ディンゴ・ブルー 8

ディンゴ・ブルー(第8話)

鈴木沢雉

小説

5,035文字

カリフォルニア州ロンポック連邦拘置所における北見誠司の接見メモ その8

前回どこまで話しましたっけ。

鵜飼に誘われた話ですね。別に、家族を恨んだりとかしてるわけじゃないですよ。姉ちゃんの進学が大事なのはわかりますし、そのためなら僕だって一肌脱ぐのも吝かじゃありません。ただ、事前に一言でも僕本人に相談はなかったのかって。それだけです。わかりますよね。

 

鵜飼のことを聞いた翌日でしたか、雄ちゃんは学校を休みました。風邪をひいたんだそうです。

僕は雄ちゃんと家が近いからプリントを渡してくれと先生に頼まれました。でも預かったプリントを雄ちゃんに届けるため雄ちゃんちのピンポンを鳴らす瞬間まで、あの女の人がでてくるということを、僕はすっかり忘れていました。だから玄関のドアが開いて、雄ちゃんのお母さんがいきなり姿を現したときは少しどきっとしました。もちろん雄ちゃんちのピンポンを押すんだから僕は当然その人の顔が出てくるのを予期すべきでした。予期できなかったのは、僕の油断というほかありません。

「これ、雄ちゃんのプリントです」

僕はプリントの束を差しだして言いました。これ、の部分は少し声が裏返ってました。

「ああ、わざわざありがとうね」

雄ちゃんのお母さんが白くて長い指の生えた両手を伸ばしてきたので、僕は思わず数ミリほど後ずさりました。でも数ミリの距離は誤差の範囲だったらしく、お母さんは難なくプリントを僕の手から引き抜きました。

「上がって雄一郎と話していく?」

と、その人は言いました。僕は怪訝な顔をしました。

「え、でも雄ちゃんは風邪なんじゃ?」

「ううん」そこで初めて雄ちゃんのお母さんはいつもの自信たっぷりな感じをひそめました。憂いの色が一条の黒髪になってそのひとの顔に垂れかかりました。「雄一郎ね、実は仮病なのよ。朝から学校に行きたくないって、いままでこんなことなかったのに」

「そうなんですか」

何があったのか知らないけれど、雄ちゃんらしくないのは確かでした。僕はそういうことなら是非にでも雄ちゃんと話していきたいと思いました。先生やお友達には黙っておいてね、と雄ちゃんのお母さんが言うので、僕はその条項に同意するのと引き換えに雄ちゃんと会うことにしました。

雄ちゃんは部屋を薄暗くして、勉強机に向かって彫像のように座っていました。ちょっと待ってね、というから雄ちゃんのお母さんはジュースかなにかを持ってくるのだろうと思い、何も言わずに待っていました。お母さんがカルピスの入ったコップを二つ持ってきて置き、後ろ手にドアを閉めて出ていったのを確認してから僕はようやく口を開きました。

「どうしたの今日は?」

雄ちゃんは答えませんでした。ただ珍しいものでも見ているか、助けを求めているか、あるいは批難をしているか、なんとも判断のしようがない顔をして僕の方を窺っていました。その目玉は小刻みに震えているような気がしました。

「北見、僕は決めたよ」

「何を?」

カーテンを閉めた室内に、囁くような二人の声が鈍く反響しました。ちょうど、カトリックの聖堂で隣同士の席に座る信者たちがひそひそ声で会話しているような、そんな音でした。

「僕はアメリカへ行く。あっちの大学に行って、エムビーエーをとってくる」

最初は雄ちゃんが何を言っているのか解りませんでした。よくよく話を整理して聞いてみたらこういうことでした。雄ちゃんはいずれお父さんの銃砲火薬店を継ぐことになる。雄ちゃんもそれでいいと思っている。ただ、漫然と親に敷かれたレールの上を進むのはご免だ。店を継ぐにしても雄ちゃんは雄ちゃんのやり方でやりたい。まずはお父さんより上に行きたい。お父さんは東大出身だ。だけど日本には東大より上の大学はない。だからアメリカに行く。アメリカに行って経営学を勉強し、帰ってきてから店を継げばいい。そういう計画をずっと考えていたというんです。

