新婚アレルギー

常世田美穂

小説

4,601文字

【ブックショートアワード応募作】太宰治の『皮膚と心』をオマージュした短編小説。
noteではR指定になってしまった。
ある日、俺の右乳首のちょうど下に吹出物ができていた。痛くも痒くもない。だけどぼてっと存在を主張するソレ、気にならないはずがない。妻に見せてみるが、そのうち治るわよと軽視されてしまう。舐めてあげようか? なぁんて、ほんのりエロスを添えて。

 

 

 

なんだこれは。小豆みたいな吹出物が、右乳首のちょうど下にある。よく見ると、その吹出物のまわりにも、プツプツ小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点していて、「キモッ」と思わず声が出た。そのときは痛くも痒くもなかった。なんともなかった。せっかくの休日。大好きな銭湯で羽をのばしていたのに、なんという仕打ち。憎らしくなってお風呂セットの中からボディタオルを引っ張り出し、ゴシゴシと掻いた。刺激がいまいちなので足の角質を取る軽石を使ってみた。流石に痛い。でも気持ちいいかもしれない。痛気持ちいい。癖になりそうだからここらでやめておこうと思ったが手が止まらない。ああ、やべぇくらいに赤くなっている。キモッ。だけど止められない。隣でチンチンを洗っていたおじいちゃんが「アンタ真っ赤になっとるよ、大丈夫かえ?」って声をかけてくれなかったら、たぶん延々とやってた。あ、はい。ちょっと細胞の危機でした。すみませんありがとうございます。わけのわからない謝罪とお礼をしてから、一緒になってチンチンを洗うことに専念した。やっぱり何ごともほどほどがちょうどいいね。

 

家に帰っても全く痛みも痒みもなかったのだけど、俺は変貌してしまった自分の身体が気になってトレーナーを脱ぎ捨て寝室の鏡の前で仁王立ちしていた。あまり筋肉がつくほうじゃないから、全身を映すと少しのコンプレックス。右乳首の下が悲惨なことになっている。キモッ。掻きすぎた自覚はある。キモいしうわって思うのに凝視してしまう。見たくないのに見てしまう心理。赤い斑点に言いようのない湿った気持ち。

「ちょっと、ただいまくらい言ってよ」

頰を膨らませながら俺の後ろを陣取った女は、先月、俺の嫁になったばかりだ。鏡越しに目が合うと、ふっと表情が和らぐ。本気で怒っているわけではないのだ。日が暮れるのも早くなったというのに薄着だ。白いキャミソールに下はスウェットというラフな出で立ち。きらいじゃない。そんな無防備さがいいんだと思っていた結婚前。結婚後でもときめいている自分に安心する。恋愛と結婚は違うって聞いていたから。新婚だから浮かれてんだよなんて声が聞こえてきそうだ。

「キモッ」

嫁は相変わらず鏡越しに俺の身体を眺めて言った。引くぐらい真っ赤なのだからしょうがない。そっと近づいてきて、後ろから手を回して、赤くなった俺の右乳首の下に触れる。嫁のネイルも真っ赤だった。ところどころ指で押したり、なぞったりして、それから俺の身体をあちこち向かせて、眉をひそめたりしてはやっぱり「キモッ」と言って、

「痒くない?」

と聞いた。俺は痒くない、と答えた。ちっとも、なんともなかった。だけどもなんともないわけはないはずで、俺は弱気に「ジンマシンかな?」とテキトーなことを言ってみた。

「ジンマシンなら痒いはずでしょ? かぶれたんじゃない? 放っておけば治るわよ。アナタ丈夫だもの」

彼女の楽観的な様は見ていて気持ちがいいのだが、もうちょっと、心配してくれてもいいのではないだろうか。痛くも痒くもないけれど、軽く投げられてしまうと気持ちだけはむず痒い。掻きたい。このなんともいえない感情を、引っ掻きたい。

「舐めてあげようか?」

「へ?」

意地の悪い笑顔が真下にある。嫁はぎゅうっと俺に抱きついてきて、右乳首に頬ずりしてみせた。彼女は美人だ。誰もが綺麗だと言う。自慢の嫁だ。その上エロい。新婚なのだから燃え上がってしまうこと請けあい。昨夜だって明け方までシてた。休みの前日は大抵、オール。向こうが求めてくるのだから男としてはお応えしなければならないだろう。

