七月には海の日の連休がありますが、その初日をばあちゃんの田舎で過ごさないかともちかけられたのは梅雨入り直後だったと思います。
その年は例年になく梅雨らしい梅雨で、靴の中まで泥はねに濡らしながら家と学校を行き来する毎日が、荷物満載で幹線道路を横断するリヤカーのように鈍重に目の前を通り過ぎていきました。
火曜日だったと思います。どうして覚えているかというと、近所のスーパーで毎週火曜日にコロッケの特売をやっていて、食卓にかぼちゃコロッケが並ぶのは大抵火曜日だったからです。夕飯の席でお父さんが実はな、と切り出したところによると、姉ちゃんが県外の高校を受けたいからその学校説明会に行くっていうんです。僕は思わずお父さんの顔をまじまじと眺めました。あんなに神妙な顔をしているお父さんを見るのはとても珍しかったからです。
お父さんは神妙そうな表情を崩さずに続けました。お父さんとお母さん、姉ちゃんが揃って一日家を空けることになる。したがって僕が一人で留守番をしなきゃいけない。ところが、折よく雄ちゃんのお父さんから息子に鵜飼いを見せてやりたい、ついてはお宅の誠司くんも一緒にどうか、という話があったそうなんです。
渡りに舟とばかりにお父さんは快諾しました。雄ちゃんのお父さんが雄ちゃんと僕を車に乗せてばあちゃんちに連れて行く。昼間はばあちゃんちの近くで遊び、夕方になったら川を下って鵜飼い見物をしてその日のうちに帰ってくるという算段でした。前にも言ったとおり、ばあちゃんちは山県っていう山奥の寒村に住んでいました。
「姉ちゃんなんで県外の高校なんか受けるんだよ」
僕はそんな計画を本人不在で進めていたことにも納得がいきませんでしたが、まずそもそもの原因に突っ込んでみました。
「ちゃんとバレーやりたいの」
姉ちゃんは中学のバレーボール部でレギュラーを張っていました。県内ではそこそこの成績をあげていましたが、本気でやるなら高校は県外の強豪校に進んだ方がいい、と監督に薦められたそうです。姉ちゃんが、生え抜きの有名中学出身者が集まる県外の高校にまで進んで通用するのかどうかはわかりませんでした。
「だって、県外の高校なんて金かかるだろ。お父さん大丈夫なの?」
「子供が金の心配なんかするんじゃない」お父さんははっきりとした態度で向かってきました。「なあに、寮に入ればそんなに金はかからないし、いざとなりゃ会社から低利の学資ローンも借りられる」
僕は渋面をつくりながらミートボールを箸で突き刺して口に運びました。
「誠司それやめなさい」お母さんが見咎めて言いました。
「でもさ」僕は姉ちゃんにもお父さんにもお母さんにも反論できなくなったので、話題を戻しました。「ばあちゃんなんてもう三年くらい会ってなくない? いきなり行って、しかも僕以外は他人でしょ。まあ僕も他人みたいなもんだけど」
「自分の孫が他人なものあるかい」お母さんがたしなめます。
「前に帰ったのは去年の正月だよ。三年も経っちゃいない」お父さんがたたみかけます。
「まあいいけど。ばあちゃんにはもう話したの?」
「話したよ」
「じゃもう決まりじゃん。みんなで勝手に決めて、知らなかったのは僕だけか」
自分で言っていて余計に悲しくなってきました。雄ちゃんももう知っているのだろうか、と考えました。知っているとすれば本当に酷いです。
「だから今こうして話してるの」困り顔のお父さんの代わりにお母さんが言いました。姉ちゃんは黙ってご飯を食べています。中学生になって部活を始めて、姉ちゃんはやたらたくさん食べるようになりました。
「でも僕が嫌だって言っても、もうやめる気はないんでしょ」
「どうしたの、嫌なの?」
そういう時、お母さんは本当に意地が悪いです。お父さんは居心地悪そうに黙っています。
「いいよ、姉ちゃんの高校進学のためなんでしょ。しょうがないじゃん」
誠司、とお母さんが食卓越しに身を乗り出そうとしたところに、姉ちゃんが突然自分の皿を持ち上げて割って入ってきました。
「あげる」
姉ちゃんは皿からかぼちゃコロッケを滑らせて、僕の皿に落としました。それは僕の皿に乗っていた手つかずのコロッケにぶつかり、弾け飛んだ衣のかけらがテーブルに散乱しました。二つのコロッケは折り重なる形で止まりました。
