祈りの断片(後編)

堀井たくぞう

小説

13,699文字

ああ、これは本当に現代に生きる神の記録、なのか?

(前編から続く)

 

天衣無縫。神の仕事には一分の隙もない。神のしもべたるオレのしでかしたとされることも神がそうなるように仕込んだというだけの話である。だからのオレのせいではない。オレは単にこの一件における自分の役割を忠実に果たしただけ。事件や事故が起きた時、人はそれを起こした人物にその理由を求めようとするが、それは間違いである。信心のない人間のものの捉え方だ。真の理由は、その出来事によって影響を受けるすべての人物に内在する――そういう意味ではオレもまさに今この出来事の影響を受けているところなのでオレにもよすがはもちろん無くはなかったのだろう。だがオレは神が出すサインに従って生きているが故、こういうときには神がオレを役立てただけだと考える(赤鼻のトナカイのように)――そして当然、出来事によって大きく影響を受ける者ほど大きな理由を抱え持っているのだ。だから、繰り返しになるが、この件についてオレに非はない――オレはこのつまらない会議に付き合わされている程度の影響しか受けてないから。いろんな人にいろんな体験をさせるという神のみわざのための歯車にオレはなっただけだ。

会議室のテーブルの向かいにはコンシューマ事業部のマーケティング部の部長やら担当者らが座っていて、オレの横ではウチの課長がひたすら平身低頭な様相を示している。オレも形だけは頭を下げる。悪いと思ってなくてもフリをするくらいの社会性はオレでも持ち合わせている。

事はこうだ。新しく契約したインターネット広告配信業者のためにオレが組んだ商品フィードファイル出力のプログラム――ギックリ腰から復帰したオレが最初にやった仕事――にバグがあり、そのせいで間違った内容の広告を配信してしまったらしいんだな。バグというか、正確には仕様の解釈ミス。他の広告業者向けのフィードだと例えば「在庫あり」のカラムにYESなら「1」、NOなら「0」という感じにフラグを立てるのが普通なのだが、件の業者の「配信可否」のカラムは配信可なら「0」、不可なら「1」と、これまでのパターンとは意味合い的に逆なのだった。オレはそこを見落とし(なにせ腰の痛みのせいで集中力が欠如していた)、いつも通りにYESは1、NOは0としてしまった。つまり先方の要求仕様とオレが決めたウチ側の仕様に食い違いがあった。その結果として、在庫切れの商品やら既に販売を停止している商品とかばかりが広告に出てしまったわけだ。ちょうどウチの新商品が人気のあまり在庫切れを起こしていて供給は数ヶ月先という状況でそれの広告がバンバン出てしまったから、それを見た客がすわ販売再開かと広告をクリックしまくったけどもサイトには依然として販売再開のスケジュールは出ておらず、顧客からは問い合わせやらクレームの電話やメールが殺到。それを受けて件の広告業者とマーケ部との間ですったもんだがあった挙句、ウチから提供されているフィードの内容が間違っていることが判明した、と。

オレは愚痴めいた苦情を並べ立て続けるマーケの部長を横目に、品切れ状態の新製品の広告を自らに引き寄せてしまった人々の精神に思いを馳せた。人は入手が困難であると知るとなおのことそれが欲しくなったりする。品切れと知りつつ諦めきれない感情、次の出荷のタイミングで首尾よくそれをゲットできるか否かという不安と焦り、待っていればいずれは手に入るのだから我慢しろと自分に言い聞かそうとする理性……、そういった諸々に呼応する形で彼らの目の前に広告が表示されたというわけだ。

ああ、まったく神の仕事の緻密さに恐れ入るよ。オレもその中でキーとも言える役割を果たすことができたということだから、実のところ悪い気はしない。信心のない人間ならば自分のしでかしたミスのせいで多くの人に迷惑をかけてしまったと落ち込むところなのだろうけど。

