ウミ、ウマレ

応募作品

Fujiki

小説

4,000文字

破滅派合評会2021年7月(テーマ「海」)応募作。

私の中にオウムガイがすみついたのは、海の夢を見たせいに違いない。それはある種の淫夢として鮮やかに記憶に焼きついている。

頭上高く、太陽の薄い断片が揺れている。ぬるい水は見えない海藻となって全身の皮膚にまとわりついてくる。鼻にも口にもとっくに水が満ちているのに不思議と息苦しくはない。あーこれは夢なんだなと、そこで気づいて安心すると同時にどこか白けた気分になった。

海には無数の奇妙な生き物がいた。水底を覆う海藻の合間に見え隠れするわらじのような形をした虫。二本の触手を突き出し、平べったい胴体を一反木綿か魔法のじゅうたんのようにくねらせて泳ぐエビのような生物。槍を思わせる、先端のとがった殻を背負って泳ぐ巨大イカ。頭の上を大きな下あごを持ったいかにも危険な肉食魚がゆっくりと泳いでいくのも見えたけれど、夢だとわかっていたから少しも怖くはなかった。

下半身がなんだかくすぐったくて下のほうに目を向けてみると緋色と白の縞模様のオウムガイが私の中に入ってこようとしていた。くちばしから溢れる無数の細い触手がゆらゆらと波に踊る陰毛をかき分けて下向きに口を開いたいくつかの割れ目をまさぐっている。私は子どものころにおばあちゃんの家で飼っていた茶トラの猫を思い出した。名前は何だったっけ? 遠慮を知らない触手の肌ざわりが、ぺたぺたと肉球を肌に押しつけてくる感覚にどこか似ていたのかもしれない。

――その井戸はとっくに涸れている。入ったところで何もない。

私はオウムガイの表情のない点のような眼球を見つめてそう念じた。念じたところで意志が通じるかどうかはわからないけど、私の夢の中なんだからそれくらいできたっていい。それでもオウムガイは聞いてくれなくて、あるいは聞いても理解する能力がないのかもしれないけれど、ずるずると触手を吐き出しては私の内側に容赦なく送り込んでくる。股間から脊椎に電流が走り、私が水の中で声にならない声をあげると、口からも、鼻からも、眼窩と眼球の隙間からも細い触手がニョロニョロとわき出した。私は水中を漂うだけの穴のあいたずだ袋に過ぎなかった。水が穴から常に漏れ出すばかりで、中に何かを閉じ込めておくことさえできない役立たずの不毛な袋。このまま散り散りにほつれて小魚の餌になってもかまわない。そう思ったところで目が覚めた。

 

見たばかりの夢の話をする私を夫はいつもの優しい無関心で聞き流していた。どうせ頭のおかしな女のたわごとだ。下手に刺激することなく、長年連れ添った理解ある夫として傾聴のそぶりを見せてあげよう。私の扱いに慣れた夫はニコニコとトーストを頬張りながら私に向かってうなずき、そのくせ視線はテーブルの向こうのテレビのニュースをとらえていた。それでも、目が覚めたあともオウムガイが私のおなかの中にいるのと打ち明けたとき、夫はパンくずをこぼして露骨に不快なまなざしで私の顔をチラリと見た。

「おなかの中のオウムガイってのは、妊娠を象徴してるのかな?」

大学で心理学の教授をしている夫は頼んでもいないのに私の夢を分析してわかったつもりのコメントをするのが習慣である。私たちのあいだに子どもはいないから、子どもとか妊娠といった話題に触れると余計に敏感になるらしい。

「象徴とか、そういうのはわからない。でも、今も私の中にいることは間違いない」

そう言って私がおなかをさすると、それに応えるようにオウムガイが殻を子宮の内側に何度か打ちつけた。コポコポ。と、おなかが柔らかい音を立てる。

「やっぱり、妊娠の願望を意味してると僕は思うけどな。現実で子どもを作れなかったぶん、君はオウムガイの夢というメタファーを通して妊娠願望を充たそうとしている。その話を僕にするのはある種のあてつけだ」