「だってさ、東大って日本でいちばんの大学だろ。それが世界でいうとどのくらいになると思う? 世界大学ランキングってのがあって、東大は四十位くらいをウロウロしてるんだって。二番手の京大が六十位以下だよ。上位の大学はほとんどアメリカかイギリスの大学さ。僕はお父さんはすごい人だと思っていた。いや今でもそうさ。たくさんのことを知ってるし、お店も上手くやって儲かってる。字はきれいだし、日曜大工もじょうずだし、ニュースとかクイズ番組を見ながらいろいろ説明してくれるんだけど、本当になんでも詳しいんだ。ショックだったのは、世界にはお父さんよりすごい人が大勢いるってことだ。アメリカで泊めてもらったお父さんの友達は東大を出たあとあっちの大学院に行ったんだって。僕が薦めた本はもう読んだ? そうそう、スマホを作って世の中を変えた会社の創業者の本。お父さんの友達はね、その会社の仕事をしてるんだって。すごいと思わないか? 日本人でもそんなにできるんだって知ったら、僕もう居ても立ってもいられなくなって」

「それで、学校を休んだのかい」

「きょう一日ずっと考えてたんだ。どうやったらアメリカの大学に行けるかってね。考えれば考えるほどわからなくって。ネットでも調べたんだけど、お金のこととか、英語のこととか。でもそうじゃない、僕が知りたいのは今すぐになにかできないかってことなんだ。来年や、何年か後とかじゃなくて」

ゲーム機の電源は落とされ、テレビ画面はまっ暗でした。ただこっちを向いているつや消しの液晶パネルに、僕の姿がぼんやりと映しだされていました。

さっき雄ちゃんのお母さんに上がっていかないかと言われたときは、あわよくば鵜飼いの日帰り旅行についてなにか聞いていないか雄ちゃんに確認しようという算段でしたが、どうもそれどころの話ではなくなってしまいました。

「でもしょうがないでしょ。明日からアメリカへ行けるわけじゃないし」

「わかってる。わかってるさ。それでも、何かをしていないと僕は耐えられないんだ。あっちのことを見てきちゃったんだから」

雄ちゃんは座っている学習机の椅子をぎしぎしと小刻みに動かしました。僕は雄ちゃんが向こうでなにか悪い病気にでもかかったのではないかと思いました。

「だったら明日から学校に来なよ。小学校もちゃんと卒業してないのに、アメリカの大学なんか行けるわけないでしょ」

「うん、うん」雄ちゃんは苦痛に歪んだような顔をして、何度もうなずきました。「留学のことについてはもう一度、お父さんやお母さんとよく話してみるつもりだ」

「それがいいよ」

とは言ったものの、もう雄ちゃんを止めるものは無さそうに思えました。雄ちゃんは誰が何と言おうとアメリカに行くでしょう。雄ちゃんには夢を実現するだけの能力も、お金も、家庭環境も、あらゆるものが揃っていました。僕はそれを羨ましいとは思いませんでした。僕にないものを、雄ちゃんが持っているのは物心ついたときから当然だったからです。

 

雄ちゃんちを辞するときは玄関から出て、広域農道を回って帰りました。何日か前から、隣の家の裏手に突き出した庇へキイロスズメバチが巣を作り始めたからです。駆除してもらうか、スズメバチが営巣を終えるまでショートカットは利用できません。

道を歩きながら、僕はゆうべ見たイヤな夢を思い出しました。

どうしてあんな夢を見たのかわかりません。幸いにして僕には立派な漢字の名前があるし、雄ちゃんとは本当に二週間違いの生まれなのです。あの夢には一片たりとも事実がありません。大丈夫、疲れているんだ、と僕は自分に言い聞かせました。

そして僕は車通りのほとんどない農道の先を、一匹のイタチが横断するのを見ながら思いました。現状はあの悪夢よりはずっといい。僕んちには雄ちゃんちにないものがいくつもある。最新型のケータイ、柴犬のイチ。そしてなによりもお母さんです。雄ちゃんのお母さんはすらっと細くて色が白くていつもきれいな洋服を着ているのだけど、僕はその人を美人だとは一度も思ったことがありません。もちろん僕のお母さんだってとりたてて美人だと思ったことはないけども、毎日僕たちのご飯を作ったり僕たちのうんこが付いたパンツを洗っくれたり、家の掃除をしたりするという直接のかかわりを別にしたとしても、やはりお母さんの代わりになる人はいないんです。

