どんなに鋭い歯で噛まれていても、ぼくはきみと一緒にいるから。

幾野温

小説

3,486文字

駅前のショッピングモールのフードコートへ行くまでの間のこと。ぼくは自転車を漕いでいた。

ぼくの心の穴からモンスターが顔を出してがじがじがじがじ穴を喰い破ってどんどん拡げるし、勿論それだけじゃ物足りなくて美味しそうな獲物を見付けると、暗闇から目を光らせてバッと素早く腕を伸ばして、そう丁度きみみたいな子を捕まえて引きずり込もうとするわけ。ところがきみを含めて大体ほとんどみんなぼくのモンスターなんかに取っ捕まるほどやわじゃないんだよね。美味しそうな獲物ほど尚更そうで、勘が良いのか体力があるのかはたまた両方なのかいずれにせよみんな素早く逃げちゃうから、実のところぼくの怪物は一度も狙った獲物をゲット出来た試しはない。
ところがね時々いるんだよね。自ら食べて下さいって言う人が。爪先から恐る恐る穴に入ろうとしたり、頭から突っ込んでいったりと入り方は千差万別だけれども。
でもそういうのって大概美味しくないみたい。腹ぺこのモンスターがあの子たちをえいっと押し返す前に心の穴の断面にある傷がビリッと嫌な痺れ方をするからあーこりゃダメだなってさすがのぼくにも分かるってもんさ。
そんな時ぼくはほっとする。このモンスターにも分別があったんだなって。最後の一線はなんだかんだで守ってるんだなって。
でもね昔はほんとに酷かった。
食べられそうなものなら何でも食べようとしていた。あの食欲は凄かったな。「マズいもの以外全部美味しい」だなんて言ってさもポジティブシンキングっぽく威勢の良いうめき声を上げていたけれど。その結果、あいつ悪いモノを詰め込みすぎて吐いちゃった。酷く非道く吐いて半年だか一年だかしくしく泣いてたっけ。
あれに懲りてからはあいつは美食家になったみたいだよ。とはいえ以前に比べたらだけど。それに関してはぼくもちょっと安心してる。やっぱマズいものが通っていく時に心の穴の切り口の乾いていない傷にずるるるるって擦れるあの感じがたまらなく気持ちが悪い。小さなかさぶたが剥がれて血が滲んで、そしてまたちょっとのことが沁みるようになっちゃうし。ろくなことがないね。
あいつはひとまず空腹が埋まればご満悦みたいだけど、こっちとしてはそういうことを繰り返されてたらいい加減身が持たないなって思ってたんだ。
実を言うとぼくは長い間、心の穴から腕を伸ばす者の正体が良く分かっていなかったんだ。ひょっとしてぼくは千手観音かなんぞの素質があって二本以上腕があるのかもしれないくらいに思ってた。つまりテキトー。でも実際のところはあいつのパワーに圧倒されていただけなんだよね。弱っているところから、抗い難いエネルギーが湧き出てあっという間にぼくを包むんだ。いつも。いつもっていうか、きみみたいに美味しそうな獲物を前にした時の「いつも」だけど。
ぼくがあいつを「モンスター」だと認識したのはあいつが初めて吐いた日だった。それまでは何かいるのかも知れないけれどそれが何なのかまったく分からなかったんだから。
普段のあいつは心の穴の裏側にじっと身を潜めて隠れているんだけれど、穴のサイズに合いそうな美味しそうな獲物を見るとあっという間に飛び出して、ぼくの目を塞いで口を押さえてそうして獲物を引きずり込もうとするものだから、正直ぼくには何が起きているのかちゃんと分かってはいなかった。
ただね、穴に触れた時の感触だけは分かるんだ。
勿論モンスターが捕食することに成功したことはないのだけれど、何かの拍子に獲物が二の腕くらいまでズルズルぬぽって入っちゃったりするわけよ。
その時はたまらなく気持ちがいいんだ。
腰がふわっとして脊髄を甘ったるい髄液が逆向きに駆け抜けていくような感じ。いやごめん、髄液ってよく知らないけれど。
だからあの時のぼくは内心モンスターのことを応援してた。どーにかなるならーなっちまえーって。でもやっぱそういうのって良くないよね。表面上は怪物に加担もノー加担もしなかったわけだけど、そのお陰で穴の切り口が傷らだけになっちゃって益々モンスターが住みやすくなってたみたい。
ばかなぼく。
って自分を貶めたいわけじゃない。そんなものは今はいらない。
じゃなくてね、ぼくが云いたいことは……。
思い出した。
