ヘルイル

黒川祐希

小説

2,944文字

小説です。こういう小説を書いているときは幸せです。

「ちゃんと眠れてる?」

登校すると、ヘルイルは上下に往復しながら、不安定なリズムでぼくのもとへ駆け寄ってきた。ちゃんと眠れてる? 腰を屈めてこちらを見上げるような形で、質問を繰り返す。

制服の後ろにかかった細長い黒髪は、ピンク色の布地に白い斑点が施されたポーチで一本に束ねられ、彼女の動きに合わせて揺れ動いている。

「ううん。あんまり」

「だめだよ、ちゃんと寝ないと。顔色悪いし」

昨夜から、枕を低反発のものに変えたせいかもしれない。ぼくはよく眠れなくて、朦朧とした意識で学校に登校した。授業には当然集中できず、昼下がり、購買で焼きそばパンと唐揚げが乗っかった少しだけ豪華なおにぎりを買って、ヘルイルと一緒に隣り合って食べた。

教室には、男女によって分かれたグループがいくつか存在していたが、異性同士で二人組なのはぼくたちだけだったので、好奇の目にさらされることも度々あった。

「それおいしい?」

ヘルイルは、ゆかりのおにぎりを物欲しそうに見つめて言った。

「おいしいよ、食べる?」

「ありがとう」

彼女はぼくが渡すまでもなく、手もとからおにぎりを強引に掴み取ると、一口で胃のなかへ流し込んでしまった。

「ひどいよ、全部食べるなんて」

「ごめんね。じゃあ、そうだなぁ」

まだ米のかけらが残っているのだろう、彼女は口の奥をもぐもぐさせながら、何か不謹慎な作戦でも考えるみたいに不気味に口角を歪ませていた。

「私のこと、食べていいよ」

「は?」

「もちろん、全部じゃないけど。少しだけなら、いいよ」

ヘルイルは俯き加減でそう言うと、気恥ずかしそうな顔で人差し指の先端のささくれを弄り、一瞬だけ目を強く瞑ると、勢いよく皮膚を引き剥がした。薄い血が滲み始め、ぼくは救急のためにそれを舐めた。

「違うよ。そっちじゃなくて、こっち」

ハンカチで指の唾液を拭いながら、彼女は皮膚のかけらをぼくに手渡した。

「ちゃんと食べて感想聞かせてね。それと、睡眠は忘れちゃだめだよ。寝てないときとか、ほんとに変なもん見えだすからね」

彼女はそう言うと意味深長に笑い、ぼくが皮膚を口に運ぶまでしっかりと見届けた。皮膚はなんの味もしなかった。けれどぼくはそれを、三時間目の数学の時間まで舌の上に残しておいた。授業が始まると、先生の声は徐々に遠のいていき、ぼくの意識はまどろみのなかに沈んでいった。

「きみは誰?」

夢のなかに登場する顔を持たない人間たちは、混ざり合いながらぼくの手を引き、色々な場所へ導いてくれる。

「ここはどこ?」

それは小学生の頃、初めての海外旅行で母に連れられて行ったカンボジアだったり、去年に観光したばかりのイタリアだったり、行きつけのサイゼリヤだったりコーヒーチェーン店だったりし、ときには行ったことのない国の断崖の風景だったりもする。もしかしたら北欧の画家の絵画から感じとったイメージの世界が夢のなかで現れたのかもしれない、とぼくは夢を見ながら思った。ぼくは明晰夢しか見ない少年だった。

「ぼくは、誰?」

どんよりと曇った空の下で、ぼくは絶えず鳴り響く波音に囲まれながら、きみと断崖を歩いていた。きみの手首は、雲の切れ間からわずかに溢れる日差しを白い皮膚の上に薄く反射させて、きみの指は、ぼくの手を柔く握りながら、長い髪の束によってできた陰のなかに見え隠れしていて、きみの髪は、黒かった。

「ずいぶん遠くまできたね」

きみはぼくを後ろに、規則正しい歩幅で小さな石ころを蹴り飛ばしながら進み、ふいに吹いた凍えるような風を避けてこちらに振り向き、一瞬だけ目を合わせ、それと同時に生じた沈黙の気まずさに耐えかねるように、掠れた声でそう言った。ぼくが何も答えずに軽く頷くと、再びきっぱりと前を向いて、道なき道を歩み続けていく。