普段のオレだったらこんなミスは決してしなかっただろう。オレがギックリ腰になった理由の一つがこの出来事のためでもあったのだろうなあ、と思うと、そういった神の配剤に対して抗おうとか考えることの無益さをヒシと感じる。もちろん神に意図があってこういったことをやっているわけでなく(なにせ神は人ではないから)、これはひとつの必然として、ひとつの調和としてこのような形に物事が進むのである。太古の昔に無機物から生命が産まれたのと同じように。時計の部品一式をコップに入れてシャカシャカ振っているだけでいつしか時計が組みあがるのと同じように――そんなことは信じられない? もちろん信じられないだろう。それが人間の限界だ。しかし全人類でジャンケンのトーナメント戦をやったとしても一人は勝ち残るのだ、全人類を相手に。つまり無限のように選択肢があっても物事は最終的には常にひとつのパスに収束する。可能=性という見方をするとパスは無限にあるように見えても、必然性があるのはひとつだけである。つまり、どんな細い可能性であってもそれが神の道である限りそれは実現する、必然として。あらゆる可能性のパスからそのひとつは選択される。ときに勘違いヤロウは「神にとってはあらゆることが可能」などと言ったりするが、それは明らかな間違い。神は必然性のないことはしないし、ゼロの可能性をイチにはしない。ファンタジーじゃないんだから。

マーケ部長の愚痴は終わった。最後に彼らは我々情シス部に対して再発防止策の提示を求めた。まあ、お約束の展開ではある。

しかしこのことは我々にとっては一つの困難を突きつけられた形ではあった。なぜならば、ウチはこれまでにもなにかをしでかす度にミスを繰り返さぬような仕組みを策定し、ほぼ行き着くところまで行き着いた感がある状態なのだ――それでも起きるのがトラブルである、神のすることだから。何事もそうなのだが、守りを固めるほどに攻撃は強くなるのだ。水害対策を強固にするほど強力な台風が到来するし、エアコンに依存するほど気象は異常になる。人間の考えることはなんもかも原因と結果が逆。太古には「生贄」という発想があった。当時の方が現代よりも神のことが理解されていた証拠だ。生贄とはつまり、災害的なものは常に一定量発生するのだから、ま、あらかじめ許容範囲内で障害を起こしておけばいいじゃん、というアイデアだ。そうすることで想定外のトラブルが起きることが抑制されるわけ。現代の人間はそれを非論理的と片付けてしまう、なにもわかってないくせに。つまり今回の件も、我々が大小の障害の発生を封じ込めてきた結果として、その盲点を突くようなトラブルが起きたのである。そして起きたトラブルは常に我々の想定の範囲外になるので、時に被害は甚大になったりするのである。今回のようなケースを防止する策を立てたとて、次にはさらに想定外なことが起きるのだ。本来、我々のすべきことはトラブルを許容する仕組みづくりであって、再発防止策の導入など単にオーバーヘッドを増やすだけでしかない。

そんなことを口にしたところで理解してもらえようはずもなく、下手したら狂人扱いされてしまうということはわかっている。オレは黙っていた。

課長は一旦持ち帰って再発防止策を検討すると話した。

 

当然のごとく課長は再発防止策の素案を作成するようオレに指示してきた。

今回のような外部との連携における先方の仕様の解釈のミスとなると現行の仕組みの中ではコードレビュー時にチームメンバーからのチェックによって間違いが発見されることが期待されるのであるが、メンバーもそれぞれ自分のタスクを抱えている中でレビューを行うわけだ、せいぜい確認するのはコーディングに入る前にオレが書き起こした仕様書とコードくらいで、先方側の仕様の内容まで踏み込むことは(コードによほど懸念を呼び起こすようなロジックがない限り)正直、まずないだろう。ミスが事前に発覚するようになるためには、開発者が仕様書を書き起こした時点で(コーディング前に)一旦その内容についてメンバー間でレビューするというのが妥当と思われる。現状でも一定規模以上の開発案件では仕様書レビューは行なっているのだが、今回のようにコーディング自体が数分で完了してしまうような小規模なものについては対象とされていない。そんなものまでいちいちレビューしていたらオレたちの勤務時間のほとんどがレビューだらけになってしまう。素案には「新規に社外のシステムと連携するプログラムを開発する際にはその規模に関わらず仕様書レビューを必須とする」と書いた。社外システム連携の新規開始時に限定すればさほどその機会は多くはないから、(部の全体の仕事量から見れば)工数はさほど増えずに済む。

