永遠の欠落(前編)

堀井たくぞう

小説

15,520文字

記憶を失った天使――彼こそは人類滅亡の鍵となる存在であったが……

世界の終わりの始まり

 

それは

小さな人の

小さな悪意に

彩られた言葉

 

それは

誰にも気付かれず

まぎれ込んだ

小さな小さな

ソフトウェアのバグ

 

 

俺は黒のコートに身を包み、夜の街の裏通りに佇んでいた。

夢から醒めたときのように、さっきまでの記憶が急速にぼやけ、掴もうとする手のひらからすべてがこぼれ落ちた。それはなにか重要な指令だった気がするのだが。

だが不安はない。そもそも不安などと云うものを自分のものとして感じたことはないのだ――人の抱えるそれを読み取ることは俺にとって息をするのと同じように容易いことであるけども。

俺は媒体に過ぎない。世界の意志を仲介する使者。

空を見上げる。そこには星も月も見えない。曇っているのだろうか、それとも街の灯の強さにすべてが打ち消されているのか。初めて俺は少しだけ戸惑いを覚えた。

宙に目を向けた俺は呆然としていたかもしれない。

向こうから歩いてきた女性が俺を避けて狭い通りの反対側にずれ、目の前を一旦通り過ぎたが、二メートルほど先で振り返りわずかに怪訝そうな面持ちで俺を見た。

女は半歩、俺のほうに足を踏み出した。その動きを視界の隅に捉えつつ、俺はゆっくりと顔を下ろす。

「あの……、お怪我なさったんですか?」

「怪我?」

俺は女に顔を向けた。二十代半ば、か。人通りのない夜道をこんな若い女がひとりで歩いているとは。かつて俺のいた処と異なる常識が此処では働いているようだ。

俺のいた処――、そのことを思い浮かべた瞬間、その記憶もやはり、俺の脳から揮発していった。

「だって、ほら、血が……」

女の視線は俺の左手に向いていた。その瞬間、俺はそこに暖かいものがゆっくりと流れ、滴り落ちるのを感じた。

俺は左手をわずかに持ち上げ、顔をそこに向けた。

手の甲に二本の血の筋が描かれていた。それは暗闇の中でどす黒くへばりつく二匹の軟体生物のようでもある。

見慣れているはずの自分の手が、まるで初めて見るもののように映った。

途端に立ちくらみを覚える。

「救急車、呼びましょうか?」

女はバッグの中にスマホを探す手を突っ込みかけたが、俺は手振りでそれを制した。

「ダメだ。病院に運ばれては困る」

「でも止血しないと」

女は俺のすぐそばに寄った。

嗅ぎ慣れぬ匂いがした。香水……、ではなく酒のようだ。

「これぐらいはすぐに治る」

俺は言った。これくらいはすぐに治る……はずなのだが。おかしい。急に体が重く感じられた。俺はその場に膝をついた。

これほどまでに重力に打ち負かされたことはなかった。ああ――、翼さえあれば。かつて自由に大空を駆け巡ったときの記憶が一瞬だけ俺の脳裏をかすめた。それは現実だったのか、それとも夢で見た光景か何か、か。

ブラックアウト。

 

次に気づいた時には俺はタクシーの後部座席に揺られていた。薄く開いた目に流れる夜の街の風景が飛び込んできて、俺の脳は混乱した。自分が地面すれすれを飛行しているものと一瞬思えたのだが、それにしては全身で受けるはずの風が感じられない。自分の置かれている状況を認識するのに数秒がかかった。俺は車の窓に頭を押し付けるかのような姿勢でドアにもたれていたのだった。

首だけを起こし、隣の座席に視線を向けた。

そこにさっきの女が座って俺を見ていた。その口が開いて音声を発する。一瞬遅れてその言葉が俺の頭の中で意味をなした。

「気がついた?」

腕に違和感を覚え視線を落とすと、左の上腕にコートの上から女物のハンカチが巻き付けられていた。血が滲んでいる。

「とりあえず止血しといた」女の声。

俺は窓の外に視線を戻した。

なぜ俺の腕から血が流れていたのだろう。

なぜ怪我なぞしていたのか。

何かが違う。

この世界。俺自身。

俺は流れる景色の中にその答えを探したが、行き交う車や通行人、ネオンサインや看板が目に飛び込むにつれ、脳内のおぼろげな記憶が目の前の光景に駆逐されていくのが感じられるばかりだった。

「どこに向かっている」

俺は再び女のほうを向いて尋ねた。

「とりあえず私のウチ。ほら、その……、き、傷を消毒してあげる。化膿したら大変でしょ。ホントは病院に行った方がいいんだけど……、さっき
病院には連れてくなって言ってたから。だから、その、私んチで……」

話の途中で俺は関心を失い、再び窓の外に目を向けた。女は話すのをやめた。

女の口調には俺をいきなり自宅に連れて帰ることに対する言い訳がましさが感じられたが、俺からすれば彼女の行動はなんら不思議なものではなかった。

人間は俺たち同胞に対して、大抵、できるかぎりのことはしようと考えるものだし、それを享受するのも俺たちの役目である。

相手が若い女であればなおさらだ。

俺は世界の命じる通りに淡々と任務を遂行する媒体であり使者。

当面はこの女のウチとやらに逗留することになるだろう――漠然と俺は思った。

 

