悪いけど、あんたの旦那と私、できちゃってるんだよね、とかいうLINEを茉奈に送ったあと、妙な興奮にわくわくしながら返信を待っていた、だからごく簡潔なメッセージに拍子抜けした。今日の午後四時、〇×公園の東屋に来て。
それは茉奈が住んでいる街の公園だったから、私は電車に揺られながら、吐きそうなほどの高揚に痺れていた。指定された公園へたどり着くのは駅からさらにバスに乗らなきゃならなかった、でもそんな道のりすらへっちゃらだった、これまで一度も見たことのない茉奈の表情を目の当たりにできるのなら。バスの窓際に肘を突き、にやけそうな口元を手で覆ったりしていた。
茉奈は先に着いていて、東屋の日陰に佳也――小さな赤い帽子をかぶっている――と一緒に座っていた。私のすがたをみとめると、子どもの手を取りゆっくりと歩いてきた。久しぶり、と私が満面の笑みで呼びかけると、茉奈は平べったい表情を向けたかと思うと、すこし歩こう、と目色で言った。
子どもの歩幅に合わせて歩きながら、じれったくなるほどの時間だった。それを埋めようと茉奈にいろいろ近況を聞いてみても、もちろん一瞥もくれなかった。のっぺりとした目で遠くを見ながらむっつりと口を結んで、しっかりと佳也の手を握りしめていた。でも違う、私はこんな表情が見たいんじゃない。
人気のない広場に出て立ち止まり、目を合わせないままやっと茉奈は口を開いた。
「バカなこと言って。すぐにばれるのわかってていきなりあんなウソ吹っかけてきたんでしょ」
もちろん、私はこの女の旦那とできてなんかいないし、ふたりきりで会ったことすらない。
「まあ一応確認はしたよ、夫に。はあ? て言ってて、それでおしまい。ねえあんた、真莉、何がしたいの?」
何がしたかったんだろう、いや、何かをしたいとかじゃない、ただ、いつでも自分は正しく清廉潔白だと信じていてたやすく他人を裁くことのできるあんたの、あんたのむき出しの表情が見たい。
茉奈が手を上げたので、思わず目を閉じた、が打たれたわけじゃなかった。土まじりの芝生の上に小銭が散らばっていた。
「ここまでの交通費。拾いなよ」
私はそろそろと四つん這いになって、靴先と膝と手を汚しながら、ひとつひとつ硬貨を拾った。そのうちにおかしくなって犬みたいに這いまわり、虫みたいに四肢を動かしているうち、興奮してゆるんだ唇からよだれが垂れそうになった。
ぜんぶ拾い終わって、膝立ちでてのひらの中の小銭を数えた。きっちり九六〇円。顔を上げると、茉奈はいつの間にか子どもを抱きかかえ、後ろを向いていた。
ねえ、と私は言った。反応がない。「ねえ、」と今度は叫ぶように言った。こわばった茉奈の顔が振り返り、怒りたいのか泣きたいのかわからないような表情に歪んでいた。私はその顔色を堪能しながら挑発するようにわめいた、クレッシェンドで。
「あんたはこうやって地面を這いつくばったことある? 這いまわりながらお金を拾ったことある? 泥まみれの汚い金を握りしめたことがあるかって訊いてんだよ、ないよね、どう、気分いい? 満足? ざまあみやがれってんだよ!」言いながら滑稽さに堪えられなくなって、最後は半笑いだった。
――そこからは何も覚えてない、というかそこで目が覚めた。なんてイヤな夢だったんだろう。今でもたまに思い出す。私は茉奈を、いや姉を今でも憎んでいるんだろうか?……甥っ子の佳也は、次の春には小学生になるはずだ。
***
手の内を見られるのがイヤだ。
たとえばほら、と真莉は爪を塗りながら思う。会計を現金で支払って、お釣りをもらったりする時。ぎょっとした店員さんの心拍がぴょんっと跳ね上がる音が聞こえるような気がする。かといって差し出したてのひらを引っ込めるわけにもいかなくて、釣銭が固くぎこちなくひんやりと渡されるまで、辛抱強く待ってないといけない。とはいってもまあ、数秒のあいだ。でも私だってびっくりする、自分の手の内の汚らしさに、いつだって。