「どこに向かってるの?」

今度はぼくが口を開いた。けれどきみは答えずに、黙々と歩を進めていった。どれぐらいそうして歩いていたのか分からない、そこは緯度が極めて高い国のどこかにある名もない灰色の断崖で、いくら歩いたところで景色が変わることはなかった。

空は不愛想な厚い雲に覆われ、崖の手前はばらばらな形の小石たちが入り乱れながら重なっていて、そのすぐ向こうに目をやると、もう何もない。深夜のテレビ画面に映る砂嵐に似た単調な波の運動が、延々と広がっているだけだった。

「もうぼく疲れたよ」

そう言ったときだった、きみは急に歩を止めて、ぼくに艶やかな横顔を見せた。きみの頰の薄い表面は、ふいに現れた鮮やかな夕暮れの日差しを満遍なく反射していた。紫とオレンジの中間を緩やかに移ろっていく官能的な淡い光が、きみの横顔に流れていく。

ピンと上向きに立つ、筋のしっかりとした小さな鼻、薄く結ばれた灰色の唇、死んだ目、それも、あたかも生きているかのように見える、鮮やかなまでに死に果てた目、乾いた網膜に淡々と映し出されるのは、コーヒーが滲んだ水彩画のような薄汚い白波の連なり、荒みきった断崖の風景、言葉を持たない鉱物たちと、意志を持たない干からびた雲たち。ただそれらを無条件に柔く包み込みながら膨張していく、夕暮れの光のグラデーション。

ぼくはきみが泣いている理由が一瞬だけわかったような気がした、けれどそれを明確な言葉として意識のもとにたぐり寄せるほどの時間は残されていなかった、夢のもっとも劇的なシーンは、いつも決まって現実に妨害されるのだ、うっとりするくらい残酷に鳴り響く現実の学校のチャイムによって。

「なんか夢見てたでしょ」とヘルイルは言った。

「うん」

「むにゃむにゃ寝言言ってたよ。それになんかきみ、今、泣いてる。あくびした?」

ぼくは笑いながら頷いて、ヘルイルの長い髪に触れた。

夢から覚め、ぼくはとっさにきみの髪を探した。後ろで一本に束ねられた、微かに傷んだ細長い黒髪を。きみの指を探した。髪の束から落とされた陰のなかで、ぼくの手を柔く握っていた冷感な指を。きみの鼻を探した。ちょっとした匂いの変化も瞬時に嗅ぎとれてしまいそうな、敏感で機能美に優れた小さな鼻を。

けれど、きみはどこにもいなかった。だからぼくが、きみを作ることにした。

「呼んだ?」

休み時間だった。ヘルイルはぼくの机に寄り、まるでクエスチョンマークでも作るみたいに傷んだ髪の毛先をくるくると指で回しながら、首を傾げた。ぼくは何も答えずに、微笑みながら首を軽く振った。

「もう三時間目だね」

ヘルイルは袖を捲り、微かに光る産毛が生えた白い腕を露わにすると、ぼくの机に両の掌を置いて腰かけるように体重を支え、気怠げな様子でそう言った。制服の後ろには黒い下着のラインが透けて見え、それがとても残酷な印象をぼくにもたらした。

「ちゃんと準備してる?」とぼくは聞いた。

「いや、もう全然だめ」とヘルイル。

「私、やっぱり頭弱いのかもしれない。なんかね、数字とかアルファベット見るだけで頭くらくらしちゃうの」

「わかるよ」

もう参っちゃうなー。彼女は愚痴を吐きながら隣の席に腰を下ろすと、しばし憂鬱そうに頬杖をついて、曇り空のグラウンドを睨んでいた。ぼくは新品のキャンパスのノートから透明な包装を剥ぎ取って、真新しいページを開く。三時間目は数学だった。ぼくはあくびを嚙み殺しながら、ヘルイルの横顔をぼんやり眺めていた。

2021年2月23日公開

© 2021 黒川祐希

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