UFOを操縦するカナリアボーイソプラノ 3/5

千本松由季

小説

10,361文字

カナリアだけに感染する疫病。ワクチンが足りない! 幻のソプラノ歌手、加南は不安障害を抱えながら寄付金を集めるためにコンサートツアーに出掛ける。彼女の幻覚に現れる色とりどりのカナリア。ワクチンで助かった雛達がUFOを操縦してボーイソプラノで歌いまくる。

 そんなこと信じてなかったけど、明日、彼と会うことになった。場所を決める前に、優夜に電話した。

「明日、クライアントが加南さんに会いたいそうです」

誰、それ?

「ピアノのメーカーです。ドイツの」

高級なピアノ。有名な。

「斬新な広告を創りたいそうで」

考えてみたら、私は優夜のことなんて全然知らない。井川に一緒にいってもらおう。ランチの時間に会うことにした。面倒だから、ほんとならこのホテルの中で食べたかったけど、若い警察官の懐具合が分からなかったから、会ってから決めることにした。

 部屋にいると、どうしても死んだ俳優のことを、そこここに感じるから、私は早めに、チェックアウトをした。若い女一人で、荷物もなくて、でも私には金持ちに育ったっていう独特の態度がある。オーラみたいな。ホテルの人もそれを感じて私を丁寧に扱う。

 大きな公園に入った。まだ一時間ある。太陽の影がくすぐったい。木にとまった小さな鳥が私に話しかける。グレーの身体に、胸のところだけ明るいオレンジになっている。大丈夫、カナリアを助けるから、っていってあげる。他の鳥類もみんな心配してる。

 父から電話はない。朝、吉野さんがかけてきた。それは取って、短く話をした。しばらく帰らないこと。仕事をしてること。大丈夫だっていうこと。

 さっきの小鳥のお友達が飛んできて、二人で世間話をしている。子供達が共通の小鳥の学校にいってるらしい。普通の鳥ってあんなに落ち着いているのに、鳴きカナリアはどうしてあんなに狂ったみたいに歌うんだろう? 

 私、私だって、人のことはいえない。レクイエムなのにあんなに声を張り上げる。先生に怒られる。しばらく好きなバロックを歌う。小鳥達は一緒に歌ってくれる。先生のことを思いだす。電話をして、どこか違う場所でレッスンしてくれるように頼む。家出中だから。とはいわなかった。

 井川さんから電話。渋滞で間に合いそうもありません。今どこですか? 公園。ホテルの側の。じゃあ、ホテルの前でピックアップしますから。

 私はその時間にいった。地味な国産の車がとまって、中から背の高い、素敵なスーツを着た若者が降りた。私はその人を見ているのに、彼だって気が付かない。だって、警官の制服しか見てないから。彼に笑われた。

 車に乗って、いきなり手を握られた。私は引っ込めようとする。ほんとに大丈夫か知りたいから。手を握るとそれが分かるの? 私、大丈夫? 私は知らない。カナリアを助ける。それだけ考える。カナリアを助けたい。だから仕事をしたい。歌いたい。彼はいいことだって喜んでくれる。私は大人の男を少ししか知らない。父と吉野さんと声楽の先生と。あの週刊誌読んだ。君がいなくなったのはあのせい? 父は私よりあの女優を選んだの。そんなこと誰にもいえない。しっかりしないと、しっかりしないと、しっかりしないと。私にはやることがある。食事の間中、私は静かで、彼も私の静かに付き合ってくれた。

 クライアントに会ったのは、私のエージェンシーのオフィスだった。私は本名じゃなくて、加南利亜という名で歌っていた。私の一番新しいCDのポスターが貼ってある。トラビアータ。オペラの。椿姫の。私はお姫様のような格好で、少し背中の肌を見せている。可愛いなって囁いて、井川はまた私の手を握る。テーブルの下で。彼はみんなに自分のことを、私の友人と紹介した。

 ピアノメーカーからは、四十才前くらいのドイツ人がきていて、通訳がいた。前から私のことは知っていた。一緒に働けて嬉しいといってくれた。カナリアを助けたい、ということを一番最初にいった。それにはどのくらいのお金がいるのか聞いてくれた。井川さんが例のブリーダーさんに電話して、大体のことを教えてもらった。クライアントは、大金だけど、このコマーシャルに合わせて、加南のコンサートツアーをやれば、不可能じゃない。このドイツ人はお金儲けのことをよく知ってると思った。コンサートツアーなんてやったことない。

