薄暮教室 帝都教師追憶編

篠乃崎碧海

小説

17,484文字

時は明治末。移りゆく街東京の片隅で、一人の教師が若い一歩を踏み出そうとしていた。ようやく手にした遥かな未来図。しかし指し示す道の先はどこにも繋がってはいなかった。迷いも夢も憧れも、全ては無意味だと悟った夜に、彼はいかにして「先生」であることを選び取ったのか――
儚き追憶と永遠の希望が織りなす物語、ここに完結。

 

 一等空の高い日だった。霧もなく、重く垂れ込める灰色の雲もなく、早咲きの花を散らす風もなく。ただ、永遠を内包した青がどこまでも深く続いていた。

 そっと指を浸すと、輪郭は呆気なく溶け去った。爪の先、淡くなった境界から光が染み入って、空に抱かれる錯覚に溺れる。ささやかな旅立ちの朝には充分過ぎるほどの祝福だった。

 周囲を深い緑に囲まれた山村の小さな駅はひっそりと、しかし確かな道をその両の手に広げて、訪れる人々を待っている。黒く煤けて滑らかになった木造りの外壁に、今日までここを通り過ぎていった数多の人の時間が溶け込んでいた。喜びも涙も、出会いも別れも全て音もなく受け入れて、ただ時が流れていくのを見つめ続けていた。

 春陽が駅舎の屋根瓦に反射して、視界に白い光の粒を散らす。厳冬の重雪に繰り返し洗われてきた瓦はすっかり褪せた赤に変わっていたが、遠景の山々の合間に穏やかな目覚めのような色彩を添えていた。

 木漏れ日は眩しいくらいだが、木々の間を抜けてくる風はまだ冬を覚えているらしい。ふるりと背を撫でた寒さに、今朝初めて袖を通したばかりの詰襟の裾を少し引っ張ると、着慣れない布の硬さが首筋を掠った。慣れないだけでなく、背丈に合わぬ大きさのせいで、少し身動きしただけで余った布が存在を主張し始めるのだ。すぐに背が伸びるのだからと大きいものを買い与えられたのだが、果たしてその期待に応えられるのだろうか。

 前を歩く母が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。いよいよ別れの時が来たのだ。

 母の瞳に青が映っていた。どこまでも高い空から切り与えられた青は少し濡れていた。母が声を殺して泣いていたことにようやく気がついた。

 母は黙って両手を控え目に広げた。昨年の夏の終わりに背丈を追い抜いた小柄な体に呼ばれるままに、私は素直にそこに収まった。

 微かに若草を薫らせる石鹸の残り香と、小さな商家に染み付いた少し埃っぽい生活の気配。物心ついたときからずっと当たり前に存在していた母のにおいだった。確かな庇護と、純粋な愛情のにおい。それに包まれて十五の歳まで生きられたことが、どれだけ幸福で恵まれたことであったか。

 身体には気をつけて――耳朶に触れた言葉の重さを知っている。形ばかりの別れの台詞ではないことを、母も私も十分に理解していた。

 せめて安心させられるくらいには丈夫になりたかったものだが、結局親離れをする今日までそれは叶わなかった――きっと生涯叶わないのだろう。それでもこうして送り出してくれることに、感謝しかなかった。

 ありがとう。一言だけ、千々になった頭からなんとか引っ張り出して声にした。こんな風に抱き締めるのも抱き締められるのも、最後かもしれない。そう思った途端に、用意していたはずの別れの言葉はどこかに溶けてしまっていた。

「しっかりやっていらっしゃい。決めたからには、納得のいくまで」

 母の瞳はもう濡れていなかった。いつだって晴れ晴れと笑える、不安を抱える心に寄り添える、母のような強い人になりたいと思った。

 多くを語っても、きっとどれもが嘘くさくなってしまう。感謝の証明は行動で示したかった。

 