嫁は俺をベッドに導いて猫のように上に乗ってきた。宣言通り真っ赤な吹出物を舐める。ちろちろ見え隠れする舌は視覚的には申し分ないのだけれど、もどかしいくらい刺激が足りない。もっとほしくて胸を反らせると、嫁は吐息で笑って髪を掻き上げた。それからその真っ赤なネイルで俺の乳首を摘んで指の腹でこねくりまわす。そう、その刺激がほしいのを知っている。もっと。足りない。もっと。

「ね、舐めて」

「舐めてるよ?」

「そこじゃなくて、乳首」

「だぁめ」

上目遣いで悪戯に笑う。吹出物は痛くも痒くもないのに痒いような気持ち。じんわりと広がっていく刺激にざわざわと胸をおびやかされて、俺は沈む。表面上は痛くも痒くもないのに、なんだか、痒いような気持ち。

 

シャツに乳首が擦れて痛い。散々弄られたのだから当然だろうか。リセットして出社したい月曜日。気分は昨夜の嫁の痴態に引きずられたままだった。

「大丈夫ですか?」

オフィスの入り口で唸っていると後輩の女の子に声をかけられる。入社二年目の、まだ初々しい感じ。当時は俺が指導係だったから、今でも懐いてくれる。シュッとした嫁とは対照的な、丸みを帯びた顔。小動物みたいな愛らしさがある。「大丈夫」と言いながら、俺はこの子に乳首を舐められる妄想をしていた。実はけっこう好みの顔なんだ。だから、ヤバイ。俺、本当は綺麗系より可愛い系が好きなんだよ。

「顔赤いですよ」

どうしよう、舐められたい。欲望ってふとしたときに、箍がはずれてしまう。新婚だぞ俺は。美人の嫁がいるんだぞ。いくら乳首が好きだからって、後輩とあれこれしようなんてサイテーだぞ。でも、妄想するだけなら。絶対に誰にも言わないから。「俺のちくび、なめて」なんて。

「だいじょぶだいじょーぶ」

空元気で押しきって拳を天に掲げる。「ウェーイ、今日も一日がんばろーう!」パリピみたいなノリで大股に歩き出したらまたシャツに乳首が擦れて変な声をあげそうになった。あ、イイ。少し快楽に染まった思考を瞬時に搔き消すが、頭の隅でははっきりと、こう訴えている。もっと。足りない、と。

 

事あるごとに乳首への妄想に馳せていたら一日が終わっていた。吹出物はやはりなんともないのだが、右乳首はじんじん痛痒い。家についたら寝室に直行。鏡の前で全身を眺める。昨日より赤の範囲が広がっている。確実に。右乳首から扇のように、点々と散らばって広がっている。

「ちょっとぉ、ただいまくらい言ってよ」

嫁の不満声を背中で聞きながら俺は自分の身体を凝視していた。「おお、ごめん」とうわの空で返し、視線は鏡の中だ。さすがにマズイんじゃないか。何かの病気なのではないか。ジンマシンにしろかぶれにしろ、取り返しのつかない事態になるんじゃないか。舐められて悪化したんだから、性病か何かか。もしかしたら嫁にも移ってしまうんじゃないかとか。

「明日、病院行こうか」

俺に抱きつきながら嫁は言った。今日のネイルは真っ赤ではなく、紫がかった赤になっている。人差し指にパールがついていて、妙に艶かしく光っていた。その指の腹で嫁は俺の吹出物を撫でた。弱った部分を慈しんでくれるのはいいが、本当に撫でてほしいのはそこじゃない。大きく息を吐く。今夜の触れ合いは我慢しなければならないかもしれない。

 

半休を取って皮膚科を受診した。ひとりで大丈夫だと言ったのだけど、嫁は一緒に行くと言い張った。たいして心配していなかったのに、あれはフリだったのだろうか。俺が不安にならないようにわざと楽観的だったのか。真相はわからないけれど、長い待ち時間に隣にいてくれる存在は、心強い。なんだかいろいろ、考えてしまいそうだから。

