春のシンフォニー(前編)

谷田七重

小説

7,814文字

春の穏やかな景色は、繊細で柔和な色彩によるシンフォニーそのものなのよ――学生時代、ナオミと交わした自由で空想的な会話。29歳の「僕」による、日常と非日常のあわいの回想譚。

そのとき、二十九歳の僕は、一瞬にして九年前のナオミとの会話を思い出していた。そのことをこんなにも鮮烈に思い出したのは、これが二度目だ。もしかしたら、これが最後になるかもしれない。

学生時代。社会に放り出される前の、心地よいまどろみにも似た猶予期間。僕は何を案ずることもなく、ただただサナギのように、やわらかくてふわふわとした繭にくるまっていた。半透明の薄い膜を通して眺める外界の現実は、どれも非現実的で滑稽なものに見えた。

でももし仮にその頃、「僕はいまサナギみたいなものなんだ」と自覚していたとする。僕は羽化した自分を想像することができただろうか? いや、できなかっただろう。僕はどこまでいっても僕であり、サナギはどこまでいってもサナギだった。サナギだっていつかは羽化して飛び立っていくものなんだよ、と誰かがのたまったなら、僕はこう言ったはずだ。「サナギが羽化するだって? バカ言っちゃいけない。サナギはそれ自体で完全形なんだよ。サナギが繭を取り払ってもそもそと起きだし、羽を広げて大空に飛び立っていくことを羽化というのなら、それは違うね。それは羽化どころじゃない、死だ。サナギの死だ」

それでもその相手が、君だっていつかは羽化するんだよ、いや、羽化せざるを得なくなるんだよ、と言ったとする。僕はまだ世間を知らない若者だけがもつ、ある種の傲慢さを冷笑に変えてこう言うだろう。「へえ、僕が羽化するのかい。……で、何に?」

 

ナオミは出し抜けに、蜂の死骸の話を始めた。

「そうだ、こないだね、すごく大きくてきれいなハチが死んでたの」

「ハチ? 昆虫の蜂?」

「そう、ビー。蜂」

大学二年の秋から三年の春にかけて、僕は同じ学科のナオミと付き合っていた。付き合ったといっても、会うたびに「好きだよ、ナオミ」とか耳元で囁いてたわけじゃない。たまたまナオミだった、と言えばいいのかもしれない。いつのまにか二人で会うことが多くなって、いつのまにかセックスをするようになって、いつ終わるとも知れない、空中に浮遊しているような関係をなんとなく続けていた。かといって、決してナオミのことを軽んじていたわけじゃない。僕は彼女のことを好きだったと思う。でもそんなことを言葉に出して伝えたりはしなかった。そしてそれでよかった。お互いに充足した関係だったと思う。ナオミだって、一度として「愛してるわ、ヒロト」とかいう類のことを口にしたことはなかった。そしてそれでよかった。

ナオミがその話を始めたのは、いつものようにセックスを終えたあと、いかにも安ホテルのシーツです、と主張しているようなごわごわした布の上で、二人して腹ばいになって煙草をふかしている時だった。

「きれいな蜂って……蜂にきれいも汚いもあるの?」

僕は腹の下に、ひんやりとシーツに染みたナオミの体液を感じながら尋ねた。

「ほんとにきれいだったの。なんていうか、いかにも蜂! って感じで。ほら、『みなしごハッチ』に出てくるようなやつよ」

「あんな蜂がほんとにいたらホラーだな」

「べつに人間の顔がついてたわけじゃないけど」

ナオミは肘をつき、煙草を挟んだ指をひらひらと動かして熱弁した。微妙に折り曲げられた指のかたちがきれいだ。

「雨の日にね、傘をさして歩いてたら、道端にその蜂の死体が転がってたの。それだけなんだけどね、きれいだったなあ。雨に濡れてつやつや光ってて。宝石みたいだなって見とれちゃった。黒と黄色のコントラストが、濡れてることでさらに際立っててね。ああ、いい死に方だなあって、ちょっと羨ましくなったくらいよ」