「あなたに非があったわけじゃないってことはわかってるでしょう」

「そりゃそうだけど、君の無意識はそうは思っていない。僕のせいにして僕を責めたほうが君にとっては楽だからね」

「責めてなんかないじゃない」

「君自身は気づいていないだろうけど、オウムガイの夢の話を持ち出すこと自体が僕に対する無意識の非難だよ」

「文句なら私の無意識に言ってちょうだい。私は私の無意識まで面倒見きれないから」

夫はひとしきり私を言い負かす理論武装を披露したあと大学に向かい、私は再びオウムガイと二人きりになった。オウムガイは象徴やメタファーなんかじゃない。実体を伴った現実だ。一度は干上がった私の子宮に居心地よく収まって、今もまさに遊泳を続けている。

なんだかんだ言っても、寛大で包容力のある夫だということはわかっている。彼と出会ったとき、私は既に傷物だった。昔、別の男と交際中に私は一度身ごもったことがある。早すぎた妊娠を中絶手術でかきだそうとしたとき、医者は私の子宮の内側まで傷つけてしまった。当時、大学院生だった夫は私が妊娠の難しい体だと理解した上で私を受け入れてくれた。

「結婚という制度は生殖を社会的に認められたものにするために利用されてきたけど、僕は別に生殖のために結婚したいわけじゃない。僕には子どもなんかよりもこの世界に残したい研究がたくさんある。育児なんかに人生を犠牲にされることなく、君と一緒に自分の人生を謳歌したい」あの頃は私も、彼の理屈っぽい話し方を聞くだけで肌がゾクゾクしたものだった。

それでも結婚一周年が過ぎた頃、私は彼の子どもを妊娠した。最初、妊娠がわかったとき、彼も彼の実家の両親もそれまでの気取った仮面をかなぐり捨てて子どもみたいに大喜びした。来たるべき子どもの将来を饒舌に語る彼は、自分の研究なんか放り出して喜んで自分の人生を自分の子どものために捧げるつもりのようだった。子どもを塾や私学に通わせるためであれば一生マンション暮らしでもかまわないし、研究の時間を割いて非常勤で教えることもいとわない。自分は後部座席に身を引いて、息子(あるいは娘)の望むとおりにハンドルを握らせてやりたい。手のひらを返したような夫の態度の豹変ぶりは、どこか空恐ろしく感じられるくらいだった。

結局、二度目に妊娠した子どもも病院でかきだしてもらうことになった。股間から血が漏れ出して、子宮外妊娠がわかったためだ。私の傷物の子宮は、やはり子どもをちゃんと中に入れておくことさえできなかった。もちろん夫の側に非はないことは理解しているし、責めるつもりもない。彼を失望させてしまったことに対して、三十年以上経った今も申し訳なく感じているくらいである。私は彼を慰めるどころか、勝手に一人だけ頭がおかしくなって彼に余計な面倒を押しつけてしまった。だからこそ、私が子どもを作れなかったことを彼のせいにしたがっていると彼が思っていることは、あながち的外れでもないのかもしれない。たとえそれが私でなくて私の無意識、あるいは私の狂気が望んでいることだったとしても、彼にとっては同じことだろう。

 

――オナカ、スイタ。

オウムガイが私にそう訴えてきたのがわかった。じっさいに言葉が聞こえたわけではなくて、念のようなものが伝わってきたのだ。私が夢の中でさえできないことをオウムガイはやすやすとやってのけるらしい。

「どれどれ、冷蔵庫でも見てみよっか?」

冷蔵庫のチルドルームには夕飯に焼いて食べようと思っていたサンマが二尾入っていた。私は冷たくてつるつるする胴をつかみ、頭からサンマを喉の奥に押し込んだ。生のサンマはオウムガイの口に合ったようだった。

――モット、モット。

私はもう一尾も頭から丸呑みした。あーあ、また買い物に行って夕飯の材料を仕入れてこなきゃいけない。私は財布とマイバッグを持って近所の商店街に向かった。

「海野の奥さん、今日は本マグロの上等なやつが入ってるよ。今夜は刺身でどうだい?」

なじみの魚屋の旦那は私の顔を見るなりそう言った。店先に並ぶ本マグロの中トロはたしかに脂が乗っておいしそうだ。

――オサカナ、タベタイ。

オウムガイが、コポコポ、と私のおなかを鳴らして駄々をこねた。私はマグロの入ったプラスチック容器を手に取り、ラップを引きはがして短冊の中トロを呑み込んだ。ねっとりとした濃い甘味を持った脂はオウムガイを歓喜させた。

「お、奥さん……」

私は急に恥ずかしくなって、財布から出したお札を旦那の手のひらに押しつけて逃げ出した。一万円札だったか五千円札だったかもわからない。当分のあいだは魚料理は危険だ。じゃあ、お肉……そうだ。今夜はトンカツにしよう。

私は足早に肉屋に来て、ヒレ肉の切り身を二つ注文した。つやつやとしたピンク色の鹿児島産黒豚が美味しそうだった。

――オニクモイイネ!

