祈りの断片(前編)

堀井たくぞう

小説

13,256文字

齢29にしてギックリ腰となったITエンジニア――これは現代に生きる神の記録、なのかもしれない

目も眩むばかりの恩寵!(そののなんと甘美なことか)

 

 

オレは一介のサラリーマンに過ぎないのであるが。ある日、勤め先の会社がオフィス移転をするってんで情報システム部員であるオレは新しい部門別サーバを設置するために新オフィスに赴いた。建てられて間もないオフィスビルに足を踏み入れると、まだ机も椅子も搬入されていないだだっ広い空間があるばかりだった。ここの五階から二十三階までの各フロアに二台ずつ真新しいサーバマシンのセットアップをしてまわらないとならない。どうやら貧乏くじを引いたようだ、などと思いつつ、オレは一日がかりでその作業を完了させた。コンピュータの梱包を解いてディスプレイやらキーボードやらの周辺機器を繋ぐ作業はオレにとって手慣れたものだったが、問題は必要なソフトウェアをインストール&セットアップをする際に床に座って作業しなくてはならないことだった――机も椅子もないので必然的にそうなる。どうやらそれが思った以上にオレの体に負担を与えたようだ。夕方にはオレの腰は悲鳴を上げ始めた。だがまだその日はなんとか重い腰をなだめつつ自宅マンションにまで帰ることができた。

翌朝、オレは起き上がることができなくなっていた。トイレに行くのに這ってゆかねばならない状態だった。

ファック、ファック、ファック――脳内でハリウッド映画のヒーローの如くに悪態をついてみるが、ムービーの登場人物のように気合でなんとかすることはできなかった。見かねた家人が鍼灸師を呼んでくれたが、こいつがまたとんでもない代物だった。オレの腰がこうなるに至った経緯を聞いた鍼灸師は症状を軽目に見誤ったか、お灸をすえるためにオレに妙なポーズを取らせた――部屋の窓枠に肘をついて尻を突き出す、という感じの。これが決定的だった。そのポーズになった一秒後にオレの腰に電撃を加えられたかのようなショックがあった(後にこれがいわゆるギックリ腰と呼ばれるヤツとわかる)。

完全にお陀仏と化したオレは救急病院に助けを求めることとなるが、救急車ではなくタクシーを呼んだあたり、まだ少し余裕があったのかもしれない。マンション前に停まったタクシーまで地べたを這ってゆくという未曽有の体験をすることとなった。運転手は「ゆっくりでいいですよ~」と声をかけてくれた。

病院では『ギックリ腰』という診断名が与えられただけで、それ以上に事態が好転することはなかった。端的にいうと動けるようになるまでじっとしている以外にないらしい――実に哲学的じゃないか。人は死ぬまで生きるしかない、みたいな――。まあ、自分の症状がよく耳にする名で呼ばれるものであるということを知れただけでそこはかとない安心感は得られた。

齢三十にも届かぬうちにギックリ腰とは……。

数日間をオレは布団に横たわって過ごし、なんとか歩ける程度にまで回復した。しかし仕事に復帰するほどに動き回るには不安が残る状態だ。しかし完全なる回復を待つことができるほどオレは人生というものに余裕を持っているわけではない――なにせ一介のサラリーマンだから。有給休暇の数には限りがあるし、会社の同僚に迷惑をかけ続けることもできない。オレはコルセットを腰に巻いて出勤することにした。そこで問題となるのが会社にはスーツを着ていかねばならぬという点なのだが、普通に考えてコルセットを巻いた上にスーツのパンツを履くのは無理がある。ところが今回の場合、幸いなことに数年前に購入したブランド物のスーツの下がオレの本来のウエストサイズを大幅に上回ったものであったために、コルセットをつけた状態でそれを履くとちょうどよい感じにぴったりとなったのだった。

