梅雨空の狂詩曲

堀井たくぞう

小説

24,571文字

ふとしたことで会社内で変態扱いを受けることになってしまった主人公の運命や如何に!? 彼の前に現れた神の使い「ツキ」とは――?

「吾が名はツキ。大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)の使いなるぞ」

その妙な格好をした子供は、僕に向かってそう言った。夜の闇の中に浮かぶそいつの顔からは、表情というものが奇妙に欠落していた。

おいおい、勘弁してくれよ、と、その時の僕は思ったのだが――。

 

 

僕、神崎圭輔は人生最悪の状況に陥っていた。

ほんの偶然の出来事により、周囲から完全なる誤解を受けることになってしまったのである。

その日を境に僕の人生はそれまでと全く違うものへと変化した。人は以前と異なる目で僕のことを見始めた、僕のことをよく知っているはずの人でさえ。

もちろん、いい意味に変わったのではない。

ま、中には、腫れ物に触るような雰囲気を漂わせつつも友好的態度を崩さずに接してくる輩もいるにはいたが、大方の連中はケダモノを見るかのような目つきで僕とは距離を置くのだった。

事の起こりはこうだ。

僕は二十四階から十六階に資料を運んでいた。三冊か四冊の分厚いバインダーを両手で抱えてオフィスの廊下を歩いていたのだ。ちなみにだが、ウチは大きな会社じゃないんだな。元々はこの細長いオフィスビルの十六階だけに入居していたのが、少しばかり規模が拡大し、ワンフロアでは手狭になったところに二十四階に空きが出たのでそちらも借りることにした、というわけで、決して十六階から二十四階までがすべてウチのオフィスということではない。

とにかく僕はクソ重いバインダーを持って廊下を歩いていた。荷物が邪魔で足元はよく見えていなかった。

前方から総務部の黒川さんが歩いてきた。彼女は小柄で少しポチャっとしてはいるが笑顔に愛嬌があり、正直に言うと僕はちょっとばかり惹かれていた。責任感の強い娘で、まだ入社三年目だったと思うけど、仕事も良くできる。当然、皆に好かれる存在だ。僕はそれまで彼女とはあまり深く話をする機会には恵まれていなかったが、このようにオフィスで顔を合わす際には彼女はいつもニッコリと挨拶を交わしてくれるので、向こうも僕のことは憎からず思っているのではないか、と感じていた。

この時も彼女は僕を見て「お疲れ様です」と笑顔を向けてくれたので、僕も「お疲れ様」と返しつつ頷いてみせた。

そのまま何事もなくすれ違う――はずだった。

ところが彼女は僕の横を過ぎたあたりで声をあげた。

「あ、神崎さん、何か落としましたよ」

僕は足を止めた。あれ、僕は落とすようなものは何も持ってなかったはずだけどな、何を落としたんだろう。

「え?」と言いながら振り向いた僕の目には、腰を折って床に手を伸ばしている黒川さんの姿が映る。その手は、数枚の重なり合った小さな紙のようなものを、まさに拾い上げようとしていた。それは、最近ではめったにお目にかかることもなくなった、ポラロイド写真のようだった。

僕のものではない。

顔をあげた黒川さんの顔が瞬時に凍りついた。目を見開いて拾い上げた写真を凝視している。だが、僕はこのときにはまだ彼女のその表情の意味するところには気付くことなく、

「なにそれ、見せて」

と軽い感じに彼女に声をかけた。

彼女は一瞬だけ僕をまっすぐに見たが、その眼差しは一度も僕が目にしたことがない冷たいものだった(今にして思えば、だが)。

すぐに彼女は踵を返し、小走りに向こうに行ってしまった。拾った写真らしきものを手に持ったまま。

「お、おい……」

僕の呼びかけには応じることなく、すぐ先のオフィスのドアを解錠して彼女は中へと消えてしまった。なんなんだよ、と思いつつも、抱えてる荷物が重いので僕も彼女を追ったりすることはなく、自分の行くべき反対側のオフィスのドアに向かったのだった。

なんかヤバイものでも写ってたのかな――、さっきの黒川さんの表情を思い出しつつ、僕は荷物を自分の席まで運んできた。椅子に腰掛けて一息ついた僕は、今の出来事についてはまったく深刻に受け止めてはいなかった。その写真を僕に返さなかったということは、そこに何が写っていたにせよ、彼女はそれが僕のものではないということは認識したのだろう――そう僕は思っていた。

すぐにその一件は僕の頭から追い払われた。仕事が溜まっていたからだ。いつも通りに僕は仕事をした。もし僕に少しでも敏感に状況を読み取る力のようなものがあったとしたら、この時点ですでに多少の異変を感じ取れたかもしれない。だが、そんな力は僕にはなかった。僕は普通に残業をし、それから帰宅の途についた。

翌日、オフィスに出社してきて、社内のグループウェアで一日のスケジュールを確認した僕は、おや、と思った。昨日の時点ではなかったはずの予定が朝イチで入れられている。しかも、題目が(無題)だ。

なんだろ、と思いつつ、詳細を確認した。だが、わかったのはそのスケジュールを入れたのが人事部長の吉井さんだということだけだった。

僕ら社員の間では、まったく仕事らしい仕事しないことで定評のある人事部長である。ま、人事部つっても部長一人に社員一人、それと総務部と兼務してる派遣さんが一人だけ。それでもこの小さい会社には十分すぎるんだろう。

この時点では、僕にはこの一対一のミーティングが何の目的で設定されたものなのか、まったく心当たりがなかった。どうせたいしたことのない、なんかの調査目的の個別ヒアリングかなんかかな、くらいに考えていた。

始業時間になるとともに、その吉井さんが僕の席にやってきた。髪に白いものが目立つ、くたびれたスーツを着た小柄なおっさんである。僕が顔を上げて目が合うと彼は何も言わずに手招きした。僕も無言で席を立った。周囲の席の誰もそれを気にとめる様子はなかった。

オフィスの隅の、会議室がいくつか設けられているコーナーに連れて行かれた。吉井さんはそのうちの一室のドアを開けた。通称『青の部屋』と呼ばれている部屋だ。ドアが青く塗られているからそう呼ばれているのである。

吉井さんに続いてその部屋に足を踏み入れた僕は、促されるままに手前の椅子に座った。吉井さんはその向かいに腰掛ける。

「神崎くん」

そう口を開くと、吉井さんは手に持っていた薄っぺらい紙のバインダーから〈それ〉を取り出した。彼はそれを机の上に置き、右手で滑らせて僕の目の前に押し出した。

重ねられた数枚のポラロイド写真だ。

僕はそれを手に取った。それが昨日、黒川さんが廊下で拾ったものであろうことは容易に想像がついた。目に入る一番上の写真には小さな子供の半身が写っているが、なんだか妙な印象を受ける。子供の写真につきものの明るさというか、無邪気さのようなものがないというか。それに構図にセンスも感じられない。

「それは君が所持していたものだと聞いている」

吉井さんはそう続けた。

「え?」

僕は唖然とした口調で返した。

残りの写真の内容を確認した僕はさらに唖然とすることになった。そこには一枚めの写真と同一と思しき子供が写っているのだが、着衣がない。変質的な性的傾向のある人物が撮影したものであることは一目瞭然だった。被写体は無垢な子供なのだろうが、それがどうしてこんな異様な感覚を呼び起こさせるものになるのか不思議に思えるほどだ。見ていて気持ち悪いので、すぐに僕は写真をもとのように重ねて机に置いた。

