あったのは職場からの電話だった。かけなおすと事務員の吉田さんが出て、

「明日二時間早く来て」

 と頼まれたので承諾した。

 空腹感が薄れていた。腹が減っていれば家に帰って何か食おうと思えるが、今や帰る理由がない。ファストフード店に入りハンバーガーを食べた。隣で若い男女が交通事故の話をしているので聞き耳を立てる成島。

「誰もけがしてないみたいでよかったね

 と女の子が話している。ハンバーガーは塩辛く舌に味が染み込む感覚があった。

「それで、自転車だけぐちゃぐちゃになってたみたいよ。お母さんが見たって言ってたのよ現場を。ドキドキして怖かったけど誰もケガしてなくてよかったって」

 女はそう話していた。

男は、

「俺、そういや事故見たことないよ」

 と言った。成島はハンバーガーを食べ終え、コーラを飲んでフライドポテトを食べた。咀嚼しながら熊原はあまりファストフードを好まない、美容に悪いから嫌だと言っていたなと思い返していた。いつの間にか男女二人連れは離席していた。

 店から出るとまだ明るい。横切った女が熊原に似ていたので目で追ったが、別人だった。風が吹き寒い。靴擦れが痛んだ。さっき買った絆創膏の小さな箱は成島のズボンのポケットの中で潰れている。

 さっき俺は事故を見た。怪我人のいない事故を見た。誰も痛みを感じていない事故は事故と言えるのだだろうか。靴連れは俺の靴下を赤くしていたが大したことじゃない。今日もいつものように何も起きない日だったのかもしれないと、成島は自宅に向かった。

 成島は猫を探していた。ちょっと前、この辺りに猫がよく出ると熊原に聞いたが姿はない。場所が違うのだろうかと捜索を止めた成島は、自分に対し猫が本当に見たいのか問うと、そう見たいわけでもないと気がついた。顔を回してネコを探したがやはり居なかった。あのスケッチブックには、ここの猫が書き込まれているのかもしれないとなる島は予想していた。

 歩くとどのぐらいかかるかと成島は逆算した。バスには乗らなくてもいいだろうと彼は徒歩での帰宅を決めた。

 半刻進むとよく知った道に出た成島は目の前に鳩を見た。その太った灰色の鳩は首を素早く前後に動かす。熊原と海を見に行った時居た海鳥は白く、きれいだった。海水で身体の汚れを洗い流して身体を清潔に保っているのか。鳩が飛び立った。成島はそれを目で追う。見えなくなったら彼は走った。

 

 もう熊原がいた。意地になって遅く帰ると予想していたが風呂を済ましてネットをしているようだ。

「何見てるの」

「女の子」

 肌の白い女の子が牛丼を食べている動画が再生されている。

「つまらんよ」

「じゃあなんで見るの」

 返事をしない熊原。一分経つと、

「かわいいから」

 と言った。

「猫居るって話してた場所、猫居なかったよ」

「そりゃ、居るときと居ないときがあるだろうね」

 成島は酒が飲みたいと思った。

 成島は禁酒して三年目だった。成島は熊原と交際を始めてから酒浸りの生活から脱した。熊原の為とかではなく自分自身の健康維持が目的である。

「当たり前やん」

 熊原はあくびをした。働けよ。顔に精子かけたい。成島は前の女の乳を見ていた。

「おっぱい見ないで」

 成島はまだ見ている。やりたい。成島は熊原の隣に座り乳を揉んだ。もう。と熊原は唸る。

「だめ」

 熊原は寝室へ去った。

 成島はパソコンで仕事を進め、明日に備えて早めに寝た。夢を見た。スマホゲームをしている俺が自販機の上に座っていた。そこから釣り糸を垂らしてハリネズミを釣り上げていた。

 

 次の朝職場に向かう前に昨日、向かった猫がいる場所に出向いたがやはり姿はなかった。電車に乗って職場に着いた。別段普段と変わりなく一日を終えた。タイムカードを押す時、着席する竹田を見た。所長が竹田の席の隣に居た。

「やあ今日もお疲れ」

 川本は何か嬉しそうだった。

「はい、お疲れ様です」

 成島は自宅へ向かうつもりが、商店街をうろついていた。靴屋の前に成島は立ち止まった。

 年老いた老女が店の前へ出てきて成島の顔を見た後に成島の靴を見た。

「靴、古くなってるね」

 成島は靴を買うつもりで寄ったわけではなかった。

「ちょっとまってて」

 老婆は店の奥に向かい、持ってきた靴の箱を開いて成島へ提示した。

「これ、いい品なのよ。お兄さんになら似合うと思ってね。普通は出さないんだけど、特別ね」

 この商売上手の老女は媚びる視線を俺に向けている。中の靴はと言うと知らぬブランドの靴が並列してある。

「一万円をおまけして、5000円にしとくわよ。お兄さん、日頃頑張ってそうだから」

 日頃、俺は頑張っているのか。成島は自分の生活を見返しそうになってしまったので、

「買います」

 と言った。

 