女の部屋は六階建マンションにあった。その1LDKに彼女は一人暮らしをしていた。

リビングの小さなソファに座らされた俺の横に膝をついて腕の傷の消毒を終えた彼女は、とりあえず俺がすぐに部屋を立ち去ろうという態度を示さないことに胸をなでおろしたようだった。

「コーヒー、飲む?」

「ああ」

女はいそいそと台所へと向かった。俺は片腕を抜いたシャツの血まみれ具合を見るにつけ、それに再び袖を通すことを諦め、脱いで上半身裸となった。

その様子を台所のほうから見ていた女が、一旦、隣の部屋に行き、白いシャツを手に戻ってきた。それを俺に差し出すので受け取ると、それは男物のシャツであり、着てみるとサイズは俺には少し大きくはあったが特に不都合というほどではなかった。

「ほら、女の一人暮らしだって思われないように、そのシャツをいつもベランダに干しておくの。誰かがそのシャツを着るのは初めて」

そう言って、フフと女は笑った。

それから女は台所に戻り、しばらくしてから湯気の立つコーヒーカップを二つ持ってきた。

ソファの前の低く小さなテーブルにそれは並べて置かれた。

「砂糖とミルク、いる?」

「いや」

俺はカップを手に取り、口をつけた。

苦い。

カップをテーブルに戻す。

女は俺の隣には座らず、テーブルを挟んで向かい合う形でカーペットの上にぺたりと座った。それから自分のカップに砂糖を二さじ入れてかき混ぜた。

「私、鈴木舞華まいか

女はそう名乗った。

「みんな、舞華って下の名で呼ぶ。一緒の職場に鈴木さんが何人かいるからね」

俺は頷いた。

「俺は湯田中ゆだなか玲央れお

口にしてから、あっ、俺はそういう名だったんだ、と思った。

「湯田中さん、か……」

「玲央でいい」

舞華はニッコリと頷き、両手で持ったカップからコーヒーを啜った。

少しの沈黙の後、舞華は口を開いた。

「ね、なんで、腕、そんな怪我したの?」

俺は素直に答える。

「わからない。気がついたらこうなっていた。そもそもなんで俺はあそこにいたのか……」

「覚えてないの?」

「どうやらそのようだ」

「ふーん……」

舞華は思案顔になる。

「それで……、帰るところはあるの?」

「還るところ?」

ある。

俺の意識は、一瞬、遥か彼方に飛んだ。俺の還るべき大いなる〈其処〉へと。

「もちろんあるが、簡単に帰れるところではない」

「遠いとこなのね」

俺はそれには何も返さなかった。舞華はカップに視線を落として続ける。

「今日はもう遅いし、玲央は怪我してるんだから、ここに泊まってって」

言い終わらぬうちに舞華は立ち上がった。

「私、シャワー浴びてくる。明日も早いから、あんまゆっくりとはしてられないんだ」

俺はテーブルの上のカップを手に取り、黒く苦い液体をごくりと飲み込んだ。

やがてシャワーの音がしてきた。

俺は腰掛けていたソファに横になってみた。狭すぎる上に肘掛の部分が邪魔になっていい具合に横たわることができない。試しに膝を曲げて無理やり体を収めてみたが、あまりにも窮屈だった。

俺は立ち上がり、さっき舞華がシャツを取りに行った部屋のドアを開けた。

むわっと女の匂いがした。

リビングから漏れる光で暗い部屋の中にベッドがあるのがわかった。俺はそこに倒れこむように横たわった。

眠りはすぐにやってきた。

 

 何もない真っ白な空間に俺は浮いていた。
 いや、俺は、浮いているのではなく、ひたすらに墜ち続けているのか――。そこには何も対比すべきものがないので、自分が下降しているのか、あるいは上昇しているのか、まったくわからない。いや、そもそもこの何もない空間においては上昇も下降も概念として成立しない。
 俺は恐怖を感じた。
 どこにも掴まるところのないという恐怖。どこにも繋がっていないという恐怖。
 手を伸ばしても何にも触れることがない。もがいても何の反応も得られない。
 突然、どこからか自分を呼ぶ声が聴こえた。
 それは聞き覚えのある声。
 懐かしい声。
 でもそれが誰なのかわからない――。

 

額に冷たい布がそっと触れるのが感じられ、俺の意識の回路が現実へと切り替わった。

目を開くと舞華が俺を見ていた。部屋は明るく、すでに陽は高いようだ。

「うなされてたよ」

舞華は短くそう言った。

「うなされてた?」俺が?