件のスーツはオレの所有する服飾品の中で最も値の張ったものだったが、なぜかウエストサイズが全く合ってなかった。試着したときに気づかなかったのだろうか? あるいは裾上げの直しをしてもらう際に別人のものと取り違えられたのかもしれない――そういや上着の方もオレにはやや大きすぎる気もする、だが裾丈はオレに合っていた。なにぶん面倒事を避けて生きることを信条としているオレは黙ってその状況を受け入れた。逆にサイズが小さすぎたのであれば購入した店に苦情を言って取り替えてもらうしかないが、大きい分には問題ない。大は小を兼ねる。とはいえ、実際にそのスーツを何度か着る機会を経てみると、やはり店に苦情を言うのが正解だったような気もしてくるのだった。サイズの合ってないパンツをベルトで締めるとシワがよって非常に格好悪い。だがもう何度か着用してしまっているので今更交換には応じてもらえまい。そういうほろ苦い経緯のある一着なのだった。

そんな一着の欠点がオレのギックリ腰という非常事態に生かされた――クリスマスにおけるトナカイの真っ赤な鼻の如く。まるで今日の日のあることを見越していたかのようである。

実はオレにとってそういうことは珍しくない――他の人がどうなのか知らないが。例えばオレが特に何の考えもなくコンビニ袋をカバンの取り出しやすいサイドポケットに入れておいたところ、その数日後、飲み会で深夜まで呑んで終電で駅に降りた途端に吐き気を催してそのままホームで口の中に胃の内容物が戻り始めちゃったけどもすかさずそのコンビニ袋を取り出してその中に吐いたので誰にも迷惑をかけずに済んだ(そしてそれをそのまま駅のトイレに流した)、とか。とかとかとか。

てなわけでオレはコルセットをスーツの下にキメつつ、ヨチヨチ歩きしかできない体でラッシュアワーの電車へと果敢にトライした。利用するのは都心へと向かう私鉄の路線(東京メトロ直通)だが、ちょっとばかり都内から離れてるからオレの乗車する駅ではまだスゴくは混んでいない。急行に乗ろうなどと考えずに各停で行けば大丈夫。よほど運が悪くなければ吊り革は確保できる――という見通しのモト。

改札の前まで来て、通勤の人々はなんとすごい速度で歩いているのか、とオレは唸ってしまった。ゲートを通過しようにも周囲のスピードに乗れないので、わざわざ不便で皆が使わないほうに廻る。結果、普段よりも余計に歩くことになる――まあ、僅か数メーターの違いではあるけども。それからエレベータへ。これもややアクセスの悪いところにあるが、そのおかげで一般の人は使わない(バリアフリーのために設置されているものが一般人に対してはアクセスの悪さがバリアになっている笑)。しかし、周囲のせかせかした人の流れと比べ、ガラス越しに見えるエレベータの箱がするすると降りてくるのをぼぉっと眺めながら待つ時間とか、扉の開くゆっくりとした動きとか、もはや異次元である。プラットホームに移動してる間に二、三本電車が過ぎてしまうのではないかという勢いだ(実際にはそんなことはなくて、よほどタイミングが悪くて一本逃すかどうかといったところでしかないわけだが)。隣り合わせの別世界てな――触れ合った瞬間に大爆発を起こす物質と反物質の如く。オレはつまり反物質の世界に移行してしまった気分。

ホームに出たオレは気を取り直してエレベータに最も近いところの乗車列の最後尾に並びついた。オレの前に居るのは四人。しょせんは郊外なので人数としてはそんなもん。しかしいずれも地味なスーツを身にまとった歴戦のラッシュアワー戦士のようだ。その勇姿にオレは圧倒される。やはり腰が完治するまでは時差通勤にすべきだったかと悔やむ。しかし出社を一時間遅らせてしまうとついついいつもより二時間多く残業してしまう気の小さなオレ。そうか逆に出社を前倒しにする早朝出勤という手があるか明日からはそうしようでもオレは朝が弱いんだ早起きするくらいならいっそ会社に泊まったほうが――などと考えているうちに電車がホームに滑り込んでくる。乗車列に並ぶ戦士たちに殺気がみなぎる。各人がじりじりと前方に詰め寄る。負けてはいられない。今のオレにとってつり革に掴まれるか否かは死活問題。逆にここさえ乗り切ればあとは小一時間ひたすら立っていればいいだけ。一点集中突破あるのみ。