 自宅に帰ると箱から靴を出した。たしかになんだかいい品に思えた成島は、机の上なそれを置いて眺めた。立って眺め、座って眺め、二、三回それを繰り返すと飽きた

ので、靴を持ち玄関へ向かい履き心地を試しているとドアが開く。熊原はコンビニの袋を下げている。

「あれ、靴買ったの?」

 熊原はアイスを購入したらしい。

「いつも通りの色合いだね」

 床に上がった熊原は冷蔵庫の前へ移動し、アイスを冷凍室に入れた。成島は熊原のお尻を見ていた。

「どこでかったの?」

「商店街の中の店」

「商店街ってそこの商店街?」

「そうだけど」

「靴屋ってあったっけ?」

「あるよ、肉屋の隣」

「あ、思い出した。あの古いとこか」

 成島は靴を触った。

 老女の言った柔らかい言葉の使い方を、こいつがこの先、得ることはないだろう。成島は虚しくなった。

「いい、靴でしょ」

「微妙だね、あんたには合ってるかもだけど」

 成島は靴を脱いだ。熊原はリビングのソファーに腰掛けている。熊原が靴下を脱ぎ捨てて、さっぱりだ、床掃除してよかった。と独り言を言った。成島は玄関で陰茎を膨らませていた。しばらく射精していなかった成島は勃起しただけで、やわらかい快楽を覚えている。

 熊原がスキニーズボンを脱ぎ、上に着ている服も脱いだ。下着姿になってから部屋着を探している。コンドームはあったかと成島は部屋の家具を見渡して、多分切らしているなと彼は落ち込んだ。ただ陰茎は立っているままだ。亀頭がむき出しになり内側の布と擦れている。

「しず」

 俺は女に声をかけた。女は

「うーん?」

 と返事をする。前かがみになり引き出しを漁っている。でかい乳が揺れている。

 俺は乳を見入った。女は俺の視線に気が付かない。それともわかって見せているのか。コンドームは部屋にない。セックスをするとなれば生挿入することになる。それでもいいのか。それでもいいのか。自分自身に問いかける。女は尻を振っている。でかい尻を。体付きは昔よりもふくよかになっており性欲をそそる。顔がこちらへ向く。

「何、じっと見て」

 俺は女へ走りより押し倒した。床に背をつける女。

「目が充血してるよ」

 顔を掴んでキスをする女。舌が歯に当たった。

「セックスしよう」

「なんで?」

「でも、ゴムがない」

「なんでに答えてないよ」

「買ってくる」

 俺は勃起したまま外に出て、自販機でコンドームを買って戻った。

「しないよセックス」

 女は俺にビンタをして部屋から出た。

 何やってんだよ俺。コンドームの箱を開けた。

「うおっ、コンドームだ!」

 独り言だった。

 

9

 

 このまま帰ってこないかもしれない。成島は寝ないで夜を過ごして朝になった。そして寝て起きると夕方だった。つまり熊原が出ていって丸一日程立つことになる。

 探しに行こう。成島はろくに準備もせずに家を出た。またバスに乗った成島。いつもよりゆっくり走っている様に感じる。熊原はいないか。シズはいないか。成島は人影を漁るように見ているが、目的の女はいない。

 車内掲示を確認すると、この前事故が起きた道を通る線をこのバスは走っていないようだ。ただ到着店は駅前なので、電車で当てなく熊原を探しに行こうか。バス内には誰もいない。バスの運転手が次の停車地をアナウンスしているが、知らない場所だった。

 バスが駅に着いたが、成島は車内から熊原を見つけることができなかった。自分が何をしているのかよく分からなくなってきた成島。改札でICカードをかざした。どこへ行けばいいのかわからないのに。

 駅構内に寺の観光案内が貼りだされているので、眺めると楽しそうに思える。この寺は電車で六駅向こうだ。成島は電車に乗り込んでその寺を目指した。

 降りたことのない駅。もう秋が来ているらしく、半そでの人はいなかった。

 寺までは長く歩くらしい自分の体力を思いやった。歩くしかない。成島は坂道を進んだ。露店が道の脇に並んでいる。ただ熊原はいない。熊原以外の女と付き合えばいいのではないか。成島はこんなことをしてる場合ではないと理解しつつも登ってしまう。なぜだろう。どれほどまできたかと彼は後ろを振り返ったが、まだスタート位置が見える。老人は彼を追い越す。家族連れが彼を追い越す。平日なのに妙に人が多い。

 成島はすでに足が重く、ここで引き返せばすぐに駅に帰ることができる。ただ彼は帰らない。

 半分を超えたところで、幼い頃ここへは来たことがあると成島は記憶に辿り着く。

 隣近所に住んでいたみなちゃんと呼ばれる、細い女の子と仲がよかった。その子が生まれつきの病を治すために、参りたいと俺の母とその子の親子と拝みに向かった。道中、みなちゃんは足の痛みをしきりに訴えた。歩行して足の筋肉を使ったから痛むのではなく、病気によるものらしく、みなちゃんの母親は心配したが、

「ここを登ると治るから頑張って」

 とみなちゃんを勇気付ける。一行が道の中腹まで来たところでみなちゃんは座り込んでしまった。人々がじろじろみるので、俺は恥ずかしく思えた。それは俺の母も同じだったらしく、