 私のことをスカウトした優夜が、どんなCMを創りたいのか、クライアントに聞いた。誰も考えなかったこと。斬新なこと。私達はみんな黙り込んだ。井川さんが口を開いた。あれをやったらいいんですよ。一番ドラマティックなこと。渋谷の。スクランブルの。偽物の曇り空とその向こうの本物の空と太陽のスポットライト。私は歌って、人がよけて通って、信号が変わっても歌は終わらなくて。警官が何人も駆けてきた。

 優夜がいった。あんなとこ撮影許可下りるんですか? 井川がいった。日曜の早朝の日の出前とかだったら多分大丈夫ですよ。ライト点けて明るくして。ちょっと渋谷区の交通課の連中にかけてみます。井川は立って、少し離れたところで電話をかけている。

 

 電話が鳴って、電話はスカートのポケットの中にあって、なにも考えずに取ってしまった。父だった。向こうがゴメンって謝った。私はなにもいわなかった。ゴメンっていうことは、私とはもう終わりっていうことだろう。父は、加南、大丈夫? そこに誰かいるの? と聞いた。父は私のエージェントのことは前からよく知ってるから、彼にでてもらった。二人は少しの間喋ってて、そして切って。

 胸が熱くなって、頭が冷たくなった。考えちゃだめだって。混乱してる時は。ドクターにいわれたから。まだ取り返しのつくことなのかな? 考えちゃだめなのに考えた。もう取り返しのつかないことなのかな? あの女優、うちに住むのかな? そしたら私は家をでる。

 カナリアのことを考えた。でもそうしたら、お父さんのことを思いだしてしまう。カナリアの狂ったように鳴くソプラノの。私の身体中の血管が叫んでる。ここを切って。ここを切って。ここを切って。死んでしまおうって。お父さんのいない人生のことなんて、考えたことなかった。どのくらいのダメージなのか考えた。もう安心して眠るところがない。考えちゃだめ。

 こんなこと前にもたくさんあった。学校にいけなくなった時の。母みたいに病気だって分かった時の。人前で歌えなくなった時の。亡くしてしまったセントポーリアの。死んでしまったカナリアの。こんなとこで、この人達を前にして、泣くこともできない。私とお父さんだけの城が、突然崩れ落ちた。

 こんな時なのに、私は顔をしっかり上げて微笑んでいた。誰の声も耳に入ってこなかった。みんなは長いこと計算機をだしたり、電話をかけたり、忙しいみたいだった。なんでが知らないけど、井川さんまで仲間に入っていた。ドイツ人と通訳と優夜と私のエージェント。私のエージェントの名前は佐山さんという。私をスクランブルでスカウトした本人で、あれ以来ずっと私の面倒をみてくれる。音楽の大学をでていて、専攻はヴァイオリンだった。スタイリッシュで私は彼が大好きで、私の病気のこともよく分かっている。今まで人前で歌えとか、そういう無理強いは絶対しなかった。でも、彼を見ると、今までになく嬉しそうだ。やっぱり私に勇気をもって人前で歌って欲しかったんだ。

 私は下を向くと絶対、脳の血液が額に流れて、さっきの電話の「ゴメン」といった父の声を思いだすと思った。しっかりしないと。しっかりしないと。しっかりしないと。私には使命がある。カナリアを助けて、それができたら、そのあとは……その時はどうするか、その時考える。

 あの草原にまたいって。太陽に向かって吠えて。足を蛭にやられて。川の中に沈む。私有地だからね。立ち入り禁止。天使がいた。雲が浮いていた。太陽は雲の隙間から見えた。私の切れ切れの思考。みんながなにを話しているのか、さっぱり分からない。エージェントの佐山さんが、私によく分かるように、しっかり話してくれた。今度の日曜日、朝の三時、渋谷のスクランブル交差点にきて。

 

 今日はもう少し安いホテルに泊まろう。そう考えていたら、優夜が、うちのモデル用のマンションがあるから、そこに寝るといい。誰かが一緒かも知れないけど、変な奴はいないから。場所と鍵をもらった。

 少しでもお金を残して、カナリアのワクチンを買おう。マンションに着いたのはもう夜遅くて、中に入ると、誰かが二段ベッドの下に寝ていた。顔だけ洗って二段ベッドの上に寝た。