窓越しに見える車内の混雑度は普段通りだ――電車はゆっくりと停止し、ワンテンポ置いてドアが開く。二、三人の乗客がそこから降りてくる。最後の一人の体がまだ九割以上ドアの内側にあるうちに、オレの並ぶ側とは反対側の列の先頭の客が車両に踏み込む。フライングしやがって――オレは焦りを覚える。思わずオレは前に並ぶ人の背中を押すような形で前に進み始めてしまう。前に立つ人物は一瞬、オレのプッシュに抵抗する気配を見せたが、すぐに列が前方に進み始めた。後ろからも圧がかかる。やめてくれ、ここで強く押されたりすると腰が――。全身が緊張で固まる。押されるより先に前に進むしかない。顰蹙だとは思いつつも前の人の背中を押しぎみに足を小刻みに進める。じれったさを感じるが流れを大きくは乱すことはできない。ようやく車内に乗り込み、それぞれに落ち着き場所を求める人々の間をかいくぐり、テコでも動くまいとスマホに没入している輩どもを押しのけ、オレは満席の座席前に一人分の空きスペースを確保せんと奥に進む。ドアをくぐった時点で左側のリーチ可能なエリアに計三人分くらいの空きがあるのが認識できていたが、オレより先に乗り込んだ客が一人、二人とそれらのスペースに収まっていく。ひとつ隣のドアから乗車してこちら側に向かってきた中年の女性客が前方から迫る――お前なんぞに場所を獲られてたまるか。腰を再び痛めてしまう恐怖と戦いつつオレは体を硬くして進む。かろうじてオレは七人がけ座席の中央の前あたりに並ぶ乗客らの間に割り込むことができた。目の前のつり革のリングを両手で掴んだ。その手に体重をかけて腰への負担を下げる。オレは大きく息をついた。心の底からの安堵を感じた。

と、同時に恥ずかしさを覚えた――たかだかつり革を確保するために焦りなんぞを感じていた自分に、そのために人と競ってしまった自分に、他人を蹴落としてしまった自分に。

しょうがないじゃないか、オレは腰を痛めているんだ、手負いなんだ、体の不自由なお客様なんだ――。自分に言い聞かすかのように空虚なセリフを脳内で繰り返す。

はあ。

信心が足りなかった。そんな焦りなど感じずとも、人を押しのけたりなぞしないでも、オレには常に最善の結果が用意されているというのに――信心さえあれば。

信心。

オレは神なんぞ信じちゃいない。もちろん特定の宗教の信者などでもない。連れ合いと結婚するときにはキリスト教式の式を挙げたが、正月には神社に初詣に行くし、実家での法事には曹洞宗の坊さんがやってくる――といったことに疑問を覚えたことすらない。だがオレに信心がないわけではない。オレが信じているのは俗に神と呼ばれるものとは違うものだ。いやおそらくそれは紛れもなく神という概念しか当てはまらないものかもしれない。しかしそれは一般にいうところの神とは異なる。言ってみれば、手垢のついた神ではなく、本当の神。世俗の神ではなく概念としての神。だから正直、生活の中のいろんな慣習がどんな宗教に由来していようがどうでもいい。まったく気にならない。オレが教会にいようが神社にいようが寺にいようが、その背後には本当の神がいる――そもそも日本人というのは意識せずともオレと同じように世界を捉えているのが大多数なのではないか。だからクリスマスケーキを食った一週間後に初詣に行けるのだろう? 正しい。オレたちは特定の宗教の神には捕らわれていないが、その背後にある〈大いなる何か〉は信じている――意識しようとしてまいと。だから神社にも寺にも教会にも行けるし、その建物とか彫刻なんかの美しさに感動できるし、その場のしきたりに合わせて行動もできる。いやそれは宗教的な場に限った話ではない。例えばまさにオレが今いるようなラッシュアワーの電車の中。ここにはこの場のルールというものがあり、居合わせたほとんどすべての人はその境界上に分布する形となる。ルールは守られる時もあれば守られない時もある(守る人もいれば守らない人もいる)けども、大きく逸脱されることはない。万事そんなもの。それが日本社会の成り立ち。もちろん中には敬虔なクリスチャン(だと自分では思っている人)もいるだろうし、神様なんていう非科学的なものは一切信じない(と自分では思い込んでる)人もいるだろう。別に否定しない。そういう人たちは物事を一面だけから見た方が生きやすいのだろうし、それならそれで他人が口出しする話ではない(ただ彼らが自分らばかりが正しいと考えオレらを彼らの領域に引っ張りこもうとするのだけはやめてほしいと思うが)。