「タクシー呼びましょうか?」

 口調の強さからそうしなさいという、強要の意味も読み取れた。

「いえ、まだ歩けるわ。みなちゃん、休んでから行きましょう」

 結局上がりきれたのか覚えていないが、みなちゃんはいつしか小学校には来なくなっていた。

 俺は健康な脚で寺を目指した。熊原はおそらく健康だろう。精神的に幼いだけでビョーキという訳でなく、人間誰しもそういう面がある。俺にも。

 こんな趣情緒あふれる土地にガールズバーで働くアホの熊原が来るわけがない。目的の寺に着いた成島は寺を見物する人に混じり、何か願わなくてはと叶えたい望みを探すと、熊原とセックスしたい、だった。

 ただ、熊原とセックスしたいです、とここの神様に願ってもいいものだろうか。成島は鈴を鳴らす列の最後尾につけている。前の女の子がかわいい。おしりがでかい。熊原より若いしかわいい。この子とセックスしたいに願い事を変えようかと成島は、その女の子の白い肌を食い入るように見ていると列が動いた。自分の番までは時間がある。願い事はどうすれば。

 今鈴を鳴らした人は神様に何を頼んだのだろう。一見健康そうな男性がここへ何の用だろう。家族が何か患っているのかもしれない。なら俺も他の人の健康を願おうと、熊原のどこが病んでいるのか予想した。

 前の通り精神はまともということにする。なら身体のどこが悪いのか。腰が痛いとか本人の口から聞いたことがあるが、病院へかかるほどでないらしいので、熊原の腰痛が治りますようには願いから外す。手首の関節が痛いとも話すがこちらも軽症なので却下。願うことが決まらぬままもうじき自分の番だ。成島は焦った。

 知らぬ間に口を強く閉じていたらしく、歯の根元が痛んだ。熊原は寝るとき歯ぎしりをしてうるさい時がある。本人は気がついていないらしいが治すべきであると、成島は願いを決めた。

 前の女の子が拝み終わり、成島はその子を白い肌とおしりを鑑賞する事ができなくなった。

 鈴を鳴らして拝んだ。熊原の歯ぎしりが治りますように。熊原の歯ぎしりが治りますように。たぶん熊原は歯ぎしりをやめないだろうな。成島は目を開けた。

 熊原とセックスしたい。あの白い肌のおしりの大きい女の子は見えなくなっていた。

 順路を進むと木の周りに投げられた賽銭を一心不乱に漁っている人が二人いる。寺の裏で人が少ない場所といえども、昼間に窃盗を働く二人はホームレスだろうか、色が黒くて汚い服を着ている。俺が以外にも見ている人がいるが二人は無視されている。こうなっては人間終わりだ。ただこうして人の目を気にしないで生きれるなら、それはそれで幸せなのかもしれない。

 

10

 

 家に帰ったが熊原がいない。意地っ張りなもんだと呆れ、ソファーで横になると寝てしまった。

 電話で目が覚めた。熊原が「A病院へ迎えにこいや」と電話口で話す。タクシーに乗って指定の病院に向かった。

「遅い、私怪我したのに」

 足に包帯を巻いて杖を突いている。

「何やらかしたんだよ馬鹿」

「違うのよ、自転車に当て逃げされたの」

 廊下の長椅子に腰掛ける熊原の顔はなぜか明るい。俺は待たせていたタクシーに熊原を乗せた。

「久々、タクシー」

 大分不便そうだ。松葉づえとなると移動もままならないだろう。歯ぎしりを治療を願ったのに大変な事になってしまった。外を見た。誰も歩いていなかった。誰もいなかった。車内には熊原がいる。

「これからどうしよ、ほんとに実家に変えるかもしれないよ」

「嫌だ、帰らないで」

「あんたが嫌とかじゃなくて、怪我だから。治ったら戻って働くから」

 熊原を戻らせたらこの先、帰ってこなくなる。そうに違いない。

「いや、大丈夫。俺がお前の世話してやるよ」

「なにがよ、やってやる、って態度なら帰ったほうがいいわ」

「違う、俺と暮らしていてくれ」

「なによお」と唸る熊原。嬉しそうだ。前からこうしときゃよかった。

 みなちゃんは元気だろうか。成島は熊原の肩を持ちタクシーから下ろした。胸の柔らかい感覚を成島は身体で感じる。

 室内。熊原はソファーに座る。

 左脚のギプスは真っ白だ。弱体化した熊原を見ると彼女に対する不満が消えた。初めて見る短パンを履いており右足が寒そうだ。これから寒くなるのに。

「右脚が使えてよかった、杖があれば歩ける」

 右脚のすね毛は剃られている。太ももの肉が白い。

 熊原がソファーに寝転んだ。眠りそうだったので毛布を持ってきて掛けた。

「そうそう、えらい」

 かけた俺の手を撫でて目を瞑る熊原。

 

 しばらくした。熊原が眠っている前に成島がいる。入浴をしていないようで頭が臭い。女の子なのに。頭皮を眺めていると頭が動いたが、起きたわけではないようでまた寝息を立て始めた。

 

 朝が来た。熊原はすでに起きている。

「そろそろ、部屋片付けたほうがいいよ。掃除もしたら」

 成島は掃除機を取り出してかけはじめた。これじゃ家政婦じゃないか。成島は掃除を終えた。

「お風呂入るからギプス外すの手伝って」

 成島はソファーに座る熊原の前に座りギプスを外す。白い足がふやけていてにおう。足の裏だけでなくギプスに隠されていた場所全体から、長い間つけたままを絆創膏を剥がした皮膚と同じにおいがする。