かぼちゃコロッケは僕の好物でしたが、同時に姉ちゃんの好物でもありました。それを丸ごと譲るなど、引け目を感じるにしてもやりすぎだと僕は思いました。でも一方では竹を割ったような性格の姉ちゃんらしいやり方だとも言えました。
「雄ちゃんは、知ってるの?」
僕は俯いたまま、誰にともなく、訊きました。
「さあ、まあそれは余所の家庭のことではあるし、わからんね」
答えたのはお父さんでした。事実は、雄ちゃんに直接確認すればすぐにでも判ることでした。なんなら窓を開け放して二軒隣の雄ちゃんちに向かって声を張り上げて聞いてみてもいいし、その声が届かないなら隣の家の裏手を走り抜けていって雄ちゃんちのピンポンを鳴らしてやればいい。だけどそんなことを知ってどうするのだという思いが喉にかかった魚の小骨のように、ずっと僕の肚の奥にわだかまり続け、結局それを振り払う蛮勇など持ち合わせていない僕はかぼちゃコロッケを二つ平らげただけでその夜の特別さをすべてありきたりの色に塗り込めてしまいました。
せっかくのコロッケが、ただイガイガと口の中を刺激するだけの、たわしみたいな物体に変わります。それを我慢しながら飲み込んだ僕は早々に自分の部屋へと退散しました。部屋に入ってはじめて、僕はおちんちんがきんたま袋に貼り付いているのに気付き、ズボンの上から乱暴にそれをひっぺがしました。
その夜は変な夢を見てうなされながら目を覚ましました。
内容はどうってことない夢でしたが、妙にはっきりしていて細部まで記憶がありました。
視界は目にクリームを塗りこまれたみたいにしゃばしゃばしていて、目の前にある灰色の平面が壁なのか天井なのかカーテンなのか、はたまた曇り空なのかも判じつきませんでした。
身を起こそうとしても体がまるでいうことをききません。手も足も背骨も芯のないゴムのようで、僕は起き上がるどころか身じろぎひとつできないまま硬いベッドの上に仰向けに寝ているしかありませんでした。
かろうじて眼球だけを上方に向けると、ベッドの柵に僕の名前を書いたラベルが取りつけられていました。目を細めたり瞬きしたりして、なんとかその文字を読み取ります。
「北見 セイジ」
なんだって、冗談じゃない。
僕は何かの間違いだと思いました。目がよく見えないせいだと思って目をこすろうとするけれども手は意思に反して空しく宙を掻くばかりでした。その手は細く頼りなく、指もほとんど自由には動かせません。
僕はあらん限りの力を振るって、顔を僅かに右へと傾けました。どうやらそこは思ったより大きな部屋で、僕が寝転がっているのとそっくり同じようなベッドがいくつも並んでいました。空のベッドもあれば、僕と同様にふにゃふにゃの身体をその中に横たえているものもあります。紛えようもない、新生児室というやつでした。
「やあ、起きたかい」
突如、僕のベッドを覗きこんで話しかけてくる者があります。ベッドの柵に無遠慮に手をかけて薄ら笑いを浮かべているのはとてもよく見知った顔でした。
(雄ちゃん、なんでお前がここにいるんだよ)
そう言ったつもりでした。でも僕の喉からはうーともくーともつかない弱々しい音が漏れてくるだけで、それはまったく言葉になりません。
「セイジか、いい名前じゃないか」
雄ちゃんは名前ラベルを見やって言いました。動物園の檻に掲示されている展示動物の説明板を読んでいるような態度でした。
僕がセイジと名付けられたのは、お父さんが賢い人になって欲しいと考えたからだそうです。英語で賢者のことをセイジというらしいんです。
それはまあいいんです。でもせっかくセイジという、由来はともかくとして響きとしてはごく普通の名前なんだから適当な漢字を当てておけばいいものを、あろうことかお父さんはカタカナ表記をそのまま出生届に書いてしまいました。
雄ちゃんはそれを知っていて僕を恥辱に染めようというのです。僕はあっちへいけ、と新生児室の出口を指差そうとしましたが、手はやはり僕の随意にはなりません。ゴムのような腕は肩の上で不規則に揺れ動くだけでした。雄ちゃんは身を乗り出して、自由の利かないその右手を指で触れました。
