UFOを操縦するカナリアボーイソプラノ 1/5

千本松由季

小説

9,361文字

カナリアだけに感染する疫病。ワクチンが足りない! 幻のソプラノ歌手、加南は不安障害を抱えながら寄付金を集めるためにコンサートツアーに出掛ける。彼女の幻覚に現れる色とりどりのカナリア。ワクチンで助かった雛達がUFOを操縦してボーイソプラノで歌いまくる。

 父に買ってもらったミニクーパーに乗った。真っ赤なそれに乗ると、余りにも真っ赤な赤で、なにか悪いことでもしているような気になった。その赤が……。

 出発した。よく晴れた朝に出発した。太陽がちょうど真上にくるような時に、その場所に着かなければ……。どこにいくのかは知らない。これから探す。集中力がない。私、なにをしてる? 車の運転。でもなにか他のことをずっと考えてる。内容はくるくる変わる。後頭部に変な感じがある。誰かに握られてるみたいな。かかってた音楽を止めた。音楽がなくなってもあんまり変わりない。なにを聴いていたのかもすぐに忘れた。

 都心から二時間ほど走って、それらしき場所に当たった。私は車を安全なところにとめた。何度も何度も考えて、そこがほんとに安全か確かめた。

 この前は回る銀河を見に、夜ドライブして、変なところにとめたもんだから、警察にもっていかれそうになった。もう寝てたんだけど、回る銀河が私に語りかけて、怒鳴りつけて、その存在感に眠れなくて、それは回っていて、耐えられないノイズに抗不安剤を飲むのも忘れて、ずっとそのノイズを聴いてて、耳を塞いでても聴こえて、私はパジャマを着たままあの赤い車に乗って、あのノイズを探しにいった。きっとそれはなにかの残音で、あんまり色んな音が混じり合ってるから、なんの残音なのか分からない。一番低いコントラバスの音がして、一番高いピッコロの音もする。探して、それはどこにもなくて、警察がきて、私が変な格好で、変な時間に、変なところにいたもんだから、家に連絡がいった。

 これ以上問題を起こしたら、お父さんに車を取り上げられてしまう。今度は前よりも知恵は使った。

 草原で、草がよく茂って、草の匂いもして、風も緩やかで、周りに誰もいなくて、私の使命にはちょうどよくて。太陽は上にある。馬鹿な私はハイヒールを履いてきてしまった。それは誕生日にお父さんに買ってもらったヴィトンで、それは古代ヨーロッパの壁画にあるみたいなチョークで描いたみたいな何度も修復されてほんとの色が誰にも分からなくなったみたいな、青だった。それに、一番短い白いシャネルのワンピースを着ている。それは厚手のツイードで、金色のボタンがたくさんついていて、その白と金の関係が分からなくてずっと考えてて、でもずっと前に考えるのを諦めてしまったような白と金だった。

 馬鹿じゃないの? こんな格好。そういうことが私には起こる。慎重さがない。もう一度、ミニクーパーを振り返った。慎重にならないと。でもこの格好でこんなことをするのは、どう考えても慎重じゃない。私ってどうしてこんなにぼんやりなんだろう? きっと、たくさんの精神科の薬が脳をスローにさせてる。ハイヒールを手に持って、急な坂を降りていった。太陽が動かないうちに……。

 草は悪意を持って、ナイフみたいに私の足を切りつける。手で、手を切らないように、かき分けながら進む。慎重に。草は私の肩くらいまであって、途中から地面が湿ってきて、ほとんど沼地になって、歩くのが大変になって、足首まで泥に埋まる。ここの泥の中に固まって動けなくなって朽ち果てる風景を想像した。誰かが地底から私の足を握ってそれで私は動けなくなって。そんな想像をした。

 

 この辺かな? 私は泥の中に立ち止る。もう一度辺りを見回す。私より高い草もあるから、遠くはあまり見えない。私は囲まれている。ナイフのような草に囲まれている。迷路に紛れ込んだような気がする。人はいないと思う。太陽を見上げる。太陽は、眩しい太陽は、私を暖かく見守っている。透き通った。レモン色。太陽の周りの光が。巨大な雲が。迫って。風の方向を見たら、もうすぐ雲が太陽を隠す方向だった。でも風は強くない。でも急がなきゃだめだ。