にもかかわらず、その後に開かれた関係者を集めての検討会は紛糾した。皆、今以上に仕事のオーバーヘッドが増えることに対し異様なまでに神経質になっているせいである。ついこの間も単体テスト時に結果を書き残すためのチェックシートが刷新されて記入項目が厳密化アンド大幅増量され、テストにものすごい時間と手間がかかるようになったばかりだ、タイミング的には最悪。会はオレの素案に対しての検討会というお題目を離れ、ミス再発防止のための様々な仕組みに対して現状、各人が抱えていた愚痴を言い合うガス抜き大会の様相を示し出した。検討など進みようもない。オレは誰かがスーパーでスペシャルな反論を持ち出してオレの案を一蹴してくれないかと期待していたが、結局はオレの案がほぼそのまま採用されることになった。もちろん、しぶしぶに、である。

オレにとって想定外だったのは、このオレの案が実際にはさほど害があるものではないにもかかわらず、現状に愚痴を吐き出した記憶と強固に紐づいてしまったためなのか、皆の脳内にはなにか禍々しいものを受け入れてしまったかのような印象だけが残っているらしい、ということだった。

検討会の前の時点では、今回のオレのミスについて皆が割と同情的な目で見てくれている感触があった。ミスは誰でもするものだし、しかもそのミスそのものはごく小さな、誰がやってしまっても不思議ではないようなもので、そんなのがたまたまクレーム祭りにつながったがために他部署から吊し上げられて謝罪までさせられたのはアンラッキー以外の何物でもないよな、と見なしてくれている雰囲気があった。ところが検討会が終わり、その参加者以外にも新規社外連携時の仕様書レビューの必須化がアナウンスされると、急に部内の空気が冷たいものに変わったのが感じられた。明らかにオレが自分たちの仕事を増やした戦犯のように思われていることが彼らの言動から伝わってきた。

別にそれで動じたりはしない。周囲から向けられる視線によってオレが感情的に動かされることはない。ないのだが、ただ、それはひとつのサインにはなりうる。

皆がオレに向けて放っている感情が変化していく様をオレは興味深く観察した。

当初、それは日が経つにつれて以前と同じような当たり障りのないものに落ち着いていくだろうと考えていたが、意外にも、彼らが示す悪意や嫌悪感のようなものは逆に増大していった。それもまた有り得べきかな、とオレは思った。所詮、オレのように真理を悟っている人間は一般人には煙たがれるのが定めである。これまでオレは自分の本性が周囲に伝わらないようにうまく立ち回ってきたつもりだが、やはり彼らも無意識のうちに感じ取るものがあったのだろう(そう、誰でもそういうことを感じ取ることはできるものである)、それがこの機に表面化しつつある、といったところと思われた。問題は、これを放置しておくと、やがては集団イジメのようなものにまで発展するのがお決まりの流れだという点だ。そうなってしまうと、オレ自身はともかくとして、皆の精神状態が非常に荒んでしまう。すると彼らはさらなる不幸をどんどんと呼び込んでしまう。それが最終的にどんな事態をおびき寄せることになるかは推して知るべしだろう。

こんなとき、最悪の事態を避けるのに最も有効な手段は、オレが十字架にかけられることである(もちろんこれは比喩的表現だ)。

かつてイエスキリストが人類を救うために採ったのと基本的には同じ手法だ(たぶん)。あるいはソクラテスか。

それが神の道であれば致し方あるまい――。別に会社の皆に恩義を感じてたりするからなどという理由ではないが、たまたまオレがここに居合わせたことの意味を考えると、オレにその役割を果たすことが求められているということなのだろう。

すべきことを粛々と。

オレは考えた。皆を救うためにおそらく一度しかないチャンスを最も効果的な形で使いたい。オレが十字架にかかることで皆が溜飲を下ろす必要がある。そのためにはまず、皆の嫌悪を一身に集めなくてはなるまい。