「ごめん」

 俺の表情から不快を読み取った熊原は、心底申し訳なさそうにそう話す。

「いいよ。だって怪我だから」

 成島は熊原の肩を担ぎ風呂へ向かう。

「脱がせてよ」

 上と下を脱がせて下着のみになった。この前買ったコンドームはどこにしまったっけ。熊原は下着を自分で脱いだ。

 浴室へ入りケガをした脚を洗い始めて気が付いたが、外傷がない。

「傷がつかなくてよかったね」

「うん」

 せっけんを手にとって泡立て、成島は脚を洗い始めた。

 人の身体を洗ったのはいついらいだろう。いとこが生まれた時に赤ちゃんを洗わせてもらった記憶がある。専用の洗器に溜められたお湯の中で俺はその子を洗ったっていた。ピンク色をしたその子は泣き出した。浴室に舞う湯気が視界を妨害し、俺の前髪を湿らせた。

「頭は触ってはだめよ、形が変わっちゃうから」

 このセリフはしつこいほど聞かされた。せっけんを持った手をその赤子の背中へ回して表面を洗う。赤ちゃんが泣き止むと眠り始めた。

「あなたもこんな風に、お風呂で寝ていたわよ」

 いとこの母がそう言った。

 成島は服を脱いで、熊原の服の上に投げてる。

「最初から脱いだら、ズボンの裾濡れなかったのに」

 俺は左脚のふとももを揉みこむように、足の付け根から体上部へ向けてマッサージを始める。

「洗うだけでいいよ」

 俺は返事をせずに手を動かす。人間の肌は柔らかだ。それとも熊原は特別に柔らかいのだろうか。あの赤ちゃんの背中の感触は覚えていない。俺は相当にびびっていた。今はなぜか落ち着き払っている。熊原は俺を見ている。立ち上がり陰茎を顔の前にやると熊原は目を閉じる。

「なんですか、これは」

「なんでもない」

「なんでもないのに、立ってんの」

 意味のない問答は辞めいたと成島は感じていたが、この流れには意味がなくはない。シャワーで熊原の脚についたせっけんを流すと、浴室には湯気が立ち込める。赤ちゃんを洗った時みたいに。気温が高くなり汗が出ているのは、俺だけでなく熊原も同じくのようで、手を額にやり拭う。熊原はシャワーを俺から取り上げてお湯を俺の脚にかけて、プラスチックの椅子に座ったまま前のめりになり、脚を洗い始めた。しゃぶってくれよ。

「きれいになったよ」

「ありがとう」

 熊原は湯船に水をため始めた。水が音を立てて浴槽に溜まる。

「カビかなり生えてるね、タイルの溝とか」

 誰も掃除しないからね。俺がすりゃいんだけどさ。

「そうだね」

「今度掃除してよ」

「わかった」

 掃除するからセックスしよう。

 成島は熊原の頭に手を乗せた。

「撫でてくれるなんて」

 熊原は目を閉じている。犬みたいだ思った。

「綺麗になったから上がろう」

 二人は浴室から出た。成島は熊原の身体を拭いた。リビングに移動して服を着せて座らせると成島は、

「風呂掃除するよ」

 と声をかけて浴室へ戻る。

 スポンジが汚かったので新しいものはどこだと成島は、洗面台を探したが見つからないので、トイレ、キッチン周りも捜索するもない。食器洗いに使っているものしかない。これを風呂掃除用にしてしまうとあとで困るので、成島は買いに百均へ向かう。なんか面倒なことになっちゃったなあと後悔したが、熊原の犬の顔を脳裏に浮かべるとスポンジを探す気になった。すんなり見つかったので手に持ちレジに向かうと列ができている。最後尾に着けた。神社でも並んで百均でも並んで、いつも並んでるな俺は。するする進んでレジでスポンジを買った。待つものだと覚悟していたのでなんだか拍子抜けだ。

 店の外に出ると不思議と気分がすっきりしていた。自宅へ帰る途中、熊原に、

「昼食を買って帰る、何がいい?」

 と連絡すると、

「何でもいい」

 と返答された。

 何でもいいならと弁当屋に寄った成島は適当に弁当を手にとった。どうせ何を買っても文句言われるならこれでいいかと、中華弁当を二つ購入した。成る島は帰る途中、大きい犬を連れた若い女を見た。

 

 11

 

「私、中華食べたいって言ってないのに、よくわかったね」

 熊原は異常に喜んで弁当を食べている。はなから駄目だしを受ける予想を立てていた成島は、また拍子抜けした。

 二人は食べすすめる。成島が神社で賽銭泥棒を見た話をすると、

「今度二人で行きましょうよ」

 と熊原は軽口を叩いた。

「それもいいかもね」

 成島は最近、倉庫のアルバイトに向かえていない。川本からの電話にも折り返せていない。あの坊主頭に負けてしまうのと同じだぞ、と成島は自らを叱咤するものの、やはり倉庫へ電話することができない。