オウムガイの声が聞こえるや否や、私は肉屋が秤に載せたヒレ肉をつかんで走って逃げた。こんな場面を見られてはいけない。そうは思いながらも、肉を頬張ったとたんに恥ずかしさと同時に満足感が私の全身に広がった。貪欲なオウムガイの食欲は私自身の食欲でもあった。

触手が私の口から何本も出てきて、私はあらゆるものを貪った。肉に野菜に魚に果物、道を歩く三毛猫からベビーカーで眠る赤ちゃんまで。オウムガイは私の中で膨れ上がり、モット! モット!と叫びながら私の内臓さえも食い破った。私はやっとの思いでマンションに引き返し、鍵をかけてソファの上に倒れ込んだ。

窓の外では、緋色の夕焼けが少しずつ宵闇に溶けていく。一日の講義を終えた夫がもうすぐ帰ってくる時間だ。私はソファの上で体をくの字に曲げたまま、夫の帰りを待った。オウムガイが成長して皮膚がはちきれたせいで、IKEAで買ったばかりのソファにはどす黒い血だまりが広がっている。体のあらゆる穴から触手がずるずると飛び出し、家じゅうの食べ物を探し回っている。私の無意識は次の餌食を待っていた。私の中から生まれた子どもは、私たちを食べ尽くして育っていく。

2021年7月19日公開

© 2021 Fujiki

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"ウミ、ウマレ"へのコメント 15

  • 投稿者 | 2021-07-22 00:01

    こんばんは、古祭玲です。
    読み終わったあと、「無意識に、主人公は酷いストレスに見舞われているのではないか」と思いました。
    母なる海からの使者・オウムガイは、主人公の自己嫌悪、子供への罪悪感の具現体として、宿主を狂わせたのでしょうか。
    的外れだったら申し訳ございません。
    読みやすく、考察が楽しい作品でした。
    素敵な物語をありがとうございます。

  • 投稿者 | 2021-07-22 14:26

    オウムガイかわいい。
    このオウムガイは涸れた井戸を食べずに残したんですかね?もしそうなら二人への天罰なのでしょうね。
    面白かったです。

  • 投稿者 | 2021-07-23 14:28

    Fujikiさんの女性を書く力がどこから来るのか知りたいです。私は男性器のことを書くのは好きですが、妊娠とか、中絶とか、そういうことは一度も書いたことがない。女性器のことはセックスの場面で書いたことはありますが。最初、私も海の底のことが書きたくて、それからなぜかソラリスのことになってしまいました。崖の上から後ろ向きに海に飛び込んで、だんだん水温が低くなっていく、みたいな感じ。Fujikiさんの文章を読んでいると安心します。完成された文体だと思います。

  • 投稿者 | 2021-07-23 18:32

    社会的な行為としての婚姻と生物的な行為としての生殖が常に抱える齟齬を短い文章の中で見事に描き出すとともに、オウムガイとの融合を蠱惑的に描写している秀作だと思います。
    冒頭、あの春画を連想させるのも作者の意図通りなのでしょう。
    ただ一点、妊娠の確定診断には超音波画像検査が必須だと思うので、その時点で子宮外妊娠は判明すると思います。違っていたらすみません。

  • 投稿者 | 2021-07-23 21:05

    おぞましく恐ろしい物語のはずなのですが、どこか笑いを誘われました。海野氏が主人公のせいなのか。あるいはオウムガイの可愛らしさのせいかもしれません。
    冒頭の描写はとてもエロティックです。ヌルヌルの無数の細かい触手が体内に入り体外に出て行く、経験したことはないけれど想像しただけでエッチです。牧野さんの『蛸やったら』を思い出しました。
    夫婦の会話がグロテスクで、特に夫が確信犯的に妻を追い詰める描写が容赦ないですね。子供を持てなかったことそのものよりも、偽善の論理が破綻した夫の正体を見てしまったことが妻を壊したのだろうと読みしました。
    オウムガイはすべてを食べ尽くす獰猛な化け物ですが、「枯れた井戸」としての子宮のあがき、また壊れた心のうめきなのかといつもながらの緻密な描写から思いました。