 滲む青を灯した瞳がもうひとつ、少し離れて立ち尽くしていた。

直次なおつぐ

 私より三つ年下の弟は、その年齢に合わぬ落ち着きと思慮深さを持っていた。

 母と私の抱擁を、彼は黙って見ていた。今この瞬間を永遠に記録しておくかのように、両の目をしっかりと開いて、小さな両足を踏みしめて、真っ直ぐに見つめていた。

「直次、こっちにおいで」

 母に倣って両手を広げたところで、弟は素直に歩み寄ってはくれないだろう。彼の頭の中には、周囲の人間が想像するよりもずっと多くの感情が渦巻いていて、しばしばその奔流が柔らかな心や年相応の行動を阻害してしまうのだ。

 小さな足が動けなかった数歩を補って、私は弟の手を取った。春風にやや冷えた手のひらをそっと握ると、弟は薄い唇をきゅっと引き結んだ。

「向こうに着いたらすぐ、手紙を書くから」

 幼さの奥に秘められた賢しさが、私をじっと見つめていた。弟は何かを深く考え込んでいるようだった。口を開きかけてやめて、俯きがちに視線を外す。彼の時が満ちるまで、私は待っていた。

「……兄さんがここを出ていくのは、僕のためではないですよね?」

 時間をかけて吐き出された言葉は、母には聞こえないように小さく、そばだてた耳にようやく届く囁きとなって、私の前に零れ落ちた。

「僕が家を継ぐことを気兼ねしないように、周りからあれこれと言われないように、ではないよね……?」

 答えの代わりに、私は弟の背中に両腕を回した。あまりに切実で痛々しい感情の全てを、抱きしめた熱で溶かしてやりたかった。

 腕の内側に触れた肩甲骨は、年相応に細く小さかった。すぐに私の背を抜き、逞しく成長するであろう体は、今はまだ幼く脆い。――無論、そこに収まっている柔らかな心も。それが当たり前なのだ。

「兄さんの居場所を、僕が奪ってしまったわけじゃ、ないよね」

 生まれつき身体の弱い商家の長男が、継ぐべき家を残してひとり東京の学校に進学するということ。それは私が思う以上に、周囲にあらゆる臆測を蒔いたのだろう。

――実業を継ぐだけが家を継ぐということではない、代わりに勉学の才を活かして家を支えるのだからいいじゃないか。

――身体を壊してまで無理に働くことはない、直次くんだって充分優秀じゃないか。兄弟がいるというのは本当にいいものだね。

――決断は早い方がいい。その方が後を任される方も腹を決められるってもんだ。

 激励の言葉に悪意はない。それでも、棘を生み心を刺すことがあるのだ。

「直次。僕は、僕のやりたいことを見つけるために行くんだ」

「遠いところに、行くの」

「そう。いつか話したこと、覚えていてくれたんだね。こんな身体に生まれた僕でも……いや、だからこそ、かな。僕だけにできることを見つけに行くんだ。誰のためでもなく、僕自身のために」

 誰もを納得させられるような立派な理由もなければ、周囲が勝手に想像する、美しく悲壮な決意もない。あるのは独りよがりで身勝手な衝動ただひとつだった。

「……僕が父さんの後を継いでもいいの?」

「それは誰に許可を請うことでもないよ。直次は、直次の道を進めばいいんだ。今はまだ見えないかもしれないね。でも、いつかきっとわかる日がくると思う」

 賢い弟はきっと、進むべき道を自ら見つけて歩んでいけるだろう。そのときにせめて邪魔をしない存在でありたかった。

 本音を許されるならば、精一杯支えてやりたいと思う。長兄たる責務を果たし、弟が自由に生きる道を示してやれたなら、どんなにいいか。

「これだと思ったときには迷わないで、信じて進めばいい。真っ直ぐに行き先を指し示す道標は、最後は自分の心の中から探すしかないんだ」

 私にできるのは、清明な魂に拙い言葉と励ましで寄り添うことだけだった。あと一歩踏み出す勇気を支えてやることだけだった。

 弟はこくりとひとつ頷いた。癖のない柔らかな髪を撫でてやると、ようやく不器用な笑顔を見せた。

「手紙、楽しみにしています。東京の景色を、いつか僕にも教えてください」

 願わくば、彼の辿る道が優しいものでありますように。たとえ平坦でなかったとしても、暖かな陽光の絶えない道でありますように。

 