「うん。熱も出てたし。……あ、でも、だいぶ下がってきたかな」

舞華は俺の額に手を当てながら言った。

俺は当惑した。人が時折発熱するものだということは当然の知識として持っているが、それが現実にわが身に降りかかるものだとは思ってもみなかった。

そんな俺の戸惑いに気づくこともなく、舞華は、へへ、と笑い、

「今日は仕事、サボっちゃった」

と言った。

「どうせたいした仕事じゃないしね」

言いながら彼女は再び俺の額を濡れタオルでそっと拭った。その冷たさが心地よかった。俺は目を閉じてされるがままになる。

ひとしきり俺の顔を拭くと、舞華は立ち上がって部屋を出て行った。

俺はそろりとベッドの上に身を起こした。

体の向きを変えつつ両足を床におろし、腰掛ける形になる。

室内を見回し、自分の置かれている状況を再認識した。

そろりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。昨夜より体は軽くなった気がする。カーテンを開け、外を眺めた。

道路を挟んだ向かいのマンションが見えるだけの風景。

俺が窓際に立つと、すぐに二羽の雀が飛来してベランダの柵にとまった。

少ししてさらにもう一羽。

俺は暫くの間、彼らの様子を観察した。

何もかもが平常運転のようだ。俺の果たすべき使命も滞りなく進捗しているということだろう。

三羽の雀はその場を去り難いようだったので、俺はカーテンを閉めた。

小さな鳴き声とともに彼らの飛び去る気配がした。

俺は窓から離れ、居間へと通じるドアをそっと開けた。

舞華はソファの上に横座りになってテレビを観ていた。かと思いきや、そばに行ってみるとその目は閉じられており、居眠りをしているようだった。

昨夜はそこになかった毛布がソファの背もたれに畳んで掛けてあり、彼女が昨晩、ここで一夜を明かしたのであろうことは容易に推測された。

俺はその場に立ったまま、流れ続けているテレビの画面に目を向けた。

映し出されているのは安っぽい刑事物のドラマである。

しばらくそれを眺め続けた俺が理解できたのは、どうやらこの作品(と呼べると仮定して)のクリエイターらは物事というものをなにひとつわかっていないぞ、ということだった。

彼らの描く世界では加害者とされる人物の一方的な行いが犯罪を生み出している。つまり、ひとりの人間の脳味噌の中身が外界に反映した結果が、犯罪行為となって現出するのである。何と皮相なものの捉え方だろう。現実にはあり得ないことだ。まあ現実にはあり得ないからドラマ足り得るのかもしれない――誰かのための夢物語として。この世の悪を特定の一人に背負わせて自らの責任を回避したい大衆のための。

俺は力を失った気がして、ソファに、舞華の隣に腰掛けた。

彼女は目を覚ました。

「あれ、もう大丈夫なの?」

俺を見て彼女はそう言った。

俺は頷く。

舞華は俺の額に手を触れ、「あ、ほんとだ。熱、下がったね」と言い、立ち上がりながら「傷、見せて」と、俺の左側に回った。

しゃがみこんだ彼女は俺の着ているシャツの袖をめくり、昨夜、彼女がそこにあてがったガーゼをそっと外した。

自分からは傷口が見えないが、彼女がテーブルに置いたガーゼは血まみれだった。

「うーん」

舞華はそう言って再び立ち上がり、消毒薬とガーゼの箱を手に戻ってきた。

俺は目を閉じて、彼女のしたいようにさせた。

ひとしきりの作業を終え、彼女は俺のシャツの袖を元に戻した。

「おなかすいたでしょ。なんか作るね」彼女は立ち上がった。「食欲は……、ある?」

俺は即座に「ない」と答えたものの、思えば何かを食べたいような気がしたので、「いや、ある」と言い直した。

舞華は台所に向かった。

俺は軽く衝撃を感じていた。食欲があるかという問いに対し、「ある」と自分が答えたことに。自らの中に欲の存在を認めるなどとは。どうしたことなのか。

欲望などというものは俺には無縁ではなかったのか。

まさか……、失った翼の代わりに、この調子で俺の内にあらゆる欲望が芽生え始め、ついには只の人間と化してしまうのだろうか……。

それが俺の使命なのだろうか。

だとしたら俺はそれを甘受し、すべきことを果たさないとならない。いや、そうでなくとも俺には時の流れに身を任す以外の選択肢はないのだ。世界に逆らうことはできない。

おそれとおののき。

さすがの俺でも、人間的欲望を自らの身に引き受けるなど、想像するだけでビビるというものだ。

そんなことを考えていると、突然、ウィーン、ウィーンと音がして何かと思ったら、チェストの上に置かれた彼女のスマホのバイブレーションの音だった。

舞華が台所から戻ってきて電話に出た。

「はい……。
――あ、はい、私です。すいません、今日は。
――ありがとうございます、ええ、なんとか。
――いえ、行ってないですけど。
あ、はい……、
ええ……、
ええ。
――そうです。
――はい。
いや、それはですね……、
はい……。
そうです、そうです、そこに記載した通りにやっていただければ、と。
――うん。
あ、そこはそれで合ってるんです、そういうテストなんで。
――はい。
――はい、よろしくお願いします。
……失礼します」

会話を終え、スマホを耳から離して舞華は俺を見た。目が合った。彼女は口を開く。

「仕事の電話」

俺は頷いた。

今の電話のやりとりを横で聴いていて、なぜだか俺は安堵感を得た。物事がまた一歩、世界の意に沿うように進んだのを確認したかのような。

 

