夢の中で眠れたら #1

夢の中で眠れたら(第1話)

るる

小説

4,121文字

                    

記憶なんて曖昧だ。

思い出すことしかできない状態。ぱちんと泡のように消えたり、泡と泡がつながるように勝手に変化したり。だけどこんな頼りないものほど、甘えてしまうのは何故だろう。

 

#1

 

二月。春が来るまであと少しのはずだが、このまま冬がずっと続きそうで心は全く晴れない。

寒さが身体を支配しているような感覚に、陽は思わずため息をついた。

……晴れているのが救いだな。

陽は窓の向こうをぼんやりと見ながらそう思った。

窓の向こう側では、川の水面や溶けかけの川原の雪がキラキラと光っていた。いつもこの地域では重そうな雲が空を覆うため、こうして晴れていることは珍しい。外を見ると暖かさを感じることができそうだが、いざ外に出たとして期待を当たり前のように裏切られることは分かっている。陽のいる小さな平屋の建物は、暖房がついているはずなのに室内がキンと冷たいから。痛いほどに。

こんな壁の薄い、台風が来たら吹き飛んでしまいそうな建物に何故いるのか。そう、今日はここで引っ越しに関する書類を記入しなければならなかった。

「寒いですねー。暖房の効きが悪くて申し訳ないです……」

陽の左側から丸い声がした。声の主は、陽の引っ越しを担当する職員の川越。川越は目が細かった。笑っているのか、笑っているように見える細目なのか。柔らかな声とスローな動きがあいまって、おじいちゃんのようだった。見た目は陽と同じくらいのはずなのに。

「大丈夫ですよ。ほんと、早く暖かくなってほしいですよね」

お盆に乗せた二つの湯呑みがカタカタと揺れる度に、川越の歩き方はすり足になる。湯呑みから上る湯気は、二人にとってちょっとした心の支えになるだろう。お茶をこぼすことなく応接用の机にお盆をのせることができると、ホッとした顔で川越は陽の向かいの席に座った。

「お茶どうぞ」

「ありがとうございます。いただきます」

陽は一口、お茶を飲んで一息ついた。陽が湯呑みを机に置くのを見てから、川越は陽に紙を一枚渡した。

「……じゃあ、黒瀬さん。この書類を書いてもらえますか」

陽は紙を受け取り、一度首を傾げた。紙一枚の薄い感触に疑問を感じる。普通、引っ越しの書類がA4用紙一枚で収まるものだろうか。川越に陽は質問した。

「一枚でいいんですか?」

「いや、また何回か来てもらって書いてもらいます」

川越は当然のようにそう答えた。

「そういうものなんですか……」

「ええ。ウチではそういう流れになっているんですよ。面倒だと思いますが、ご了承いただければと」

なるほど、と呟きながら陽はペンを取り、書類に必要事項を書き込んでいく。氏名、性別、生年月日、配偶者の有無……何回も書いたような項目ばかりでペンの流れは非常に速かった。氏名…黒瀬陽、性別…男性、生年月日…○年二月二十日、配偶者の欄は有の所にサッと丸をする。

ここまで書いたところで、陽はとっさに顔をあげて周りを見渡した。不思議そうにこちらを見る細目の川越、窓から見える眩しい景色、いくつもの机に積まれている書類やファイルの山。耳には暖房のごうごうという音が入ってくる。

――いない。

いつも陽の隣にいて、笑ったり考え込んだりしている彼女がいないのだ。なんで今まで気が付かなかったんだろう。陽はペンを強く握った。

――どこ行ったんだろう。

陽が引っ越しの手続きをしている姿を見ているのに退屈し、気分転換にとどこか出かけたのかもしれない。まぁ、そうであっても。気づいてしまったら最後。気になって仕方がないものだ。陽は再び書類の記入を進めた。書き込まれていく文字は、先ほどよりも汚くて濃いように見えた。

カタン、とペンを置く音が室内に響く。陽は立ち上がり、記入した書類を川越に渡した。

「これでお願いします」

「はい、ありがとうございます」

川越は深く椅子に腰かけて、のんびりとした手つきで書類を持ち、上から下へ視線を動かしていく。川越のこのような様子を見続けていては日が暮れそうだ。

「……すみません、今日はこれで失礼します。もし書類の不備があったら教えてください。また来ますから」

そう言い残しては、川越の返事も聞かずにすぐさま立ち去った。ドアが閉められる音が室内に響く。置いてきぼりにされたのは、ワンテンポ遅れて返事をする川越の柔らかな声。

「……ええ、大丈夫です。じゃあ最後の書類は49日後に……あれ?」

 

 

どんなに体の芯から冷える寒い日でも、この街は変わらずにぎやかだ。どこに行っても人の声がする。元気いっぱいの子供の声、落ち着いた大人の声……。外に出ている限り、無音の状態とは無縁のようだ。

空気が白くなる。陽は白いタイルが敷き詰められた道を歩いていく。彼女が行きそうな場所を目指して。溶けかけの雪がタイルを濡らし、つるつると氷のように滑った。

少し歩くと、飲食店が立ち並ぶ通りに入った。チェーン店は一切なく、個人経営の小さな店が連なっている。カフェやケーキ屋、イタリアンレストランなど。どの店も落ち着いた外観だが、緑・青・白・黒・茶……色が様々で、見ているだけでも面白い。換気扇を通して定番メニューの香りが放たれ、それぞれの店の前を通り過ぎるだけでも満足感を得ることができる。この街に住んでいる人ならば知っている、この通りの一つの楽しみ方だ。