信心――かつてイエスキリストという人が「あなたたちがそう信じさえすれば山さえ動かせる」と言った(うろ覚えだが)のは、喩えとしては極端であるにしても、含蓄の深い言葉だと思う。というか真理である。彼の言葉はひっくり返して言えば「あなたたちに山を動かせると信じることはできない」ということになる。間違いなく真理ではないか。信じるってのはそういうことなんだよ。例えば誰かが「私は女優になりたい」っつってもそうそう女優になんかなれない、「私は女優になれると信じている」人だけが女優になれる。「なれると信じている」と自分では思っていたのになれなかった、つーのならどこかにそれを疑う心があったんだろ。信じる、ってのは思い込みとは違うんだよねぇ、微妙に。思い込みってのも、まあ重要だとは思うけどね。信じるってのはさ、もう「事実としてそこにある」ってくらい確固たるものなんだよ、若干客観性に欠けるかなってだけで。誰だって「そこに空気がある」って信じてるだろ、信じてるから普通になにも考えずに家から外に出れるわけじゃん? もしかしたら家の外には空気がなくなっている可能性だってある(ないけど)かもしれないのにそうは考えない、つまり、空気があると信じている、ってこと。信じるって、そういうこと。限りなく意識されない領域の話なわけだ。

だからオレは自分がつり革につかまることができると信じておけばよかっただけで、焦ったり人を押しのけたりする必要はなかった。いや、ていうか、オレは心の底では自分がつり革につかまることができると信じていて、だからこそ、実際にそうできた。もしそこに疑いの気持ちがあったのなら神は間違いなくその通りの結果をもたらしたはずだ、オレの期待通りに。そう、神にとってはポジティブもネガティブもない。それはあくまで人間側の価値観でしかない。神は単に信心をこの世に反映させるだけ。んー、やっぱりそれを神と呼ぶのは違和感あるな。〈神〉っていうと人格があるように聞こえちゃうんだよね、〈この世の理〉とでもいえばいいか。でもやっぱ長ったらしいので便宜的に神と呼んでおく。

神には人格などない。当たり前だ、人間ではなく神なのだから。人格があるのは人間だけ。神には人間的なところなぞ全く存在しない。ゼロ。神が人間的だと思えるのだとしたらそれは人が自分をそこに投影しているというだけのことにすぎない――この世に存在する様々な宗教がどれも胡散臭いのは、どれも多かれ少なかれ神が人間的すぎる、ってとこなんだよね。まあ、一般人にわかりやすく神のことを説こうとしたらどうしても神が人間的になってしまうのはしょうがないところではあるのだろうけども。もうそろそろそういうところは変えていくべきなのではないか。時代に合わせた宗教が求められているのではないか。あるいはオレが神と呼んでいるものに独自の名前をつけて新たな宗教の開祖となるべきやもしれぬ(アハハ)。