「違いますよ、僕のじゃありません」

首を振りながら僕はそう言った。その声はうわずっていた。

だが、吉井さんは僕の返事など聞いていないかのように続けた。

「君ね、これは犯罪だよ。君の回答いかんでは私にはしかるべき措置を取る用意がある。君はこれを一体どのように入手したのかね」

僕は目を点にしながら慌てて言った。

「いや、だから、僕のじゃないですって。誤解ですよ。これは黒川さんが拾ったものだと思いますけど、彼女にどう見えたのか知りませんが、僕が落としたものじゃないです」

吉井さんが僕を見る目が細まった。

「シラを切るつもりか」

「い、いや、ちょっと待ってくださいよ」

なんでいきなりの犯罪者扱いなんだよ、と僕は思った。

「シラを切るも何も、本当に僕のじゃないですよ。僕にそんな趣味があると思うんですか」

「君みたいに、普段は真面目で、一見、品行方正に見えるタイプが一番、危ないんだ」

「ちょ、そんな根拠で僕がそんな写真を持ってたことにされちゃ堪りませんよ。それともそれが僕のだという証拠があるんですか」

そう言いつつ、さっき写真を手に取ってしまったのは失敗だったと僕は後悔した。触っていなければ、それには僕の指紋がついていないと主張できたのに、と思ったのだ。

「君がそれを落とすところを見た、という証言がある」

「黒川さんでしょ、それは」

すかさず僕はそう言ったが、この人事部長は表情を変えなかったし、頷きもしなかった。僕は続けた。

「本当にそれを僕が落とすところを彼女は見たんですか。たまたま彼女と僕が廊下ですれ違った時に、僕の足元にそれが落ちてたっていうだけじゃないんですか」

吉井さんはしばらく黙って僕を睨んでいたが、僕の質問には答えず、写真に手を伸ばし、フォルダに戻した。

「話にならんな」

そう言って彼が立ち上がりかけたので、僕は慌てて言った。

「ちょ、本当にそれは僕のじゃないですって。そこはわかってもらえたんでしょうか」

「君があくまでそう主張するつもりであることは理解した」

言いながら吉井さんは立ち上がった。僕も腰を上げかける。

「いや、主張とかじゃなくて。それが事実ですよ」

「だから、君の言い分はわかった。話はここまでだ」

彼はすでにドアに手をかけている。

「それでこの後はどうなるんですか」

僕も立ち上がり、そう尋ねた。

「社内的に調査を進めることになるだろう」

彼はドアを開け、部屋を出るよう、僕を促した。

納得がいかないものを感じつつも、そそくさと僕はその場を後にした。不愉快なものからさっさと離れたかった。

頭ごなしに犯人扱いされたことに怒りを覚えるというよりも、純粋に不思議さを感じていた。僕は性的には極めてノーマルな――というよりも、いたって古風な、と言うべきかもしれん――タイプであって、異常性愛的なものなど全然理解できない。ああいったものは本当に不快である。周囲の同世代の男性には二次元のキャラクターに『萌え』たりするのが少なからずいるけども、いい歳して何やってんだ、としか思えない。そういう人間だ。

僕は一旦、自分の席に戻ったが、仕事など手につくはずもない。吉井部長との問答を思い返すうちにだんだんとイライラが募り始めた。今頃になって怒りのようなものも芽生えてくる。一体、黒川さんはどういう報告を会社にしたのだろうか。直接、彼女を問いただしてみるしかないと思った。

内心の憤懣を表に出さぬよう僕はさりげなく席を立ち、黒川さんの席のある総務部に足を向けた。

黒川さんは机の上のノートパソコンに向かって仕事をしていた。その後ろにそっと立ち、僕は彼女の肩を人差し指でトントンと叩いた。

彼女はにこやかに振り向いたが、肩を叩いた主が僕であるのを認めると、たちまち表情が強張った。

僕は前かがみになって彼女に顔を近づけ、小声で言った。

「ちょっとどういうことよ。なんであの写真が僕のものってことになってるわけ?」

彼女は身を引いて、僕から少し距離を取りつつ、一言ずつを区切るようにして、こう言った。

「わたしは、自分が目にしたことを、ありのままに、葛城さんに報告して、拾ったものを、渡しただけです」

葛城さんと言うのは総務部長の名である。僕はゆっくりと頷いて黒川さんの話したことを理解したというポーズを示しつつ、続けて質問した。

「君はあれを僕が落としたところを見たのか? あそこにあれが落ちてたところにたまたま僕らが通りかかった、というだけだろう?」

「わたしがトイレに向かった時に廊下には何も落ちておらず、個室が満杯だったのですぐに引き返したタイミングで神崎さんとすれ違いました。廊下には他には誰もいなかった、とだけ報告しました」

僕は彼女の発言の内容について少しだけ考えを巡らした。

「君が最初に廊下を歩いていた時に見落としただけじゃないのかい?」

「そうかもしれません。わたしは何も判断しません。さっきも言ったように、ただ自分の見たものを報告しました」

僕は自分の声がだんだんと大きくなっていくのを自覚した。

「あれが僕のものであるわけないだろう? 君が見落としてたんだ」

「だからわたしは判断していませんし、するつもりもありません。くどいようですが、自分が見た通りのことを報告しただけです。話は以上です」

「ちょ、なんでだよ!」

「この件はもうわたしの手を離れています。これ以上、わたしを巻き込まないでください」

「巻き込むな、って。君が僕をこの件に巻き込んだんじゃないか!」

僕がそのセリフを言い終える前に彼女は机に向き直り、頑なに会話を拒絶する態度を示していた。

僕は前かがみだった姿勢を元に戻した。握った手がわなわなと震えていた。ふと見ると、周囲の席の人がみんな僕を見ていた。僕の視線に気づいて皆があたふたと視線を逸らす光景は滑稽でもあったが、それを面白がる余裕は僕にはなかった。

僕はすごすごと自席に戻るしかなかった。

席に座った僕は、やはり仕事など手につくはずもなく、今しがた黒川さんが話した内容について考えを巡らすこととなった。

冷静かつ客観的に考えてみれば、確かに総務部員として普段からオフィスの状態に細やかな気を配っている彼女が廊下に落ちているものを見落とすことは考えづらく、総務部長や人事部長としてもあの写真を落としたのが状況的に僕である可能性が高いと考えたのも無理はないだろう。写真の落ちていた場所と女子トイレはせいぜい10メートルくらいしか離れておらず、彼女が証言通りにトイレから即座に引き返したのであれば、僕とすれ違うまでの時間はほんの十秒とかでしかなかったのではないだろうか。僕が二十四階からエレベータで降りてきて、廊下を歩き始めた時、そこには誰も歩いていなかった――。

僕は頭の中でいろいろとタイムラインを動かしてみたが、彼女の目に触れず、かつ僕の目にも触れずに第三者がそこに写真を落とすには、せいぜい、ほんの一、二数秒の猶予しかなかっただろう、と結論づける以外になかった。逆に言うと、意図的に姿を隠そうとしたのでもない限り、その人物は僕か彼女のどちらかの目には止まったはずだ。つまり、ありえないとは言い切れないが、たまたまそれが起きたと考えるのはかなり不自然と言わざるを得ない、というところか。

では、本当に写真を落としたのが僕である、という可能性はどうか。僕の運んでいたバインダーのどれかにそれが挟まっていた、ということがありうるかどうか。

あの時、僕が運んでいたバインダーは、今度僕がリプレースを担当することになった某社基幹系システムの現行の設計書である(ああ、言い忘れていたが、僕はシステムエンジニアなんだ)。もう五年くらいもの間、誰も開くことのなかったであろうものだ。ただ、二十四階のオフィスが開設された際に荷物を引っ越しさせているので、そのときに紛れ込んだ可能性も考えられる。だが、僕は二十四階の書庫から資料を持ち出す際に、全部のバインダーをパラパラと見て、自席へと持ち出す必要があるかどうかを確認しているので、そこに何かが挟まっていればその時点で気づいたはずだ。