密かに活動を開始した。こういうことはおおっぴらにやるよりもこっそりやったほうが実のところは話が広まるのである。まずは例のチェックシートの確認項目となっているテストをさらに増量させた。もちろんその内容は正当だ。ほとんどの関係者がわかっていながらシートに載せていなかった項目(それを載せてしまうとあまりにもテスト工数が膨らんでしまうので)を入れさせたのである。正論を言ってシート管理者を説き伏せた。このシートの改変はすぐに多くの部員らの不評を買うことになった。そしてそれをさせたのがオレであることが皆に知れるのにさほど日数はかからなかった。だがそのことについてオレ自身に対して直接苦情を言ってくるものはいなかった。ある程度のエンジニアならその改変の正当性を理解できるし、それ以下のエンジニアはそもそもオレにモノを言う勇気はない。

次にオレが企んだのはログインパスワードのレギュレーションの改正だ。セキュリティ担当者を焚きつけてオレはそれを実施させた。これまで社内の様々なシステムにログインする際に用いられるパスワードは、一部がLDAPエルダップを用いているものの、そうでないものも存在し、ルールも統一されていなかった。その多くは八文字以上の半角英数字であればパスワードとして利用できる形になっていた。オレはそれを、十三文字以上で半角の小文字、大文字、数字、特殊文字のうちの三種類以上をミックスしたものでないとパスワードとして利用できず、かつ、三ヶ月ごとに別なパスワードに変更せねばならず、また、過去に使用した文字列と八割以上が合致するものは利用できない、などをルールとするようにさせたのだ――これは同規模の他社と比較しても決してやりすぎな内容ではない。したがってそれに対して正面から異論を唱えるのは憚れるところとなる(実際には定期的にパスワードを変更させることは意味がないどころかむしろセキュリティレベルを下げるという調査結果があるのだが、一般には慣習的に行われていることが多い)。これもまたなかなかに効果的な一撃だった。日々不便さを強制させられるこのパスワードの改変について当初はやり場のない憤懣が漂うのみだったのが、黒幕がオレだということが発覚するとあっという間にその話題は部内に広まり、オレに対する嫌悪が増大したことが肌で感じられるまでになった。

もう十分かな、と考えた。これ以上やるとなにか実害が発生しそうに思われた。

オレはオペミスを装い、会社の公式ホームページをホスティングしている三台のウェブサーバのうちの一台をダウンさせた。スーパーユーザ権限で /mnt ディレクトリをまるごと削除してしまった。これだと単に再起動すれば元通りというわけにはいかない。とはいえ三台のウェブサーバは同じ内容の処理をロードバランサにより分散させているものなので対外的には実害は発生しなかった。残り二台のサーバの負荷が上がっただけである。だがもちろん、情シス内では大問題となった。本番運用のサーバに対してスーパーユーザ権限で操作することは当然、禁止されている。どうしても必要な場合にのみ、上司の承認を得た上でないと許可されない。

オレのミスに対する風当たりは相当にキツかった。もちろん誰も庇ってくれたりはしない。定例ミーティングの場でオレは皆の前に立たされ、オペミスに至る経緯を説明させられた上で、非難の言葉を浴びせかけられた。オレはまっとうな反論などはせず、もごもごと弁明を口にするだけにとどめた。ここで卵かトマトでも投げつけられれば完璧なのだがさすがに社内でそれはあり得ない。

ここでのオレの役割は終わったようだ。

オレは辞表を出した――本当は懲戒免職だったりするとよかったのだが、会社にそこまでさせようとするとオレは犯罪行為(あるいはそれに近しいこと)に手を染めないとならなくなる。それはできなかった――やはりオレはまだ信心が足りないのかもしれない。

 

転職活動を開始した。なに、どうせ、サインに従っていさえすればすぐに再就職先は見つかるだろう、そうオレは思っていた。オレは神の忠実なしもべ。神がオレに果たさせたい役割がある限り、その場は提供される。むしろオレに新たな役割を担わせたいがために今の会社を辞めさせる流れを神が与えたのではないか――。オレは鷹揚に構えていた。ウェブで二つの転職サービスに登録し、少しばかり求人案件を検索して眺めた。それらの中になにかサインが出ていないかと考えたが、もしそうならすぐに目につくはず。オレはノートパソコンをそっと閉じた。