なんで新たな宗教が必要なのかというと、それはやはり信心というものの重要性につながる。そもそも古来から宗教の必要性というのは「信じる」ということのパワーと結びついているのだな。つまり、人から信心を引き出すために宗教というのは存在する。人は自分が信じた通りの存在になる、だから、その信心をコントロールすることで人はより良く(誰にとって「より良い」のかは様々であろうが)変わることができるわけ。そのためのツールがかつては宗教だった、って話。でも今はそうではない。今の世の中では宗教は信じるに値する内容ではなくなった――あまりにもファンタジー過ぎるから。でも信心にパワーがあるというのは不変の事実なので、宗教というのは依然として需要があるのだよ。一時期はイデオロギーがそれに取って代わろうとしていた。そして事実、それは機能していた。でも今それはまさに崩壊を迎えようとしているんだな。どんなイデオロギーにも常に負の側面がつきまとうわけだけど、現代は負の面ばかりが強調されて行き着くところまで行き着こうとしている、というか。まあ、オレはあんまり勉強してないからこの指摘が的を射ているのかどうかわからんけど。なんにせよイデオロギーは宗教の代わりにはなれなかった。資本主義はかつて一億総中流といわれたこの国に格差社会をもたらし、民主主義は衆愚政治を産んだ。一時は成功をもたらしたイデオロギーがその効力を失い、腐敗の一途をたどっている。もはやこの国に未来はない、と多くの人は考えている。そして実際それはそうなのかもしれない。もし絶対的多数の人々が日本に未来がないと信じるのであれば実際にそうなる以外に道はない。

うっ、ヤバっ。電車の揺れに乗じて後ろに立つ乗客がオレの背中を押す形となった。乗車率はかなり上がってきている。腰が少しピキッといった気がした。てめえ、自分がスマホ見るためにスペースを確保してケガ人であるオレに寄りかかるってどういう了見なんだよ。くっ、松葉杖でも突いてりゃ多少は周囲も気を使おうものなんだろうが、今のオレが腰に爆弾を抱えていることなど他人にはわかりようもないからな……。オレは片手だけつり革から離し、その手で網棚の手前のパイプを掴んだ。なんとしても腰への負担を最小限にとどめつつ目的地までたどり着かないとならない。うーん、こうやって体に力を入れてガチガチに固めて周囲からの圧に抵抗するのが正しいのか、それとも力を抜いて周囲に合わせて柔軟に動き、圧を逃がすのが正解なのか――迷う。だが後者を選択することに自分が恐怖を感じていることに気づく。前者が正解だと心の奥底ではわかっているから後者を選ぶに必要な勇気が出てこないのだ。つまり後者について考えをめぐらすことは単にオレ自身を迷わすだけだった。思考は常に信仰の邪魔をする。そのことを理解していないと正しい道に進み損ねる。人は思考するがゆえに迷う。人がAとBという選択肢で迷う時はだいたいにおいて、AもBも正解でない、か、AもBも正解、のどちらかである。そして人は往々にして、AもBも正解でないときに限ってAかBのどちらかを選択するし、AもBも正解の時にはその中間を取って失敗する。それはおおよそ思考――直感ではなく――に頼るからである。では直感に従えば常に間違いはないのか。それに対する答えはない。必要なのはどんな結果になろうともそれが自分にとっては最善であると信じることだ。表面的には失敗に見えようともそれが今の自分には必要なのだと。思考に頼って失敗したら、人は後悔する。それを選択したのは「自分」だからだ。自業自得。信心に基づく選択ならば人は後悔しない。一旦は失敗に見えても、今はその失敗が自分にとって必要なのだと理解すればいいだけだからだ。

とはいえオレ自身は常に自分の思考に惑わされるクチだ。思考を重ねることで常に信仰の正当性を自分に対し保証し続けているのだ(それはともすれば常識的な合理主義に陥りそうになる自分自身を押しとどめようとする行為でもある)。ナチュラルに信仰できているわけではない。神の言葉は人間の言葉に翻訳しないと〈理解〉できないし、それを理解するためには膨大な知識の裏付けが必要だ。いやそもそも〈理解〉しようなどという時点で間違っている。本来であれば神の言葉を理解する必要などない。ただ実践すればよいだけである。そこを理解しないと動けないというのはひとつのディスアドバンテージだ。ナチュラルな信仰者は(というのが実在するとしたら)最強だ。彼(彼女)はおそらく、何も所有する必要などなく、必要な時に必要なもの(衣食住とか、仕事とか)がどこからか必要な分だけ与えられ、そしてそれを淡々と受け入れながら生きている。そんな人生に何の意味がある? そう、その人生に意味があるとしたら、彼(彼女)の存在が神の完全性の証拠となるという一点に尽きるだろう。

