失くしたピアスのもう片方の側

千本松由季

小説

5,259文字

「知らなかったんだ」というお題に挑戦しました。#ネムキリスペクト

高校卒業後、主人公は心臓の大手術を受ける。生まれ変わったように急に大人になった彼は、思慕する高校の美術教師に会いに行く。主人公は彼女の手ほどきで無事、童貞喪失を果たす。

「知らなかったんだ!」

「知らなかったんだ、で済むことじゃないわよ!」

「知らなかったんだ、としても駄目なんだったら、どうすればよかったんですか?」

「知らなかったんだ、としても、それを言う前に私に聞けばよかったでしょ!」

 

 それが先生とした初めてのかなり本気の喧嘩だった。

 

「先生、覚えてますか? 俺達部室で口論になって。二人共、熱くなって」

「覚えてる。……あれって一体、何が原因だったのかしらね?」

「俺は覚えてない」

「私も覚えてない」

俺達は笑った。喧嘩に夢中になって、原因は何処かにばたばた飛んで行った。

 病室に先生は時々、花を持って来てくれる。菊みたいな単純な花なら五本とかくらいで、ちょっと大き目で、ふりふりしてるのだったら、一本とかだった。

 俺の心臓には生まれつきの疾患があった。ここまでもったのが奇跡だと医者に言われた。高校を卒業して直ぐ、俺は大手術を受けた。

 

 先生は美術の先生で、美術部の顧問で、俺は一年から美術部で、三年になって、担任になって、俺は嬉しかった。彼女のことはクラスの中で一番よく知ってる。俺は誇らしかった。

 

「松尾君。退院したら何がしたい?」

「今までできなかったこと。走ったり。泳いだり。飛んだり。跳ねたり」

何だか先生は黙ってしまった。

「あと、犬が飼いたい」

そんな普通のことができなかったんだ、って悲しいと思ってるのかな? 

 何か違う事を言おうと思った。

「先生、新しいクラスどうですか? 担任、一年生なんでしょう?」

先生は頷いた。

「松尾君。いつも言うの忘れちゃうんだけど、もう先生は止めようよ」

先生じゃない先生は、俺には想像がつかなかった。

今度は俺が黙ってしまった。

 

 先生が担任になって、生徒を平等に、自分の子供みたいに可愛がってくれて、いつも笑顔で。それまでそんな先生はいなかったから、彼女はいつも人気があった。

 他の女の先生みたいに地味じゃなくて、服はひらひらしたのが多くて、髪にはパーマがかかって、側に行くと、いい匂いがした。一番香りのいい薔薇の香りを、ベビーパウダーでぼかしたような香りだった。

 先生の左手の薬指にはいつも、金の指輪があった。特に部活の時、俺は先生が絵筆を握る、もう片方の側の手の、その光る指輪を焦点の合わない目で、その金色だけを感じていた。

 

「先生が先生じゃなかったら、どうなるんですか?」

「亜美」

「そしたら俺だって」

「麗辞【れいじ】」

 先生、じゃないや、亜美は、俺の名前を呼んでくれた。俺は自分の名前が嫌いで、親はどうせ長生きできないなら、名前だけは派手にしようと思ったらしい。俺まだ生きてるし、名前そのまんまだし。

「私、ここに来るの、いい息抜きになるのよ。『風立ちぬ』ってあったじゃない? 小説に。あれみたい」

「俺は知らない。そんな小説。どんな話ですか?」

「話は覚えてないけど、病院の話。タイトルがいいでしょう?」

いい加減だな、先生の癖に、ってもうそうじゃないのか。

 

 卒業して、それは春で、手術を受けて、夏で、それから秋になって、それでも亜美は時々来てくれた。暇だからその『風立ちぬ』を読んでみた。ネットですぐ見付かった。長い話だったから大変だったけど、読んで亜美にストーリーを教えてあげた。

「なんか、女の人が結核で、白樺のある病院に入院してて、その恋人が看病みたいにする話。でもその人何年も病院にいるんだよ。……俺っていつ退院できるんだろう?」

 俺は記憶のある所までさかのぼって、さかのぼってもやっぱり俺は早死にするんだと思ってた。二年とか三年とかそのくらいで。小学校が終っても、中学校が終わっても、高校生になっても、やっぱり二年とか三年とかそのくらいで死ぬんだと思っていた。

 

 親には内緒だけど、俺は遺言を半年に一回とかそのくらいのペースで新しいのを書いて、机の中にしまっておいた。大したことは書いてないんだけど、親に感謝するとかそんなこと。いつも半年前に書いたものを見るたび、俺の心が成長しているのが分かった。

 