もし、僕が病院で雄ちゃんと取り違えられて雄ちゃんのお母さんに雄ちゃん雄ちゃんと呼ばれ、おっぱいをげっぷが出るまで飲まされて、うんちの付いたおむつを何百回何千回と取り替えられたら、僕もさすがに本当のお母さんより雄ちゃんのお母さんに愛着を感じるようになったのでしょうか。僕はそうは思いません。過ごした時間の長さとか、かかわりの濃密さとか、可算的な要素は問題じゃないんです。これはもう親を選べない子供の宿命といってもいいでしょう。

もちろん、お母さんへの愛着を言葉や態度にはできません。そんなのを人前でやったりしたらマザコンマザコンとばかにされるに決まっているので、お母さんへの思いは僕ひとりの心の中にしまっていました。この秘密主義の唯一の欠点は、肝心のお母さん本人に僕の気持ちを伝えられないことで、きっとお母さんは毎日毎日ごはんやらうんこのついたパンツやらお風呂やら掃除やら気の遠くなるような労力をかけて世話をしてやってるのに感謝の言葉ひとつもなくて薄情な息子だなあと僕のことを思っていたに違いありません。違いないけれども、やはり感謝を口に出したり赤ちゃんでもないのにお母さんに甘えたりというのはどうもこっ恥ずかしくてやっていられない。とにかく、僕にとってお母さんは半透明の色の付いた空気みたいなもので、ないと困るけれども意識して吸ってるわけでもなく、かといって完全に透明なわけではないというなんだかものすごく中途半端な存在でした。お母さんが良い母親といえるのかどうかはわかりません。が、少なくとも虐待されたりネグレクトされたりした記憶はないので、僕は親に恵まれて生まれてきたといってもいいでしょう。

 

よく、僕みたいな犯罪者はきっと家庭環境も最悪だったに違いないと決めつけて、家族のことを調べてくる人もいます。彼らにとっては僕の家族があまりに普通なのが納得いかないのでしょう、子供の頃に虐待されたりネグレクトされたりしなかったか、としつこく聞いてきたりします。

記者さんは違うようですけどね。あまりにそういう人が多いので僕の方もすっかり慣れてしまい、ついおざなりな返事をしてしまったこともあります。そうしたら翌月、週刊誌に僕が虐待されて育った、みたいな記事が出まして、とても往生しました。親に申し訳なかったです。すっかり悪者にされて。僕は接見に来た弁護士さんや他社の記者さんにあれは捏造記事だと訴えたんですが、結局訂正も撤回もされないままです。

繰り返して言いますが、僕の両親は良い人たちです。僕はごく普通の家庭に生まれ育ちました。ただいけないのは僕一人です。僕が犯した犯罪については、家族の誰にも責任はなく、僕だけが責めを負うべきなんです。家族には迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っています。

 

その日は久し振りに一人でイチの散歩に行きました。

台所の棚から煮干しの袋を出して、煮干しを五、六尾ほどポケットに入れていきます。イチは煮干しが好きでした。散歩の途中におやつとしてあげるのに、以前は十匹も二十匹も持っていったものでしたが、煮干しって意外とカロリーも塩分も高くて、たくさんあげない方がいいって聞いたので、一度にあげるのはせいぜい五、六尾くらいにしました。

そうそう、青魚はDHAとかEPAとかが豊富で、人間の身体にもいいっていいますよね。でも何事も過ぎたるはなお及ばざるが如しっていうとおりで、青魚もプリン体が多いので食べ過ぎるとよくないそうです。さかなクンっていますよね。あの人も魚の食べ過ぎで尿管結石になったそうです。

山には入らず、ずっと山沿いの用水路脇を歩きました。はやるイチを抑えてリードを引き、時たま煮干しを一尾やります。用水路には澄んだ水が流れていて、時々ウグイなんかが泳いでいます。家から一キロ先くらいのところに大きな農家があって、垣根越しに鳥小屋が見えました。鳥小屋といってもちょっとした納屋くらいの大きさがあって、チャボや烏骨鶏に加えて立派なギンケイなんかも飼われていました。一人でイチの散歩にくるときは、この鳥小屋を折り返し地点に設定していました。

2021年5月22日公開

作品集『ディンゴ・ブルー』最新話 (全8話)

© 2021 鈴木沢雉

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