「あいうえお」の「あ」の声をす。「あー」と伸ばす。太陽を見ながら。私はソプラノだけど、ちゃんとお腹から息をして歌わないとあんまり迫力のある声にならない。今日はそれはしない。胸から声をだすと空に消え入りそうな声になる。もっと高い音の方がいいのかな? カナリアの歌。父の好きな。ナイチンゲールの歌。古来、カナリアはナイチンゲールから歌を習った。ナイチンゲールは太陽がうっすらと空を染める朝のその瞬間に一番よく歌う。それは空が一番静かな瞬間で、街が一番静かな瞬間で、メスを呼ぶのに一番いい瞬間だから。私はカナリアのいいたいことが分かる。幸せだといっている。幸せな、幸せな、狂気のような幸せ。

 父がうちにあるアトリエで、宝石のデザインを描いて、それを職人さんに渡して、職人さんは父が思ったのと一番似たような石を探して、それを創る。気の遠くなるような値段のダイヤモンドもある。父は本物のアーティストで、デザイナーの色んな賞をもらっている。父のデザイン画を買う人もいる。芸術だって。ギャラリーが買い取ってそれを売る。父が好きなのは、あらゆる色のついたインクと水彩色鉛筆だ。

 父はカナリアの声を聴きながら絵を描く。ネットには世界チャンピョンの声がある。二時間も三時間もそれは続く。狂ったように鳴き、狂ったように叫ぶ。主張したいことがあるんだ。よく分かる。作品を創る時、父には狂気が必要なんだ。ヘッドフォンで聴いていることもある。直接脳に語りかけて脳をマッサージしてくれるって。そういう時の父はやっぱり狂った私の母を選んだ男だと思った。でも父の作風は全然狂気っぽくなくて、どっちかというとシンプルで、よく売れる。その辺は私にはよく分からない。

 

……足が沼に掴まれて気持ちが悪い。やっぱり声が高いと上手くいかない。中間くらいの音をだす。声がだんだん大きくなる。太陽に届くほど叫ぶ。太陽がどのくらい遠くにあるのかはよく知らないけど。それでようやく狂ってるような気持ちになる。太陽の、太陽の、一番太陽らしいところに向かって叫ぶ。これで声を潰したら、声楽の先生に怒られる。先生はなぜか男性で、そこそこ有名なアルトで、でもこれは必要なことだから。

 取り返しのつかないことをしたから。夕べ脳が熱くて、眠れなくて、少し窓を開けて寝て、朝起きて見たら、窓辺にあった私のセントポーリアが夜風に当たって、すっかり萎れていた。根元まで枯れている。もう生き返らない。私は庭の誰も通らない隅の木の下にそれを埋葬した。

 気に入って。その青が。上手に長く咲かせてたのに。私は中学の時からあんまり学校にいってないから、心が幼い。朝からずっと泣いていて、でも泣いているだけじゃ心がおさまらなくて、泣くのを止めて、私はここへ叫びにきた。夜の狂気の回る渦のノイズの。あの残響が聴こえる。

 

 デパートの屋上にペットショップがあったから、ずっとカナリアを見てて、好きなのがいたから鳴かないかなって、ずっと見てたら、店員さんが、それはメスだから歌わないよって。それは黄色で、ちょうどレモンの黄色で。どこかで見た黄色だと思ったら、それは太陽の色だった。

 叫ぶ! 発狂して。発狂が止まらない。お腹からじゃなくて、胸から声をだす。太陽を見ながら。そうした方が私が殺してしまったセントポーリアに謝ってる感じがする。叫んだら胸が痛くなる。それでも声をだす。吠えてるみたいに。また誰かに頭の後ろを握られてるみたいな気がする。今度のはもっと辛い。悪意を感じて周りを見渡す。叫ぶ! 声を潰すと先生に怒られる。でも、次のレッスンまであと一週間ある。