 到着を告げる汽笛が近づいてくる。やがて深い緑をかき分けて、列車が駅に滑り込んできた。

 車体の下から響いてくる、唸るような低い振動が徐々に消えていき、乗降口が開いた。白い蒸気がうっすらと広がる歩廊に靴音が降りる。昼前の列車は空いていて、車掌の交代を待つ間に乗り降りの波はすっかり引いてしまった。

「それでは、行ってまいります」

 一歩踏み出せば、もう迷いはなかった。再会を心の底から信じられるような身体に生まれつかなかったからか、さっぱりと別れるのは得意だった。涙に涙を重ねる別れはどうにも好きになれなかった。

 母の唇が、私の名前の形に動くのを目の端で捉えた。敢えて呼びかけなかったのか、声にならなかったのか。それは誰にもわからないことだった。

 これが最後なら、もう一度。もう一度だけ抱きしめてほしい。

 振り返ったときにはもう、乗降口はぴったりと閉ざされていた。母のどこか寂しげな眼差しが、歪んだ窓硝子越しに滲んでいた。

 いってきます、お母さん。届かない言葉を舌先で転がして、今度こそきっぱりと背を向けた。

 

 一番後ろの窓際の席が空いていた。先に降りていった乗客が置いていったらしい新聞紙が転がっていたので、拝借して足元に敷き、不恰好に膨らんだ鞄を落ち着けた。

 なんとなしに目を向けた窓の先に、若い桜の木が見えた。まだ蕾の多い枝は寒々しかった。山郷の春は遅い。遅い春を待つ時間が、私は好きだった。

 ふと、低い枝に何か白いものが引っかかってはためいているのに気がついた。

どこかの家から飛んできてしまった洗濯物だろうか。最初はそう思ったが、よくよく目を凝らしてみてわかった――あれは、白衣だ。両の袖を結ばれて、旗印のように春風にひるがえっている。

 池沢先生だ。姿は見えなかったが、そう確信した。

 町にたったひとりの医者である池沢先生は、きっと今日も忙しく町中を回っているのだろう。ちょうど往診の休憩時間なのか、それとも――

 見送りにはいかないよ、と池沢先生は言っていた。八つの頃から診てきた君を涙なしに見送るだなんて、できるわけがないからね。最後に会った日に、恥ずかしそうにそう言って鼻を啜って帰っていった先生を思い出した。

 あの桜の木の後ろで、先生は今どんな顔をしているのだろう。

――世界を見ておいで。求めるままに、心を満たしておいで。大丈夫、身体はおのずとついてくるから。長年診てきた私が保証する。

――もっと自分を信じてごらん。君の信念は、いつしか君の生き方そのものになっていくから。

 池沢先生のように、誰かの未来に希望の光を投げかけられる人になりたいと思う。

 私は恐らく、誰かにとっての光そのものにはなれないだろう。それでも、受け取るばかりが生き方ではないと教えてくれたのが池沢先生だった。

 孤児として育ち、やがて医院に住み込みの医者見習いとなり努力を認められ東京の医学校に学び、故郷に帰ってきてからは育て親の後を継いで町でただひとりの医者となり――私から見れば、池沢先生は紛れもなく希望の光そのものの生き方に思えた。しかしそれを伝えると、池沢先生は気恥しそうに笑って答えるのだ。

――もしも私が光そのものだったとして、みんなに希望を分け与えてしまったら、私みたいなちっぽけな人間はあっという間に削れて消えてしまいますよ。医者は、自分を消費してはいけない職業なんです。私にできるのは精々、天から与えられた光をほんの少しだけ、弱った体や心に反射させるくらいのことで。

 沢山の人に支えられ生かされてきた分、生きているうちに返さなくてはならない。許された時間が短いのなら、なおのこと。そんな固定観念を覆された瞬間だった。

 分け与えられるほど持っていないのなら、それぞれの中から見つければいい。誰かの光が少しでも真っ直ぐ伸びるように、そっと手を貸す生き方だってあるはずだ。

 そんな思いが、私を師範学校という選択へ突き動かした。

 

 出発の汽笛が高らかに響き渡った。ぶるりと揺れて車体が息を吹き返し、窓の外にたなびく白い蒸気が灰色に変わった。

 列車はゆっくりと動き出した。思いのほか大きく揺れて、転がって通路に飛び出しかけた鞄を慌てておさえる。目を上げたときにはもう、駅舎も見送る人も桜の木も、全てが遥か後ろに遠ざかっていた。