 起きたらその子が女の子で、赤毛で、遅刻しそう、どうして起こしてくれなかった、って怒るから、「I don’t know.」とだけいった。ホテルじゃなくて、マンションだと、自分で生活している気がして、ちょっとだけど、父のことを考えなくて済む。テレビをつけたら、芸能ニュースで、あの女優、若林春奈がカメラに向かって大きなダイヤモンドの指輪を見せていた。

 傷付けたくて、自分の脳を傷付けたくて、私はそのままニュースを観ていた。吉野さんがほんとに本物のヤクザだったら、私のいうことを聞いて、若林春奈を殺してくれるかな? あの草原の川に沈めて、浮かないように石を下げて、幸せな花嫁の花をいっぱい散らして、顔が醜く水で膨れて、蛭が水の中まで大勢できて、細長い蛇がきて、蛭を食べて、あの女の血を吸った蛭を蛇を食べて、蛇は女のあそこから身体に入って、生暖かい内臓から食い始めて、やがて骨だけになって、水に漂うまで。

 テレビを観ながらそんな夢想をしていた。画面に叔父さんが映った。兄は別荘にいて、ここにはいないといっている。叔父さんはわざと宝石商の名前が入っているウインドーの側に立っている。商売熱心だから。彼は兄が有名な女優と結婚するのを歓迎しているのだろう。私が井川に私が子供の頃から父のお人形だったことをばらしたらどうなるだろう? と考えた。私には、お人形には、お人形としての仁義がある。お人形としての仁義。私は誰にもそれはいわない。お人形はお人形として死ぬ。幸せなお人形として、幸せなお人形のまま死ぬ。

 

 日曜日になった。井川がきてくれた。一緒に渋谷にいった。朝の三時。まだタクシーが多い。小さめのバスみたいなのがとまってて、中にスタイリストさんがいて、ヘアメイクさんもいて、全部やってくれた。四時になった。車はみんなどこかへいってしまった。強いライトが天上からくる。カメラがクレーンに乗って私の周りをぐるぐる回る。聞いたら、車はあとから合成で走ってるようにするって。車が流れて川のようになって。歌う真似だけするのかと思ったら見えないところにマイクがあって、大きなスピーカーがあって、伴奏が流れている。

 それを聞いて、初めてなにを歌うのか知る。きっとあの打ち合わせの時、聞いてなかった、あの全然なにも聞いてなかった時の。セザール・フランクの『天使の糧』だった。途中で伴奏が消えて、ドイツ人と、エージェントの佐山さんが相談している。

「こっちの方が加南の高音部がもっと聴こえる」

佐山さんはそういって、私にフォーレの『レクイエム』を歌うようにいって、あの時着ていた、シャネルのワンピースのポケットの中に歌詞が書いてある。今、あれはどこにあるのだろう? あれがなくても歌えるけど、あの時草原で吠えてた時の私と、今の私には全く違う感情がある。玩具箱の底に捨てられた、壊れたお人形は、起き上がって、まだ生きて歌う。

 佐山さんにほんとにこの録音でCMを創るのかと聞いた。そうだ、といった。いつも先生はこれはレクイエムだから、あんまり声を張り上げてはいけない、という。私は左右を見回した。先生はいない。私は声を張り上げる作戦でいく。あとで先生に怒られる。でもその時はもう遅い。お父さんがいってた。カナリアはナイチンゲールから歌を習うんだって。先生のいうことを聞かない子もいるのかな? いるんじゃないかな? 

 スピーカーはたくさんある。私の前にも横にも後ろにも上にも。私の先生はいなくてよかったけど、ドイツ人のクライアントがうるさい。何度も途中で止められる。加南はもっと上手に歌えるはずだ、という。佐山さんが私の側にきた。

「これは教会で歌う曲だよ。覚えてる? 僕が初めて君の歌をここで聴いた時。君は空を見て、ずっと上を見て歌ってた。あれはなんだったの?」

あれはね、偽物の曇り空のキャンバスが空から裂けて、本物の青空と太陽が見えたの。

「あの時のことを思いだして」

 上から照射するライトを見上げる。病気だったけど、学校にもいけなかったけど、お父さんに守られて幸せだった。ベッドで何度もいかされて、もうだめっていって、お父さんは、もっと加南の囀るのが聴きたいって。父がいつも聞いてたカナリアの、世界チャンピョンの、狂ったような囀り。父の身体の全部を思いだした。声も匂いも。いまだに父よりいい男を見たことがない。タキシードが似合った。パーティーから帰ってきた父をよく二階から覗いていた。なんだか違う人みたいで、違う人みたいな声がして、私の知らない父の大人の世界。