 私は病気で色んな妄想が起こる。見えてはいけないものが見える。私の母もそうだった。父は母を愛してたけど、手に負えずに病院に入れて、母は病院のパーキングのビルから飛び降りて死んでしまった。私が覚えてないほど小さい頃。閉鎖病棟から抜けだして、そして死んでしまった。マスコミで病院が叩かれて、どうして母を逃がしたのかって。記事が新聞に大きく載って、母の名前も載って、たくさんの人が知っている。一族に流れている血を。

 足に違和感を感じて、見ると、気味の悪い小さな原始的な生物が私の足に吸いついている。蛭だと思う。私の足首に連なって、私の血を吸っている。私の血なんて吸ってどうするの? 邪悪な、狂った私の。私の血を吸って、私の中の邪念を取り去ってくれる。もっと、もっと、もっと、私に吸い付いて。

 私は吠え続ける。発狂が止まらない。発狂する「あー」の音はますます大きくなって、音が長くなって、胸がもっと痛くなって、声帯が切れそうになって、喉から血が流れそうになって、雲が太陽を隠すまで、それはノンストップで続けられる。セントポーリアの苦しみを私も味わって、それに、ゴメンネとサヨナラをいう。

 随分長いこと吠えてる。太陽のレモン色は、こんな私を祝福してくれる。少し気持ちが落ち着く。声がかすれてくる。少しの間、声を止める。草が風にこすれ合う音がして、時々その音の止まる瞬間に、水の音がする。水の音はかすかで、あっちの方から聞こえてくる。

 また風がでて、その水音は草の音にかき回されて、風は止まらなくて、私は完全に迷路の中にいる。ここからでられないという恐怖。ここからでられない。やっと風が一瞬だけ完全に止んで、そこから草がなくなって、そこから川になっている。ずっと遠くまで。真っ直ぐだから、川が見えなくなるところがよく見える。一番先の川が見えなくなる一番先のところから電車の線路になっている。あそこからボイジャー、一号が旅立った。今でも飛んでる。何万年もの耐えられない孤独。もう一つの太陽が、水に映ったレモン色が、水と一緒にあっちの方へ流れていく。そんなことってあるかな? あるわけない。あれは私の幻視。だって太陽の動きと反対側へ流れている。底には綺麗な砂利が敷いてあって、きっと人工的に造られた。どこから水を引いているんだろう? 

 水の中に入る。冷たい水の中に入る。水は私の足をくすぐって、たくさんの一列に吸い付いていた蛭が私の足を離れていく。私の膝まで登ってきたやつもいる。ワンピースを捲り上げて、どこかにいないか探す。……もういない。私の自慢の足に傷をつけてしまった。でも、それは私に下された罰だから。

 

 とうとう大きな雲が太陽を覆う。それでも厚い雲の隙間から光が差す。幾筋も。幾筋もの太陽が私の頭に突き刺さる。私はまだ水の中にいて、フォーレの『レクイエム』を歌う。殺してしまったセントポーリアのための鎮魂歌、レクイエム。歌詞がフランス語で覚えられないから、小さく折り畳んだ歌詞をポケットからだした。レクイエムという言葉が何度もでてくる。レクイエム、レクイエム レクイエム。

 一匹の天使が雲間から、悪戯っぽく顔をだす。雲の裏から、飛ぶバタバタという凄い音が始まる。どれだけの数の天使がいるのだろうか?