 もう二度とは見ない景色なのかもしれない。ふとそんなことを思った。

 二十の歳を数えられるかわからない、と熱と呼吸苦の間を彷徨いながら夢うつつに聞いてしまったあの日から、ぼんやりと刻まれた自身の限界。次があるさと笑い飛ばせない時間制限に囚われて、未知のものに手を伸ばすことに臆病になった。

 本当は許された時間が終わるまでに、できるだけ沢山のものを目に焼きつけておきたかった。与えられるものを受け入れるばかりで終わるより、ひとつだけでもいいから自ら選びとって満足して去りたかった。

 長いトンネルを抜けて、車内がさっと明るくなった。次の駅で降りる客が荷物をまとめ始める。慣れた客ばかりなのか、浮き足立つ気配はなかった。山岳地帯であるこのあたりでは、隣町に行く足として鉄道が日常的に使われている。隣町までなら子どものおつかいでも行けるくらいに容易いが、東京まで行くにはこの先二度乗り継がなければならない。今はまだ空いている車内だが、大きな鉄道駅に停まる度に混雑していくだろう。乗り継いだ先で空席に恵まれるかは運次第だ。

 空気が滞りやすい車内では発作を起こしやすくなるから、なるべく窓側の席に座るか、立つならせめて車両の連結口の近くにいるように――池沢の言葉を思い出す。半ば無意識に固い詰襟の裏にそっと手を差し入れると、指先に冷たい容器が触れた。中には急に発作を起こしたときのための強い咳止めが入っている。短時間で立て続けに服用すると激しい副作用が出るからと、数回分しか入らない大きさのケースに仕舞われたそれは、できればお守りのままにしておきたかった。

 決して口には出さないできたが、実のところは不安しかなかった。東京という新しい環境も生まれて初めての寮生活も、全てが未知数でわからないことだらけだった。何より一番信用ならないのは自分の身体だった。

 とはいえここまで来てしまった以上、いくら気にしても仕方がない。全て承知で飛び込むと決めたのだ。

 手持ち無沙汰でいると、余計な思考に囚われてよくない。少し気分転換でもしようと、鞄の外ポケットにしまった原稿用紙を取り出した。

 入学の手続きを受理したという通知の最後に、今年度の総代として入学式で答辞を述べよと記されているのを目にしたときには本当に驚いた。入学試験の日は珍しく体調が良かったので、成績も悪くはないだろうと思っていたが、まさか総代だとは。

 元々学問が好きだった、などという美しい話ではない。碌に働けないのならせめて学問くらいはできないと捨てられてしまうかもしれないという生存本能と、布団の上でできることといえば本を読むくらいだったからだなんて、自慢にもならなかった。

 入学式まであと五日。それまでに原稿を覚えてしまわなければならない。集中してしまえば、先行きの不安もしばらくは忘れられるだろう。

 

 そうして、私は青南師範学校の門をくぐった。胸に満ちた不安は、生涯の友とかけがえのない青春の日々によって、いつしか温かく確かな道標に変わっていた。

 二年の歳月はあっという間に過ぎ去った。野山を染める薄紅の山桜よりも、窓辺に白く透き通る染井吉野が目に馴染みよくなった頃。無事に卒業した私は、教師としての一歩を踏み出した。

 

 これは追憶である。全ては過ぎ去った昔のこと、もう決して戻らず辿り直すこともできない日々が、気まぐれにほんの一欠片差し向けた残光である。

 誰に語って聞かせることもない由無事よしなしごとをたまにこうして思い出す。あの頃の私に報いることができただろうか、裏切らない生き方ができただろうか。そんなことを思う。

 たとえ短くとも、幸せな人生であった。心からそう思える未来に生きていると知ったなら、かつての私も救われるだろうか。そうであってほしいと願う。

 

 これは、私が私であることを選ぶまでの話だ。

 この手記を目にした人が、どうかありのままの私と出会ってくれますようにと願う。

 

 一九一九年三月 平野啓司

2021年5月6日公開

© 2021 篠乃崎碧海

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