扇子

麦倉尚

小説

3,184文字

暗い雰囲気がほとんどない小説なので、誰からでも読みやすいと思います。金魚屋新人賞の最終選考に残った作品です。

飲みすぎた次の日は気分がハイだ。散らかっていた室内から逃げ出して歩き回っていると遊歩道に出た。

 俺は高いビルが林立する街のタワーマンションに住んでいる。昨日の晩は大学時代の友人・阿川を招いて飲んだ。阿川は俺の顔を部屋の中を交互に見て、「出世したんだな俺も嬉しいよ」と、目を小さくして言い、俺の手を握った。ゴキブリを握りつぶせそうな圧があった。

 妻、俺、阿川で食卓を囲み、酒を飲み昔の話をした。若い頃重要だと思ってていたことはくだらなかったものだと、阿川と部屋に飾られた家具、妻の美しい顔、銀行口座預金の額、なによりこのタワーマンションが話している。楽し気なムードだった。三人ともが自然体だった。しばらくして阿川は酔いが回ったらしく、妻の知らない俺の昔の恋人が、今は東京で働いていると話した。妻の視線が俺を刺した。

俺が顔を更地みたいに凍らせると阿川は口に酒を流し込んだ。和やかな雰囲気は雨雲に覆われた。俺は立ち上がってトイレに去った。尿と水がぶつかる音を聞いてから部屋へ戻ると、ふたりが立ち上がって床を見ている。そこに視線をやるとゴキブリが居た。いままで見たことがない大きさである。天狗が持っている扇子ほど大きいと思った。皇帝のようにどっしりと構えて、触覚のみを動かしている。

「なあ、殺虫スプレーとかないのか?」

 酔って赤くなっていたはずの阿川の顔は、青く冷却されていた。妻が「探してくる」とリビングを去った。ゴキブリは動かない。普通の殺虫スプレーがこれに効くとは思えない。こうしているうちに何処かへ移動するかもしれない。俺と阿川は前のめりでゴキブリに向かい合っている。

「中野、虫平気じゃなかったっけ?」

「俺虫全然ダメなんだ」

 虫はこの部屋に出たことが無かった。この天狗の扇子が空を舞ってベランダに降りてくる姿を想像すると、宇宙人の侵略のように思えた。

「あったよ、ムカデ用のスプレー」

 妻が俺に冷たい缶を手渡した。俺は缶から伸びたスプレージェットの先をその天狗ゴキブリに向けたが、そいつは動こうとしない。発射ボタンを押すと静かな音と共に白い蒸気が天狗ゴキブリに吹き付けられた。妻と阿川が小さく喜びの声を出した。俺はスプレーを浴びたそいつに近寄り、顔を寄せた。すると羽を広げた。クジャクほど大きく、誇らしい羽がモーターのような音を立てる。ゴキブリはシャンデリアの中心に止まった。妻が、

「あれ、すごく高かったのに」

 俺は妻の横顔を盗み見た。俺が彼女の箸を割ってしまった時と同じ表情をしている。天狗ゴキブリは古くから土地に住まう豪族が、表を歩くかのようにシャンデリアを周回し始めた。妻が悲鳴を上げた。阿川が話す。

 よし、俺に任せろ。阿川はワインの瓶を掴みラッパ飲みし、俺の手から殺虫スプレーを取り上げると天狗ゴキブリにスプレーを吹きかける。こいつの魂は兵士だ。酔いが回っているらしく足元が躍っていて噴射しても的外れである。こいつはあてにならない。俺も同じようにワインをラッパ飲みした。阿川からスプレーを奪い取り天狗ゴキブリへ毒を吹きかけた。

 天狗ゴキブリが動かなくなり、シャンデリアから落ちて床にパタリと横たわった。視界が明るくなったような気がしたが、その後、シャンデリアが落ちた。最前線で聞く銃声みたいな音がした。阿川がケガをしている。血が流れている。俺と妻はシャンデリアの幹の隙間の位置にたっていたらしいが、阿川のみはそうではなかった。肌にガラスが刺さっていて、血が出ている。また妻の悲鳴が聞こえた。

 阿川は、「大丈夫、大丈夫だから」と言い部屋から去って行った。妻はふらふらしながらソファーに寝転び、眠った。俺は残ったワインを飲み干した後、冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。天狗ゴキブリは腹を上に向けて、シャンデリアの破片の中で死んでいる。今にも生き返りそうだと思い、俺はそれにビールを垂らした。何も反応が無い。反応がない。反応がナイ。

