天赦日

麦倉尚

小説

3,427文字

自分の生活とは縁遠い暮らしを想像し、小説を書こうと努力して、できたのがこの作品でした。

天赦日

 

 緊急事態宣言が出ると決まった。パスタのほうれん草が多い。客足が遠のいて、賞味期限が近くなり捨てるとなると惜しいから、こうして一人あたりのほうれん草を増やしているのだろう。

 私は、

「ほうれん草多い。サービスかな」

 と話しかけるものの、母は返事をせずパスタに塩をかけている。私はほうれん草のみフォークで掬いあげて食べた。十分味がついている。

「美味しいね」

 母は還暦を迎えた。最近は大根をぬかに浸け、まだかまだか、もうできるかと頻繁にぬか床を見る。母はパスタの麺ばかりを先に食べ、次にほうれん草にフォークを伸ばし始めた。

「ほうれん草いつもより多いと思わない?」

「どうだろう、分からない」

 先に皿を空っぽにしてしまった私は母の食べっぷりを見るしかなかった。

「もう、食べちゃったの?あなた子供のころから早食いなのよ」

 母が私が小学生の失敗の話を始めた。

「またその話、もう勘弁してよ」

 母は私の言葉を無視して話続けている。

 

 店を出た。会計は私が済ませた。

「今日、ハルの散歩行った?」

 ミックス犬のハルはもうすぐ十歳になる。昔は母が率先して散歩に向かっていたが、私が休みの日は私が犬を連れて歩くようになった。

「スーパー寄って、リンゴ買うね」

 国道沿いにある大きいスーパーに入った。母がカートを押しながら店内を回りりんごを探している。「これいいわねえ、浸けたら好さそうじゃない?」手に持っているのは人参だ。私は、

「よさそうね」

 と答えると母がそれをカートに入れ、また野菜コーナーを見ている。

「これもいいわ」

 カートに入れたのはほうれん草だった。小ぶりで頼りないこの野菜はがぬかの圧力に耐えられるだろうか。

 りんごを買わず会計を済ませて店を出るともう日が沈みつつあったので、私はそれを眺めていると母が、「眩しいのに、よく見てられるね」と真顔でそう言った。

 家に着いた。母が、「ハルの散歩頼むわよ、今日あなたお仕事休みなんだから」と玄関先で靴を脱ぎなら言う。庭にいるハルには聞こえない母の言葉を、私は跳ね返すことができない。靴を脱がぬまま庭へ移動してハルを連れ、また道路へ出た。

 もう陽が沈みつつあった。夏ならまだまだ明るい時間だ。いつもの散歩ルートを進むがハルがそわそわ落ち着かないので、止まって頭を撫でてみる。喉を鳴らすので口を開けてみると右の頬の内側に傷があった。これが痛むのだろう。ハルの目は潤んでいる、ように見える。口の中の傷だからすぐに癒えるだろうが、何で怪我をしたのだろう。私とハルは散歩道を逆行して家に帰った。

「お母さん、ハルが口の中怪我してた」

 母は台所に居た。ぬか床にほうれん草を浸けている。

「そう、気が付かなかったわ」

 今はハルよりもぬか漬けが大切らしい。

 ハルはホームセンターのペット売り場で年を取っていた。値段も下げられていてかわいそうに思えてしまい購入した。

「前の子居なくなっちゃって寂しかったし、飼いましょう」が母の意見だった。

 飼いたての頃、母はよくハルに構っていた。名前をつけたのも母だ。誕生日が春だから。ハルは春に生まれたからハルになった。十一歳なので人間でいうと六十歳ぐらいになる。母と同じく還暦を迎えている。

「ぬか漬け、美味しくなるといいね」

 嫌味っぽくなってしまい後悔したが、母は、

「そうね。根拠はないけど美味しくなると思うわよ」

 今何があのぬか床に埋められてるのだろう。私は庭に出てハルと戯れようとしたが、犬小屋でじっとしていたので眺め遠巻きに眺めた。

 

 眠ると朝がきた。二人暮らしには広すぎる家は木造で、この季節だと肌寒い。

「家でできるいい趣味、ぬか漬け」

 母親は食事の席でそう私に宣伝している。「ぬか漬けなら外出しなくても楽しめるのよ。」母は嬉しそうに味噌汁から豆腐を掬い上げている。ただ、まだ食卓にぬか漬けは並ばないところを見ると、完成はしていないらしい。

「確かにいい趣味ね」

 ハルは今何をしているのだろうか、庭は静まりきっている。私は洗い物を済ませ、着替えて庭に出、ハルの小屋を覗くと眠っていた。いつもこの時間はいつもこうしている。昨日の夜の餌を少し残していたのでそれを捨て、会社へ向かった。