 一か月とかそのくらい亜美は現れなかった。メールしても返事がなかった。俺はその間に、病院の人達がびっくりするほど体力も付けて、体重も増えた。今にも死にそうな病人から、立派な若者に変身していた。青白い病気の俺の中から、本物の俺が現れた。

 両親には、男前だった俺の祖父に似てきた、と言って喜ばれた。気持ちも晴れやかになって、返事の来ないと分かってる亜美に色んなメールをした。自撮りして写真も送った。男前の俺。

 

 退院の日が決まった。俺はすぐ亜美にメールした。返事が来なかったから、電話をした。電話を取らないのは分かってたけど、留守電に入れた。

「俺、退院したら亜美に会いたい。学校と病院以外の所で会いたい」

 

 冬の一番寒い時に病院を出された。おまけに雪まで降り出した。退院の日、両親はいつもみたいに、俺を大事に厚いコートでくるもうとしたけど、俺にはもうそんなのいらなかった。病院の人達に挨拶をして、そこを出ると、広い病院の前庭で、俺は雪を蹴って走り回った。母はいつものように俺を止めようとして、止めようとした母を父が止めていた。

 三年以上先の将来を考えたことのない俺にとって、将来のことを考えるのは大変だった。たった一つ心の中で思ってたのは、一生分の心配をさせた両親になにかしてあげることだった。なんだかはまだ分からない。

 

 ぽつんと一つのメールが来た。亜美だった。学校と病院以外の所で会いましょう、と書いてあった。俺が選んだのは、学校と病院の中間みたいな所にある、格好いいカフェだった。ネットで調べて見当を付けて、実際現地に行って下見をした。俺がもっとずっと男前に見えるような、明るい日差しの入るカフェに決めた。

 

 その日、いつもより三時間も早く目が覚めてしまった。浮いた時間を、何を着て行くか考えるのに使った。体格が変わったので、服は全部買いなおさないといけなくて、だから大した選択肢はなかったんだけど。

 

 冷たいみぞれが降っていた。亜美はなかなか現れなかった。俺はなんとなく、昔のことを考えていた。死ぬことはいつも考えていたから、死とはいつも友達だった。でも、酷い苦痛の中で死ぬのだけは怖かった。 

 彼女は三十分くらい遅れて、寒そうにして入って来た。髪を後ろで束ねて、あまり化粧っ気もなくて、ほんとに高校の先生みたく見えた。

 俺のことは目に入ってないみたいで、手を振ってもまだ目に入ってないみたいで、俺は席を立って、どんどん近付いて行って、彼女の冷たい手を握った。

「松尾君?」

「松尾君じゃないでしょ。こっちに座って!」

俺はメニューを渡した。

「ほら、何か温かいもの」

 

 亜美は長いこと黙って、黙ってない時は、俺の姿を色んな角度から見て微笑んだ。俺も微笑み返して、彼女の黙ってるのに付き合ってあげた。それは大体四十分くらいの長いだんまりだった。

 彼女が飲み物を飲み終わって、身体が氷解して、やっと口を開いた。

「私、離婚したの……。引っ越しもして」

俺は反射的に彼女の左手を見た。何故か彼女はその手をテーブルの下に隠した。俺はテーブルに残っている、もう片方の側の手を握った。爪の中を見た。絵の具の色があった。ピンクと、オレンジの。

「先生、絵は描いてるんだ」

俺は自分で言って笑った。

「俺達、松尾君と先生に戻っちゃってるよ」

 先生は、って言うか、亜美は大抵花の絵を描いていた。透明な硝子の花瓶に挿した。

俺のは江戸川乱歩の少年雑誌の表紙みたいなタッチで、地下道を這うネズミと一緒に這っている化け物みたいな絵を描いていた。亜美は絶対俺のモチーフは好きじゃなくて、でも何も言わなくて、俺の色彩感覚がいい、と褒めてくれた。透き通った色が好きだったから、普通は水彩だった。

 

「私、松尾君に会ったらお願いしようと思って」

なんだか考えたけど、先生にとって松尾君は俺の過去の松尾君なんだ。がりがりで血の気がなくて。待てよ、だったら、俺の今の俺は、誰なんだ?