ぼくがあいつの存在を認識した時の話だったね。あいつの姿を見ることが出来たのはあいつが悪いものを食べ過ぎて、酷く吐いていた時だったんだ。いつもなら穴の裏に隠れて獲物を捕らえるチャンスを待っているのに、あいつときたら穴の裏にもどこにも隠れずぼくから丸見えの場所でお腹を押さえて子供みたいに泣きながら七転八倒していた。
なんだこいつ、って思った。
こんなやつ、ぼくは知らない、って。
真っ黒けの姿でさ、眼球がライム色でさ。あ、いや、見ようと思えば本物を見ることは出来るけど、きみは顔を見せない方がいい。本当に、絶対に。
その時ぼくはやっと分かったんだよね。穴から腕を伸ばしていたのはぼくが千手観音とかだからじゃなくてこいつが腕を出していたからなんだって。「まずくなければなんでもおいしー!」って住めば都みたいな調子の言葉が時々細胞に響くのは、こいつが叫んでたせいなんだなって、それも分かった。
ちくしょーガッテムよくもぼくの人生を振り回しやがって! と思ったけれど蹴ることなんて出来なかった。だってモンスターのライム色の瞳は余りに哀しみを帯びていたからさ。哀れそうな目つきでぼくをちらりと一瞥するとモンスターは目を反らして地面の上を見る。心の穴から流れ続ける鮮血で染まった地面の上を。
その顔を視ていたらぼくもなんだか悲しくなってきちゃったんだ。でも一回だけ「お前かよ、ばーか」って軽く頭を叩いたけれど。怪物は「ぐすん」って云って鼻水をすすりあげることを返事の代わりにしてたっけ。
その日からぼくとモンスターは少しずつ仲良くなったよ。お互いの顔を見詰め合ったり、あいつの湿った背中をさすってやったり、ぼくなりにあいつを手なずけようとしていたんだ。だってあいつが大人しくなったら、ぼくの心の穴のカサブタが剥がれ落ちることはもうなくなるだろうからさ。だからまずはあいつと仲良くなろうとしたんだよ。
本音を言うといずれは出て行ってもらいたけどさ。ま、出て行くにしても元気にならなくちゃ難しいだろってことでね。それなりに可愛がっていたんだ。
ぼくが優しくした甲斐もあってモンスターは回復した。回復したけど、以前よりずっと大人しくなって心の穴の裏側から顔を覗かせたり、ど真ん中で昼寝をしたりしてぼくの前から姿を隠さなくなったよ。
でもね、やっぱりモンスターはモンスターだよ。
時々衝動が出ちゃうみたいなんだよね。例えばきみみたいに本当に美味しそうな女の子を見付けると、我慢が出来なくなって腕を掴んで穴の中へ引きずり込んでむしゃむしゃ食べちゃいたいんだんって。そうしてきみの血肉で身体をデカくして、残ったきみの白い骨でこの心の穴を塞ごう、ってぼくに囁くんだ。
当然ぼくはそんなの嫌だよ。
噛み砕かれて粉々にされて形を変えたきみが、例えぼくの中に居たとしてもそんなの全然嬉しくない。
だってきみはぼくとはまったく違う声で歌うから美しいのだし、ぼくの予想を裏切る表情でぼくの知らないことを話すから楽しいのだし、きみの感性は世界をきらめかせる万華鏡なんだ。そんなきみを怪物が消費してしまったらもう、それきり。きみは永遠にぼくの中から出られずに、きみらしい色はこの世からついえてしまう。
「あの子の骨でこの穴を塞ごう」
それがどんなに甘美な囁きであろうと、ぼくは断固として拒絶し続けるよ。ぼくの傷にきみの骨が触れると、きっと冷ややかで傷口の熱はすぐに引くと思う。けれどそんなのは要らない。それにぼくはぼくの熱や痛痒を感じ続けるのも悪くないって気がしてる。だってこれはぼくだけの痛みなのだから。
でもね何かの拍子に例えばぼくがひどくくたびれている時なんかに、その隙を狙ってモンスターは俊敏に腕を伸ばそうとするんだ。以前ならすぐに視界を遮られてぼくは何が何やら分からなくなっていたけれど、今ならもう大丈夫。あいつの正体が解ったからすんでの所であいつを止められるようになったんだ。
でもね、やっぱり時々怖いんだ。
ぼくはまたいつかあのモンスターに目を塞がれて、身体を奪われてしまうんじゃないかって。
本当にイヤだ、いやだ、そんなのは嫌だ……。
ぼくはこのモンスターが穏やかに暮らすことを願っているよ。心の穴の向こうから、ただぼくときみのことを見ていて欲しい。そうしてぼくは時々あいつのしっとりした黒い頭を撫でてやる。
きっと、きっと幸せになれると思うんだ。

 

 

【おしまい】

2020年11月19日公開 (初出 note/2015年)

© 2020 幾野温

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