となると、彼女がウソをついているのか、誰かが実際にそこにいたのだが一瞬のうちにどこかに消えたか、としか考えられないということになるのだが、どちらもありえなさそうに僕には思えた。

しかし――、と僕は思う。――マズイぞ、このままでは僕は本当に犯人にされてしまう。いっそ、警察沙汰にでもなってくれれば、プロによる調査が入ることで僕の身の潔白も証明されるかもしれない。だが、現実には被害者からの届も出ていないのに警察が調査に乗り出してくることもないだろう。人事部長の言っていた社内調査とやらの進展を待つしかないのか――。あの部長の無能さを思うにつけ、僕には悪い予感しかなかった。

そして、その予感は当たった。いや、むしろ、予想以上に酷いことになった。

翌日までにはこの一件を全社員が知ることになったようなのである。いや、それは僕の想像でしかない――それについてなにかを僕に面と向かって言う人はいなかったから。

明らかに誰もがよそよそしい態度に変わっていた。最初におかしいと感じたのは、朝、オフィスに来た時、僕が「おはようございます」と言っても、いつもと違い誰一人、挨拶を返してこなかったことだ。しかし、思い返してみると、前日に帰宅する際にも僕の「お先に失礼します」に誰も反応しなかった。僕が珍しく定時で仕事を切り上げたので皆が反応し損ねただけかと思っていたが。

まさか、と僕は思った。この小さい会社では、噂話はあっという間に伝播する。皆の間では、僕があの写真を持っていたのだということになっているのだろうか。ありもしない尾ヒレをつけられて面白おかしく伝えられているのだろうか。

いや、思いすごしに違いない。きっと僕は神経質になっているのだろう。誰かと少し話をしてみれば、すべてはいつも通りであり、僕がちょっと自意識過剰になっていただけなことが証明されるはず――そう考えた僕は、隣の席の宇野さんに話しかけてみようと思った。彼女は今年入社したばかりの新人である。当たり障りのない話題を僕は努めてさりげない風に持ち出した。

「今月の工数入力の締切日っていつだっけ?」

彼女は椅子をガタンと言わせて僕の方を振り向いた。

「ハッ、な、なんでありましょう」

「いや、だから、今月の工数入力だよ。たしかそろそろ締め切りだったろ」

「こ、工数入力でありますか。たっ、ただいまお調べしますのでお待ちください」

「――てか、なんでそんな変な喋り方になってんの?」

「い、いえ、自分は普段からこういう喋り方でありますっ」

そんなわけないだろ、そんなの初めて聞いたわ、と思いつつ、こんなときいつもなら即座に話に割り込んで来て軽口を飛ばすはずの周囲の席の同僚たちに目を向けると、皆、一心不乱に仕事をしている。

だが、このときにはまだ僕の疑念は確信にまでは至らなかった。心に引っかかるものは感じつつも、それを吹き払うように仕事に集中することにした。前日がほとんど仕事にならなかったので、予定よりも作業は遅れていた。

そして、ふと気づけば、十二時半を回っていた。

ウチの部署では昼休みは各自の仕事の都合に合わせて自由に時間をずらしていいことになっている。なので、昼飯も全員が一斉にぞろぞろと連れ立って行くようなことはないのだが、それでも多少は声を掛け合ってタイミングの合った同士で出かける、というのが日々のスタイルである。

僕が顔を上げると、すでに周囲の大半の同僚らは席を立っていた。僕のいる島では少し離れて斜め前方の席の澤井君がいるのみである。おかしいな、誰も昼飯に行く気配がなかったのだがな、と思いつつ、僕は彼に声をかけた。

「澤井君、昼飯は?」

「いえ、私は」

「忙しいの?」

「ええ、今日は抜きます」

「あ、そう」

この間、彼は一度も僕の方を見なかった。

僕は席を立ち、ひとりで昼飯に出た。

廊下で経理の鈴木さんとすれ違ったので、僕はいつものように「お疲れ様です」と声をかけようとしたが、彼女は僕の姿を認めると顔を伏せて急に早足になって僕の横を通り過ぎて行った。僕は「お」から先の言葉を飲み込むことになった。いつもはきちんと挨拶をしてくれる人なのに。

僕の中では疑惑が確信へと変わっていった。どうやら誰もが僕を避けようとしているのは間違いない。それもちっとやそっとの避けられ方ではないようだ。その理由としては、あの写真を僕が所持していたことになっている、すなわち、僕は小児異常性愛者である、ということにされているためだ、としか考えられない――。

そう思い当たった僕は、エレベータの中でめまいを覚えた。

近隣のマクドナルドでフィレオフィッシュを咥えながら、なんでこんなことになったのだろう、と、あてどもなく僕は考えを巡らせた。バンズは涙の味がした。喉に突っかかるのをなんとかコーラで流し込んだが、大好物のポテトを半分も残してしまった。

昼休みを終えてオフィスに戻り、僕はすぐに上司の課長である佐藤さんを捕まえた。彼の座る椅子の横に隠れるようにしゃがみこみ、僕は彼に訊いた。

「あ、あの、僕のことでなにか人事から通達のようなものが出ているのでしょうか?」

「ん? いや、なにも聞いてないよ」

佐藤さんはすっとぼけた口調でそう答えた。しかし、いつもの彼からすると妙にそっけない態度だ。

「あ、いえ、通達とかじゃなくても、なにか、あの、僕に関して話が流れてたりとか……」

「いや、それもないな。どうかしたのか?」

僕は言葉に詰まった。もう僕は誰もが写真の一件を知っていると確信してはいたが、僕の思いすごしであるという可能性もゼロではない。ここで佐藤さんに一件について話してしまえば逆に自ら墓穴を掘ってしまうかもしれない。正直なところ、この佐藤さんという人も僕からすればあまり信頼が置ける人物ではないのだ。

「いえ……、なんでもないです」

僕は立ち上がり、自分の席に戻った――。

そして冒頭に述べたような状態に至ったのである。まさに村八分というやつだ。かれこれもう半月にもなるだろうか。最初のうちは、時間が経てば皆も態度を軟化させるだろう、僕の本来の姿を見てくれるようになるだろう――なにせあの写真は僕のものなんかではないのだから、などと考えていたのだが、まったくもって甘い見通しだった。僕はひたすらこの状況に追い詰められ、精神をすり減らされていった。

何と言っても黒川さんがあの笑顔を一切、僕に向けてくれることがなくなってしまったのがツラかった。あれ以来、気づけば彼女のことばかり僕は考えている。こんな状況に僕を巻き込んだ彼女のことが憎くもあった。だが彼女が悪いわけではないことも頭ではわかっていた。そして依然として彼女に惹かれる気持ちもあった。しかし今や、彼女は赤の他人よりも遠い存在になってしまったのである、広くもないオフィスビルの同じフロアにいるというのに。

真夜中近くまで残業するのがほぼ日課となっていた。日中、なんだかぼおっとしてしまい、自分が起きてるのか寝てるのかもわからない状態になっていることが頻発するのだ。当然、仕事の進捗は極めて悪く、なんとかしなくてはと思い、ずるずると残業するのだが、一向に仕事は進まずに気づけば時間だけが過ぎている、という具合だ。