「新しいマンションに棚を吊りたいんだけど、棚を持ちながら掛けるのを付けるのは手が三つ以上ないとできなくて」

「いいですよ。これから行きますか?」

 

 亜美のマンションは古くて、エレベーターもがたがた揺れるみたいな感じだった。でも中に入ると、やっぱりそこは亜美の部屋だった。硝子のキャビネットがあって、ひびの入ったヴィンテージのティーカップとか、小さな切子のグラスだとか、なんなんだか、なにに使うんだか見当も付かないようなものを大事に飾っている。片方失くしたピアスを大事にしてるみたいな。

 そういう人なんだ。この人は。いまいち現実感に欠けるんだ。アーティストだから? だったら俺だってそうだけど、俺はそんなんじゃない。

 俺は彼女の「松尾君」になって棚を取り付けるのを手伝って、彼女は彼女の「松尾君」にお礼にディナーを作ってくれた。

 イーゼルに描きかけの絵。花じゃない絵。朝焼けの湖にヨットが呑気に滑るような。

「亜美の絵、変わった?」

俺が「亜美」って呼んだ途端に、彼女の膝がよろめいて床に崩れ落ちた。俺は隣に座って、亜美の背中をさすった。

「……私ね、今、学校お休みしてるの。三週間だって」

「ストレス溜まってたんでしょ?」

「御免ね。松尾君……」

「俺、もう松尾君じゃないですよ」

 俺は床に座ったままの亜美を抱いた。そしたら、俺はこの人は泣き出したら止まらないタイプだなって思ったから、ちゃんと泣いてないか確かめた。そしたら、やっぱり泣きそうになって、俺は彼女の顔の前でパンって手を叩いた。そうすると泣きそうな子が泣き止むって。誰かに言われた。それは効いたみたいだった。

「麗辞、って呼んでみて」

亜美は、微笑んだり、また泣きそうになったり、俺の顔をぼーっと覗き込んだり、色々しながら、とうとう決心して、俺の名前をちゃんと呼んでくれた。

 

「麗辞があんまり変わっちゃったから」

「写真、メールしたでしょ?」

「側にいるのと存在感が違う」

俺はカウチに横になった。

「今夜はここで寝かしてもらうから」

こんな人、一人でここに置いとけない。

 

 部屋が暗くなって、うつらうつらしてきて、学校時代の亜美の、今も変わらない懐かしい残り香を感じて、映画とかなら、ここでついでに頂いちゃうんだけどな、でも俺、初心者マークだから無理かな、と思ったところに、寝室のドアが開いた。

 寝室から灯りが漏れて、麗辞、って呼ぶ声がした。夢だと思った。

「寂しくて寝られないし、麗辞をそんな所に寝かすの嫌だし」

 夢にしてはいいせりふだな。俺はまた目を閉じた。部屋の灯りが煌々と点いて、誰かが俺の腕を強く掴む。

「麗辞、私が呼んでるのに!」

「……知らかなったんだ。夢かと思った」

 

 寝室にはちょっと灯りが点いていて、エッチなことするには丁度いい雰囲気をかもし出してる。亜美は俺のシャツを脱がす。俺の心臓手術の痕。彼女はそこをなぞって、そこにキスをする。俺はぎこちなく彼女の着ている物を脱がす。夢に見た亜美の裸体を見て、俺の半分寝ていた物が一気に元気を取り戻す。

 恐る恐る、彼女の胸やその他の身体の部分を触る。恐る恐る、彼女の唇にキスをする……。その先は?

 俺はさっき見た絵のヨットの中で揺れているような、幸せな感覚に浸る。亜美は俺の物をくすぐるように触っている。それが気持ちよくて、目を閉じる。今朝、早く起き過ぎたのもあって、会う前に色々、亜美のことを考え過ぎて、頭が疲れていたこともあって、きっと俺はそこら辺の瞬間で真剣に寝てしまった。

 

 朝になった。亜美はいない。明るい時に寝室を見たら、やっぱり片方失くしたピアスみたいな、そんな何だか分からない物が、色々大事に飾ってあった。いつか俺が彼女の、その失くしたピアスのもう片方の側になれたらいいな、って考えてて、それは俺にしてはいい考えだな、って自分で感心してたら、亜美が入って来た。俺はまだベッドにいた。

「なんなの、夕べのあれは?」

え、なんのこと?

「途中で寝ちゃって」

なに、なんの途中?

「私達、エッチなことしてたでしょう? 中途半端なところで寝ちゃって」

そういうこと?

「知らなかったんだ!」

「知らなかったんだ、で済むことじゃないわよ!」

「知らなかったんだ、としても駄目なんだったら、どうすればよかったんですか?」

 

 亜美は黙ってごそごそベッドに入って来た。俺は頭の片方で、亜美が元気になってよかったと思ってて、もう片方の側では、俺の童貞が危機にさらされていることにおびえていた。

「俺……初めてですよ」

「知ってる」

「先生、色々教えてください」

俺は焦って俺の元気な物を亜美の濡れている所へ入れようとした。

「いきなり入れちゃ駄目よ!」

頭をはたかれた。

 

「知らなかったんだー!!!」

 

2021年5月20日公開

© 2021 千本松由季

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