「弁当美味しいよ、食べなよ」

 まだ餃子しか食べていない。チャーハンと付け合せの野菜、唐揚げが残っている。

「いならいなら、頂戴」

 犬。俺の犬。熊原は俺の犬。

「唐揚げならいいよ」

「ありがとう」

 伸びた箸が唐揚げをさらった。

「食べたらお風呂掃除してよ、カビが嫌だった」

 浴室に移動した成島は湯船へお湯を流す。俺は犬の言うことを聞く、犬の犬だ。壁のタイルの隙間を黒くしていた、カビは全く無い。俺がきれいにしたから。きれいにしていると気分がいいものだ。犬の犬も悪くない。

「風呂掃除終わったよ」

 熊原は俺の弁当の残りを食べていた。

「ありがとう」

 俺は食べていいといったっけか。

「今日も暇なのよ。ユーチューブも飽きたし。何か暇つぶしない?」

 成島は弁当箱をごみ箱へ捨てた。

「それだめ。容器はプラスチックだから洗って、燃えるゴミと一緒にしないで」

 成島は黙って言うことを聞いた。倉庫へ向かったほうがマシかもしれないと暗雲が成島の脳に闖入した時、熊原が上着を脱いだ。

「服着替えたい」

 脱いだ服をこちらに差し出している。白い腕が伸びる。成島は腕を掴んで熊原をたぐり寄せるとソファーから彼女の身体が落ちた。

「おこしてよー」

 絶対起きれるだろ。どこからか入ってきた潮風が二人に海を思わせた。

「今度、潮干狩り行ってくれるならいいよ」

「わかったよ」

 身体を起こしたら顔が目の前にある。熊原が唇で俺の上唇を挟んで離した。

「いつ潮干狩りいくの?」

 資金はいくらいるのだろう。

「近いうちに」

「シーズン過ぎてるよ、春まで待たないと。あと、私の脚が治らないと」

 シーズンはともかく、足が悪いならあの寺に行けば治る。

「ほとんど歩けないの?」

「いや、無理すれば歩けるよ」

 熊原が腿を触る。

「何歩ぐらい?」

「何、この質問」

 動きを止める熊原。

 俺はお前の脚を治したいんだ。

「俺はお前の脚を治したい、だから一緒に来てれないか?」

 だから一緒に来てくれないか?

「いいよ」

 部屋には何のなおいもない。家の外の木は静止している。

 

 みなちゃんはきっと普通に暮らしいている。前とは違い寺の坂には人がほとんどいないので、成島は少し不安だったが、

「空いててラッキーね」

 と前向きだ。怪我してから前向きだ。から元気とも思えない。二人は並んで坂道を進み始めたら、救急車の音が聞こえた。坂の上からのようで二人の進む速度は速くなる。

「救急車、どこかな」

 熊原がそう言った先、救急隊員がしゃがんでいて、その周りに数人老人がいる。倒れているのは若者で割烹着だ。すぐ前に蕎麦屋がある。

「大丈夫かな?」

 救急隊員が倒れている男に人工呼吸を始めた。ふたりはそれの一部始終を見た。救急車に男が乗せられると、やじうまは三々五々去る。熊原が進んだのでそれに成島が続いた。

 黙っている熊原は苦しそう・しんどそうな様子には見えない。

「脚、痛くない?」

「痛くないよ」

 小さい声だった。汗をかいている。

「救急車って乗ったことある」

「ない、けど」

 立ち止まった熊原は俺の肩を借り、近くのベンチに指をさすのでそこまだ動く。「タクシー呼んで、かかりつけの病院まで行こう」

 坂の三分の一ほどしか進んでいない。誘って悪いことをしたと成島は脚を揉んだ。熊原がタクシー会社に電話をかけている。車を待つ間二人は地面を見ていた。

 

 タクシーが来たら二人は乗り込んで座り黙り込む。すると運転手が「ご夫婦ですか?」と笑顔で聞くと、熊原が、

「違うわ」

「じゃあ、これからですかね」

「そう、そうなの」

 熊原は楽しそうにそう返事をするのを俺は横で眺めていると、

「あんたはあんまり嬉しそうにしないのね」

 と熊原が俺に言う。どんな顔をしていたのだろう。バックミラーを見るとガラス面が汚れていたので、自分の顔がよく見えない。

 病院に着くと診察室に案内され、熊原は老齢の男に脚を晒して触らせた。「レントゲン撮りましょう、そうしないと何もわからない」看護師と共にレントゲン室へ向かう熊原。

 出てくると医者が、

「前と変わらず。歩いたから傷んだだけ、無理すると悪くなるから家でじっとしてるのが一番ですよ」

 医院を出たふたり。

「家にいるの嫌だ」

「なんで?」

「なんでって、嫌だから」

 湿布の入ったビニール袋をぶら下げている熊原を、俺はどこかにつれて行かなければならない。熊原とこの先暮らすならこの女をどこか遠くにさらわなければならないと、成島は手を引いて駅へ向かい、一番遠くへ行けそうな電車に乗って熊原を座らせ、左の脚に湿布を貼ってやった。電車が終点に着くと乗り継いだ。熊原は何も話さないが俺の手を掴んでいる。