その夜、僕は人気のない夜道をとぼとぼと自宅に向かっていた。

梅雨明けにはまだ遠いはずだが、ここ数日、雨は降っておらず、この深夜でもジメジメと蒸し暑い。

――もはや転職でもするしかないんじゃないか。でも、会社を辞めるってことは、あの写真の持ち主が自分であると認めるようなもの、ってことになったりしないだろうか。そして一旦、事実が確定してしまえば、会社を変わったところで、ひょんなことで新しい職場に話が伝播してきて元の木阿弥、なんてことに――暗い歩道を行く僕の頭の中では、そんな考えが堂々巡りを続けていた。

突然、僕は何かに足を取られた。

あせった。

二、三歩、片足で体のバランスをとりつつ踏み出し、転びそうになるぎりぎりのところで、なんとかこらえた。

なんなんだよ? と思いながら振り返って足元を見た僕の目に入ったのは、赤ん坊の頭ほどもありそうなサイズの石である。それに躓いたのだ。なんでこんなものが路上に落ちてるんだよ、と思って周囲を見回した。そこは神社のちょうど真ん前だった。参道の脇の傾斜になっているところから石は転がり落ちてきたのだろう、参道脇の植え込みを囲むように道に沿って並べてある石のひとつが抜け落ちている。僕は石を拾い上げ、もとのところに置いた。ぴったりとそれは収まった。

そして僕はなにげなく、眼前のゆるい石段状に細く伸びている参道を見上げた。

ああ、そういや、今年の正月は担当顧客のシステムの切り替え作業があったので参拝もしなかったな――僕の仕事の糧であるところの大手企業の情報システムというのは、大抵、二十四時間三百六十五日、停止させることができない。それでもハードウェアないしソフトウェアの大規模な切り替えのある時には一時的にシステムを止めざるを得ないわけで、そんな場合には日常業務に極力影響を及ばさぬよう、盆か正月に作業を実施するのが通例である。

僕は特に信心深いというわけではないが、例年、初詣だけは慣習的に行っている。この地に引っ越してきてからはずっと、この神社にお参りに来ていた。それが、今年の正月にはできていなかったな、ということを思い出したのだった。

この際だ、遅ればせながら――って半年以上も過ぎてるけど――参拝でもしとこうかな、もう神頼みくらいしか僕には手が残されていないっしょ、などと思いつつ、気がつけば僕は参道の石段を登り始めていた。

暗い参道にはもちろん僕の他に人影はない。空気はひんやりとしていた。僕はゆっくりと境内に向かう。

賽銭箱を前に財布を取り出した。僕は奮発して五百円玉を取り出し、賽銭箱に放り投げた。

深夜なので控えめに柏手を打ち、お辞儀をした。手を合わせたまま、思いつくままに頭の中で言葉を並べる。

(どうかお助けください。濡れ衣を着せられて困り果てているのです。なんとか皆の誤解を解いてください。そして彼女とも仲良くなりたいです)

彼女というのは黒川さんのことである。なんかちゃっかり余計なお願いまでしてしまった、と自分でも可笑しくなった。そのことで意外に気分がリフレッシュされた気がした。

僕は踵を返し、参道を下り始めた。

が、すぐにギョッとして足を止めることになった。

広くもない参道の中腹に誰かがいた。じっとしている。影になっているのでよくは見えなかったが、大人ではない。

一旦は止めた足を僕はゆっくりと進めた。近づくにつれ、それが妙な服装(和風ではある)の小学生くらいの子供だとわかった。性別まではわからない。髪型はおかっぱだ。

そいつが参道のど真ん中に立ってこちらを向いているので、しょうがなく僕は脇に寄って、そいつの横をすり抜けようとした。

だが僕がすれ違うとすぐにそいつはタタタッと走って再び僕の行く手に立ちはだかった。

僕は再び足を止めた。格好から判断して僕はこいつがこの神社の神主の子供かなんかだろう、こんな夜中にお参りしたことについてか、なんだかわかないけど、僕がやらかしてしまったことについての苦情を僕に言うつもりなのだと思い、こう声をかけた。

「あれ、なんかマズかったかな……、君はここの子?」

そいつは無表情に僕を視界に捉えたまま、少しの沈黙の後に、口を開いた。

「吾が名はツキ」

それは、妙なイントネーションを伴った、どこから響いているのかわからないような声だった。そして依然としてそいつの性別は不明だった。

「大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)の使いなるぞ」

僕は面食らった。「オオ……、ムチ……?」

「オオヒルメムチノミコトじゃ。貴様、この社に祀られている神の名も知らずにお参りしたのか」

僕は返答に窮し、そのツキと名乗った子供をただ見ていたが、そいつのほうも何も喋らずに僕のことを見ているだけで特になにか苦情を言う様子もなかったので、もごもごと「じゃ、失礼します」と口にして僕は再びツキの横をすり抜けた。あまりかかわらないほうがいいだろうと思ったのだ。こんな小さな子供が真夜中に外にいることに不自然さを感じてはいたが、ここに住んでいる子なのだろうから僕がどうこう言う問題じゃない、と判断した。

参道の入り口近くまで下って来て、ふと後ろを振り返ってみた僕は、再びギョッとすることとなった。

ツキが僕のすぐ後ろにぴったりついて来ていた。そんな気配は微塵も感じられなかったのに。

慌てて前に向きなおり、僕は参道から前の道路に歩み出た。自宅方面に数歩歩いてから再び振り返ると、やはりツキは僕のすぐ後ろにいた。

僕は足を止め、後ろを向き、ツキと向かい合う形になった。

「えーと、もうこんな時間だし、君はお家に帰った方がいいんじゃないかな?」

僕がそう言うと、ツキは無表情のままに返した。

「なにを抜かす。吾は使いなるぞ。吾が主人は貴様の願いを聞き入れ、ほどほどに叶えてやるよう吾に命じたのだ。それを追い返すと申すのか」

コイツはまともじゃないぞ――そう僕は思い、――ま、いちおう警告はしたからな、これ以上かかわる必要はないだろう――、と考え、踵を返した。早足で自宅へと向かう。後ろは振り返らなかった。

途中で十字路にさしかかったときに、道路脇のカーブミラーをチラと見て、自分の後ろに誰もいないことを確かめた。僕は少し足を緩めた。

自宅の安アパートに着いた。建物脇のギシギシいう階段を上り、自分の部屋である202号室の鍵を開け、中に入った。後ろ手でガチャリと鍵を閉めたのと同時に声がした。

「ずいぶんと汚い住処だな」

とびあがらんばかりに驚いた僕が振り向くと、そこにはツキが立っていた。

「お、おま……、いつの間に」

だがその僕の反応を無視してツキは言った。

「まずはこのとば口を浄めよ。こんなに汚くては、よう入れぬ」

「てか、勝手に入ってくるなって。ここは人のうちだぞ」

「貴様のうちであろう。さっきも申したように貴様の願いを叶えるよう命じられているからに、それを遂げぬうちには帰るわけにはいかぬ。――貴様、吾を疑っているようであるが、そんなことでは救われるものも救われぬぞ。貴様は濡れ衣をさっさと乾かしたいのであろう? であれば、まずは人の話を素直に聞くものぞ」

そのセリフを耳にして、ようやく僕は、もしかしたらツキは本当に神の使いなのかも、と思った。そうでもなければこいつの口から濡れ衣という言葉が出てくることはないはず。信じがたい話ではあるが、救われたいという願望が、非現実的なものの存在を疑う僕の心のガードを下げたのかもしれなかった。

とりあえず言われた通りにすることにした。

真夜中だというのに僕は玄関の掃除をさせられた。それからいろいろと部屋の中を片付けたりとか。なんだか意味もなく物の配置を変えされられたりもして、僕は次第にイラついてきた。こいつは本当に神の使いなのだろうか、という疑念が再び僕の中で頭をもたげつつあった。