夕方、舞華は俺を部屋に残して買い物に出かけた。その間、俺はソファに座り、テレビを眺めた。リモコンを片手に数分おきにチャネルを切り替える。さまざまな断片が俺の脳味噌にインプットされていく。

脈略のない断片はたちまちのうちに俺の無意識下に沈み込む。それらのうちの幾つかは、いつか、ふとしたきっかけで形を変えて浮上してくるだろう。世界の意志を俺に伝達するために――。

小一時間ほどで舞華は帰ってきた。

彼女は、食料と、俺のための下着と寝間着を買ってきた。

「それ、玲央の着替え――。シャツも買おうかと思ったんだけど、サイズもよくわからないし、それに好みもあるでしょ? 今度、一緒に買いに行こ?」

舞華の表情は、その気軽な口調とは裏腹に、注意深く俺の反応を窺っているようだった。俺が短く「ああ」と返事すると、彼女は安堵の笑みを浮かべ、続けた。

「それから、ほら、コートも。玲央の着ていたヤツ、怪我のところが破けちゃってるし。……一応、血は拭き取ったんだけどね」

彼女の視線の先に俺のコートがハンガーで壁に掛けられていた。俺もそちらに目を向けてから頷いてみせた。俺としては別に袖が破れていても一向に構わないのだが、特に理由がなければ好意はストレートに受け入れるのが俺たちの流儀だ。一般の人間のするようにいちいち遠慮したり感謝したりはしない。

感謝の言葉は甘美で強力だ。俺たちは軽々しくそれを口にすることはない。するとしたら、世界に向けてだけだ。

ありがとう、世界。俺に衣食住を与えてくれて。

 

翌日、舞華の取り替えたガーゼにはもう血はほとんどついていなかった。黄色い膿だけが付着していた。

「今日もサボっちゃう。金曜だしね、どうせだから。たまにはいいでしょ、そういうのも」

舞華は自分に言い訳するかのようにそう言った。なにが「どうせだから」なのかはわからなかったが俺は頷いた。

遅い朝食をとった後、舞華は俺を外に連れ出した。服を買いに行こう、と言う。

俺は袖の破れた黒いコートを身にまとった。

「今朝は師走並みの冷え込みだって、天気予報で言ってた」

舞華はそう言いながら玄関のドアを開けた。

「うぅー、ほんとだ、寒いー」

少しはしゃいだような声で彼女は言った。

俺も続いてドアから出た。

空を見上げた。一面の曇り空。

舞華は俺のコートの袖に手を伸ばし、その破れ具合を確認するかのように弄った。それから裂けた箇所を繕うように整え、さらには傷口を隠すかのように自分の身を寄り添わせ、俺の腕をとった。そうしないと俺が飛んで行ってしまうかもしれないということを本能的に知っているかのようだった。――だが今の俺は飛べない。翼がないからだ。

舞華は歩き始めた。

俺は彼女に合わせて足を進める。

建物を出るといっそう空気は冷たく、その寒さにかこつけてなのか、舞華は俺の腕にしがみつくように歩いた。

「急に冬が来たみたいね」

彼女は言った。

俺は「ああ」と返した。

住宅街に人通りは少なかった。勤め人たちは大概、収まるところに収まったタイミングだろう。主婦らは子供らを送り出して掃除洗濯に余念がなく、昼食の心配をするにはまだ早い。社会からはみ出したものだけが移動する、そんな時刻だ。

ごみを集め終えた収集車がどこへともなく走り去っていくのを俺は目で追った。――もう帰れるのか、お前は。うらやましいな。

思わず空を見上げた。切れ間の全くない曇り空。

「どうかした?」

舞華が横で俺を見上げるようにして訊いた。

「いいや」

俺は視線を前に向けた。

舞華と俺は駅まで歩き、そこから電車に乗って三駅ほど移動した。降りたのは別の路線に乗り換えることもできるターミナル駅だった。駅舎を出ると駅前に大型商業施設が並んでいるのが見えた。