 ゴミを捨てて花に水をやり、課長と話して昼になると食事を済ませ、午後は電話対応をした。夕方になると帰った。母は夕食を作っているだろうか。電話をして確認すると、

「今日はない。ぬか漬けもまだ出来てないから済ませてきて」

 と話すので私は駅前に出向き、ほうれん草のパスタが食べられそうな店を探したが、見当たらないので弁当屋に寄って中華弁当を買い、家に帰った。

「おかえり、ハル散歩行かせて」

 私が靴を脱いで廊下に出るとそう母が話す。

「散歩いってないの?」

 台所へ着くとぬかをかき混ぜている母が居た。

「今日は、時間なくて」

 話はそこで途切れた。

 私はリビングに弁当を広げ、テレビをつけると母が、

「ぬか漬け、お昼に少し食べてみたのよ。そしたらまだ出来てなかったの」

「それは残念ね」

 私は中華弁当に箸をつけた。

「ちょっと、まって」

 母は使い捨てのスプーンを持ってきて机においた。

「こんなこともあろうかと取っておいたのよ」

「別に、いいのに」

 何気なく私はそう言った。すると母が、せっく用意したのにと愚図り始める。私はさっさと弁当を食べハルを連れて外へ出た。

 いつもと違うルートを歩いていると駅前に着いたが、郵便局のポストの前でハルがうずくまってしまい戸惑った。私はしゃがんでハルと向き合い、口を開けて中を見ると左の頬に怪我がある。偶然とは思えなくなった私は自宅に戻り、母に、

「ハル、また怪我してるよ。近所の子供にいたずらで何か食べさせられたのかも。心配だよ」

 と言うと母は、テレビを見ながら、

「そんなの、大丈夫よ」

「なんで大丈夫ってわかるのよ」

 母はテレビを消した。

「私があげた漬物で怪我してるのよ」

 リビングを去る母。私はぬか床を掻き混ぜて何が入っているのか確認したら、一口大に切られた竹がある。竹ぼうきを切ったのだろうか。手に取ると固く、とても食べられるものではない。

 私は母を探して家の中を歩き回ると寝室に母が寝転んでいる。

「あげた漬物って、これ?」

 布団の上で雑誌を読んでいる母の顔の近くに竹を寄せた。

「そう、犬なら食べれるかなと思ったんだけどね」

「そんなわけ、ないでしょ。竹ぼうき壊しちゃって何してるのよ」

 私の荒らげた声に母は身体を起こした。

「そんな怒ることでもないでしょう」

 私は母の顔に自分の顔を近づけた。

「何よ顔近づけて、気持ちの悪い」

 私はよく母に似ていると称された。母に似ている顔。嫌だった。

 私は立ち上げって、目下にいる竹を母に投げ落とした。母は金切り声を上げて私に襲いかかり首を掴む。首の肉に母の爪が食い込んでいる。手入れしていないらしく、長く伸びた爪が私の首の肉に食い込んでいる。ただ握力は初老のものなので私は母の腕を掴み離した。一瞬固まった母だったが、呻きながら暴れ前私の腹に前蹴りをした。うずくまると母は寝室から去る。

 寝てしまったらしく夜中だ。明日が祝日でよかったと私は階段を下りながら考えていると、母がリビングにいる。

「さっきはごめん。確認したら寝てるだけみたいだったから、救急車とかは呼ばなかったのよ」

 テーブルの上にはぬか漬けが並んでいた。竹らしきものはない。

「いや、私が竹、投げつけちゃったから」

 私は席に着いた。

「やっと漬かったのよ、おいしいのよ」

 人参を口に含むと味が薄く硬い。まだ漬かりきっていないらしい。

「おいしいわ」

 テレビをつけた母。ニュースが放送されている。

「コロナ、いつ収まるのかしらね」

 一二時。柱時計が鳴る。大昔からあるもので、どうしたらあの時計の音が出ないように設定できるのか分からない。眠りが浅いときは音で起きてしまう時がある。間延びしたような音が玄関から聞こえてくる。でも、こんな硬いの食べさせて

「噛めなくて吐き出したから、大丈夫よ」

「昨日、天赦日だったみたい」

「天赦日?」

 母親が新聞の切り抜きを私に差し出した。天が赦す日と書いて天赦日。

「深くは調べてないけど、すごく縁起のいい日だったみたい。だから、お互い許し合いましょう」

「そう、ね」

 いつの間にか食事を終えていた母は食器を台所へ移動させ、階段を登っていった。私は庭に出てハルのようすを見た。犬小屋で眠っている。私はしばらく寝顔を眺めた後、私は家の周りを歩いた。深夜に出歩くなんて久々だと思った。

2021年4月25日公開

© 2021 麦倉尚

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