オレはしばし夢想する。その完全なる信仰者のことを――。あたっ。後ろに立つ女の肘がオレの脇腹を直撃し、再びオレの腰がピキッといった。

 

結局、十分ほど遅刻してオレはオフィスの自席にたどり着いた。ここに出社するのは今日が最後である。週末に引越業者が荷物を新しいオフィス(オレが腰を痛める原因となった作業を行った場所だ)に運搬することになっている。つまり社員は今日中に皆自分の荷物を全てダンボールに詰め込まないとならない。だからこそオレは多少の無理を承知で今日から職場復帰することにしたのである。もちろんどうしてもダメであれば誰かに荷造りを頼むこともできたろうが、自分の持ち物を適当に箱に突っ込まれるというのも不安の残るところである。この日になんとか動ける程度にまで回復したということは、自分で荷造りすべし、という神からのサインであろう。オレはサインを読み取ることに関してはちょっとした権威である(と自分で思っているだけだが)。

「あれ、斎藤さん、腰の方は大丈夫なんですか」

隣の席の山下女史がオレに声をかけてきた。

「ああ、うん、まあ、なんとか」

オレは返す。挨拶に対して挨拶を返した、だけである。向こうは本気でオレの腰を心配しているわけではないから、オレも無難に返すのみだ。実際のところはここに来るまでで一日の体力をほぼ使い切った感がある。しかも椅子に座るという姿勢がどうも腰への負担がキツいように思われる。まだ立っている方が楽だ。はたしてこのまま夜まで保つだろうか。正直、心もとない。しかしそんな心情を口にしたところで彼女も反応に困るだろう。せいぜい「まだ休んでらした方がよかったんじゃないですか」程度のことしか言えまい。不毛だ。オレにとってはメリットのない会話――休んでた方がいいのは言われるまでもないことだし。一方の彼女としては一応隣人としてオレの腰の状態を把握しておきたいというのはあるだろうから、オレは端的にそれを伝えたわけ。最大の効率で。

「無理はしないでくださいネ」

そう彼女は続けた。

「サンクス。ま、今日のところは様子見ながらやる感じかな」

と返しつつもオレはもう姿勢を保っているのが精一杯である。いつもは椅子に浅く腰掛けてだらしなく背もたれに寄りかかるというITエンジニア基本姿勢のオレが、今は背筋をまっすぐに椅子に深く座る状態だ。そろそろと机に両肘をつき、姿勢を安定キープさせ、オレはようやく深い息をついた。姿勢的にキーボードが操作しづらいが、指先でちょんちょんと叩く感じにパスワードを打ち込み、自席のマシンにログインした。四日も休んだので受信トレイに大量のメールが溜まっている。オレはひとつひとつ開いて内容を確認していった。ほとんどはシステム部への依頼メールとその返信だ。オレが不在の間は同僚らがオレの分まで対応してくれている、その進捗をメールで追っていった。とりたてて大きな問題はなかったようである。まあ、なにかあればそのタイミングでオレの携帯に電話がかかってきたろうからそれがなかったという時点で問題が発生していないということは自明だったのではあるが。

荷造りだけしてしまえば早退しちゃっても大丈夫だな、とオレは考える。問題はそこそこ体を使うであろう荷物の箱詰め作業にオレの腰が耐えられるかどうか。

まあ、まだ時間はたっぷりある。

とりあえず日々の業務を開始することにする。ウチの部の業務は全て作業単位ごとにチケット(もちろん紙じゃなく電子的なヤツ)で管理されている。チケットはチームリーダが各人に割り振る場合もあるし各人が自主的に拾う場合もある。チームによって運用方針は微妙に異なるが、オレのいるチームではどちらかというと後者のやり方が優勢だ。オレはチケット管理システムの画面を開き、リストから未アサインのチケットをプライオリティの高いものから順に眺めていった。