「どんな服がいいのかな。好きなブランドとか、ある?」

そう俺に訊く舞華は楽しそうだ。買い物が好きなのだろう。彼女は俺の腕をとってぴたりとくっついたままなので、傍目には俺たちは恋人同士に見えるに違いない。

俺を庇護する人間は得てして過剰に踏み込んでしまうものなのだ。そして俺も彼らのそういう態度に対して滅多に無下な反応を示したりはしない。それも俺ら同胞の流儀である。

「みんなと同じ服がいい」駅前を行き交う人々を見渡しながら俺はそう返した。

「え、どういう意味? みんな、って。……そのへんの人たちみんな、ってこと?」

「そうだ。できるだけ多くの人が着ているような服、ってことだ」

「へえ、変わってる……。でも、スーツにネクタイってわけにはいかないよねぇ、家の中じゃ着れないし。いや、着れないってこともないんだろうけど」

「主張のない服装がいいんだ。埋没できる格好、と言えばいいのかな」

「ふーん、そうねぇ、それならウニクロとかなのかな」

俺の腕を抱えてぶらぶらとペデストリアンデッキを進んでいた舞華は立ち並ぶ商業施設のひとつに行き先を定めたようだった。

俺たちが足を踏み入れたそのデパートは開店したばかりらしく客の姿はまばらだ。

エレベータに乗った。その壁はガラスで、乗りながら風景を眺めることができるという趣向になっている。

他に乗客はおらず、舞華は俺の腕を抱えたまま後ろの壁に寄って外の街並を一望できる場所を確保した。すぐに箱は上昇を始め、相対的に街は下方へと移動する。そして俺の視界には金属色の空が広がり始める。アルミニウム色の空模様。彼女は俺の肩に頭をもたれ掛けた。

俺は風を感じていた。身を切るような冷たい空気。覚悟を決めて冬の曇り空の下に羽ばたく、その悲壮。

チン、と音がしてエレベータが止まり、俺は我に返った。風は現実ではなかった。

俺たちはガラスの壁に背を向けてエレベータを降りた。

赤い看板が俺たちを迎えた。

 

俺は特に自分の意見を言う必要はなく、すべてが舞華の好みによって決められていった。買い物かごに次々と衣料が放り込まれていく。

店の棚はカラフルな商材で埋め尽くされていたが、彼女の選択はモノトーンなものが多かった。彼女の好みなのか、彼女の俺に対する印象がそうなのか。

収穫物は最終的に三つの大きな袋に入れられた。彼女はクレジットカードで支払いを済ませた――もちろん俺は払わない。金など持っていない。当然、財布もない。なにひとつ所有などしていないのだ。

舞華は満足そうだった。二つの袋を俺に押し付け、残りの一つを自分で持った。

「お腹すいたよね」

彼女はニッコリとして言った。時刻は昼を回った頃だろう。

俺は曖昧に頷く。実際のところはさほど腹は減っていない。

「何にしようか」

思案顔でそう訊く彼女に、俺は「舞華の食べたいものでいい」と返した。

最上階のレストラン街に行ってみようという話になる。エレベータに乗り移動するが、その時点ですでに結構な混雑だ。どうやら近隣のオフィスワーカらが昼休みに食事をとるために大量移動している最中らしい。

最上階についてみると、どのレストランにも入店待ちの行列が発生していた。

「タイミング悪いなあ」

数軒の店の前を通り過ぎて立ち止まった舞華はそう言って、何かを思いついた表情で俺の顔を見た。俺も立ち止まり、彼女の次の言葉を待つ。

「ね、ガッツリ食べたいなら別だけど、そうでなければ下のカフェに行かない? そこのパンケーキが美味しいの」

俺は頷いた。

「ああ、俺はそれで構わない」

舞華は俺の腕を取り、エスカレータに向かった。

五階まで降りて、彼女は勝手知ったる様子でフロアを進んだ。ブティックが並ぶ通路の奥にそのカフェがあった。木材を基調とした大仰な内装が施されているその様子を一瞥し、俺は違和感を覚えた――この鉄筋とコンクリートで固められた建物にわざわざ大量の木材を持ち込むとは――。

それなりには混んでいたが待たずに座ることができた。

店は建物の吹き抜け部分に位置していて、ガラスの天井は遥か頭上に見えた。半円形のフロアの外縁にあたる部分の壁もすべてガラス、窓際の席ならば街を一望できるようだが、案内されたのは中央付近に並ぶ丸テーブルのひとつだった。

舞華はメニューを吟味し始めた。

俺もパラパラと手元のそれをめくってみたが、ケーキの写真がたくさん載っているだけである。すぐに閉じてテーブルに置いた。

「決まった?」舞華が訊く。

「ブレンドコーヒーにする」

「食べ物は?」

「舞華と同じでいい」

「あ、そう」

舞華はメニューから目を離さずにそう返した。

少しして店員がオーダーを取りにきたので彼女は注文を伝えた。俺は黙って店の中を眺めていた。俺の椅子は窓の側に背を向けているので外は見えない。

店員が去ると舞華はコップの水を一口飲んで、ふぅと息をついた。それからニッコリして言う。

「当面は着るものに困らなそうね」

俺は少し肩をすくめ、「おかげさまで」と返した。

彼女はテーブルに両肘をつき、両の掌で自分の顔を支えた。真顔に戻り、俺をまっすぐに見つめる。

「玲央って、不思議な目をしてる」

「そうか? どういうふうに」

「うーん、なんていうのかな、何も見ていない感じ。……それでいて何もかも見透かしているんじゃないかなって気もする」

俺は再び肩を少しだけすくめた。

「優しそうでもあり、恐ろしくもある。そんな目」

そう舞華は続け、照れ隠しなのか、へへ、と笑った。

俺は口の片側だけで少し微笑んで視線を遠くに投げた。店内のテーブルにはそれぞれに客が座っていて、大抵は二人か三人組、店自体は若者向けの内装なのに、この時間、年配の女性が多いようだった。男性はほとんど目につかない。皆、おしゃべりに興じている。

