薄暮教室 師範学校青春編

篠乃崎碧海

小説

19,642文字

明治四十二年、東京府青南師範学校、謳風寮二◯六號室。咲き初めの桜の頃に少年達は出会った。踏み出す先も見えず、闇雲に伸ばす指の先に触れたのは、同じように彷徨い悩む未熟な手のひら。幼い諍いといまだ遠い未来への憧れを繰り返して、彼らは大人になっていく。いつか楓の頃に、また会おう――それは彼がまだ「先生」になる前のこと。
昔日の記憶が今語られる、長編第二弾。

四月六日

 

 式が終わると、新入生は早速寄宿寮へと案内された。講堂を出るときに寮の棟と部屋番号を教えられ、預けた荷物を持って、めいめいに移動する。そっくり同じ造りの建物が三棟並んでいるものだから、慣れない十五、六歳の少年達は部屋を間違えたり荷物を置き忘れたり、まるで町ひとつが一斉に引っ越しを始めたみたいな騒ぎだった。寮の古びた階段は一日中、ぎしぎしと壊れそうな音をたて続けていた。

 青南師範学校第一寄宿寮、謳風寮。開校から今日までの年月をたっぷり吸い込んだ大階段を上がってすぐ目の前の二◯六號室、上級生達が言うところのハズレ角(階段に一番近い部屋のため、足音がよく響いたり奥の部屋への伝言役を頼まれたりと、何かと厄介が多いためこう呼ばれていた)。荷物を取り違えて遅れた本江ほんごう恭二きょうじが部屋のドアを開けたときにはもう、同室の者は本江以外全員揃っていた。

「お疲れさん! ここ第一棟の二◯六號やけど、きみ間違まちごうてないか?」

 失礼しますの『し』を言うか言わないかのうちに、先に部屋にいたひとりに元気よく声をかけられて、本江は二の句が継げなくなった。

「いや、突然すまんな! さっき来た奴が別棟の二◯六と間違うててな。互いに間違いやて気づかんかってん、いやァきみどこ出身? なんてえらい仲良うなってしもてな。後から違てた気づいて気まずいったらないわ。きみ、ホンマに一棟の二◯六で合っとるよな?」

 聞き慣れない早口の大阪弁に目を白黒させながら、本江はしどろもどろに間違いないと答える。

「寝台の数からして、ここは五人部屋なんか? さっき間違うた奴は六人部屋やて聞いてたらしいけど」

 たった今来たばかりの僕に訊かないでくれ、と本江は思った。どうもこの大阪弁の少年、碌に人の話を聞かないらしい。ええと、と口ごもるうちに、

「らしいですよ。ここは角部屋だから、人数調整されたみたいで」

 お手本のような東京言葉に助け舟を出されて、ほっと胸を撫で下ろす。見れば、縁の重そうな眼鏡をかけた小柄な少年が、壁際の寝台に浅く腰掛けたままじっとこちらを窺っていた。

「広く使えて幸運やな! ハズレ角なんて聞いてがっかりしとったけど、ものは考えようやね」

 な、そう思うやろ! 痛いくらいの力でばしばしと威勢よく肩を叩かれて、本江は危うくつんのめりそうになった。足元に置いた鞄のおかげで大阪弁の彼の肩口に突っ込む事故は避けられた。

「さてと。ようやく揃ったところで、自己紹介といきましょか」

 音頭とったやさかい、俺からでええな。彼は仰々しく腰を折り、ニッと笑うと、芝居小屋の口上めいた名乗りを上げる。

「はじめまして、桝谷瑞生いいます。一升桝の桝に山あり谷ありの谷でマスタニ、瑞々しく生きると書いてミズキや。お聞きの通り、大阪出身。どうぞよろしゅう」

 そこそこ上背のある体つきのせいか、詰襟を違和感なくぱりっと着こなしている。それだけで随分と大人びて見えた。方言のせいできつい印象だが、細い目元の邪気のなさに、老若男女誰とでも容易く距離を詰めていける天性の気質が見え隠れしている。

よわい十五、これまでどないな風に生きてきたのか、どうしてここに来たのか……語り始めたらきりあらへんから、今日のところは名前だけにしとく。ちゃっちゃと紹介せえへんと日ィ暮れてまうしな」

 ほな、次は奥の眼鏡クンの番や。勝手に指名されて、寝台に腰掛けていた少年は一瞬むっとした表情をしたが、何も言わず立ち上がると軽く頭を下げた。

原島はらしまりょうです。東京出身」

 分厚い眼鏡の奥の瞳は理知的に見えた。が、表情が乏しいせいで何を考えているのかよくわからない。小柄で声変わりも迎えていないせいか、桝谷とは対照的にいかにも高等小学校を卒業したてといった幼さがあった。

「それだけか? つまらんなあ、もうちょい話そうや。例えば好きな食べもんとか、愛読書とか……俺はカツレツが好きや!」

 桝谷がどれだけ煽ろうと一切相手にせず、原島はお次どうぞ、とそのまま右隣の少年を指名する。

「お、おらか?!」

 原島の隣で一心に荷解きをしていた少年は、順番を振られるや否や弾丸のような勢いで顔を上げた。

「はじめまスて……ちがた、はじめ、ましで。おら、おれは、野宮のみや朝樋あさひて、い゛ぃます。よろじぐ」

 勢いのままに口を開いた少年の話す言葉の異質さに驚く。遠い田舎から遥々やってきたのだと一発でわかる訛りは、初めて聞く人にはほぼ聞き取れないだろう。本江も名前を聞き取るのが精一杯だった。