その中にいくつか気になるものを見つけた。

ああ、まったく、ちょっと難易度が上がると手をつけるのを躊躇しやがる――オレは数人の同僚の顔を思い浮かべた。彼らはウチのシステムに採用されているフレームワークの中身を理解していない。通り一遍の使い方を表面的に理解しているだけだ。だから応用がきかない。だがそれはフレームワーク化によって必然的に生じる弊害でもある。フレームワークを導入することでコンピュータのプログラムが簡単に記述できるようになり、スキルの低いエンジニア、いや、エンジニアですらない輩でも一見それらしく仕事ができる。しかしフレームワークというのは常に一定の想定のもとに作られるものなのでコンピュータにやらせたい仕事がその想定をはみ出た瞬間に似非エンジニアはお手上げとなる。そもそもフレームワークなどを用意するからエンジニアは楽をするばかりで成長しないのだ。だが、フレームワークのおかげで開発生産性は上がり、アプリケーションの品質は一定に保たれ、結果として問題の発生も少なくて済む。目先ばかりを考えている管理職にはありがたい事尽くめだ。その一方でフレームワーク自体を開発できるようなエンジニアは育ちようもない。長期的に見れば自らの首をしめる行為である。ジレンマだ――。

気になったチケットのひとつはウチのコンシューマ事業部の運営するECサイトの商品を宣伝するためのインターネット広告を配信する業者向けに商品情報を提供するフィードファイルを新規に作成するというものだった。希望対応期限の日時は今日になっている。

広告配信業者の要求する商品フィードの書式というのは業者ごとに異なる。大抵はCSV形式のファイル。一行目が以降のデータの意味を規定するヘッダ行で、二行目以降が商品データだ。ところが今回の業者の場合はヘッダ行を入れずにデータだけをフィードに入れろ、という。この場合、CSV形式の各カラムに入っているデータがなにを意味するものなのかわからなくなってしまうわけだが、何番目のカラムに何を入れるかをその業者が仕様として定めているので、仕様を理解している同士であれば問題なくデータをやり取りできる、という寸法である。まあ確かに。しかしながらウチのECサイトのフレームワークはそのようなヘッダ抜きのデータファイル出力を想定していない。その結果として、このチケットは遠慮の塊のように誰かに拾われるのを待ち続けることになったわけだ。まったく融通のきかない連中だ。フレームワークだけで全てを片付けようとするからそうなる。おそらく彼らはフレームワークにヘッダを出力させない設定方法があるかどうかがわからず手詰まりになったのだ。そのことをフレームワークの作者に確認しないことには作業が進められないと考えたのだろう。ちなみにこのフレームワークの作者は他ならぬオレだ。そして残念ながらヘッダの出力を抑制する機能などこのフレームワークにはない。いままでそんな要望が一度もなかったからだ。もちろんその機能をフレームワークに追加することも簡単ではあるが、それ以前に、ヘッダが不要であるというなら単に普通にファイルを出力した後でシェルからコマンドをキックして一行目を削除させれば良いだけである。そんな簡単な対応を思いつかない連中をエンジニアなどと呼んでいいものだろうか。

そんなことを考えつつ、オレは管理システムの画面をポチポチとクリックしてチケットの担当者を自らに割り当てた。まだ本調子には程遠い身にとっては手頃なジョブだろう。リハビリってやつ。

ヘッダの出力をON/OFFさせる機能をフレームワークに持たせるかどうかをまず検討したが、ヘッダ抜きのデータ出力が求められる機会が果たして今後どれほどあるだろうかと考えフレームワーク自体の改修は行わないことにする。それをするとテストにかなりの手間が割かれることになるからだ。フレームワークに手を入れればそれを利用している様々なプログラム全般に影響が及ぶ可能性があるわけで、もちろん注意深くコードを組むことで影響範囲を最小にすることはできるけども、それでもルールとして一通りのテストをやらねばならないことになっている。