飲み物が運ばれてきた。俺はカップに手を伸ばし、コーヒーを一口すすった。彼女はカフェラテに角砂糖を二つ入れ、ゆっくりとスプーンでかき混ぜた。

その手つきを眺めながら俺は、自分の中に今までに感じたことのない何かがあるのを感じた。注意深くその感情を分析してみる。

腕の傷を手当てしたときの彼女のその指先の感触がくすぐったさと共に脳裏に呼び起こされた。怪我人へのおもいやりと、見知らぬ男に対しての緊張感、それと、俺と親密になりたいという欲望がないまぜになったその手つき、その感触をいとおしむような気持ちが俺の中にあった――。

それは執着というヤツなのではないかと俺は気づいた。

まさか、と思う。

人間的感情――。他人のものとして見るだけだったそれを自らのうちに見出すなどとは。この使命は俺をどこに連れて行こうとしているのか。

「大丈夫? 疲れた?」

舞華が言った。

「いや」

俺は首を振る。

店員がやって来て、テーブルに皿を並べた。数種のベリー類がトッピングされたパンケーキ。それから小さなポットが皿の横に置かれた。中に入っているのはメープルシロップだろう。

舞華はポットを片手にパンケーキの上に螺旋を描くかのように手際よくシロップをかけた。最後の一滴が糸を引いてパンケーキの中央にかかり、その糸の切れたタイミングで素早く彼女は傾けたポットを水平に戻し、ゆっくりとそれをテーブルに置いた。

俺はナイフとフォークを手に取り、パンケーキを扇状に切って口に入れた。甘い。

舞華は手付かずの俺のメープルシロップのポットを見ていたが、それについては何も言わずに自分のパンケーキを一口食べた。

「うん、おいし」

彼女は満足そうに言った。

俺たちは黙々とパンケーキを食べた。その甘さをコーヒーの苦さで中和しながら俺は機械的にパンケーキを片付けていく。トッピングのラズベリーを口にした時、その味が俺の記憶の中の何かを呼び起こそうとしたが、その企ては失敗に終わった。ただいにしえの異国の女性のイメージが想起された。遥か昔の出来事がその味と何らかの結びつきを持っていることが知れただけだった。

俺の皿の上がようやく半分にまで減ったあたりで舞華のパンケーキはすでに大半が彼女の胃に収まりつつあったが、その時、彼女のバッグから着信音が鳴り出した。彼女は取り出したスマホの画面を一瞥してわずかに顔をしかめた。画面上のボタンを押して、それを耳に当てた。

「はい、鈴木です。あ、ちょっと待ってください」

舞華はテーブルの端にある小さな立て札を指差し、俺に向かって「ちょっと待っててね」と言いながら立ち上がった。

その立て札には店内での携帯電話の通話は遠慮するよう書いてあった。

舞華はスマホを片手に店を出て行った。

俺はパンケーキを綺麗に平らげた。店員を呼んでコーヒーのおかわりを頼んだ。

少ししてコーヒーが運ばれて来て、俺が熱くて苦い液体を口に含んでいると、舞華が戻って来た。

彼女は少し驚いた表情でカフェの外を見ながら、「ね、あれ見て」と言って、肘から先だけ腕を上げて外を指差した。

俺は上半身をひねり、彼女の指差すほうに視線を向けた。

窓の上方、建物の梁にあたる部分にひしめき合うように数十羽もの鳩がとまっていた。

彼らは俺がここにいることに気づいて集まってきたのだ。

「すごい。鳩があんなにとまっているの、初めて見た」

彼女は言った。俺は顔を彼らに向けたまま頷いた。

舞華にはわからないように、彼らに向けて俺がウインクしてみせると、一羽が羽をバタバタとさせてそれに応えた。

俺は舞華に向き直り「仕事の電話?」と訊いた。

彼女は、少しだけ顔を曇らせ、頷いた。

「ま、二日連続でサボっちゃったからね……。あ、でも、もう大丈夫。話はついたから」

それから舞華は自分の仕事について語り始めた。彼女は制御ソフトというもののテスト工程を専門とするエンジニアリングを生業としているそうである。

「つまらない仕事よ。テストの対象になるソフトウェアの仕様書を見てテスト仕様書というのを書き起こして、次にそれをベースにテスト手順書ってのを作るの。その手順書を見ながらテスターさんたちが実際にテストをしていくわけ」

俺は頷きながら彼女の話を聴く。

「ソフトの開発をするのと違って後に何も残らないしね。バグを見つけるだけの仕事。しかもそれで見つかるバグってのは大概、大したバグじゃない」

「へえ」

話の雰囲気だけを理解しながら俺は相槌を打つ。彼女は遠くに目を向けたまま続ける。

「誰だってできる仕事よ、要領さえわかれば。そのうちにAIに取って代わられるんじゃないかな、機械的に判断できる仕事だし。……そのくせ会社の人たち、私じゃないとわからないとか言って電話してくるんだもの」