有休消化に入った。何もすることがないのでオレは散歩に出かけた。十月も後半にさしかかろうという時期だったが、日中はまだ上着が不要なほどに良い陽気だった。目的もなくただ歩いた。やがてこの近隣で最も大きな公園にさしかかり、何の気なしにオレは中に足を踏み入れた。ほぼ葉を散らしきった感のある桜の樹や鬱蒼としている常緑樹に囲まれて子供向けの遊具が配置されているエリアと、その隣には野球グラウンドがある。ピンクの帽子をかぶった幼児の集団とエプロンをつけた若い保母さんらしき姿が数名。赤ん坊を連れた母親同士がベンチでなにやら話し込み、大型犬を散歩させていた老人は小型犬を連れた中年女性と立ち話中。彼らとは距離をとって、オレは空いているベンチに腰掛けた。目の前の光景に眩しさを感じた。オレは眼を細めた。少し離れたところにある砂場では幼児らが砂遊びに熱中している。

砂漠のようだ――唐突にオレはそう思った。砂場からの連想かもしれない。

目の前の光景は砂漠とイクイバレントだ、オレにとっては。ここからオレは何も得ることはできず、ここを彷徨い続ければやがてオレは乾いて死に至る。ここには神がいない。ただ人の姿をしたものがいるのみだ。

オレの腰掛けているベンチの反対側に誰かが座った気配がした。オレはそちらに少し顔を向けた。杖をついた老人だった。その白い無精髭に覆われた面相に見覚えがある気がした。どこかで会ったっけ、この爺さん――。

「いくつかね」

老人は顔を前方――幼児らが遊んでいる遊具のある方――に向けたまま、唐突にそう口にした。オレも彼と同じ方を向いた。老人が訊いているのは幼児らの年齢のことかな、と思った。

「さあ……、二、三歳ってとこじゃないすかね、子どもの年齢はよくわからないけども」

そうオレは返した。老人がチラとこっちを見た気配があった。

「君のことだよ」

――オレ? オレの歳を訊いてどうするんだよ、と思ったが、それは口にはしない。

「二十九っすけど……」

「ほお、二十九か。そうかそうか」

老人は笑い含みの声で返してきた。それきり何も言わない。オレはもう一度、彼の方に目を向けた。奇妙に馴染みのある顔つき。しかし、心当たりはない。オレは記憶を辿ったが、この地に来てからこのような年寄りと関わりのあったことは一度もないはず。しかし彼のことはよく見知っているような気がする。昔の友人の誰かに似ているのか。

少し会話してみるか――何か話題を振ってみようとオレは考えを巡らしたが、どんな話が適切なのかわからなかった。こういうとき世間の人々はどんなことを話題にするのか。世間話をするなどというスキルを身につける機会がこれまでのオレにはなかった。

「して、君はいくつかね」

老人が再び口を開いた。――え、さっき答えたじゃん。このジジイ、痴呆症なのか。あまり刺激しないほうがいいかな。

「二十九です」オレは答えた。

「おお、そうかそうか」

いったいこれは何なのか。何かしらの神の配剤? いやしかしついさっきここでの神の不在を感じたばかりではないか。では何? 単なる偶然の出来事?

オレは眩しい日差しの下で幼児らが遊ぶ様を眺め続けた。老人も同じようにただ前方を見据えているだけだった。どれくらいそうしていたろうか、五分くらいか――あるいはもっと短かったかも。でも、どうやら老人にはもうなにも話す様子がないと判断するには十分な時間だったと思う。

「もう行かないと」

独り言のようにオレは口にし、腰を上げた。

「それじゃな」

老人が言った。オレは彼に向けて軽く会釈し、その場を後にしかけた。三歩ほど足を進めたところで、ふと、立ち止まり、ベンチの方を振り向いた――老人の様子がなんとなく気になった。