 

 遊歩道を進んでいると美術館が見えてきた。俺はその建物に吸い寄せられ、中に入った。家族連れが沢山いて肩身が狭いが、ここを出れば家の中の悲劇と向き合わなければならない。足が受付に進んだ。

 展示されているのは日本の妖怪らしい。俺はゆっくりと歩いて展示を進んだ。足元が暗くなんだか気持ちも暗くなる。展示物もグロテスクだ。「天狗のミイラ」と名付けられた干物を見つけて。顔は人工的に作ったもので、身体は猿のミイラだと名前の下に記してある。その天狗の小ささに驚いた。これが実際の天狗の大きさなら、昨日家に出たゴキブリは天狗の扇子大とは言い難い。この展示物がもつ扇子は、柏餅の葉程度だろう。俺はあのゴキブリの名前を考えながら美術館を周ったが、結局適当な名前は思いつかなかった。

 建物を出てもまだ昼前で、遊歩道をうろついてもまだ時間は立たない。俺はタワーマンションへ戻ることにして家路をたどっていると阿川から電話が来た。ただ俺は大丈夫だから、という報告だった。

「なあ、あのゴキブリなんだと思う?」

「なんだってどういうことだよ」

「大きすぎないか?」

「それは思った」

「で、なんて名前にすればいいと思う?」

 はあ?と電話口から聞こえる。

「なんでもいいじゃん」

 俺は電話を切った。タワーマンションに着き、エレベーターに乗り込むと犬を抱いた婦人が箱に飛び込んできて、五階のボタンを押した。このマンションの下層の階はペットを飼える。夫人は肩で息をしている。耳、首、指に華美な装飾が施してある。犬にもきらびやかな絨毯のような服が着せてある。

 犬の前足がこちらを向いている。この掴めない手が扇子を持つならば、さっき展示されていた天狗と同じサイズのものを持つだろうと思った。犬扇子。犬が俺の方向を向いて舌を出している。五階につくと夫人とともにその犬はエレベーターを出た。二〇階に着いた。俺は昇降機を出て部屋へ向かった。足取り重く。

 俺は扉の前に着くまでに、ゴリラが扇子を持つなら、あのゴキブリと同じぐらい大きさになるだろうと考えたので、天狗ゴキブリをゴリラゴキブリに名付け直し、部屋に入った。

 やはり部屋は元のままだ。俺は腹をくくり掃除を始めた。妻はソファにいない。寝室に行くとそこで妻が眠っている。俺はその寝顔を見ると俺だけが掃除をするのが嫌になってしまった。妻の目覚めを待つことにし、リビングに戻り椅子に腰かけて煙草を吸っいながら、ゴリラゴキブリの死体を眺めた。

 やはり大きい。この世のものと思えない。ゴリラの扇子にふさわしい異物感であるし、知っているゴキブリよりも円形だ。フリスビーでも丸呑みしたのだろうか。俺は立ち上がりじっくりとそれを眺めた。するとチャイムが鳴った。モニターを確認すると知らない顔があった。清掃業者らしい。妻が頼んだのだろうか。俺は彼らを通した。

 部屋に掃除屋が上がり込み、シャンデリアの破片などを綺麗にしてくれたが、ゴキブリには手を出さない。

「ゴキブリも取ってくださいよ」

「うちは害虫処理してないんですよ」

 掃除屋のおじさんはゴリラゴキブリを見て顔をしかめた後、口角を上げた。

「追加料金払うなら片付けますよ」

「いくらですか?」

 うーんと掃除屋はうなり、ゴキブリを眺めた。

「一万円なら」

「一万円?高すぎるでしょ」

「なら、ゴキブリは無くなりませんね」

 掃除屋は俺の心を覗き見るように目を合わせてきた。

「わかった」

 掃除屋は笑った。惨めだ。俺はタワーマンションに住んでいるのに。ゴリラゴキブリなんて気色の悪いものに負けてしまった。

 

 掃除屋が帰ったあと、俺は部屋を眺めた。シャンデリアが無くなっても案外雰囲気はかわらないものだ。俺はベランダに出てたばこを吸った。まだ昼過ぎだ。俺が履いた煙が空に上がり、いつのまにか消えていった。俺は明日からお酒とたばこをやめることにした。

2021年2月20日公開

© 2021 麦倉尚

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