彼女は俺の顔に視線を戻した。俺とまっすぐに目が合う。彼女は、へへ、と笑い、

「ゴメンね、グチ言っちゃった」

と言った。

俺は肩をすくめ、舞華から視線を外した。

「愚痴くらい聞くさ」

 

店を出ると、舞華は今度は私の買い物に付き合ってほしいと言い、俺は頷いた。

俺たちは一旦、駅まで戻り、俺の衣服の詰まった袋をコインロッカーに入れた。

それから彼女が俺を連れて行ったのは別のデパートで、さっきの処よりも幾分、高級感が漂っていた。

舞華はいろいろな売り場をゆっくりと見て回った。特に何か買うべき目的があるわけではないようだった。

アクセサリ売り場を丹念に見て回り、それから靴、次に女性服売り場に移動した。舞華はいろいろな商品を提示しては、「どう? 似合う?」と俺に意見を求め、俺はその都度、客観的な意見を端的に伝えた。しかし、俺の意見の内容に関わらず、実際に彼女が商品を購入することはなかった。

俺たちはひとつずつフロアを上って行った。

あるフロアで彼女は思いついたように言った。

「あ、そうだ。私、新しい枕が欲しいんだ」

そのフロアには寝具のコーナーがあり、舞華はそこに向かった。

枕の売り場では店員が一人一人の体型や好みに合わせて枕の中に入れる素材や量を調整してくれるという。素材にもいろいろな種類があり、舞華は感心したように店頭に並べられたそれを眺めた。

彼女は自分用に枕を調整してもらうことにしたようだ。

そこには幅の狭いベッドがあり、彼女は実際にそこに横になって枕に頭を載せてみて、その横で店員が具合を確かめつつ中身の調整をする。

俺は一歩下がったところからその様子を眺めていた。

ベッドに横たわっている彼女の体を間近に見て、俺はまたもや自分の中に未体験の感情が芽生えているのを発見した。思わず俺は彼女から目を逸らし、さらに一歩下がった。かすかに動悸がした。俺は困惑する。

いたたまれなくなったかに俺はフラリと売り場を離れた。

すぐそばにはカーテン売り場があり、俺はそこに並べられている色とりどりのカーテンに見入った。

それから様々な白いレース。ふと手にしたカーテンのレース模様が俺の記憶を引っ張り出そうとする。だがやはりそれは触れた途端に揮発する。俺はその場で動けなくなってしまった。

「玲央」

舞華の声に俺は振り向いた。どうやら枕の購入は完了したらしい。彼女はデパートのマークの入った大きな手提げ袋を手にしていた。

「お待たせ」

彼女はそう言って再び俺の腕をとった。

それから俺たちは同じフロアにある食器売り場へ足を向けた。

「あ、ねえ、これかわいくない?」

舞華がそう行って指差したのはペアのマグカップだ。

「ああ」俺は頷いた。特にそのカップに関心を惹かれたわけではなかったが、かわいいかそうでないかという観点で見れば、かわいくなくはないとしか言えない。

彼女は思案顔になる。結局それを購入することに決めたようだ。

店員が丁寧に包装し、舞華はにこやかに受け取った。

それでようやく買物欲が満たされたのか、彼女の足は下りのエスカレータに向かった。下りながら腕時計を見て彼女は言う。

「四時前か。中途半端な時間だなあ。まだ食事には早いよね……。でもさすがに疲れたし、どこかで休みたいでしょ。昼にカフェ行ったから、またカフェってのもなあ」

俺は無言で彼女の言うことに耳を傾ける。

「どうしようか。なんかアイデアある?」

舞華の問いかけに俺は肩をすくめて見せた。

地上階に降りるまでに彼女が導き出した結論はこうだった――近くにあるイタリアンのレストランで軽いつまみを取りながらワインをチビチビと飲って時間を潰し、最後にパスタかなんかでシメる。

そういえば最初に会った時、彼女から酒の匂いがしたな、と俺は思い出した。家では飲まないようだが嫌いではないのだろう。

彼女は俺の腕を引っ張るように店へと向かった。

 

大荷物を抱えた俺たちが舞華の部屋に戻ってきたのは宵の口ではあったが、彼女はすっかり出来上がっていた。

彼女はリモコンのスイッチを押してテレビをつけた。観るつもりはなくても寝る時以外はテレビをつけておくのが彼女の流儀のようだ。

俺はソファに座ってテレビの画面を眺めた。ワインのせいで頭が少しぼうっとしていて思考がうまく働かない感じがする。

彼女はカーペットの上にぺたりと座り、買い物の成果を確認するかのように、ひとつひとつ袋から取り出し始めた。ハサミ片手に俺のために買った衣類からタグを外していく。酔っ払っていても整理すべきものを放置できない性格なのだろう。次々に衣類は綺麗に畳まれ、重ねられていった。

「玲央の服はここに入れておくよ」

彼女はそう言って、チェストの下側の引き出しに衣類の山を仕舞った。

それから彼女は自分用の枕に取り掛かった。一緒に購入したらしき柄物の枕カバーに枕を押し込んでいる。

俺はリモコンでテレビのチャンネルを変えた。

次々に切り替わる映像によって、人間の営みのイメージだけが坦々と俺の脳にインプットされる。人は旅行先で料理に舌鼓を打ち、クイズの回答を競い合い、愛憎模様を繰り広げ、スポーツを観戦し、健康情報に耳を傾けていた。通常運転――今日も。