日曜の夜に爪を塗るのが真莉の習慣になっていて、まずベースコート、ベースコートが乾いたら一回目の色を載せて、それが乾いたら同じ色を重ね塗りして、……
でも今、コロナ対策で手の消毒を念入りにしてる人たちの中にも、私と同じようなてのひらの湿疹に悩まされる人が増えてるみたい。ネットニュースで見た。今回はじめてそんな皮膚病にかかった人は、あくまでてのひらが痒く醜くなったことに対して憤るんだろう、自分の手の内の汚らしさ、なんてことを考えたりすることもない人たちなんだろうな。
と真莉はそう簡単に結論づけてしまって、やっと透明なトップコートを塗り終えた両手の指を広げてみた。ふうふうと息を吹きかけて乾かしながら、せめて手の表側だけでもきれいなのはうれしいことだな、と思った。
「ほんとにね、あ、もう死ぬのかなって思いましたね」
前に真莉はそうおどけて見せて、待機所にたむろしているヘルス嬢たちの笑いを誘ったものだ。
「もうほんと、てのひらブツブツのガッサガサで、めちゃくちゃ乾燥して、なんか変な汁とか出てくるし、挙句の果てに右手の生命線に沿ってぱっくり皮膚が裂けちゃって。あ、これはもう逝ったなと」
まりあちゃんほんとに大丈夫? だって私たちがお客さんの身体を洗う、店から持たされてる洗浄液、あれ本来は何倍にも薄めて使うやつだからね。許容範囲内で薄めて、あと手袋とかしたほうがいいよ。
「お休みしてるあいだにステロイド飲みまくって塗りまくったんで大丈夫ですよ、でもやっぱ手袋とか、したほうがいいのかなあ」
やさしいいたわりに応えながら、この店に入る数か月前、みずから死にかけたことなど忘れたように、真莉は塗り薬で皮がぺらぺらに薄くなった破れやすいてのひらを広げて笑って見せたりした。
――いったんこうなったからには完治することはない、何度も繰り返す、またぶり返したら必ずここへ来なさい。
なんのお仕事してるの、と最初に訊かれて思わず「家事手伝いです」とばればれの嘘をついた真莉に、皮膚科の女医はそれ以上なにも尋ねなかった。食器洗いをする際にはかならずゴム手袋の下に綿手袋を重ねること、お風呂でシャンプーとか液状洗剤を使う際にもポリエチレンの手袋をすること、そして湯船で皮膚をじゅうぶんにふやかしてから薬を塗りこむと効果が高まること、そうしたこまごまとしたアドバイスをくれた、薬はてきめんに効いた、真莉は悪化するたびに通った、でも今回は行けそうにない。単純に収入と、それに比例して気力も減った。
やぶれかぶれ。どうにもならないし、どうにかしようという気すら起こらない。それなのに、ふとした時に自分のてのひらを意識するたび、ひどい後ろめたさに駆られる。たまについたお客を見送るため思わず手を振ってから、最後の最後に自分が汚いシミを残してしまうような気がして、慌てて手を握り、そのころにはお客はもう振り返りもせず駅に向かって歩いていて、真莉はそろそろと腕を下ろす。そうして思う、あの人、二度と私には通ってこないだろうな。
それから、真莉が〈本番〉を解禁するまで時間はかからなかった。ある日、数少ない本指名のお客が真莉のあまりに荒れたてのひらを見て、それじゃ手コキとか無理じゃん、ね、やらせてよ、いいよね、と言ってきたのがはじまりだった。そのお客はいつも九十分コースで入ってくれて、本指名料も入れるとバックは一万八千円。逃したくなかった。まずは一応おどろいたような顔を上げて、はにかむようにうつむきながら、黙ったまま相手の身体にまたがった。――でも、そのお客が通ってくることは二度となかった。
なあんだ、落とすのだけが目的だったんだ、とやり過ごしながらも、今度は別の嬢に例のお客が通っていることをなんとなく知って、店からのコールが入るやいなやあわただしく化粧直しをするその女の子の横顔や、待機所をあとにする後ろ姿に、心の中で毒づいてしまう自分に気がついて、真莉は自分がいっそう嫌になった。
