にせものキスマーク

谷田七重

小説

1,196文字

私にもこんな時期があったようななかったような。掌編です。

 夢の中でお告げがあった、──つま先、かかと、あしのうらまで、椿油で湿すとよいでしょう。
 たしかに、おしゃれはつま先からだって、よく言うもんね。その日の夜からお風呂上がり、夢のお告げどおりにしてみたら、スリッパが変なにおいになってしまった。スリッパは捨てたけれど、足だけふっくらつやつやになって、それからは、椿油をうすく擦りこんで、ティッシュでようく押さえることにした。何より、はじめての〈見えないおしゃれ〉に浮かれていた。
 そんなお年頃のわたしだから、寝ているあいだに首すじを蚊に刺されても、キスマークに見えなくもないような気がして、むしろ気に入ってしまって、あえて見せつけるように髪をアップにして大学へ行った。
 ──女の子は誰だって一度は、人から〈あばずれ〉と思われたいものなんです。
 あたまの中で口ずさみながら、まるでほんとうにそんな古い歌でもあったような気すらして、大学へ着いたころにはもう有頂天だった。
 痒いけれど爪で掻くのは我慢、しっとりと落ち着いて、動作はやわらかく。そう、みだらな淑女のイメージで。
 でもお友だちも誰も、にせものキスマークに気づいてくれなかった。なんだか物足りなくて、講義が終わると、わたしは街をぶらついた。
「お茶しませんか」
 はじめてナンパされてまぶしいような目を上げたわたしは、内心どきどきしながらも、ええ、と落ち着きはらって、口元を笑みに取りつくろった。
 
 ホテルに入るなりいきなりキスされて、男の唇が唇から首すじへと移っていった。
「あ、蚊に刺されちゃってる、かわいい」
 ぼっと顔が赤くなってしまった。男はにせものキスマークをぺろりと舐めた。同時に服をまくり上げられそうになって、わたしは思わず身を引いた。
「どうしたの?」
 男は訊く、その目はわたしを通り越してどこか遠くを見ているようで、あ、これは完全にスイッチ入っちゃってるな、とわたしにだってわかる。
「怖くなっちゃった?」
 うん、と言ってもたぶん、大丈夫、やさしくするから、とか言われてなしくずしにされてしまう。
 わたしは男を突き飛ばすと、床に落ちたバッグを引っつかんで、文字どおり逃げだした。
 
 ホテル街をひとりで歩いていると、道ゆく男の人たちにじろじろ眺め回される。
 歩きながらわたしは髪をほどき、幻滅だわ、とつぶやいた。幻滅。
「幻滅だわ」
 もう一度つぶやいた。なぜだか悪い気はしなかった。幻滅を知ったことで、ひょいっと大人になれたような、そんな気すらした。
 
 おうちに帰って、何も知らないお母さんに「早くお風呂入んなさい」と言われてバスルームで入念に体を洗い、脱衣所で足に椿油をすり込み、つやつやとした足指をながめながら、ふと首すじに触れてみた。早くも痒みはおさまっていた。なあんだ、つまらない。あっけない、たわいない。
 そうして、また次に首すじを蚊に刺されたなら、今度は絆創膏でも貼ってみようか、だなんて、懲りずに、そう思ったりした。

2021年7月30日公開

© 2021 谷田七重

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