美菜子のことだ。たぶんどこかのカフェで一休みしているんだろう。

陽は通りにあるカフェを片っ端から当たっていく。といっても、店内に入ってしまうと客だと間違えられるので外のガラスからのぞき込むだけだが。見逃してしまう可能性がある? それはないことを陽は知っている。美菜子はいつも窓際の席を好んで選ぶ。理由は単純、景色を見ることができるから。

ぴたりと、足が自然に止まった。薄い青緑色の外壁の前にカラフルな花が植えられた小鉢が並んでいる。カフェのドア前にあるメニューボードには、チョークで淡々と料理名が記されていた。通りの中でも特に静けさを感じる店だ。

――いた。

陽が探していた女性はやはり窓際の席にいた。机にはコーヒーカップが一つ置かれている。しんなりとまとまった、肩に触れる位の長さの茶色い髪。目鼻立ちは整っていて、外から見れば窓のフレームが額縁のようで一枚の絵になりそうだ。黒のワンピースを着て、落ち着いた雰囲気を醸し出している。コーヒーカップに触れる左手の細くて白い指先。薬指からは微かに金属の独特の輝きが見える。陽の同じ手、同じ指にあるものと一緒のものだろう。

陽はしばらくガラス越しに美菜子を見ていた。怪しいとは自覚しているが、美菜子の様子が気がかりでその場から動けずにいたのだった。

美菜子はずっと、ずっと、カップに入っているのであろう液体を見つめている。その目はどこか寂しげで虚ろだった。化粧も陽から見て、普段より濃く見えた。口紅、ファンデーション……。チークの色も一段と頬骨を中心にして赤い気がする。いつもはナチュラルメイクの彼女だが、今日はどうみてもばっちりメイクだった。

彼女の両手はカップを持ち上げる事もなく、ただ取っ手の部分を触れたり離したりしていた。取っ手を握ることはせずに、ただ弱く触るだけ。口を閉じる力は抜け、少し空いた口からはため息が聞こえてきそうだった。一回、二回、三回と。

とても気分転換にカフェに行ったとは思えない様子だ。自分が何か知らない内に彼女を傷つけることをしてしまったとか。自分に言えない悩みがあるとか。色々考えてしまうが、どれも違う気がしてならなかった。

……どうしたんだろう。

何かあったなら教えてほしい。具合が悪いなら帰って早く休もう。引っ越しの手続き、今日の分は終わったから。もう帰れるよ。

そんな陽の心の声は、ガラスに遮られて美菜子の元まで届かない。声が届かないのなら、彼女の目の前に行けばいいじゃないか。そう思うも、思うだけ。今陽の足は、べったりとガラスの前でくっついている。美菜子がため息をついているような様子を見せるたびに、陽の足は重さを増していくのだった。

――あ。

ふと、美菜子がガラスの向こう側を見た。これには陽も驚き、とっさにガラスを軽く叩いた。だが、陽の姿を美菜子が捉えた様子はなかった。彼女の視線はぼんやりとしていて、どこを見ているのかよく分からない。ほんの数秒外を見て、美菜子はまたコーヒーカップの方へ目をやってしまった。

――なんで。僕に気が付かないんだ。

自分を拒否したくなる何かがあるのか。そんな問いが陽の中に生まれると同時に、ひどく胸をえぐられるような感覚が彼の中に走った。信じたくないけれど、胸に手を当てるとまだ広がる傷口……。

何もなかったふりをして、その場を立ち去るということもできただろう。だが、陽はカフェの入り口の方へ足を進めた。知らなくちゃいけないという義務感と、何故自分が拒否されるんだという一抹の疑念をエネルギーにして。

 

ドアを開けようとして、ドアノブに近づけた陽の手がピタリと止まった。

――待てよ。

陽はハッとして、ドアノブから手を離し、しばらくその場に立っていた。

陽は手を口にあて、ガラスの前へ踵を返した。ゆっくりと進んでいく。陽の顔つきは一歩、二歩と足を進める度に険しくなっていった。

この違和感が本当なら、見たくない――。

三歩、四歩。ガラスの前に着き、陽は茫然とそれを見つめていた。

――やっぱり、ない。

一つ、大きな息を吐く。それから陽は自分の手を見た。決して若いとはいえない手だ。小さな子供と手を重ねてみれば、その差は歴然たるものだろう。そんな手をガラスに伸ばし、触れる。陽はまた一つ息を吐いた。目の前の結果を受け入れていくようにして。

――映らない。

そう、ガラスに触れているはずの手がガラスに映っていないのだ。手だけではない。陽の髪も脚も頭も、全て。

一歩、退いた。陽の視界には鬱々とした美菜子の姿が入っているだろうか。彼の後ろ姿は、今にもぐらりと横に倒れてしまいそうな程に力ない。

――あぁ、そっか。僕は……。

当たり前のように思っていることに、ひらりと掌を返されるこの感覚。

 

この時、陽は思い出した。

自分はもう、死んでいるんだということに。

2021年5月7日公開

作品集『夢の中で眠れたら』最新話 (全1話)

© 2021 るる

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