 レクイエムの聴衆がいるのは嬉しくて、これは私の得意な曲で、いつも厳しい先生にも褒められた。声がかすれているから、今日は上手く歌えない。でもあの叫びは私の狂った脳を沈めるのに必要だったから。

 レクイエム。これ以上絶対味わえない悲しみの限界に作曲された曲。神に創らされた曲。私はほんとに泣きながら歌うことがある。そういう時は別の空間にいるような気がする。今、この川の、ずっと見えなくなるほどずっと向こうの、ずっとあっちの国にいってしまう。

 雲の後ろから天使がバタバタでてきて、いつの間にか大コーラスになる。ボーイソプラノ。私はもう一度最初から歌うために一旦歌を止める。フォーレの頃、まだ女性は教会で歌えなくて、このレクイエムもボーイソプラノか、成人した男のソプラノだった。それはカウンターテナーと呼ばれていた。

 みんな「キャア、キャア」って、赤ちゃんみたいな声で笑って騒ぐ。みんな裸で、翼があって、翼の色もたくさんあって、腰の周りに薄い布を巻いてて、布の色もたくさんある。白やパステルみたいな色もあるけど、もっと強い黒や赤や青もある。

 私はまた最初から歌い始める。レクイエム。大コーラス! 楽器を持ってるのもいる。ラッパみたいなのとか、ギターみたいなのとか。雲間の太陽が優しく微笑んでみんなを祝福してる。もう草の音も水の音も聞こえない。私は歌うために生まれてきたのだから。

 前奏が始まる。大人数だから時々テンポが乱れる。私は指揮を執る。みんな私にちゃんとついてきてくれる。私もみんなも、あんまり楽しそうに歌うから、全然レクイエムじゃないみたい。私はソプラノでそれで声量があるから、つい、なんでも声を張り上げて、叫んでるみたいになっちゃって、先生に怒られる。でもここには先生はいないから私は思いっ切り歌う。いないわよね? 辺りを見回す。いない、いない。気が変わってやっぱりレクイエムだから、私はもっと悲しそうに歌う。私のセントポーリアのために……。天使達の声が、もっと澄んできて、もっと複雑な和音になる。

 歌いながら私は川の中を歩く。もっと深いところへ。もっと、もっと、もっと。この川。意外と深くて、意外と冷たい。川の近くの草は、水を吸って、もっと高く成長して、もっと迷子になる。川が時々逆流して、そんなわけないのに、水のいく方向が変わる。こんなに流れの速い川が。そんなのあり得ないし。だから私の幻視で。川が私を騙して、高い草に睨まれて、ここで迷子になったら、迷路に閉じ込めらたら、私には絶対抜け出せない。

 

 小学生の時、私の頭にはもうあのカナリアの歌が住んでいて、父がいつもアトリエで聴いていたから、歌ってあのくらい狂って囀るもんだと思ってて、音楽の時間にその調子で歌ったら、先生に褒められて、オペラティックな声をしてることを見付かっちゃって、父に先生をつけられて、声楽の道に進むように。前はリサイタルもやってたのに、もうできない。不安障害のためにもうコンサートでも歌えない。ずっとソプラノで、エージェントがいるから、録音はしてるし、動画も出してるし、ファンもいる。

 こんな才能、私にあっても意味ない。なんで私なの? 邪悪な私の。神様がくれて、歌っていいよって、いってくれて。私にだって一つくらい、いいことがあってもいい。歌はいつも神聖なことだった。なんで私なのかは分からないけど、ずっと歌っている。レクイエム。あれからずっと。

 川の真ん中は私の腰くらいあって、私はそれより深いところはないな、って思ったからそこで歌っていた。スカートが水面で浮いて揺れている。そうすると私の身体も揺れる。天使は雲と太陽と一緒に川に映って、天使は雲と太陽の反対方向に流れて。いつもの幻視。なんでかって考えるのはとっくに諦めた。幻視が私には現実になる。

 

 男の頑丈な身体が後ろから私を強く抱いて、水の中から引き上げる。私は蹴ったり引っ掻いたり、これ以上できないほど暴れる。強く叫んだ。狂人のように。ほんとに狂人だけど。醜い小動物みたいな「キー、キー」いう大声を上げる。進化の途中で、道を誤って、ほんとはそうなるはずじゃなくって、でもそうなって。ガラパゴスに住んでるみたいな、地下に隠れて住んでるみたいな、醜い小動物。

「死にたいのか!」

死にたくなんかない。水の中で流れていたい。歌って。太陽の下で。天使と一緒に。私の使命。

 