 私はあの頃のことを思いだすのは嫌だった。優夜が、少し心配そうに向こうから見ている。違うことを思いだそう。優夜と一緒にデパートの屋上にいって、そこのカナリアもみんな死んでしまって、屋上にいて、太陽がでて、何千羽も何万羽もいる、天国にいる、カナリアの大合奏。

 吊るしたライトの中から不器用に黄色いカナリアが数羽落ちてくる。すぐに空に飛び上がる。偽物の夜が裂けて、本物の太陽が落ちてくる。あのデパートで見た鳥達が、渦みたいになって、色が混じって水色みたくなって、オレンジ色の部分もあって、凄く綺麗で、みんなは本物の太陽に向かう。

 私は歌い始める。私のテンポは録音された伴奏より速くなっていく。伴奏があとを追う。伴奏のテンポが変わる。どこかにレコーディング・エンジニアがいるんだ。私は私の好きなテンポで歌える。レクイエムの、全然レクイエムじゃない、レクイエムを歌う。死を悲しんで、涙を流して、天国にいく彼等を祝福する。ドイツ人のクライアントがきて私の側で歌いだす。素晴らしいテノールだった。迫力があった。そこにいるみんなが聴き入った。こんな風に歌って欲しいんだな。それはやっぱり父の好きなカナリアの、狂った最高部の、喉の転がりだった。

 やっとオーケーがでて、ドイツ人は私のことを抱いて喜んでくれた。車が道路を走り始めた。井川がきてくれる。どこで見ててくれたんだろう? 警察官の制服を着ている。きっと交通止めの手伝いをしてくれてた。何人もの交通課の警官が、井川に敬礼をする。彼って、結構位が上なのかな? 格好いいな、って思う。ほら、また警官が通りがかりに井川に敬礼する。なんだか気持ちがいい。

 私の頭の中にまださっきのレクイエムが残響している。止まらない。苦しいほど聴こえる。走り過ぎる一台一台の車から聴こえる。両手で耳を覆う。まだ聴こえる。他の音楽を聴くと止まることがある。私はどこでもいいからブティックに入る。アメリカの今時のポップスがかかっている。それを聴いていると少し落ち着いてきた。

 

 井川さんから電話がかかった。俺もう今日は終わりだから君と一緒にいられる。私はまだそのブティックにいて音楽を聴いていた。彼はそこまできてくれた。警察官の制服で。みんななんで貴方に敬礼するの? 俺はもともと渋谷区勤務で、凶悪な犯罪が多い都会から離れたくて田舎に引っ越したけど、あの連中から見ると、俺は上官なんだといった。

 警察官と歩いていると、また捕まったんじゃないかと錯覚する。いつか忘れたけど、まだ十三才とかそのくらいの時、繁華街のストリートに、作家のヘミングウェイの自殺した孫が這っていた。ヘミングウェイも自殺してる。二人は同じ病気で、それは双極性障害といって、私の病気と似ていて、孫は女優でファッションモデルで、身長が百八0センチ以上あって、完璧な美で、四十二で自殺して、祖父と同じ日で、サンタモニカで、暑い日で、七月で、発見された時はそれが誰が分からないくらいで、死因も分からないくらいで、ハッピーな虫達が死体の上を飛び回って、それは抗不安剤のオーバードースで、彼女の肌からその薬の結晶が光って、彼女の死体がストリートを這っていた。凄い速さで。それを追った。よく見た。白い蛇が何匹か彼女の身体に巻き付いていた。私は怖くはなくて、ただ見ていたいだけで、走って、なかなか追いつけなくて、とうとう彼女が止まって、白い蛇達は赤い目をしてこっちを見ていた。死臭と一緒に花園の匂いの香水の匂いが漂った。彼女は長いことそこにいて、悲しくはなくて、いなくなって、やっといなくなったって分かる、一種の幽霊みたいで、私はまだそこにいて、残り香を感じたくて、私もそのくらいの年になったら死ねるのかなって考えて。三匹の白い蛇が、彼女にしたように、私の身体に巻き付く。でも怖くはなかった。白い鱗が白よりもっと白くて、赤い目が赤よりもっと赤かった。

 そこは気が付かなかったけど、ラブホテル街で、私がそこに二時間も身動きしないで立ってて、そんなに経ってるなんて夢にも思わなかった。狂人の時間の感覚。誰かが通報して、警官が二人きた。私の脳にはまだ彼女の姿がいて、交番に連れていかれて、誰のいうことも聞こえなくて、蛇達は私の腕に絡まって静かに眠っていた。心は祝福に満ちていた。抗不安剤依存症で、アルコール依存症で。彼女の無残な死。