「その帳の色も気に入らんな」

そう言ったツキの顔を見返しながら僕は訊いた。

「トバリ?」

「窓に掛かっている帳じゃ」

「ああ、カーテンのことか」

「葬式でもあるまいに、なぜにそんな辛気臭い色にする。それとも貴様、喪にでも服しておるのか」

僕の部屋のカーテンは限りなく黒に近いグレーで無地のものだ。

「いや、これはファッションなんだよ。気に入ってるんだけどなあ」

「自ら不幸を招いているようなものぞ。すぐさま、取り替えよ」

「取り替えよ、ったって、新しいのを買ってこなけりゃ」

「ならば明日になってからで構わぬ。明日の朝、買いに行け」

「明日は仕事があるんだが」

「貴様の仕事とやらは貴様の幸せより重んじられるのか?」

そう問うツキの口調は、答えを決めて掛かっているものではなく、純粋に言葉通りに質問を投げているもののようにも感じられて、僕は答えに窮した。

「そこははっきりしてもらわんと、吾のすることにも差し支える。なかには仕事が命よりも大事、という輩もおるからの。そこを見極めんと、吾もうかつに手を貸すわけにいかぬ」

「……仕事はそんなに重要じゃない……」

口ごもった末に、僕はそう言った。

「そうか。それならば、やりやすい」

ツキがそう言うのを聞いて、僕は不思議な心持ちになった。なんかこいつに任せておけばすべてがうまくいくんじゃないか、って気がしたんだ。

翌朝、僕は会社に「体調不良のため午前半休します。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」とメールした。うちの会社では勤怠連絡はこのようにするのがルールである。

僕が目を覚ましたとき、ツキは部屋の壁際にしゃがんでいた。特に眠る必要はないそうである。それから部屋のカーテンを開けると、ツキの体はかき消えてしまった。彼がしゃがんでいたところに目を凝らすと、かろうじてそこになにかが存在することがおぼろげに見て取れた。

「陽の光の下では吾の姿は気をつけんと見れんようになる。なにせ『ツキ』だからの」

ツキがそう言った時、以前とは違うイントネーションで『ツキ』と発音した。最初に名乗った時には『付く』を意味するように聞こえたな、そういえば、と僕は思い返した。

この非現実的なものの存在を受け入れられたのが自分でも不思議であった。まあ、こうして目の前に存在している以上、受け入れる以外には選択肢がなかったのだが。

僕はデパートの開店時間に合わせて、電車で二駅のところにある繁華街に出かけた。カーテンを買うためである。ツキも僕について来た。もちろんその存在に街ゆく人が気付くことはなかった。

デパートの売り場には色とりどりのカーテンが並んでいた。

「うーん」

僕は顎に手を当て、考え込んでしまった。辛気臭い色はNG、ということなら、どんな色ならいいんだろう、この濃いブルーのやつはどうかな……。

僕が手を伸ばしかけるのを遮るようにツキが言った。

「これがいい。これにせえ」

デパートの中では太陽の光が届かないからツキは見えるようになるのかな、というとそうでもなく、依然としてその姿は見えなかったが、僕のすぐ隣にいるようだった。

陳列されているうちの一枚のカーテンが少し引っ張り出される形で揺れていた。ツキがそうさせているのだろう。

僕はそのカーテンをさらに引き出して見てみた。

それは目にも鮮やかな(どぎつい、とも言える)ピンクの花柄の生地のものだった。

「いや、これはちょっと……、いくらなんでも」

「いやか。だが貴様、彼女と恋仲になりたいのではなかったのか? ならばこのくらいのものがおすすめだぞ」

そんなこと言ったっけ……、そう思いつつも僕は、それが僕の願うところだったんだ、と、その時になって気づいたのだった。

「こんな柄じゃ、誰も部屋に呼べないよ」

僕がそう言うと、ツキが動いた気配がした。で、少し離れたところから、

「では、こちらでいかがであろう」

と声がした。

見ると、それもピンクで花柄という点では同じだったが、色合いはかなり淡く、柄も注意してみなければ花柄と気づかないようなものだったので、

「まあ、これならいいかな」

と僕は言ったのだった。

そのカーテンを買って、僕は自宅に戻った。

カーテンを付け替え、さらにツキは僕に部屋の中の物の配置をいくつか変更させた。そうして、あらためて僕が部屋の一角から自分の住処を眺めてみると、そこはずいぶんと居心地の良い空間に変わったように思えた。

「まあ、ここはこのくらいでよかろ」

ツキは言った。

午後になって僕は会社へ行った。ツキも相変わらずついてくる。

もしかしたらツキが僕についていることで皆の態度が急激に変わったりするのではないかとほのかな期待を抱いていたのだが、そんなことはなく、オフィスの自分の席まで来た僕が周囲に「お疲れ様です」と挨拶しても誰も反応を示すことはなかった。

僕が席に座ると、すぐにツキは話しかけてきた。僕だけに聞こえるように耳元で。

「そこにある四つの大きな青い本のようなもの……。それはもともと此処にあったものではないな」

それは例の、二十四階の書庫から僕が持ってきたバインダーだ。僕はそれを机の上に並べていた。

「まずはそれを元のところに戻せ」

僕も小声で囁き返す。

「え、でも、これは今、仕事で使ってるんだけど」

「ならば元からそれのあったところで仕事をせよ。とにかくそれは元のところになければならない」

まったく意味のわからない話だ。だが僕はとりあえずなんでもツキの言う通りにしてみようという気になっていた。それに実際のところ、そのバインダーの資料を見る必要はもうそんなにはなくなっていた。

僕は立ち上がり、持ってきたときと同じようにそれを両手で抱えた。

エレベータで二十四階に上がり、書庫となっているオフィスの北側の端にあるコーナーに行った。書庫といっても独立した部屋というわけではなく、ただ単にオフィスの片隅にラックとキャビネットが大量に並べてあり、ほとんど閲覧されることのない過去の資料がまとめて置かれているだけの処である。

普段は誰もいない書庫の背の高いラックの間に人影が見えた。

僕は少し緊張した。それが誰であれ、その人が僕に対して示す態度に傷つけられるかもしれないということに予防線を張ろうとしたのだ。なるべくそれを見ないようにこちらも慎重にならざるを得ない。

その人影が黒川さんであることに気づいた時には、ことさらに僕はドキンとしてしまった。だが何食わぬ顔を装う以外に手はない。僕は持ってきたバインダーが以前に置かれていたラックへと歩み寄った。

黒川さんの方でも僕に気づいたらしく、彼女がチラチラとこっちを見ている気配を感じたが、僕はひたすらになんでもないフリで一冊一冊とバインダーを元の位置に戻していった。

そして用を終えた僕が引き返そうとしたとき、後ろから彼女の声が聞こえた。

「あの! ……神崎さん」

「あの」だけが強くて、その後の「神崎さん」は徐々に消え入りそうな声だった。僕は振り向いた。彼女は、僕に声をかけてしまったことに自分でも驚いているかのような顔つきだった。もちろん僕も驚いていたが。

「あの……、私のことを怒っているかと思いますけど、前にも言った通り、私は自分が見た通りのことを報告しただけなのです。まさかこんなことになるなんて……。でも、信じて欲しいのですが、私はあの写真のことは葛城さんだけにしか話していませんし、誰から訊かれても自分が見たこと以上のことは言ってません。私はアレが神崎さんのものだと決めつけたことは一度もありません」

黒川さんは僕をまっすぐに見ながら、そう話した。僕は話の内容よりも、彼女が僕に声をかけてくれたことに嬉しさを抑えきれなかったが、なんとかそれを表情に出さぬよう、俯き加減にぼそぼそと返した。