 私の身体は大事なものだから、絶対他の男にはやらない。母が死んでから、私はずっとお父さんと一緒だった。お風呂にも一緒に入って、お湯の中で父の膝に乗って、それが嬉しくて、私が後ろ向きで抱き締められたこともあって、私が父の胸に飛び込んで抱かれた時もあって、その時は彼の男の部分が私の腿に当たった。

 父は私が知らない母を愛していて、母にそっくりで同じ病気を持つ私を愛していて。

 うちは祖父の代から続いている宝石商で、父はアーティスト肌で宝石のデザインをして、経営に長けた父の弟がビジネス面を担当している。都内の一等地に店が三つある。

 私が父と普通の関係じゃないのは、お手伝いさんや運転手はみんな知ってて、私は大きくなるまで、普通のことだと思っていた。私の頭が狂って、母みたいになって、入院した時、窓からパーキングの建物が見えて、車が、カラフルな車が太陽に光って、あそこからきっと母が飛び降りたと思った。それの証拠はなかったけど、私はそうだと思った。父がきてくれて、父がベッドに座って、私が彼の胸に、心臓のところに、顔を寄せた。私の脳は完全に彼の心臓の波長に合わせられた。私達の身体は繋がっていた。もっと一体になりたかった。アーティストの父の目は、心は、透明なくらい澄んでいて、私よりもっとなにを考えてるのか分からなくて、モノクロームの写真の中にいる人みたいに現実感がなくて、少し髪が伸びると、芥川龍之介の写真に似てた。

 父は私のことをミューズだといってくれて、私に触発されるといってくれた。父によくせがまれて歌った。カナリアみたいだって。小鳥の囀りだって。父の好きなカナリア。私の名前、加南【かな】もそこからとった。カナリアってほんとは金糸雀って書くんだけど、時々、加南利亜とも書くんだって。私はそれを芸名にしていた。本名は明かさなかった。いつまでも謎でいたかった。加南利亜。この世に存在してるようで、存在してない。

 私の胸が膨らんだ頃も、私達は同じベッドで寝ていた。私はいつもみたいに彼の胸に顔を寄せて、心臓の音を聞いて、私は彼が私の中に入れたいのは知ってて、でもそれを我慢しているのも知ってて、彼の手が私の女の部分に触れて、そこが濡れてきて、私もその意味が分かって、父のその部分が硬くなってきて、私もその意味が分かって、私は父の上に乗って、そのものを私の中に沈めた。私は声をだした。小鳥のような高い音を。窓が開いていた。星がたくさん出ていた。

 最近は、一度いくと、ほとんど父の手が触れただけで、いくようになって、朝中私達はセックスしてて、加南ね、これ以上いったら死んじゃうって、父の肩で泣いて、父はもっと加南の囀る声が聴きたいって。震えるあの瞬間の。あの囀りの。私は私の身体がセクシーに見えるように、アンティークの白いレースの寝巻を着ていた。その日は声楽の先生がくる日で、父は残念がって私から離れた。私は全然練習してないし、先生に怒られちゃうっていったら、子供にするように頭を撫でられて言われた。

「加南は朝中、囀ってたじゃないか」

 夕べは父がなかなか帰ってこなかった。私の知らない父の大人の生活。ベッドに横になると、彼から色々混じった匂いがした。うるさい残響もした。そういう夜は父が私の知らないところへ行ってしまう気がした。早く大人になりたかった。よく私のためにデザインしたという宝石をもらった。シンプルで私は好きだった。嬉しくて、私のよく似合うものを知ってて。

 頭が熱い。私は窓を少し開けた。すっかり眠ってから父が帰ってきた。起きたらもういなくなってた。私は大事にしてたセントポーリアが死んでしまったのを見た。

 