 私から歌がでた。一番高い声で歌った。アヴェ・マリア。祝福の歌。

 歌ったら大分落ち着いて、警官になにがあったかいった。ヘミングウェイの孫娘が自殺して、熱で破損した死体から死臭がして、でも花園の香水の匂いもして、道を白い蛇と一緒に這っていて、凄いスピードで追いつけなくて、走って、やっと追いついて、彼女がいなくなって、でも私は彼女のことを感じたくて、あそこにいて、平和だった。私は腕をだして、こんな白い蛇見たことないでしょう? こんなに赤い目見たことないでしょう? 綺麗でしょう? といったら私はすぐに病院に送られた。

 その時は父が会議中で電話が通じなくて、病院へは運転手の吉野さんがきてくれた。警官は家族がくるまで一緒に病院にいてくれて、吉野さんを見て、丁重に挨拶した。吉野さん、って呼んだ。二人とも彼のことを知ってるみたいだった。あとで考えたら不思議だった。

 

 やっぱり吉野さんってヤクザなのかな? 位が高過ぎて、警察より偉くて、警察も彼のことはどうにもできない。井川さんに聞いてみようかな? 私はまだブティックにいて、今時のアメリカのポップスを聴いていて、知ってる曲はなかったけど、いい曲はあった。井川さんは私がそこまで考えるまで待っていてくれた。ヘミングウェイの孫の。井川さんは吉野さんに会ってる。あの時、天使が雲間からでてきて、どう考えても神様を感じて、川に沈んでいた私を迎えにきてくれたあの時。

 吉野さんって何者なの? なんだ、そんなことを考えてたの? あの人は裏の社会に詳しくて、それだけ。それだけじゃ分かんない。それだけ知ってればいい。

 警察官と一緒にお茶したり食事したりできるとこは限られてる。センター街で、パトロールの警官が二人、井川さんに敬礼して通り過ぎる。気持ちいいな、そういうの。またそう思う。私達は個室のあるレストランでランチをして、彼はあの村に帰るといって、その個室で、彼はなんだか落ち着かなくて、私もなんだか落ち着かなくて、私はなにか他のことを考えようとしたけど上手くいかなくて、でもカナリアのことを思いだしたら、上手く他のことを考えるのに成功して、でもそうしたらどうしても父のことを思いだして、私に加南利亜の加南という名前をつけてくれて。もう終わり。父とはもう終わり。もう終わりなの? 井川さんが聞いた。加南、なに考えてる? これは、なんでもない。私、人前であんまり歌ったことないから。私、歌ったことないから、私、しっかりしないと。

 吉野さんから電話。彼は一日に二回くらい電話をくれる。大丈夫、私は警察の方と一緒にランチしてる。なにかしたんですか? 井川さん。あの時会ったでしょう? もう帰るところ。お嬢さん、もしよかったらマンションでも借りますか? いいの、あそこ色んな国の人がいて面白いから。

 いつもみたいに、とうとう父の話はなにもせずに電話を切った。

 帰ろうとして席を立つと、軽くだけど、彼が私のことを抱いてくれた。彼の腕が私の背中にあって、でも私は馬鹿みたいに両腕を下げたままで、恥ずかしいのと嬉しいのが半分半分くらいな気がした。

 

 ドイツのピアノメーカーの広告が完成して、スクランブル交差点でカメラが私の周りをくるくる回って、たくさんのマイクとスピーカーが不思議に宙から下がってて、車は私の側をあんまり速く動いてて、ただの線みたいに、煙みたいに、見える。空のキャンバスから覗いた太陽をずっと見て歌ってる。私の顔を上から撮る。あんなにたくさんいたカナリアは一匹も映ってない。

 ツアー開始の日、私は優夜が迎えにくるまでマンションにいた。車には私のエージェントの佐山さん、それから私の声楽の先生がいる。悪戯が見付かった子供のような気がする。先生はツアーで歌う曲を教えてくれた。私が歌うのはバロックが中心だから、バロックの歌なんてあんまりたくさんはなくて、時々フォーレみたいな新しいのもあるけど、曲はいつも歌ってるものばっかりだった。