「僕は蜂になるのはイヤだな。蜂って働き者なんだろう? 働いた末に雨にそぼ濡れて死ぬなんてイヤだね」

「そういうことじゃなくて」

彼女はひっきりなしに煙草を吸いながら続けた。

「それまでその蜂が働き者だったかなんて、そんなことはどうでもいいの。ただ死んでる姿がきれいだなあって。それだけ。蜂って、本当に無駄のないシャープな形をしてるのね。その体を少し丸めるようにして、そっと死んでたの。そっとね。きれいな曲線だったなあ」

きれいな曲線だなんて、いかにもアーティスト気取りで嫌味な感じがする。でもナオミが言うと、変に納得してしまうんだ。そして、雨の日に昆虫の死骸を仔細に観察している女の子の姿を想像してみる。どう見たって変だ。でも、それがナオミだと妙にしっくりくるから不思議だ。きっと僕は彼女のそんなところが気に入っていたんだろう。

蜂の死骸に関するナオミの話が一段落すると、僕たちはいつの間にか、理想の死について熱心に語り合っていた。

思春期の少年少女というものは、訳もなく死に憧れたりするものだ。別に人生の辛苦を味わったわけでもないのに漠然と自殺願望を抱き、そんな自分に陶酔したりする。もちろん僕たちは思春期なんてとうに通り越していたけど、まだその延長線上にとどまっていたらしい。何といっても、僕たちはまだ二十歳をすこし過ぎたばかりだった。

というわけで、僕らの理想の死は、まず自ら命を絶つというのが前提だった。それもできるだけ美しく死ぬこと。そう、まるで眠っているみたいに。

僕たちは様々な自殺の方法を提案し合い、それを批評し合った。まず首吊りは論外。飛び降りや電車への飛び込みもダメ。彼女は繰り返し「人に迷惑をかけちゃダメよね」と言い、僕もそれに同意した(といっても、今考えれば妙なものだ。他人には迷惑をかけないにしても、自殺すること自体、身内には迷惑極まりない話じゃないか)。

「溺死は?」

「早く発見されるなら、それも悪くないわね」

ナオミはいきなりシーツの上に仰向けになって、両腕をかすかに広げてみせた。

「絵画とかに描かれてるオフィーリアみたいに、眠るように死ねるならね。ほら、ハムレットのヒロイン。こう、やわらかくて長い髪とドレスの襞が川の流れに広がって、水面には無数の花々が浮かんでいて。……」

「でも発見が遅れると、ぶくぶくで青っちろいドザエモンになっちゃうわけだ」

そうなのよ、と言ってナオミは再び腹ばいになった。「全然ロマンチックじゃないわ。タイミングの問題なのよね」

「なんだかややこしくなってきたな」

とにもかくにも、僕は一酸化炭素中毒で死ぬのが一番だと主張した。

「なんか、ほっぺたがピンク色になって、妙に血色がいいらしいんだよ。それこそ生きたまま眠ってるみたいだってさ」

イヤよ、とナオミは即座に言った。窒息して苦しむなんてまっぴら御免らしい。「何より準備が面倒じゃない。なんで死ぬ間際に、車の窓をガムテープで目張りするなんていう労働をしなくちゃならないのよ」

呆れて、「じゃあ何が一番いいんだよ」と聞いてみると、彼女はあっさりと言った。

「凍死よ」

「イヤだね。なんで寒さにガクガク震えながら死んでいかなくちゃならないんだ。それにここは東京だぜ。わざわざ雪山に行くのかい」

今度は彼女が呆れたように言った。「当たり前じゃない。死ぬときくらいシチュエーションにこだわらなくちゃ。一面の銀世界。色々の面倒なことをすべて覆い隠して忘れさせてくれるような、果てしない雪の堆積。その光景に自分のことまでも忘れて、そしてその光景の一部になるのよ。寒さなんて、ウイスキーで睡眠薬でもバカ飲みしたら気にならないわよ。そのまま死んでいくの。そう、それこそまさに、眠るように」