「ああ、そうなんだ。いや、怒ってないと言えば嘘になるけど、黒川さんが悪いわけじゃないんだ、ってのはわかってるから」

すると彼女の顔はパッと明るくなった。その表情が僕に向けられるのは実に久しぶりのことだ。

「ありがとうございます」と彼女は言い、それからすこし戸惑う様子を見せながら続けた。「実は今、神崎さんがあのときと同じようにバインダーを抱えている姿を見て、ちょっと思い出したことがあるんです」

「ん?」僕は顔を上げた。

「あのとき、私はエレベータのほうから神崎さんが向かってくるのを見ました。そのときは確かに周囲に誰もいませんでした。ですが、ちょうどそのタイミングで、バタンとドアが閉まる音が聞こえた、ってことを、たった今、思い出しました。金属のドアの音でした。だから――、おそらくは非常階段のドアだったと思うんです。つまり、私たちが廊下で鉢会う寸前に誰かがあそこから階段に出て行ったということじゃないでしょうか。ようするに他にも人はいたんです。――ごめんなさい、私、こんな大事なことを忘れていたなんて。目で見たもののことばかりを気にしていたからなんでしょうけど」

「まあ、そんだけインパクトのあるものを見ちゃったからね」

そう返しながらも僕は、これはきっとツキが彼女の記憶を呼び起こしてくれたのだろうなあ、と考えていた。

「私、このことをあらためて葛城さんに報告しますね。それからなんとか皆が色眼鏡で神崎さんのことを見ないようにする方法を考えたいと思います」

「え……」

僕が言葉を返せないでいるうちに彼女は頭を下げてその場から去って行った。僕はとにかく感動していた。彼女が僕のために何かをしてくれようと言うのだ。

一人になったところで、すっと、ツキが僕の目の前に姿を現した。

「今のはなんだったんだい」僕の方から訊いた。

「あの女子の徳に呼びかけてみた。それだけのこと」

ツキは無表情のままにそう返事した。

その後は夜まで何もなかったが、僕の心は久々に軽かった。仕事も順調に進捗し始めた。ツキは、そばにいるのがときどき感じられるだけで、もう何も話しかけてこなかった。

普段のように残業してから僕は帰宅の途についた。

例の神社の前を通りかかかったとき、昨日ここで石に躓いて転びかけたことを思い出し、僕はふと、自分が元の場所に戻した石に目をやった。石は僕が置いた通りのまま、そこにある。その瞬間、僕は、めまいに似た感覚に襲われた。

――あれ、僕は、転びかけたのであって、実際には転んでないよな――。

なぜだか、僕があのとき、転んでしまったような記憶がある。そして頭を打ったような……。なぜだろう、記憶が錯綜している。僕はぼんやりとその場に立ち尽くしてしまった。

ツキが目の前に姿を現した。そして口を開いて言った。

「貴様の願いを叶えるにはまだ時がかかる」

「あ、そうなんだ」

「妨げとなっているものがある。だが、無理筋ではないということがわかった。ものごとを本来あるべき形にもっていけばよいのだ。それはできぬ話ではない」

「妨げになってるのって、何?」

「貴様に濡れ衣を着せた側のこと。そのうちにわかる」

「つまりはあの写真の本当の持ち主ってこと? どうすればいいのかな、その妨げを取り除くには」

「しかるべき時を待て。その時になれば貴様の手も借りねばならぬ」

「あ、そう……」

ツキが姿を消してしまったので、僕も再び自宅に向かって歩き始めた。

部屋に戻ってぐっすり眠り、翌朝は機嫌よく出社したが、あいかわらず僕に対する皆の態度は冷たいものであったので、僕は少し凹んだ。まあ、昨日の今日で状況が変わっていたとしたら、黒川さんは超人並みの影響力を持っていることになってしまう。――まだしばらくは大人しくしていよう。ツキも時間がかかると言っていたし――と、僕は自分をなだめた。

昼になった。この頃は僕はもうすっかり一人で昼飯を食べに行くことに慣れ、皆とはわざと時間をずらして誰かと外で鉢合わせたりしないように注意していた。この日も、うまい具合にタイミングを外して僕は一人でエレベータを待った。

扉の開いたエレベータには誰も乗っていなかった。僕がそこに乗り込み、扉が閉まろうとした時、中に飛び込んできた人がいた。

黒川さんだった。

「やあ」

僕は思わず、そう挨拶したが、彼女のほうはそれどころではないといった風情で、早口に僕に告げた。

「神崎さん、昨日、お話しした通り、私は葛城さんに例のことを報告したのですが、どうにも葛城さんの態度が変なんです」

「変?」

「ええ、なんていうか、まるで……、そう、そんなことは初めからわかってるんだ、とでも言わんばかりの……、いえ、それは私の思い過ごしかもしれませんが、とにかく、聞く耳を持たない感じなんです。いつもの葛城さんらしくない」

僕はただ困惑するばかりで、なんと返したものか思いつかないままに彼女の話を聞いていたが、すぐにエレベータはロビー階に到着してしまった。

ドアが開きかけると黒川さんは、「また報告します」と早口に言って、すぐに外に駆け出して行った。

僕は、彼女を追いかけてもっと話をしたいと、一瞬、思ったが、僕と話をしているところを誰かに見られたら迷惑になるだろう、と思い直して、遠ざかる彼女を目で追った。

駅とは反対の方角の、徒歩十分ほどの距離にある公園に向かう。そこまで離れれば、まず、会社の誰かと顔を合わすことはない、という理由で僕は最近、ランチをそこで摂ることが習慣化している。途中のコンビニでおにぎりを買った。

梅雨の合間の夏空だ。

いつも僕の座る屋根のあるところにあるベンチが散歩途中と思しき老人に占拠されており、直射日光のきついところしか空いてなかった。僕は日差しに熱せられたそのベンチに腰掛けた。コンビニのおにぎりを取り出し、ほおばった。となりにツキが座っているのがわかった、姿は全く見えなかったけれども。

「ということは、葛城さんは僕が犯人でいてほしい、ってことなのだろうか、彼女の言葉をストレートに解釈すると」

僕はそう呟いた。ここに来るまでの間、そのことをずっと考えていたのだった。

「そういうことはあるやもしれん」

ツキが返した。僕からのおこぼれを狙って鳩が三羽、こちらに寄ってきた。

「そういうのってさ、お前の力でなんとか解き明かすことはできないの? あるいはお前の主人である神様の力を借りるとかして、さ」

僕はできるだけ軽い感じに聞こえるようにそう訊いてみた。へたに変な要望を口にしてツキの気分を害し、叶えてもらえるはずの願いまでも反故にされてはたまらないので、これまであまりこういった口出しを謹んでいたのだが、ただ待ってばかりもいられないので少し足を踏み出してみたのだった。

「貴様は舶来ものの異国の神の話を鵜呑みにしているようであるが、神は万能ではないぞ。だいたい、この国には八百万の神がおるのに、そのそれぞれが万能であったらどうする。カオスだぞ」

いきなりツキの口からカオスなどという英単語が飛び出したので僕は意外な気持ちに囚われた。

「神の世のことを貴様に説明するのは難儀である。この世――つまり貴様らの世界、ということだが――は、ある意味で、神の世の写し鏡である。この世のあらゆるものは神と神との間の釣り合いで決まる。人は自分らが世界を動かしているものと考えているが、それは驕りにすぎん。貴様がどんなにあがこうが、ものごとというのは神の世で決まるのだ」