 私の身体は他の誰にもやらない! その男は、大人の男の男の身体で私はその男の強健な手を振り切って、川に沿って走った。

「警察だ! どこにいく? 」

若々しい声が叫ぶ。私は立ち止った。警察? どうして警察がここに? 水の中でしばらく固まった。

「あんなところに車を置いて。車を照合して、家族に連絡したら、すぐ保護してくれって」

後ろから聞こえる声が、だんだん近くなる。振り向いて警官を見た。俳優みたいに背が高くて見てくれがいい。でも顔は恥ずかしいから、ちらっとしか見なかった。

 またやってしまった。車を取り上げられる。あの車は色が気に入って。その赤が。あの赤が。混乱した時、あんまり考えちゃいけないって。ドクターが。またしばらく固まった。今度は警官の方を向いて固まった。なにも考えられない。人口に造られた川が。川の砂利が。水に浸かった足首が痛痒い。まだ小さく聞こえるボーイソプラノ。太陽は強くて。だから雲はもういない。天使は雲と一緒にいってしまった。川に映っている。天使と雲が、行先と反対側に流れていく。でもあそこは車をとめてもいいはず。どうしてここにいちゃいけないの? 

「どうしてここにいちゃいけないの?」

彼は笑った。

「やっとなんかいったね。……ここは私有地で。看板があったろう?」

そんなの知らない。

「ここはもうすぐゴルフ場になるんだ」

警官は私の濡れた服を直してくれて、どこか痛いところはないか聞いてくれて。……子供にするように。

 沼地を通るから、彼が軽々と私をお姫様抱っこしてくれた。しばらくしたら、私のヴィトンの靴を置いてきたのに気付いた。親切にそこまで戻ってくれて、彼の名前は井川だって教えてくれた。いい人なのに。顔をこんなに引っ掻いて、反省した。でも私の身体は大事なものだから。自分のもので自分のものじゃない。もう全部捧げたから。

 私が井川を蹴ったのは、後ろから抱かれたからじゃない。歌を止められたから。やっぱり天使達はみんなどこかへいってしまった。雲もいなくなってる。どうしてだろう? 頭が混乱して、でもこういう時はあんまり考えない方がいいって。ドクターが。いってた。……だから?

 もう一人の警官が私の車の側にいた。

「君のうちの人が電話にでてるよ」

でたら、うちの運転手だった。

 

「お嬢さん、これから誰か手の空いてる会社の若いもんと一緒に迎えにいきますから」

私を信用してないんだ。なにが悪かったんだろう? ここで、発狂して、叫びにきた。みんなで歌った。看板を見落としたのがいけない。これで変なところにいけないように、私の赤いミニクーパーを取り上げられてしまう。

 私は井川さんと一緒に、パトカーに乗せられる。何度目のパトカー? もう一人の警官が私の車を運転して、警察署にいった。警察署の片隅の手入れのされてない一角に、さっき大量に見たのと同じ草がある。背はずっと低い。私は見張られている。井川さんが事情聴取をする。何回目の事情聴取? 警察署は意外と立派な建物で、ゴルフ場建設といい、この村にはどうしてこんなにお金があるんだろう? 

 余計なことを考えてるうちに、質問が始まった。

「君に病歴があるということで、あの地所の所有者も不法侵入は見逃してくれるといってる」

それはどうもありがとう。

 歌おう。そうすれば頭がすっきりする。私はポケットに手を入れた。服はまだ濡れている。書いた字がほとんど流れてしまった。

「その紙にはなにが書いてあるの?」

「歌。死人のための」

「今、歌うの?」

貴方が途中で止めたから。

「貴方が途中で止めたから」

歌詞は大分覚えてる。小さい声で歌った。途中で止められたところから歌った。

レクイエム。だから悲しそうに歌わないと。

 数か月前、なにかしでかしたな。なんだっけ? 近所の神社にいたら、真っ黒な犬が四匹走ってぐるぐる回って、面白いからずっと見てて、見えないものを三時間も目で追ってるって神社の人に通報された。あの時はなにがまずかったんだろう? 時間の感覚が健常者と違うんだ。

 歌が終わって、それからここまで考えるまで、井川さんは待っていてくれた。彼のことなんてすっかり忘れていた。

 

 

2021年5月6日公開

© 2021 千本松由季

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