ナオミは目を細めて遠くを眺めているような素振りをし、自分の言ったことに大袈裟に浸っているようにして見せた。

「それに凍死体って、ぜったいきれいよ。透き通るように白くて、しかもきちんと冷凍保存してくれるだろうし」

「そんなにうまくいくかなあ」僕は灰皿にトントンと灰を落とした。「少なくとも、唇は真っ青だぜ」

ナオミはいきなり間抜けな顔をして言った。「そんなのイヤ。唇は赤がいい!」

僕はナオミの、肩にやっとかかるくらいの(伸ばしかけだと言っていた)黒髪を指先で梳かしてやった。数ヶ月前に茶髪を黒く染め直したということだったけど、黒い髪と白い肌と赤い唇にこだわるなんて、白雪姫みたいだなと思った。僕は、ナオミが眠るように死んでいる姿を想像してみた。でもそれは、死んだように眠っているようにも見える。それこそ白雪姫みたいに。でもナオミは、白馬に乗った王子様云々なんて望まないだろう。そして次のナオミの話が、即座にそれを肯定した。

「でもね、一番のとっておきの死に方っていうのが私の中にあってね」彼女はニマニマ笑いながら新しい煙草に火をつけた。「なんだよ」僕は彼女の髪を撫で続けていた。「まだあるの?」

「まあ、いいから聞いてね。こうしてね、」彼女は左手で拳銃の形を模してこめかみに当てて見せた。「パーン。どう?」

「おいおい」僕は彼女の髪から手を離して言った。「眠ったように死ぬどころじゃないじゃないか。それこそ文字通りコッパミジンだぜ。だいたい拳銃だなんて、我々にとっては別次元の代物じゃないか」

「だからこそよ」ナオミは顔を上に向けて煙を吐きだし、三秒くらい、その実体もなければ形もない、一過性の感情のようなものが薄闇に吸い込まれていくのを眺めながら言った。「だからこそ好きに妄想できるんじゃない」

僕も顔を上げて、その煙が消えたあとの空白を眺めてから言った。「じゃあその妄想とやらを思う存分ぶちまけてみなよ」

ナオミはまたニマッと笑って、文字通りぶちまけ始めた。

「去年の春にね、大学の桜を眺めてたら急に思いついたの。ほら、キャンパスの中にある、芝生の真中に植えられてる一本の大きな桜の木ね。春休みでまだ学校が始まる前、なんとなくぷらっと大学に寄った時よ。たぶん入学式の前日か前々日だったかな。とにかくほとんど人がいなくて、静かでね。で、その芝生の前にベンチがあるじゃない? そこに一人で座ってぼんやりと桜を眺めながら、煙草をふかしてたの。きれいだったな。まだ満開じゃないんだけど、ほどよく開花しててね。

よく晴れた透き通るような青空と薄紅の桜って、ある秩序を形成しているように思えない? 春という季節って、水色と薄紅色によって成り立ってると言っても過言じゃないと思うの。あーそれなら、春っていうのは、青い空と薄紅の桜による秩序そのものなんだなあって、自分でもよくわかんないとりとめもないことを考えてたわけよ」

「水色と薄紅の春、それが一つの秩序だと。ふーん。……で、それがどう拳銃につながるわけ? 話が見えないんだけど」

ナオミはいきなり、自分が吸っていた煙草を僕にくわえさせた。「まだよ、これからが本題なの」、そう言って僕の指から僕の煙草を取り上げ、今度は自分がそれを吸いながら、話を続けた。

「でね、気づいたの。春って、中間色ばかりじゃないかって。それはそれでもちろん美しいのよ。そよ風を孕むようにやわらかな陽光と、薄いガラスみたいに繊細な空の水色と、初めてお化粧をする女の子の頬の色みたいな桜の薄紅。それに芝生も、まだ真緑じゃなくて若草色だしね。木々の葉っぱも芽吹いたばかりの若葉だし。その中間色たちが響き合って、春というひとつのシンフォニーを奏でているような、そんな感じがした。それは世にも優しくて繊細で、柔和なメロディーなの」