「ねえあっちの人見て」

 成島は熊原の視線の先を見ると車椅子の男性が居た。

「私、ああなっちゃったりするのかな?」

 そんなに大げさなものじゃないだろうが、熊原は不安げに顔を上げ、扉の上にある液晶に映されたCMを見ている。

「脱毛、私もしてみようかな」

 働いてないからそんなことする金がないだろ、お前には。

「モデルの人、脇見せて恥ずかしくないのかね?」

 俺の言葉は熊原の耳に届いただろうか。

「さあ、知らない」

 電車が揺れて付いた最終の駅で二人は降りた。近くに別の線が在るらしくまた駅へ向かう途中、百均へ寄り杖を買う。それをついて歩く熊原はより弱者に見えた。

 駅のホームには他に誰もいない。平日昼間はさっぱりしたもんだと成島は、世間の平和加減に心安らげた時、熊原が腕を掴んで現実に戻される。愛の逃避行といえば耳触りはいいものの、実質はただ仕事がナイ、金がナイ、生活がつまらナイという現実からほんの少しの間、目を逸らすだけだ。電車はあと二十分したら来ると電光掲示板が示している。いつの間にか熊原がベンチに座っているので、成島はその横に座って電車を待つ。逆方向へ向かうホームに人が来た。

 ひげが青くて髪の毛を洗っていないのか汚らしい。気持ちわりいな平日の昼に、こんな田舎の駅からどこへ行くんだよ。その不審者は足元のゴミを拾ってゴミ箱へ捨てた。

 電車が来ない。熊原がスマホを触り始めたので俺は杖を持ってみた。立ち上ってその杖に体重をかけると、確かに楽だ。これ一本あるだけで大分違うなと成島は杖の効能に感心した。百円でこれはいい出来である。

 再び椅子に座り杖本体を横にして持ち上げ眺めた。安っぽい素材を茶色く塗り、その上に木目をつけている。じっくり見なきゃよかった。

 向こうのホームに電車来て去ると、不審者はいなくなていた。さっきの電車に乗り込んだらしい。

「あの気持ち悪い人、乗ってったね。どこ行くんだろ」

「仕事じゃないの?」

「仕事してんのかな?」

「分からない」

 

 こっちのホームにはまだ電車が来ない。二人は待ちぼうけていた。成島は時刻表の前へ移動して、もうすぐ来る電車がどこへ向かうのか確認し、戻ると熊原が杖を眺めている。

「なんか安っぽいね」

「うん」

「さっき見て安っぽいって思ったんでしょ」

「そう」

 やり取りが終わると二人は黙った。すると電車が来たので中へ入る。熊原が優先座席へ座った。

「脚、痛い?」

 俺は座る熊原の前に立ち聞いた。

「いや、痛くないよ。動かさなかったら痛くない」

 電車が止まり親子が乗ってきて女の子が優先座席に座り、女親がその前に立ち女の子が「山がある」と言う。熊原は窓の外の山を見たが、成島は背中側にある山を見ることができない。

 女親が振り返り、

「本当ね、山ね」

 疲れているのかうんざりしているのか、そっけない返事。女の子が足をバタバタ動かしている。

「ねえ、山」

 女親は振り返らないで、

「そうね。山ね」

 と返事をした。その子のかばんには赤い印が掲げられていた。脚がバタつく意味はないだろうと成島はその子を横目に見た。女親の顔のしわから並大抵でない苦労が窺えた成島は、二人の世界に感傷しないように、また熊原の杖を見た。前に座る女は杖を脚の間に立ててそこへ手を置いている。

「あの、結局どこいくの?」

 熊原が俺に聞いた。

「とりあえずこの電車で終点まで行く」

 隣の親子はずっと要領を得ない会話をしていた。

 電車から降りた二人は各々あの親子の会話を思い返しながらホームを進み、改札から外へ出た。どこへ行こうと成島が熊原に提案を促すか迷っていると、

「どうせなら、もうちょっと行ってC県行こうよ」

 スマホの画面を見ながら熊原はそう言う。成島は別にどこへ向かう予定もないので、

「わかった」

 と同意したが、どう進めばいいのかわからない。

「バスに乗ればいいみたいよ」

 熊原はバス停の方を見ている。そこへ向かい汚いベンチに座った。

「すごい田舎だね」

 肌寒くなってきた。まだ葉っぱは青く若々しいが空が暗い。目的のバスが来るまでまだ五分ある。熊原はスマホでゲームをしている。道向こうの地面の上に歩く虫を見つけた、成島はバス停から離れてそれに向かう。虫ではなくやもりだった。成島が来てもそのヤモリは動かない。しゃがんで眺めると目の色が変だ。どうやらもう動かないらしい。

 カラスが成島の近くに舞い降りたので、後ずさると、ヤモリをくちばしに咥えて飛び立った。

「バスが来たよ」

 熊原の呼びかけに振り返ると、バスが来ていた。カラスは成島が目視できないところまで飛行していた。

 熊原に肩をかしてバスに入ると、優先座席に彼女を座らせた成島。また事故が見れるかもしれない。成島は車内のつり革をつかんで立ち、車窓の外を眺めた。

「あ、忘れものだ」

 子供用のリュックサックを熊原は抱えている。

「椅子の下にあった」

 カラフルなかばんだった。

「重いよ、何が入ってるんだろう」

「水筒とかかな?」

 窓の外には田んぼが見える。熊原がかばんを開けて中を見た。やると思った。成島もその中を見た。スケッチブックと水筒と、コップの形をした陶器がはいっている。

「陶芸教室に通ってる、小さい子の忘れ物かな?」

 熊原はスケッチブックを出して開いた。成島はがっかりした。こいつはなにも成長しない。

「怖い絵」

 緑で山を描いた上に、赤い鉛筆で火を表現してある。手前には田んぼがある。手慣れを感じるタッチで描かれていて、子供子作品とは思えない。この辺りを描いたのかと成島はその絵を眺めて考えていると、バスが停まって運転手が、「ご乗車ありがとうございます。終点です」とアナウンスした。熊原はスケッチブックを持ってバスを降りた。