そこにいた老人は先ほどまでとはまるで別人だった。いや、姿形はそのままだったけれども、表情は完全に別人と化していた。そこにオレが感じていたある種の親密さのようなものはすっかり消失していた。そこにいるのは単なる見知らぬ人物だった。オレはその場に固まり、まじまじと老人を見つめてしまったが、彼は無反応だった。単なるボケ老人がベンチの端に座っているばかりだった。

オレは困惑した。その心持ちのままその場を後にした。

神に見捨てられたような気がしていた。いや、神は人ではないのだから、もちろん、何かを見捨てたりなんかしない。そういう人間的行為はしない。つまり単にオレが神の不在を感じ続けている、ということか。

早々にオレは自宅に戻り、そのままベッドに潜り込んだ。動悸がしていた。目を閉じて呼吸を繰り返し、落ち着きが戻るのを待つしかなかった。

 

転職サービスのエージェントとの面談ではオレの経歴ならばすぐに転職先は見つかるとの見通しが告げられたにも関わらず就職活動は難航した。高望みをしていたりするわけではないが、以前の職場環境や待遇からかけ離れた処に行くのはどうかと思われた。なんにしてもオレが行くべき処を示すなにがしかのサインを神が示す筈、と考えていた。

あるいは難航していること自体が何らかのサインである可能性も考えられた。アプローチが悪い、と。オレは普通に就職すべきではない、という神からの指示――つまり、例えばの話だが、フリーランスになるとか、独立して会社を興す、なんぞが示唆されているとか。

独立か――。

まったく興味のない話ではなかった。ITエンジニアとしての自分の能力にはそこそこ自信があった。少なくとも自分は社内では結構上のレベルにいると考えている。その実力を試してみたい気持ちはあった。ただ、大企業でぬくぬくと過ごしてきた自分が外に出てやっていけるものなのかどうかはまったくの未知数だった。とりあえずのところオレは、独立するという案について否定も肯定もできずにいた。

そんな頃、ようやく一社、こぎつけた面接にオレは出向いた。オフィスは六本木にあるランドマークともいえる巨大ビルの中にあった。内に入るまでが大変ではあったが、建物の外観と同じくクールな印象のオフィスだった。こういうところで働くのも悪くない、そう思った。通された小さなミーティングルームでしばらく待たされた後に二人の面接官がやってきて、二つの部署でオレに興味を持っているのだけどもお互いの時間の節約のために同時に面接をする、と告げた。二人はそれぞれの部署の長ということらしい。どちらもオレとほとんど同年代のように見え、各々におしゃれな服装と髪型をしていた。こういう格好でないとここでは働けないのだとするとオレにはなかなかハードルが高いと思われたが、まあ会社の全員がこんな感じということもなかろう。オレは特に気後れのようなものも感じることなく普通に面接を終えることができた。感触は正直よくわからなかった。

面接を終えたオレはロビー階まで降りて、人の流れから少し離れた端の方に行ってスマホを取り出した。終わったらすぐに電話をよこせと面接をセットアップした転職エージェントから言われていた。電話を発信。通話に出たエージェントに面接の感想だとかいろいろと質問された――オレは簡潔に回答した。彼女にフィードバックすることに大した意味があるとは思っていない。その声を半分聞き流しつつ、オレはエレベータホールに通じるゲートを出入りする人の流れを眺めていた。

――と、その流れの中に見知った顔を見つけた。オレは少し意表を突かれた心持ちで、スマホを耳に当てたまま歩き出した。通話を適当に切り上げた。元・同期である折原の姿を見たのだった。四、五年前に会社を辞め、自分の会社を立ち上げた男だ。これは神の配剤か。会社から独立を果たした経験者の話が聞けるチャンス――。

そうかそうか、神はオレに独立させる道を選ぶのか――内心に湧き上がる興奮をひた隠しにオレが近づいていくと、向こうもオレに気づいた。

「おお、斎藤じゃねえか」

「久しぶり、元気かよ」

そんな感じに声を掛け合った。折原はオレと同じく情報システム部のエンジニアだった。課は違って彼の担当はメインフレームの基幹系だった。オレは担当がオープンシステム系なので仕事上はほとんど絡まないのだが、同じ部の同期であるのでそこそこ親しくはしていた――とりたてて仲がいいわけではなかったが。