 ぼさぼさで癖の強い黒髪、そこに半ば隠れた大きな黒い瞳はおどおどと周囲を見回して、まるで警戒心の強い野生動物のようだ。

「すっごい訛りやな。どこ出身?」

 呆気にとられる面々をよそに、桝谷だけが変わらぬ様子で気さくに話しかける。

「北海道。東の海寄りだ。いぃとこだよ」

 わかっているのかいないのか、桝谷はほほうと大仰に頷く。

「これは、聞きなれへんとようわからんな!」

「そちこそ、西の訛りはおらにはよくわがんネ……わっからなぃ、な」

 必死に標準語で話そうとしているのは痛いほどに伝わるのだが、それが余計に聞き取りづらくしている原因だと、本人は恐らく気がついていない。

 ま、これからよろしゅうな。桝谷が差し出した手を、野宮は両手で握って上下にぶんぶんと振った。言葉は伝わらないが愛嬌は伝わってくる。やはりどこか野生動物らしい。

 次、真ん中の君な。いつの間にか桝谷が仕切る流れに全員が乗せられつつ、窓際に所在無さげに立っていた少年が一歩進み出た。

「はじめまして。平野ひらの啓司けいしといいます。よろしくお願いします」

 平野と名乗った少年は、目立たないが綺麗な容姿をしていた。身長の割に華奢で繊細に見えるが、それくらいの方が女性には好かれるかもしれない。伏せがちな目元、少し浮いた袖から覗く手首の白さに、真面目な文学青年といった印象を受けた。

「ああきみ、入学式で総代やっとった人か! 気づかんかったわ!」

 桝谷が大きな声を上げる。言われて初めて本江は気がついた。確かに、式の最後に挨拶をした人物だ。あのときはどこか他人事のようにふわふわと浮かれた心持ちで壇上を見上げていたから、挨拶に立った生徒のことなどすっかり記憶から抜け落ちていた。

「僕は最初にこの部屋に来たときから気がついていましたけれど。講堂でたまたま隣に座っていたんです」

 ですよね? 原島は同意を求める目を向けたが、平野はすまなそうに首を振った。

「すみません。緊張していて、周りを見ている余裕がなかったんです。だから隣だったことにも気がついていなくて」

「気にしないで。あんな大人数の前で挨拶なんて、緊張して当たり前です。見事な演説でしたよ」

 原島の話し方には、教師にならんとする者の生真面目さがすでに表れているようだ。

「総代がいるてことは、この部屋全員成績上位ってこっか?」

 それに対して呑気すぎる発言を繰り出すのが、純粋なのか突飛なのか、とにかく何を考えているのか(そして何を言っているのかも)よくわからない野宮である。

「あほ、ただの名前順や」

 おれ、実を言えば試験よくできたって思てたんじゃ。胸を張った野宮だったが、桝谷の間髪入れない鋭い突っ込みを受けて、途端にしゅんと肩を落とした。

 よっしゃ、最後は遅れてきたきみや。声をかけられて、本江は突然放り込まれた非日常からようやく引き戻されたような心地がした。

本江ほんごう恭二きょうじといいます。北陸出身です。どうぞよろしく」

 普段より二割増しで上擦った声が出た。気の利いた挨拶のひとつもできずに、そこで言葉が詰まる。つい五分ほど前に顔を合わせたばかりの初対面の相手に、名前と出身地以外に紹介する事柄などすぐには思いつかない。桝谷の言っていたように、好きな食べ物でも話して場を濁そうか。

「北陸の方は訛らねンだの。……おればっかしひでぇ訛ってて恥ずがすぃ」

 首筋を撫でる伸びっぱなしの髪をばさばさと掻きながら、野宮は気まずそうに目を逸らす。

「いや、僕も十分訛ってると思うんだけど……」

 彼に比べたら北陸は訛りの薄い地域であろう。しかし、生まれも育ちも東京な原島の流暢な言葉を聞いてしまうと、田舎者丸出しなのは自分も大差ない。

「そうか? きれーな言葉ばしゃべるなと思ただ。おらとこの言葉じゃぢっども伝わンね……おっと、いげね。おれの言葉じゃ、伝わらないな、って言いて……言いたいんだ」

 これからよろしくな。にっこりという形容に相応しい満面の笑顔を向けられて、本江は素直に手を差し出した。途端に両手で引っ掴まれぶんぶんと上下に大きく振られ、またもつんのめりそうになる。野宮の手は温かかった。目一杯の好意を示してくれたことが、何より嬉しかった。

 

 そうして、五人でぎこちない会話が始まった。育ってきたところもこれまで当たり前だと思ってきた価値観も言葉さえも全てが違うせいで、きっと伝えたいことの半分も届かなかっただろう。それでもこの日だけは新しい生活が始まる高揚感に酔わされて、些細なことだと思えたのだった。

 和気藹々と始まったとみえた寮生活第一日目は、その後間もなく大音声で号令をかけにきた上級生による、寮規則の事細かな説明のち丸暗記大斉唱で暮れていった。当時の師範学校は、軍学校の次に規律と上下関係に厳しいと言われていたものだった。

2021年4月16日公開

© 2021 篠乃崎碧海

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