「窃盗とかにならないかね?」

「何をびびってんのよ」

 熊原はなぜか得意になっている。

 

12

 

「別のページは普通の絵ね」

 最初のページだけ山火事の絵で、その他に描かれているのは風景画だ。田んぼや川、山、寺だ。

「上手いね。かばんの持ち主の家族が描いたのかも」

 熊原は熱心に絵を見ている。

「気に入ったよ。貰っちゃう。今回の思い出ね」

 成島は何も言わないが、熊原は嬉しそうな顔をしているな、と内心ほころんでいた。

 バスは終点へ着いた。栄えている。熊原を抱えてバスから降りた成島。どうしようか。そもそもなんでここにいるんだろう。何も準備してない。このまま帰ってしまってもいいのかもしれない。遠くまで来たような気になっているが、隣のC県に来ただけだ。何をしているんだ。俺は。強い風が吹いた。近くを歩いていた老人が帽子を片手で抑えて前かがみになっている。熊原は顔を下に向けて目を固く閉じているので、横並びに立っている成島が手をつかんだ。熊原は目を開ける。まだ風は吹き付けている。

「この後どうしよう」

 熊原が俺を見ながら問いかける。

「海近いから、行ってみて潮干狩りできないか聞いてみよう」

 熊原は黙った。夏から秋に変わりつつある世間は、俺たちに潮干狩りを許してくれるのだろうか。

「わかったよ、私、ちょっとカフェに座ってるね」

 熊原はすぐそこにあるスタバへ向かった。俺は歩いて海へ向かう。なんだか長い道のりになりそうだと成島が気持ちは暗い。熊原はあのスケッチブックの絵を眺めているだろう。やつは絵が好きだったなんて知らなかった。視界が暗い。疲れているからだろうか。腹が減っているからだからなのかもしれないと、自分の空腹に気が付いた成島はコンビニへ入り、グミを買って食べた。スペインのグミだと裏に記してある。暑そうな国ではグミは柔らかくなってしまいそうだ。スペインの人はバッファローと闘ってダンスを踊っているのにグミを食うのか。辛い揚げ物を好む人が多そうだが、子供なら甘くて柔らかいグミでも進んで食べそうだ。グミの周りに着いたザラメが手についてうざいので、成島は少し食べただけで袋を丸めてポケットにしまった。海はまだか。彼は立ち止まって屈伸運動をして、また進んだ。風はいつしか止んでいた。

 結局夕方に海が見れた。疲れ切っていた成島は、歩いているおじいさんにこのあたりで潮干狩りはしていないか、と聞いたが、

「知らん」

 と一言帰ってきて心が折れそうになったが、次にすれ違った人に同じように聞くと、

「この辺りでも潮干狩りはあるけど、今の時期はしていないね」

 と笑顔で教えてくれた。

 成島は分かっていた。潮干狩りは行われていないと。世間は潮干狩りをさせてくれないと。ただわざわざC県まできて潮干狩りが出来ないという事実を受け止められず、こうして身体に苦痛を与えるように歩いた。そして海を向かいに固まってる。どうやって熊原の元へ帰ろうと成島は思考を巡らしていると、ポケットの中にスペインのグミがあると思いついて取り出した。海の上に浮かぶ太陽は、スペインの人にも日光を与えているんだなあと、成島はひとつグミを食べた。ざらざらした粒の大きい砂糖が舌の上で溶ける。甘い。成島は来た道を辿って走り始めたが、すぐに息が上がり、歩いて戻ることにした。

 熊原がいるスタバに入った。彼女の元に行き座る。

「汗、すごいね。走った?」

 俺にコーヒーを差し出す熊原。成島は一口飲んだ。

「あの、考えてたんどけど、今日はもう帰れないから旅館泊まらない?ここ、さっき電話したらがらがらだって。駅前に車で迎えにも来てくれるよ」

 熊原が嬉しそう話すので、俺の疲れは少し和らいた。話の内容をほとんど理解していなかっだ、

「いいよ」

 と答えた。

 