言いながら、ナオミは僕の煙草を少しだけ吸って灰皿に消してしまった。きっと彼女にはきつすぎたんだろう。僕は彼女の軽めの煙草をくわえたまま、彼女の話に耳を澄ませていた。

「でもね、そのうちに妙なことを思いついたの。もしこの春の穏やかな風景の中に、突如として真っ赤な何かが出現したら、ってね。それは春というシンフォニーの調和を乱すことになるのかなって。で、想像してみた。そしたら、意外と合うんじゃないかって思ったの。むしろ真っ赤な何かが出現した方が、さらにこの風景が美しくなるんじゃないかってね」

「なるほど、それが拳銃で頭をぶっ放すことにつながるわけだ。なんかそれって、ロココの女王だったマリー・アントワネットの処刑にも通じるものがあるな」

「まあ、アントワネットが、処刑のときにも淡い色のドレスを着ていたらの話だけどね」ナオミは笑いながら言った。「でもダメよ、政治やら社会やらが絡んだら。これは純粋な色彩の配合の問題なのよ、あくまで視覚的な快楽のための」

純粋な色彩の配合、視覚的快楽ときた。「そんなもののために死ぬ奴があるかい。桜の木の下にサンタでも立たせとけばいいんだ」

ナオミは吹き出してから真顔に戻って怒った。「ダメよ、なんかこう赤い何かが、バッと飛び散らなくちゃ。桜が風にそよいで散っていくのと同じようにね。桜の下にサンタが突っ立ってるなんて、間抜けもいいとこだわ」

「ダメダメばっかりだな。じゃあさ、どっかからネオナチだか何だかのパンク野郎を連れてきて、バケツに入った赤いペンキをぶちまけてもらったらどうだろう? きっと喜んで引き受けてくれるよ。『黒く塗れ』ならぬ『赤く塗れ』」

「あのねえ」ナオミは脱力したように言った。「なんか変な金具をじゃらじゃらいわせて重力にぎんぎんに逆らった髪型をしてる人たちに、そんなことさせるわけにはいかないのよ。それこそシンフォニーは修復不可能だわよ。ペンキってのもダメ。ちゃんと自然に還るものじゃないと」

「それで血が必要なわけか」

「そういうこと」

ナオミには、溺死にしても凍死にしてもそうだけど、死ぬときには自然と一体になりたいという願望があったらしい。

「でも君はさ、その光景を見たいと思うんだろう? 君がそうやって自殺しちゃあ見られないじゃないか」

「そうよ、そのシンフォニーの一部になって死ねたら幸せだと思うわ。でもそうなのよね、体は一つしかないものね。困った問題だわ」

「じゃあさ、僕がその光景を見届けてやるよ。で、君が頭をぶっ放した瞬間に、『きれいだよー』って叫んであげるから、安心しなよ」

きっと第三者が傍からこのやりとりを聞いていたら、完全に頭がおかしい男女だと思われてしまうだろう。カフェでこんな会話をするわけにもいかない。そしてこうした自由で空想的な会話を許すのがホテルの密室であり、ほの暗い照明だった。

「私その時には、真っ白で袖のないワンピースを着るわ。裸足でね、しずしずと桜の木の下に歩いていくわ」

僕がナオミを仰向けに寝かせて体のあちこちにキスしている時も、彼女は空想の中にたゆたうように、夢みるように言った。

「でもやっぱり、どんなに静かで穏やかなシンフォニーにも、赤の要素って必要よ。ほら、たまにクラシックで、静かな管弦楽のメロディーに混じって、遠くの方でシンバルが鳴ったりするじゃない。ほんとに遠くの方で、そっと。聞き逃しちゃいそうなくらいに小さいんだけど、それが全体を引き締めてるっていうのかな。そういうのでいいの」

僕はふと顔を上げた。「そういうのでいいって、どういうこと?」

彼女は微笑んで、片手で僕の顔を撫でた。

「だって、広大な春のシンフォニーの中では、一瞬飛び散る私の血なんて、取るに足らない一つの点に過ぎないじゃない? 他は何も変わらない。空は水色を湛えたままだし、薄紅の桜は相変わらず風にそよいでいて。その秩序は何ひとつ変わらない、乱れない。そこに私の死体が転がっていて血が飛び散っていようが、それもいずれその調和の中に還っていく。そしてそれでいいの」