件の広告配信業者の規定する商品フィードの仕様には他にも変わった点があった。他の業者向けの場合だと大抵は「在庫状態」「オススメ対象商品か」「アダルト商材か」といったカラム(出力項目)があり、それぞれを商品ごとにフラグ立てしていく形式だが、この業者の場合はシンプルに個々の商品を「広告として配信するかどうか」のフラグだけをセットする形だ。

ふむ――。とりあえず「販売中の商品」かつ「在庫あり」で、かつ「オススメ対象商品」であれば「配信する」とセットさせればいいか、とオレは考える(ちなみにウチの扱う商品にアダルト商材に分類されるものはない)。それは本来であればエンジニアでしかないオレが決める話ではないのだが、しかるべき人たちにそれを決めさせようとすると膨大な時間と手間がかかるのだ、この会社では。なにせ誰一人そういうことに責任を持とうとしない文化なのだ、誰かがエイやで決めてしまえばいいだけのことなのに。以前、「オススメ対象商品」のフラグを商品データベース上に持たせるのがどれだけ大変だったかを身を以て知っているオレとしては、ここで迂闊にお伺いをたてるなどしたら仕事はいつまでたっても進みはしないと考えざるを得ない。

座ったままの姿勢で仕事を続けるのはかなりしんどかった。時折そろりと姿勢を変えつつオレはキーボードを叩き続けた。作業そのものはごく簡単なものだ。広告業者の指定した仕様の通りの順番にカラムを並べた形で商品データを出力するだけのことである。

午前のうちにはテストまで完了し、オレはソースをコミットしてプルリクエストを出した。オレの書いたソースコードはリポジトリの中でチームのメンバーによるレビューを待つステータスになる。

オレは机に両肘をついて手で顎を支え、肘に体重を乗せて腰の負担を下げた。そうしてふとこれまでに自分が垂れ流すように書き散らかした大量のソースコードのことを思った。ソースコードとはコンピュータに対する指示書に他ならないが、それによってコンピュータは人間にとって価値のある動作ができるわけで、つまり見方を変えれば、コードとは人間が求める価値を定義するものとも言える。もちろんその価値というのはものすごく細分化されたものだ――価値の断片、とでも呼ぶべきもの。オレはコードを記述することでこのものすごく小さな断片をシステムの中に放り込んできたのだ。同じように世界中のエンジニアたちが今この瞬間にも〈価値〉を定義し、インターネットの張り巡らされた電脳世界に断片を供出し続けている。星の数ほどあるコンピュータやその他のデバイスはただ黙々とその断片を様々に形を変えて人間の目前に現出させ続ける――ちょうどオレの作成した商品フィードに基づいて生成されたインターネット広告が誰かのブラウザの片隅に表示されるように――。コンピュータとは鏡でしかなく、ディスプレイを覗き込んでもそこに映し出されるのは人間でしかない――人間が定義した価値、どこまで行っても人間世界のもの。ヒトはなにか意味があると信じるものをコンピュータに処理させる。それらが寄り集まって電脳世界に人間の信念体系が構築される。コンピュータの性能は飛躍的に向上し続けているが、そこで行われていることはほとんど変化していない。人間の思いを鏡のように映し出すこと。ハードウェアの性能向上によって変化するのは、その解像度が上がる、ということだけだ。

ヒトは、山を動かすことができるとは信じることができなかったが、お互いがどこにいてもどれだけ遠く離れていてもコミュニケーションができると信じることができた、だからそうなった。信心の反映。それこそが神のみわざ。神のしもべたる我々の仕事。オレの書くわずかな断片でさえ無駄ではない。

空を覆い尽くす雪のひとひらのように。

 

 

(後編に続く)

2021年4月9日公開

© 2021 堀井たくぞう

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