お茶に誘った。セルフサーヴィスのカフェを見つけ、オレたちはそこに入って腰を落ち着けた。オレが会社に辞表を出して転職活動中であることを告げると彼は破顔した。

「次を決める前に辞表を出したのかよ、お前らしいな」

それの一体どこがオレらしいのかと思うが、とりあえず頷いてみせた。さっき面接を受けてきた企業の名をオレが口にすると、折原は、

「あんなトコ、受けたのかよ。やめといた方がいいぜ、人材を使い捨てにするって噂だ」

と言い放った。オレは二人の面接官の顔を頭に浮かべた。そういう印象はなかったけどな、その噂は本当なんかいな――。

「どうしても行きたい、ってんなら止めねえけどよ。割り切りで二年務めて独立資金でも貯める、とかなら話は別だがな」

いい具合に「独立」という単語が彼の口から飛び出した。すかさずオレは、実は独立するという線もアリかなと考えているんだ、と話した。折原はニヤけた顔でオレを見た。

「おまえがか? いやあ、それはどうだろ。ま、やってみるのはいいと思うけどね。でも独立するヤツはさあ、だいたい独立する以外に選択肢がないんだよ。そんな、転職か独立かどっちにしようかなあ、なんて悩んでる時点でもう向いてないだろ」

折原がそう言うのを聞きながら、オレは以前の感覚を思い出していた――ああ、コイツって昔からこういう上から目線の鼻につく話し方をするヤツだったよなあ、と。だから少し距離を置くようにしていたのだった、そういえば。久しぶりの再会だったので忘れていたが。

その後は世間話をしながらコーヒーを飲み終え、その場を切り上げた。

駅で折原と別れ、電車に乗った。頭では彼の言った言葉に正しさを認めていたが、なんとなく嫌な感覚だけが残った。それとともにオレの内側では、独立するというアイデアに対しての反感のようなものが急速に成長していたのだった。

 

件の企業からは、今回は残念ながら見送り、という話がエージェント経由で伝えられた。残念って誰が思ってるんだよ、とツッ込みたくなった。そう思ってんのはエージェントだけだろ。

それからは面接にも辿り着かなくなった。

有休消化の期間はすぐに終わり、オレは名実ともに無職となった。自己都合退職なので当面は失業保険の金も出ないが、転職先が決まるまでに時間がかかる可能性も考え(オレの信心はどこへ行ったのか)、オレはハロワに向かった――こういう機会でもないと一生行くこともないだろう、これも人生経験だ。時間つぶしにもなる。

ハロワはオレの自宅から私鉄で三駅行ってJRに乗り換えて一駅、そこから十分以上も歩いた処にあった。往復だけで結構な交通費と時間が浪費された。おまけになぜだか非常に気が滅入る場所だった。面談を待つ間にオレは並んだブースに置かれた古臭いPCで求人情報を検索したが、ここにあるデータはオレのような曲がりなりにも世間的には一流企業と認知されている会社でエンジニアとしてのキャリアを積んだ人間のためのものでないことをすぐに理解した。オレはその場に居合わせた人々を観察することに徹した――たくさんの人々、その身なりや顔つき。そこからはオレにはお馴染みの何かが欠落していた。眺めているだけでその欠落が自分にも伝染してくるような感覚に襲われ、気は滅入るばかりだった。何かが根本的に間違っている気がした。ここにいる人々が救われるには何かを根本から変える必要があると思われた。

おそらくそれは信仰だ――彼らに足りないもの。そう思い当たった。

彼らが信じているのは、困窮しその日暮らしで破綻寸前であるのが自らの常なのだということ――、きつく先の見えない労働に従事しわずかばかりの賃金を得るのが自分にはせいぜいであること――、つまらない仕事をタラタラとこなすのが自分にできることの全てであること――、そして、そういった自分に合う仕事を見つけるのにさえ意味のない苦労と忍耐を強いられるのが当然であるということ、だ。そして神は彼らが信じている通りの現実を与えている。