 「なんかドキドキしてきたよ。こんな旅行人生で初めて」

 熊原は旅館の車でそわそわしている。

 大きい門から二人は建物に入り、部屋へ案内される。部屋はこじんまりとしているが、二人で過ごすには過不足ない。熊原が座椅子に腰掛けて左足を伸ばすして俺の目に晒した。

「どう?」

 何かどうなんだよ。成島は黙っていると、

「お金の心配はしないで、あるから」

 俺もここの代金二人分払えるぐらいはあるよ。

「わかったよ」

 熊原がスケッチブックを開いた。

「子供のかばんに入ってたこのスケブの絵、誰が書いたんだた思う?」

 熊原はあの山火事の絵を見ている。

「かばんの持ち主の親とか、家族でしょう」

「私も最初、そう思ったの。だけど今は違う。多分、子供が書いたんだと思う。電車で隣にすわった子いたでしょ。ああいう子って、絵の才能があったりするのよ」

 白いページを開いた熊原。

「色鉛筆買ってくるよ」

 と立ち上がろうとして、杖を掴んだがうまくいかず手間取っている様子を見た成島は、

「俺が買ってくる、まってて」

 と、部屋を出る。

 旅館を出たが周りはもの寂しく店が無かったか、成島は古い文房具屋を見つけて色鉛筆を購入した。

 帰り空を見ると夕焼けが燃えるように見えた。成島はあの日が山を燃やすのではないかと恐ろしく感じたので、脚に残された力を絞り出して走った。旅館の前で女将さんが水を撒いている。山についた火はホースでは消えないだろうと成島は想像し、仮に山火事になったとしたら、ただ燃える様子を眺めることしかできないだろうと彼は、空想の世界に入り込む。

 部屋について熊原に色鉛筆を渡すと、彼女は白い紙を一枚スケッチブックから外し、窓際へ移動して絵を書き始めた。成島は山火事の絵を眺めた。俺が火事を消さなさればならぬとしたらどうする。山の麓にいる俺は燃える木々を目の前に立っている。5メートル離れているがそれでも汗が出るほど暑い。燃える友人の家を見たことがある父親は、今でも火が恐ろしく、コンロが点火されるだけで心臓が踊ると、俺によく話した。その恐ろしい火がすぐ目の前にあるとなれば、俺はどう対処すればいい。見ているだけではやりきれない。山が燃えきらないうちに何かしなければ。周りを見渡しても水道や池がない。ただ手には杖を持っている。これでどうしろっていうんだよ!「山がある!」そういうので電車で隣りに座った、障害のある女の子だ。女親はいない。一人で大丈夫なのか?お前が火をつけたんじゃないだろうな?そう見ているのは自転車事故にあった少年だ。足にギプスをつけている。「俺を轢いたのはお前か?」そう障害のある女の子に詰め寄る。その子は事故と関係ない。炎は山に広がっているいる、そうこうしているうちにどんどん火は燃える!燃える!燃える!しかし成島は何もできない。ギプスの少年は障害のある女の子を責める。しかし成島は何も出来ない。少年は責める!責める!責める!女の子はギプスの少年には反応しないで「山だ、山だ」と脚をばたばたさせながら話す。山の火は近隣の住宅にも手を伸ばした。父親が俺に伝えたかった恐怖はこれか。俺は火事に対応できない。父親は火事に対応できない。「山が燃えてる!」障害のある女の子は指をさすが炎は燃え盛り、辺り一帯が煤だらけになった。スペインではこんなのよくあるよ。障害のある女の子が俺にグミを差し出しているので受け取って食べた。ざらざらした砂糖が舌に痛い。成島が燃えたあとの山へ向かうと、震災に遭った父親の気持ちがよく理解出来た。

 熊原が絵を俺に向ける。

「見て、火事の後」

 ただ黒い鉛筆を無秩序で表現された火事の後地は、幼稚園児でも描けそうな質だった。

「うまいじゃん」

「ありがとう」

 

 13

 

 夕食後、各々入浴することになった。「ちょっとなら動ける」と熊原は一人、女湯ののれんをくぐった。

 入浴しながら成島は先の生活のことを考えてしまい不安になったので、あの猫のことを思い浮かべた。みんな元気にしているだろうか、たぶん誰もが変わらずに過ごしているだろうな。湯から手だけ出すと爪が汚かったので洗った。

 上がり大浴場入口の前に置かれたベンチに座り、成島は熱を冷ます。

「ねえ、上がったよ」

 熊原の声で目覚めた成島。客間に戻ると布団が敷いてあったので二人はそこへ寝転び、テレビを見て会話をした。熊原は起き上がりスケッチブックを開きパラパラめくる。

「わたしこれが一番きれいだと思う」

 山の絵だった。

 

 深夜に目が覚めた成島はヘリの音を聞いている。なんだろうと立ち上がり窓の外を眺めると山が燃えている。

「山、燃えてる」

 熊原が起き、寝床から燃える山を確認している。扉が叩かれて成島が出ると仲居が、「避難勧告が出たんで、靴箱の前へ来てください」と告げる。

 成島は熊原をおぶって指定場所へ向かうと、客がざわざわひしめきあっていた。

「山火事らしいわよ」

 婦人が話している。成島は熊原を縁に座らせた。仲居の一人が水と防災頭巾を手渡した。こちらを見て、

「移動が難しいようでしたら、バスで安全な場所まで送ります」

 と言う。熊原は杖を俺に手渡して、

「いえ、ほんとは歩けるんです」

 と笑顔で仲居に言うと、

「わかりました、避難先でお困りのことがありましたら、何でもお申し付けください」

 とその場を去る。熊原は顔を上げている。

「すごい火事みたいね」

 火事が起きても俺は何もできない。成島は熊原の横に座った。

「俺、何もできないんだよ」

 熊原は成島の耳たぶを触った。

「そんなことないよ」

 成島はうなだれて足元に視線を落としている。

2021年8月29日公開

© 2021 麦倉尚

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