ひとひらの耳

谷田七重

小説

1,032文字

置き手紙なんてもう古いですよ、これからは置き耳です(嘘です)。掌編です。

 朝起きたら、彼女のすがたが見当たらなかった。トイレにも、浴室にも、ウォークインクローゼットにも、流しの下の開きにも見つからなかった。
 くたびれてふたたびベッドに横になろうとしたら、枕の上で、ひとひらの耳がしんと安らいでいた。
 置き耳ってやつか?
 反射的にそう思ったものの、置き手紙ならぬ置き耳だなんて聞いたことがない。
 そっと触れてみると、しずかにあたたかだった。やわらかな耳たぶのかすかなしこり、一度空けたピアスの穴をふさいだ跡。間違いなく彼女の耳だ。
 ──みみ、みみちゃん、みみたん、みみたそ。
 そう呼びかけてみたものの、すぐに飽きてしまった。そもそも彼女の名前は、「みみ」からはほど遠い。
 なんとなく、耳に耳を合わせてみた。なにも聞こえなかった。耳たぶを舐めてみた。しずまったままだった。
 腹が減ったので外へ出かけようとしたものの、さてこの耳をどうするべきか。シャツの胸ポケットに入れて連れていくか? いやまさかまさか、なにかのはずみに落としてしまったりなんかしたら、一騒動だ。
 枕のいちばんやわらかなところに耳を置き、布団がわりのハンドタオルを掛けてやって、行ってきます、と言って外へ出た。
 
 その晩、耳だけになった彼女にとりとめもない思い出話をした、ハイボール缶を片手に山手線沿いをぶらぶら歩いた夜のこと、はしゃいで楽しくなると突然かけ出していく後ろ姿のあぶなっかしさ、横顔でいじけたときの唇のとんがり具合、泣き虫な八の字眉、……追憶をそのまま言葉にしているうち、彼女の元の全体像はぼやけていった。
 そうして耳だけがここにある。
 にわかに腹が立ってきた、もはや彼女の体から離れてしまった耳に語りかけてどうする、糸が切れたことにも気づかないまま紙コップに口を押し当てて、ひとりごとを言ってるようなもんだぞ、こいつは聴くことに徹するふうでいて、その実なにも聴いてないんだぞ。
 耳を口に当てた。
 ──マイクテスト、マイクテスト。ご傾聴ください、ご傾聴ください。
 どこにも、誰にも、なんにも届かない。星ですら寝たふりをしている。
 
 翌朝、ごみ回収車の音で目が覚めた。まずい、出し忘れだ、今日こそは生ごみを出さなきゃいけないっていうのに。
 あわただしく部屋中のごみをかき集め、45リットルの袋へ放りこみ、すこしのためらいのあと、彼女の耳をつかんで、ごみの奥にかくした。袋をきつく閉めた。
 回収員に謝りながら袋を手渡し、踵を返して帰ろうとしたものの、ふと立ち止まった。もう彼女の名前さえ覚えていないのだった。

2021年8月4日公開

© 2021 谷田七重

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