あなたが信じさえすれば、山を動かすこともできるのに――。

ここに居合わせている人々は、自分が、世界の中で自分なりにささやかな価値を生み出すことができ、それに見合った金銭を得、安寧に暮らすに値する存在である、というたったそれだけのことを信じることができないのだ。

オレはため息をついた。ブッダならここで出家するところだがこの現代でオレがそれを真似たところでなんの意味もない。所詮、人は自分が信じるところの存在になるしかないのだ。現代日本人の無信仰ぶりがこの状況を招いているのは間違いのないところだろうが、この国の人々は無効化された宗教以外に対してアレルギーがあるからどうしようもない。オレの信じる名前のない神、名前のない宗教をシェアできればいいのだが、なにも実体がないものをどうやって伝えようがあるか。ギャグセンスでもあればユーチューバーにでもなって伝道できるかもしれないが、そんなセンスはオレには皆無だ。だいたいオレには他人を救おうなどという熱意はない。自分に到来した役割を淡々と果たすだけの人間でしかない。そこを捻じ曲げることはそもそもオレの信仰と矛盾する。

気分を変えようとオレはスマホを取り出した。何の気なしに『ブッダ 出家』と検索してみる。その結果を見て、あ、と思ったのだが、ブッダこと釈迦が出家したのは二十九歳のときだそうだ。オレはこないだの公園の老人のことを思い出した。

ここには神はいない。

あの感覚が蘇ってきた。

砂漠――。

 

翌日、オレは熱を出して寝込んだ。ハロワで誰かから風邪を感染されたのだろう、オレにとってはつくづく鬼門のような場所だ、と思った。

うつらうつらとした状態でオレは夢を見た――。

 

赤茶けた荒野のような処をオレは彷徨っていた。

オレはまるで、いつかケーブルテレビで観た『復活の日』の終盤でひたすら南へと歩き続ける草刈正雄のような姿だった。

大地はどこまでも続いていて、空は地面とは対照的にウソのような真っ青だ。

突然にオレを呼び止める声が聞こえた。まるで心に直接語りかけられたかのように、それがどこから聞こえてきたのかわからなかった。

オレは足を止めた。顔を上げ、辺りを見回す。

振り向くと、そこに男が立っていた。

そいつは悪魔だった。

見た目にはただの人間の姿だったが、オレにはそれが悪魔だとわかった。

その顔に浮かぶ表情はあの公園の老人のものだ。奇妙に馴染みのある顔つき。

オレはコイツをよく知っている、と思った。

この男はオレ自身なのかもしれない。

「ナザレのイエス」

悪魔はオレに向かってそう声を放った。

アホか、オレはキリストなんかじゃねえぞ――オレの頭にそんな言葉が浮かんだが、そのことに対する確信は、しかし急速に萎んでいくのが感じられた。あるいは悪魔の方が正しいのかもしれなかった。

「汝、無力な者よ」

悪魔は続けた。

「市井の人々のために何を祈るのだ?」

 

オレは無力などではない――そう言い返そうとしたときに目が覚めた。

 

数日後には熱が引いた。

夢の内容がなにを意味していたのか、なんでオレはあんな夢を見たのかが気にはなったが、考えたところでわかるはずもなかった。ある種のことは理解する必要などない、ただ単に受け止めればいいのだ。オレはそう考えた。

それから間も無く就職先が決まった。最終面接の日は季節外れの大雨に見舞われ、こりゃあ幸先悪いな、ここもダメかぁ、と会場に到着したオレは早くも諦めかけていたが、面接を終えてビルの外に出ると雨は止んでいて虹が出ていたので、この会社に決まるだろうと思った。そしてその通り、採用を知らせるメールが届いた。

業界ではそこそこ名の通ったシステム・インテグレータ企業だ。おそらくオレはそこで世界に向けてささやかな価値の断片を供出し続けることになるだろう。それがオレの祈りでもある。

オレは思い描いた。世界中のエンジニア達が生み出す無数の断片が雪のように舞いながら覆い尽くす電脳世界の空――目も眩むばかりに。

そこにも神はいる。

 

2021年4月9日公開

© 2021 堀井たくぞう

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