いろいろというのは、マイナスなことばかりだ。病院にくると、嫌でも余計なことを考えてしまう。大抵、弱っているときに訪れるのだから、負のスパイラルに陥ってしまうのは仕方がないと思う。不治の病とか、何万人にひとりの珍しい病気だとか、余命◯◯年の悲劇だとか、きっとなんともないだろうに、最悪の事態を想定して、万が一に備えて覚悟してしまう。最悪の事態を想定して、安心したい。幸せの絶頂のさなかに、不運。俺の選択は本当にこれでよかったのだろうか。押しに押されて、逆プロポーズにオッケーしたのは、まぁ美人だし料理上手だしサバサバしているし夜は申し分ないしちょっとくらいのわがままは可愛いもんだし、そろそろ身を固めとかないと親もうるさいし結婚は勢いだっていうし、本当は綺麗系より可愛い系のほうがタイプだけれど特に不満はないし。っていうノリだった。人生は深く考えたら負けだ。嫁は嫁で勢い任せなところがあるから、結婚後もお互い軽いノリでやっていけるだろうと思っていた。特に不満なんてない。こうやって待ち時間にも付き添ってくれる。心細さが和らぐ。だけど、ほんの少しの違和感。ぴったり嵌らない感じ。ああ、もし余命宣告されたら、最期の時間はこいつとベッドで過ごしたいと思うのに。なぜかすれ違ってしまう感じ。全身真っ赤になった俺の身体を、乳首を、舐めてほしい。移っちゃうかもしれないけれど、愛ってやつがあればワケないでしょ?

「俺が死んだら幸せになって?」

隣の嫁の左手を握って、意味不明な告白をした。俺にとっては愛でしかなかった。美人だけどタイプではない嫁が愛おしかった。勢いとノリでしてしまった結婚でも、少なからず愛はあるのだ。少なからず。

「バカね。今が幸せじゃないとでも思っているの?」

左手の薬指には新婚の証。言葉のあや、といえばいいのか、だけど訂正する気にもなれず薄く微笑む嫁を見つめていると、視界がぼんやり霞んできた。患者でごった返す待合室に異色の俺たち。嫁は俺に顔を寄せて魔法をかけた。「痛いの痛いの、飛んでいけ」っていう、子供にかける魔法だ。額と額で痛みをわけあう。俺ってちゃんと愛されていたんだなと、今更ながらに思った。

「ていうか大袈裟」

嫁は悪戯に笑って俺の右乳首をつつく。ああ、やっぱり最期の時間は、こいつとベッドで過ごしたい。

 

「何か悪いものでも食べたんでしょう」

医師はあっけなく、病状に名前すらつけずにそう告げた。肩透かしを食らった気分。そんなもんだ。最悪を想定することで人は安心を得る。アレルギーはある? とか、最近環境変わった? とか、医師は俺の右乳首を凝視しながら聞いてくる。

「あ、結婚しました」

「なるほど、新婚さんね。おめでと」

「はい。ありがとうございます」

「赤みより乳首のほうがひどいよ。塗り薬出しておくから、セックスはほどほどにね」

「はい?」

「ほどほどに。わかった?」

「ほどほどに」

釈然とせず俺は「ほどほどに」を繰り返す。下品な笑みが付き添いの嫁に向けられる。嫁は愛想笑いもない。むしろ軽蔑の眼差しだ。こう屈しないところが好きなのだと、自覚する。美人の嫁は自慢したいのだけど見られたくないという矛盾。俺の乳首を舐める嫁の姿を、他の男に想像されたくない。大したことがないとわかった途端、ムズムズしていた身体の表面が冷静さを取り戻す。痛くも痒くもない。けれどなんだか痒いような気持ち。薬を塗れば治るだろうか。こればかりは、わからない。嫁に俺の身体の症状を説明する医師の間に割って入って嫌みったらしく「ありがとうございましたほどほどにします」と言って診察室を出た。新婚らしさを見せつけるように、腰を抱いて、顔を寄せて。でも夜のことを想像されたくはなかったから、少し後悔。痒いような気持ちはしばらく治りそうにない。

 

 

 

 

 

 

2021年7月27日公開

© 2021 常世田美穂

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