 不思議なことに、ずっと私達の車のあとから、大きなバスがついてくる。どこまでもついてくる。私は何度も振り返る。車をとめて、私達は大きな建物の中に入っていく。見上げたら「羽田空港」と書いてある。私は逃亡を謀る。私は酷い閉所恐怖症だから、飛行機に乗ったことがない。優夜と佐山さんに左右の腕を捕まれる。暴れようか、悲鳴を上げようか、それともどっちとも一緒にやろうか、考えていると、荷物がてくるターンテーブルに大量のカナリアが乗って回っている。もっと、もっと、もっと、どんどん上から落ちてくる。

 ちゃんといったでしょ? ツアーは北海道から始まって南に降りるって。優夜がいう。そんなの聞いてなかった。大勢の人の気配がして振り向くと、十五人くらいの楽器を抱えた人達と、十人くらいの少年達がいる。私の先生がみんなの間を回って打ち合わせをしている。優夜が私に公演のパンフレットをくれる。公演の日時と場所が書いてある。全国十か所くらいある。「カナリア救済コンサート」。

 逃げられない! ターンテーブルから零れ落ちたカナリアが宙を舞う。その何百匹が私の目を見詰めている! 

 少年達が舞うカナリアを追う。子供には見える時がある。カナリアの雛がその子達の手に乗る。カナリアと一緒にボーイソプラノで歌いだす。カナリアは機械仕掛けの玩具みたいに身体を左右に動かして大きな口を開けて歌う。

 人が駆け寄ってきて、私に、加南利亜さんでしょう? と聞かれて、サインを求められる。こんなこともうずっとなかった。サインなんてずっとしてなかった。サインなんて忘れちゃったから、もらったペンで、自分の手の平で練習した。確かこんな感じだった。ちょっと子供っぽいかな? スカウトされた頃の、まだ少女だった私の。

 優夜が私を守るように、横に立っている。あの広告、昨日からオンエアされてますから。私はポケットの中にいつも入れている、抗不安薬を探す。エージェントの佐山さんが駆けてくる。加南さん、コンサートは今夜、六時からですよ。あまり飲み過ぎないように。私は飛行機が飛び上がるまで待って、薬を二錠だけ飲んだ。こんな鉄のかたまりが空を飛ぶなんて、あるわけない。うっかり窓を見たら、カナリアの黄色のとオレンジのが窓に張り付いて、四つのつぶらな瞳で私を凝視する。また、うっかり飛行機の翼を見たら、やっぱりその上に並んで、カナリアの大群が私のことを見張っている。もう絶対逃げられない!

 

 札幌のコンサートホールに着いた。バロックの管弦楽団。私も知ってるような有名なヴァイオリニストがいる。どこにそんなお金があったんだろう? と思って、パンフレットを見たら、表紙に私の歌う時の名前、「加南利亜」ってオレンジ色のカナリアの色で書いてあって、その下に「幻のソプラノ」とでかく書いてある。かつて私はそう呼ばれていた。……「幻のソプラノ」。長い間、絶対人前では歌わなかったから。不安障害があって、ステージに上がることができなかった。こんな風にツアーをやるなんて、思ってもみなかった。協賛にあのピアノメーカーや、航空機会社、ホテルの名前もある。優夜の仕業に違いない。金集めが上手いな。さすがプロだな。

 私達は舞台の袖にいて、優夜が私に囁く。今晩は練習だと思ってください。客の入りは八割くらいです。最後の東京はもう売り切れてますから。……そういった割には客はどんどん増えていく。加南さん、あのCMで「加南利亜」の名前だして、評判になったんですよ。みんなが感動したんですよ。貴女の歌に。ネットと、それからテレビでも放映してます。あの場所がよかったんですよ。貴女があそこで歌って、歌手としてデビューしたあの場所。

 抗不安剤は佐山さんに全部取り上げられてしまった。あれを飲むと頭がぼんやりするから。あちこちから鳥の羽ばたきが聴こえる。私はまだ見張られている。歌おう。もう私は逃げないから。私はカナリアを助けるためにここにきたんだから。

 私が着せられた衣装は、黒に目の覚めるような緋色のレースがついたロングドレス。指揮者は私の先生。私はいうことを聞かない生徒だって、もう彼も諦めてる。そう願いたい。私は今夜、彼が教えた通りに歌うつもりはない。私はどうやって父のことを思いださずにカナリアのように囀れるか考えた。

 それは無理だということに気が付いたら、そのまま幕が上がった。

 

2021年5月9日公開

© 2021 千本松由季

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