「それじゃ、なにをしたって無駄じゃないか」

「見方によっては、そういうことになる。別な言い方をすれば、貴様が何かを為すに必要なだけ頑張れるかどうかは貴様には決められん、ということだ。道のりはあと一歩で終わるかもしれないし、はるか先まで続くかもしれん。人にはそれは見えぬ。人に知れるのは、あきらめてしまえばそこでお終い、ということだけだ。なにをしたって無駄、なのではなく、なにをしても無駄と考えてしまうことこそが無駄なのだ」

「人間はわけもわからずあがくしかない、ってことか」

「そうだ。できるだけのことはしておいて、後は神に委ねる、というのが正しい人間のあり方だ――普通ならば、な」

「ん――?」僕は見えないとわかっていながら、ツキのいると思われるほうに顔を向けた。

「神の世のことがわかっていれば、人間はより賢く立ち振舞うこともできる。貴様の言う無駄とやらを避けることができる」

「ほう」

僕は日差しの照りつける公園の地面に視線を落とし、ツキの話の続きを待った。

「どうせ神と神の力のバランスですべてが決してしまうのなら、さっさと決着をつける機会を神々に与えてしまえばよい」

会社に戻った僕は、総務部に向かった。黒川さんの上司である総務部長の葛城さんと話をするためである。ツキは「ごく些細なことでかまわないから、なにかしらを頼め」と僕に言った。相手に頼むことの内容は重要ではないそうである。何故なのかと訊くと「それは人の世のことだから」だそうだ。

続けて、何故、葛城さんなのかと訊けば、そんなこともわからぬのか、と言いたげな口調でツキは、「唯一、名前が挙がっているのがその者であろうが。そこを押してやればしかるべきところに将棋倒しのように力は及ぶ」と答えた。

葛城さんの席は黒川さんの席のすぐ斜め前である。そこに座っているのは、部長とはいえ、見た目の年齢的には僕とひとまわりも違わない感じのやせ気味の撫で付け髪の男性だ。僕は席にいる彼の横に立ち、声をかけた。

「あの、ちょっと今、お時間よろしいでしょうか?」

彼は顔を上げてこちらを向いた。

「いいですよ」

僕を認めた彼は無表情を装っていたが、そこにかすかに怪訝な色が浮かんだのを僕は捉えた。

「ちょっとお願いしたいことがありまして」

僕が続けると彼はチラッと黒川さんのほうを見た。頼みごとがあるならまずは彼女に言えよ、俺は平社員の要望なんぞを個別に聞くほどヒマじゃないんだ、という態度がありありだが、それでもそれを口にはせず、彼は「なにかな?」とだけ言って、僕の話の続きを待った。

席にいる黒川さんが何事かとチラチラ目線を送って来るのが感じられたが、僕はなるべくそっちを見ないようにして頭の中で用意してきた頼み事を告げた。

「僕の座席のことなんですけど、変えてもらうってこと、できませんか?」

葛城さんは僕がさらに何か、席替えを希望する理由かなんかを言うものと思ったようだが、僕がそれ以上、何も続けないとわかると、「ふむ」と言って視線を上にそらした。

それから目線を僕に戻すと、少し憐れむような顔つきになって彼は言った。

「まあ、君もいろいろと大変だろうからなあ、ちょっと検討してみましょう。調整がつけばいいけどね」

いかにもの作り笑いがそれに続いた。僕は「ありがとうございます。よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

この間、黒川さん以外の周囲の席の社員たちは皆、ひたすらに仕事をするポーズを取っていたが、その実、興味津々で葛城さんと僕のやりとりに聞き耳を立てているのが感じられた。僕はそそくさとその場を後にした。

自分の席まで戻って、椅子に座って大きく息をついた。ふう、こんなんでよかったのかな、はたして――。考えてみたところでわかるはずもなかった。だが、僕はツキの指示に従うしかなかったし、少なくとも自分が理解できた範囲においてはツキの言ったとおりにできたはずだった。

人は、それを意識しようとしまいと、人生を重ねていく中でたくさんの様々な神と大なり小なりの関わりを持つことになる。それがその人の『成り立ち』となる。人と人とが相対するとき、その『成り立ち』と『成り立ち』が交錯する。その『成り立ち』に含まれる数多の神々の力のバランスにより、物事がしかるべき方向に転がり始める。僕から葛城さんへの『頼み事』は、そのためのほんの小さなトリガーに過ぎない――というのが、僕の理解したツキの話の内容だ。いや、理解した、とも到底言い難いが。

どんな神との、どんなに小さな関わりであっても、それは適切な形で『成り立ち』に組み込まれる、とも言っていたな。

とにかく、あとは待つしかない――。ツキは何も言ってこなかった。そばにいるのかどうかもわからない。

そのまま一日が終わった。

翌日。とりたてて変化なく一日は始まった。お昼近くになり、机に向かっている僕の背後から、スッと一枚のメモが差し出された。僕は振り返りながらそれを受け取った。メモを渡したその手の主を見ると、黒川さんである。彼女はいつもの笑顔を見せることなく僅かに僕に頷いてみせると、そのまま去って行った。

僕はメモを見た。そこには『12:35 銀の部屋』とだけ書かれていた。銀の部屋というのもこのオフィスにある会議室のひとつである。そこは四人も入ればそれだけで手狭になる。窓がないことがさらにその窮屈感を増大させていたりもする、そんな部屋だ。何故に35分という半端な時間が指定されているんだろう、と思いつつ、僕はメモを机の上に置いた。

その時間に会議室に出頭せよ、という意味合いであることは明白だが、どんな用件で誰と話すことになるのかは、まったくわからない。彼女がメモを持ってきたからといって、総務系の用件とも限らない。いろんな人が彼女に大小の用事を言いつけるし、彼女は嫌な顔一つせずにそれらを片付ける。うーん、何の件だろう、オフィスの席替えの事で何かを僕にヒアリングしたい、とかかな――などと考えていると、ツキが久々に声をかけてきた。

「決着がついたのだ」

ストレートに僕は驚いた。「ほんと? どうなったの?」と聞き返す。

「貴様の濡れ衣は晴らされる」

「すごい! でも、どうやって?」僕はまわりの席の人に聞こえぬよう、囁き声で続けた。

「吾には人の世での成り行きはわからぬ」

「そうか……」

僕は口をつぐみ、ツキももう何も言わなかった。僕は正直、今のツキの言葉を信じることができなかった。こんなにあっさり決着がつくなんて。実感も何もあったものじゃない。

時間ちょうどに僕は銀の部屋のドアをノックした。反応がないので、まだ誰も来ていないのかと思いつつドアを開けて中に入ると、そこには黒川さんがいた。

「あ、――お疲れ様です」と僕は言った。そしてドアを閉めた。

彼女は少しだけ笑顔を見せつつ、口を開いた。

「すいません、こんな時間にお呼びだてして。私としては一刻も早く神崎さんにお知らせしたかったものですから」

そう言いながら彼女は僕に腰掛けるよう促した。

僕はテーブル越しに彼女と向かい合わせに座った。

「今から私が話すことは、まだ非公式なものも含まれるので、誰にも言わないでくださいね」

「つったって、僕と話をしようなんて人、会社にはいないけど」

「――それも今日までですよ、きっと」

彼女はにっこりとした。

それから黒川さんが僕に説明したところによると、まず、僕が昨日、葛城さんと話をしたしばらく後で、彼女は葛城さんに相談を持ちかけられたという。彼が言うには、あの写真の本当の持ち主について、彼は当初からある人物を疑っていたのだそうだ。だが証拠がなかった。ところが黒川さんが、例の写真が落ちていたタイミングで非常階段のドアから誰かが出て行った、と葛城さんに話したことで、彼は確信を抱いた。その人物は、健康のためにと、いつも十六階と二十四階を移動するのに階段を使っていたからだ。だが葛城さんはその人物を糾弾することには躊躇があった。なぜならその人物の立場上、糾弾は会社そのものの業績を大きく損なう可能性があったのだ。その迷いについて彼は、彼が最も信頼できる部下であるところの黒川さんに意見を求めた。当然、彼女は、会社の業績よりも正義が為されるべきであることを主張した。そして葛城さんは社長と相談し、緊急のマネージャー会議を招集した。