「ちっちゃいなあ」
指を振り払おうとしましたが、僕の手は雄ちゃんの指に吸い付いたようになって離れません。やめろ、触るな、と必死で抵抗を試みますが、新生児の僕にはそれをなんとかする術なんてありませんでした。むしろ抗えば抗うほど雄ちゃんは面白がり、小さな手をおもちゃにします。
こんな時にお父さんやお母さんは何をやってるんだ、と僕は目玉を動かして両親の姿を探しましたが、部屋にいるのは雄ちゃんの他には僕と同じように一寸たりともベッドから動けない赤ん坊ばかりです。
「あら、セイジくんでちゅか。まあかわいい!」
新生児室に入ってきたのは残念ながらお父さんでもお母さんでもありませんでした。その女はすらっとしていていつも夏色の柔らかい洋服を着て、ほのかに甘い匂いを漂わせていました。
「やめてよ母さん、僕がセイジと遊んでるんだから」
雄ちゃんはその女の人に言いました。でも女の人は息子を押しのけて僕の上に屈み込み――そして両手で僕を抱き上げました。
やめてくれ、悪い夢なら早く覚めてくれ。僕はあまりの不安に泣き出してしまいました。それが余計に女の人の母性本能に火をつけてしまったらしく、彼女はあらあらまあと狂ったように僕をあやし、泣き止まないとみるやとうとう僕を横抱きにして「お腹が空いたのね、おっぱいにしましょうか」と胸元に手をかけ始めたんです。
僕はいよいよ激しく泣きました。顔を赤黒くして全力で喚きました。まだ実の母親のおっぱいでさえ満足に飲めたことがないのに、なんで雄ちゃんのお母さんのおっぱいを飲まなきゃならないんだ。僕は泣いて、暴れました。
その時でした。一組の男女がおずおずと新生児室に入ってきました。お父さんとお母さんです。僕はやっと泣き止みました。これで助かった、と心底安堵したんです。
でもその安心は次の瞬間には早々に裏切られました。お母さんは雄ちゃんのお母さんの手から僕を奪い返すでもなく、ただ可愛いわねえと他人の赤ちゃんを愛でるような目で眺めるだけでした。お父さんはといえば、なんと懐からケータイを取りだして僕と雄ちゃんのお母さんのツーショットをカメラに収め始めています。
僕は絶望のあまり泣くことさえ止めてしまいました。雄ちゃんのおもちゃにされ、雄ちゃんのお母さんの不味いおっぱいを飲まされ、雄ちゃん家の子供にされてしまうのです。そんなことを考えると、なんだかおちんちんのあたりがきゅーっとしてきました。
僕は暴れました。
さっきまでふにゃふにゃのゴムのような軟体動物だった僕の身体は、ばかみたいに力を得て雄ちゃんのお母さんの腕の中で釣り上げられたばかりのマグロみたいに暴れました。雄ちゃんのお母さんは腕の中で手足をばたばたさせる僕にびっくりして必死に赤ん坊の体を抱き直そうとしました。それが仇になりました。僕の身体を支えようとしたその腕は空しく宙をかき抱き、僕は彼女の胸からするりと抜け落ちました。
鈍い音を発して、僕の柔らかい頭蓋骨がコンクリートスラブにリノリウムシートを貼っただけの床にぶつかりました。まだ大泉門が大きく開いたままの僕の頭蓋はその衝撃に耐えきれず、破裂して脳漿をぶちまけます。
クリーム色の神経組織は血液と混じり合ってピンク色を呈しながら新生児室の床を覆っていきます。僕自身が、北見セイジをなす根幹である大脳新皮質が、にがりの足りないせいで固まり損ねた豆腐のように崩れて広がってゆきます。僕は薄れゆく意識の中でいやにはっきりとその様子を眺めていました。
今日はこんなところですね。
テロリストの定義、聞かせてくださってありがとうございます。色々な人が、僕に話を聞きに来ましたがみんな同じ質問をしていきます。自分のやったことを後悔しているか? って質問です。記者さんも、たぶん同じ質問をすると思いますので先に答えておきますね。
後悔しています。ていうか、自分の人生に後悔を残していない人なんて、いったい存在するのでしょうか。いるのなら、僕の方が話を聞いてみたいです。
それじゃ次回の接見まで、ごきげんよう。
"ディンゴ・ブルー 7"へのコメント 0件