    子宮外妊娠の措置が「かきだす」となっているのですが、子宮外の妊娠なのだからかきだすことはしないのでは。今は薬物投与が主流で重症の場合は手術だったと思います。
    個人的には中絶体験のある女性が自分を「傷物」と思い込むようなことがないようにと願います。こういうことを言うと「ポリコレ」と思われてしまうかも、と思ってしまう自分の発想も切ない。オウムガイに食いつくされてしまいたいです。

  • 投稿者 | 2021-07-25 11:52

    インテリゲンチャは日常の会話でこんな話をするんですかね。過去を受け入れてることに対していちいち明確な理由付けをする夫や妻は何だか嫌だなと思いました。それと、海野って名字! 波野さんは知ってるとかと思いますが信州では一般的な苗字なんですよね笑

  • 投稿者 | 2021-07-25 16:14

    オウムガイってしゃべりそうですもんね。なんか。海の生物の中でも人の言葉しゃべりそうランキングの上位ですよね。そもそもオウムガイって外見が脳みそになんか色々とびらびらが付いてるのが浮いてるみたいだし。まあ、それが体内に入ったらこうなるかなって思います。わかりみ!

  • 投稿者 | 2021-07-25 17:51

    最後のシーンが特に印象に残りました。恐ろしいようなシーンなのに美しさとどこか同居している感じがしました。

  • 投稿者 | 2021-07-25 22:48

    オウムガイってなんの暗喩だろ? と思って読み始めると、なるほどあの器具からのイメージなんですね。
    男にとっては想像するしかないのですが、妊娠とは別種の体の中に入ってそのまま住み着く存在としての象徴なのかなと。

  • 編集者 | 2021-07-26 00:27

    内容の深刻さは違えど、俺の両親も、過去の小さな思い出話や他愛のない世間話をしただけでいつの間にか変な意地の張り合いが起き(しかも日西バイリンガル放送で)最終的にキイキイ喚きあう事が何度もあったので、冒頭の痴話喧嘩のシーンが生々しく思えた。話の伝えたいことと全く違うのかも知れないが、仮にこの家庭に子どもが居ても、幸せでは無さそうだ。
    オウムガイの描写が始まって、何となく「E.T.」の主人公と宇宙人の交感の様な暖かいものを予想していたら、あんな事になってしまった。俺だったら混合進化させてしまうところだが、多分藤城さんの描写の方が「話」として正しいだろう。無意識は手に負えない。俺は(出産時に難があったが)実際に生まれてしまったオウムガイとして頑張りたい。

  • 投稿者 | 2021-07-26 01:18

    古代から生き残っている生物、今は化石でしかわからない生物の形態ってなんか不思議で魅力的なものがあると思います。より原初的な生物の形を(勝手に)読み取るからなのだろうかとも思っています。なので意志そのものというか、ただ貪欲に食べつくそうとするオウムガイというのはその不思議な見た目と相まって絶妙なイメージに思いました。
    また、ひどく冷たい感じのする夫や、痛々しい中絶手術の描写、「IKEAで買ったソファ」などという言わずもがなのディテールも作品の雰囲気を作り出すのに効果的で、詩的なイメージを中心に据えてそれを生かすためにどう小道具(と言うとあれですが)を配置すれば良いかという勉強になりました。流石です。

  • 投稿者 | 2021-07-26 09:53

    「私の中から生まれた子どもは、私たちを食べ尽くして育っていく」

    最後の一文がぞくっとしました。メタファーの使い方にいつもながら妙を感じて脱帽です。

  • 投稿者 | 2021-07-26 14:16

    主人公は海野優人さんの妻なのでしょうか? 海野、と出てきたので「おっ」となりました。
    夫婦の言い合いが「こういう人いるなぁ」とげんなりできて良かったです。
    リアルと、現実離れしたグロテスクな描写が上手く調和していてすごいなぁーと思いました。
    ラストが好きです。

  • 投稿者 | 2021-07-26 18:19

    海と触手は大変相性がいいということを今回は学ばせてもらいました。
    無意識を飼いならせないと内臓を食い破られるという教訓にもなります。
    そして私もオウムガイになりたいです。
    ナンモイエネエ。チョウ、キモチイイ。

  • 投稿者 | 2021-07-26 20:53

    うんの ですよね>靖さん

    なんつーか、話の入りからして上手いんだよね。ぬるぬると引き込んでいくその感じはやはり上手い。

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