――いつも見守ってくださってありがとうございます。これからも、驕らず妬まず、周りへの感謝を忘れることなくがんばりますので、どうかよろしくお願いします。
ずっとむかし、なぜだかそんな殊勝な願いを夜眠る前にかならず心の中で、見えない何かのたぐいの〈神〉に祈っていたこともあった。でも今の真莉には、あんなちゃちな祈りが何になったというんだろう、としか思えなかった。
このごろでは店からの専用コールが何時間も押し黙ったままになることも多くて、待機所で暇を持て余したお姉さま嬢の愚痴に相槌を打ちながら、真莉は身体が芯からつめたくなっていくような気がした。
――だからある夜、店からフリーであてがわれた矢崎と名乗る新規客、コールによれば「すごいおじいちゃん」を自分だけのお客、リピーターに仕立て上げようと、真莉は意気込んでホテルへ向かったのだった。
「〈密会ミセス倶楽部〉の者です、失礼します」
ホテルのフロントでそう挨拶すると同時に足はエレベーターへ向かう。四〇二号室。
このホテルは古くて小汚くて待機所の嬢たちにすこぶる評判が悪く、ここを指定してくるのはケチな上にあれこれ求めてくる地雷客だとまで言われていた。それに同調して笑ったこともあった、でも今の真莉が気になるのは小刻みに揺れながら上昇していくエレベーターよりも何よりも、自分の手の内の汚らしさで、今にもふっつりと切れそうな蛍光灯に浮かび上がる四方のカビ臭い苔色の壁に囲まれながら、むず痒いてのひらを掻きこわしたくなるような衝動に駆られる。――まさかそんな血まみれの手で、〈すごいおじいちゃん〉を愛撫するわけにはいかないじゃない? 何より、せっかく塗ったセルフネイルが剥げてしまう。せめて手に触れるものを自分の血で汚さないために、真莉は脆いネイルを週ごとに塗っているのかもしれなかった。バッグからワセリンのチューブを取り出し、素早く手に擦り込んだ。
四〇二号室のドアの前でマスクを取り、一瞬目を閉じてふうっと息を吐く。ふたたび目を開けた真莉はもう〈まりあ〉で、口角に愛嬌を滲ませるようにして扉をノックする。スリッパを引きずるようにして歩く乾いた足音が近づいてくる。鍵が外れ、おそるおそるドアが開かれる。そのためらいを突っ切るように、真莉は元気いっぱいに挨拶する。
「はじめまして、まりあです! お邪魔しまーす」
〈すごいおじいちゃん〉こと矢崎はほんとうにほんとうのおじいちゃんで、襟のくたびれたシャツの上に、六月という時候からかなりかけ離れたような分厚いブルゾンを羽織っていて、チノパンの膝はなんだか煤けているし、何より酒臭かった。でも、そんなことで動じる真莉ではない。いつもどおり、腰をかがめて玄関の靴をふたりぶん揃えていると、お尻の線をなぞるような視線がくすぐったくて、振り向いて微笑みながら立ち上がると、矢崎はふいっと目を逸らした。
というか、まったく目を合わせようとしないのだ。
〈恋人コース〉なので、先にベッドに座った矢崎の隣に腰を下ろし、その痩せた腿にそっと手を置いてみても、てのひらを重ねてくれるでもない。それどころか、ブルゾンのポケットからウイスキーの小瓶を取り出し、ごくりと喉を鳴らすものだから真莉はおどろいてしまった。でもそのおどろきを顔に出すなんて問題外、どうやって浴室まで誘導しようか、と考えをめぐらせる真莉の頭の隅っこで、この得体の知れないおじいちゃんは私の身体があらゆる種類のやましさあさましさ汚らしさを詰め込んだ肉の袋に過ぎないことを無言で咎めているのかもしれない、という考えが明滅していた。
――ごめんなさい、ゆるしてね。
真莉はいつの間にか矢崎のしなびた頬に顔を寄せ、唇の端にくちづけしていた。そんな自分にもおどろいたし、矢崎がいきなり間近に見つめてきたのでさらにびっくりした。
"此岸からの祈り"へのコメント 0件