少し前にフラフラと台所に向かった舞華が戻ってきた。湯気の立つカップをソファの前のテーブルに二つ並べて置き、俺の隣に座った。

そのカップは、さっき彼女の買ったペアのものだ。

「コーヒー」とだけ彼女は言った。俺はカップに手を伸ばし、一口飲む。

彼女は自分のカップに砂糖を二さじ入れ、スプーンでかき回した。

俺はその右手をじっと見た。

昼間のカフェでのイメージがフラッシュバックする。俺はめまいに似た感覚に襲われた。

舞華はカップを抱えるように持ち、中の液体を啜った。

それから彼女は軽く俺に寄りかかってきた。体温が俺に伝わってくる。

俺はもう一口、コーヒーを飲み込む。

彼女は俺からテレビのリモコンを奪った。

 

夜が更け、舞華は俺に先にシャワーを浴びさせた。

寝間着姿になった俺に彼女は先に寝てて、と言う。

寝室に行くとベッドには、元からあった枕と昼間に舞華が買った新しい枕が並べて置かれていた。

どうやら彼女はここで一緒に寝るつもりらしい。

そのことについて俺は考察を巡らそうとしたが、ワインの酔いが残っているせいもあり、うまく考えることができなかった――まあ、これは彼女のベッドだから彼女がここで寝ると主張するのであれば俺には止められないし、その一方で彼女には俺を床で寝させるつもりはない、ということだろ――。

俺はベッドに潜り込み、古い方の枕に頭を載せた。

彼女がシャワーを浴びている音が聞こえてくる。

俺はすぐにウトウトとし始めた――。

 

 質素な小屋の中の古い木のテーブル。そこにはラズベリーのタルトが置かれている。さっき女性が差し出したものだ。窓の外には雑草や潅木の生い茂る土地が視界の限り続いている。俺は旅の姿だ。背中に大きな翼の存在を感じる。非実在の翼。目には見えないが、実際に飛ぶことができるものだ、そうしようとさえ考えれば。
「ああ、天使様――」
 小屋の主の女性。まだ若く、美しい。なにかしらの事情で此処に隠れ住むようになったのであろうが、その原因が彼女の美しさにあったことは想像に難くない。
「わたしに祝福を――」
 女は俺を抱きしめ、キスをした。その瞬間、俺は自分の背中から翼が消失するのを感じた――。

 

ベッドが揺れ、俺はまどろみから現実に引き戻された。舞華がベッドに入ってきた。

石鹸なのか、シャンプーなのか、一瞬、むせかえるほどの匂いがする。

彼女の背中が俺のほぼ治りかけた腕の傷口のあたりに触れた。

喉が、つっぱるような、熱くなったような感覚が、俺を襲う。

「舞華――」

俺は背を向けている彼女の二の腕に手を触れた。

彼女が大きく息を吐くのが感じられた。その中に彼女の不安と期待が入り混じっているのが伝わってくる。

俺はその期待に逆らうことができない。それとも俺の内にある何かに、なのか――。

 

翌朝、重力は俺の体を執拗なまでに捉えていて、俺はベッドから体を起こすことができる気がしなかった。

とうに陽は高く、ドアの向こうで舞華が朝食の用意をしている気配が感じられる。トーストの香ばしい匂いが寝室にまで漂ってきた。

しばらくすると彼女はドアを開けて枕元にやってきた。ベッドに肘をついて、俺の頭のすぐ横に顔を寄せ、

「朝ごはんできたよ、ねぼすけさん」

と、上機嫌に言った。そして俺の頬にキスをした。

目はとっくに覚めているのだが――、という反論を口にする余裕すら俺にはなかった。

昨夜の彼女を思い出し、とりあえずこのまま横になっていると更なるキス責めに遭いそうな予感があるので、俺は目を見開き、なんとか重力に逆らって上半身を起こした。

「さあ、起きて起きて」

舞華は言いながら立ち上がり、居間に戻って行った。

俺はベッドから降り、壁に手をつきながら立ち上がる。

こんなにも自分の体が重いとは。

居間に行き、どうにかテーブルに着く。差し出されたコーヒーをごくりと飲んだ。心臓がバクバクしている。

ああ、これが現実なんだ、と俺は悟った。俺はこの現状を受け入れるしかないのだ、世界が俺に果たさせたい役割を担うために。

俺はカップを傾け、コーヒーをゴクゴクと飲んだ。

舞華は俺の顔色など眼中にない様子で、鼻歌交じりに朝食の皿を俺の目の前に置いた。

「ね、この土日は天気いいみたいよ。どこか出かけない?」

「そうだな」やっとのことで俺はそう答えた。

「ほんと? どこ行こうか」

舞華は嬉しそうに言った。

 

(後編に続く)

2021年2月26日公開

© 2021 堀井たくぞう

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

"永遠の欠落(前編)"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る