で、今朝になって、営業本部長の菅原さんが辞表を出した、という。

ああ、それが神の世界での駆け引きがこの世に反映した結果、ってやつなのか、と僕は思った。僕に組み込まれていたカードは意外に強いものだったのかもしれないなあ、などとも。

黒川さんは続けた。

「写真の件は、菅原さんの退社が完了するまでは、伏せられることになります。神崎さんには申し訳ないですけど、もうちょっとだけ我慢してくださいね。たぶん、一両日中にはすべて完了するはずです」

僕は感動していた。

「ありがとう」

万感の思いを込めて僕は彼女にそう言った。

僕は帰宅途中に例の神社に立ち寄り、お礼の参拝をした。

家に帰ると、ツキがいつもの壁際に座った状態で姿を現した。

「あれ、お前はまだ帰らないの? 僕の願いが叶えられたから、もう帰っちゃうのかな、って思ってた。いや、もちろん、好きなだけいてくれて構わないんだけど」

僕がそう言うと、ツキはいつもの無表情でこう返した。

「貴様がついでに願ったことがまだ成就しておらん。せっかくだからそこまで面倒をみてやろうと思うてな。そこまでせんとも吾が主人は怒りはせんだろうが、ま、気まぐれでな」

「ふーん」

僕がついでに願ったことってなんだったっけ――僕はこのとき、本当にそのことを忘れていた。僕の濡れ衣が解消されることで気持ち的にはいっぱいいっぱいだったのだ。

翌朝、僕がオフィスに出社していつものように誰にともなく「おはようございます」と声をかけると、パラパラと「ざーまーす」と周囲から声があがった――かつてのままに。

黒川さんは「まだ伏せられる」と言っていたのに、写真の真の所持者の件はすでに皆の知るところになっているようだ。まったくこの会社ってのは――。

僕はすっかり満足した心持ちになって、落ち着いて仕事に取り掛かった。

しばらく仕事に集中していると、急にツキが声をかけてきた。

「今すぐに席を立って、廊下に出よ」

僕は不思議に思いつつも、言われた通りにした。

「心のままに振る舞えよ」

そうツキが言うので僕は「何の話だよ」と訊いたものの、それに対する返事はなかった。

ちょうど僕が、例の写真が落ちていたあたりに差し掛かったところで、前方のオフィスの扉から出て来た人影があった。

黒川さんだ。

彼女は僕の姿を認めると、いつもの満面の笑顔を浮かべた。僕は彼女のそばまで行くと、立ち止まった。何かを言いたげな様子の僕を見て、彼女も立ち止まる。

何故だかスラスラと僕の口からセリフが出て来た。

「黒川さん、今回のことでは本当に君に感謝しているんだ。それで、そのお礼をさせて欲しいと思って――。その、もし良かったら、今晩、食事でもどうかな」

「――そんな、お礼だなんて。でも、食事のお誘いは喜んでお受けしますよ」

彼女はにこやかにそう返事をした。

「あとはうまくやれよ」

ツキが僕の耳元でそう囁いた。それから、スッと、ツキのいなくなる気配がした。僕は心の中で「ありがとう」と告げた。

僕は無上の幸せを感じていた――。

 

***

 

――まったく、なんで私が身元確認などせにゃならんのか。そりゃあ、こういうのは総務の仕事なのは間違いないけども、こういう時こそ普段はヒマこいてるマネージャーの出番ってヤツじゃないのか――。

「黒川さん、ごめん。ちょっと、俺、外せない会議があるんだわ。代わりに行ってきてよ」

私に向かってそう言う葛城さんの顔を思い出しながら、私は電車の窓から雨模様の街並みを眺めていた。

ウチの社員と思しき人物が路上で倒れた状態で発見され、病院に担ぎ込まれたという連絡が、今朝、警察からあった。それで私が確認のためにその病院に向かっている、というわけだ。

普通ならその社員の容態がどうとか心配をすべきシチュエーションなのだろうけど、どうにも私はそんな気分になれない。

なぜなら、その社員が「あの」神崎さんだ。あの穢らわしい写真を所持していた変態野郎――。はっきり言って、どうせなら死んでくれれば良かったのに、と私は感じている。

初めて降りるローカルな私鉄の駅からタクシーでその病院に向かった。晴れていれば散歩がてらに歩いて行ける距離だったが、この雨だし、さっさと用事を済ませたい。なにより、あのクソ野郎のために少しでも自分が雨に濡れることに耐えられなかった。

病院に着き、ナースステーションで場所を確認し、私はその病室に足を踏み入れた。そこにはベッドに寝ている人物と、その脇には青いツナギ姿の若い警察官の男性が座っていた。

「ご足労いただいて申し訳ございません――」男性が立ち上がって私に頭を下げた。私も頭を下げてから自分の会社名と所属氏名を警察官に告げた。

私はベッドに近寄り、そこに横たわっている人物の顔を見た。頭が包帯でぐるぐる巻きにされている。確かにそれは神崎さんだった。でもあらためて見ると、こんな顔だったっけ、って気がしてくる。ちょっと不思議な感じだ。これがあの変態的趣味のクソ人間――か。そこに寝ているのはごく真っ当な普通の人のようにも思えた。

「君がこの一件に僕を巻き込んだんじゃないか!」

私が最後に聞いた彼の言葉を不意に思い出した。もしかして――いや、そんなことはないだろう。私は首を振った。

この人物はウチの社員に間違いないと私は警官に告げた。それから彼が私に説明してくれたところによると、神崎さんは駅から自宅に向かう途中の路上で倒れていたのが朝方になって発見されたそうだ。現場の状況を見る限り、事件性はなさそうだと警察は判断しているとのこと。路上に落ちていた大きな石に躓いて転び、運悪く縁石に頭をぶつけたらしい。そのまま気を失い、夜半から降り続いた雨にずっと打たれていたため、出血もひどく、体温も奪われていた。それで病院に運ばれたときにはかなり深刻な状態だったらしいのだが、一命はとりとめた。

発見者は参拝に訪れた近所の住人でした、と警官は言った。

「参拝?」私は訊き返した。

「ええ、倒れておられたのがちょうど神社の参道の真ん前でしたので」

ふーん、と私は内心思った。――バチが当たったのかな。

それから警官が、調書を作るから、神崎さんが昨夜、会社を出た時刻がわかるようだったら教えて欲しい、と言うので、私は、勤怠管理システムを見ればすぐにわかるから、社に戻ってすぐに調べてご連絡します、と返した。

他に話はないようだったので、私は立ち上がった。

最後に、つい、もう一度、神崎さんの顔を眺めてしまった。そこにある何かを確かめるかのように。

なんだか、目を閉じたままの彼の顔が、随分と嬉しそうに見えた。

――幼女の夢でも見てるのかしら。

知らんけど、この人はきっと、このまま意識を取り戻さないでいる方が幸せなんだろうな――。なぜだか私はそんなことを思った。

私はカバンを肩にかけ直し、病室を後にした。

 

2021年2月5日公開

© 2021 堀井たくぞう

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