 

ホテルから出ると、もう外は薄暗かった。僕らは講義をサボって、昼前からホテルに入り浸っていたわけだ。僕らが関係を持つようになってからしばらくして、ナオミはこう言った。「ホテルに行くなら、昼間のサービスタイムがいいな。安いっていうのもあるけど、何より平日の昼間にセックスするっていうのが大事なのよ」

僕もそれに同意した。皆が働いたり講義を受けているときに密室の薄闇に閉じこもり、ただただ非生産的な会話とセックスに耽るということ。それは一時的ではあるにせよ、現実からドロップアウトして、空中にぽっかりと口を開ける真っ暗な穴に、そっと身を隠すことだ。僕らがその穴の中に潜り込むと、その入り口は自動的に塞がれる。誰も入ってこられない。その暗闇の中で僕たちは、昼間の太陽が照らし出す世界よりももっと美しい、極彩色の夢を紡ぐことができた。

 

しかしナオミとのそんな付き合いは、ゆるやかに終わりを迎えたようだった。そう、ゆるやかに。始まりがあれば必ず終わりが来るとは言うけれど、僕らの場合はいつが始まりだったのかも定かではない。終わりもそれと同じだった。気づけば、いつの間にか終わっていた。

僕らが最後に二人で会ったのは三月の始めだった。それから一週間くらい過ぎて、いつものように「次はいつ会おうか」といった内容のメールを送った。返事はなかった。僕はこの間会ったときに何か彼女の気に障るようなことをしたか、その時のことを思いだせるだけ思いだしてみた。そしてその時にナオミが、何かいつもとは違う言動をとっていたか考えてみた。どちらにしても、心にひっかかるようなことは何もなかった。

そうしてナオミから何の連絡もないまま、いつの間にか四月になった。

僕はふと思い立って、学校に行ってみることにした。今ならまだ講義も始まってなくて学生もほとんどいないだろうし、そうしたら、ナオミが言っていた「春のシンフォニー」を感じることができるかもしれない。

案の定、学校は閑散としていた。たまにサークル活動に来たらしい学生が、ぽつりぽつりと僕の傍を通り過ぎるくらいだった。彼らは、一人残らず次の三種類に分類することができた。足早に脇目もふらず黙々と歩いているか、ウォークマンのイヤホンからシャカシャカと音を漏らしながらポケットに手を突っ込んで下を向いて歩いているか、また携帯電話をいじりながらのろのろと歩いているか。でもそんな風に彼らを分類したところで、その時の僕にとって、彼らはある点で全く共通しているように見えた。それは、『彼らに「春のシンフォニー」を感じることはできないだろう』ということ。

僕はそんな無邪気な優越感を覚えながら、キャンパスの中に芽吹いたばかりの春の気配を、胸いっぱいに吸い込みながら歩いた。木々の枝からはみずみずしい若葉が無数に顔をだし、空はほがらかに晴れ渡り、その中空を霞のような雲がたなびくように流れていた。僕は、いつもは気にも留めない陽の光が、今日はこんなにも親密に感じられるのを不思議に思った。まるでそのやわらかな光が体の内側の隅々にまで染み渡り、僕と僕を取り巻く春の光景とを呼応させてくれているようだった。それは妙に懐かしいような、そんな感覚だった。

やがて僕は目的地に辿り着いた。ナオミが話していた、芝生を見渡せる場所だ。

僕は一年前にナオミもそこに座ったであろうベンチに腰掛けて、ひとしきり目の前に広がる風景を眺めた。なるほどそれは、春という季節を象徴する、一枚の完璧な絵画のように見えた。僕はまた去年ナオミがそうしたように、ポケットから煙草を取り出した。

……そしてそれからというもの、僕は潜在的に、ある奇妙な妄想にとりつかれることになった。

2008年6月2日公開

© 2008 谷田七重

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