運命ってものがあるとするならば、その日は僕にとって本当に運命の日だったと今になって振り返ってみて思います。
ゴールデンウィークも終わりに近づいたある日、僕は図書館へ本を返しに行きました。かなり前から雄ちゃんに薦められていた本で、特に興味もなかったので生返事でやり過ごしていたところ、その年が明けたくらいから折に触れてまだ読んでないのかとしつこく確認されるようになったので、根負けして図書館へ足を運んで借りたんです。それをやっと読み終わって、返しに行くところでした。画期的なパソコンやスマートフォンを発明したIT実業家の伝記なんですが、しつこく他人に薦めるほどのものじゃないと思いました。読み物としては面白いんですけど、扱っている人の性格がめちゃくちゃで、僕はあまりいい気分にならなかったんです。
運命というのは、そこで浅田にばったり出会ったんです。五年生になってから僕の身に起こった初めての良い出来事と言っていいんじゃないでしょうか。カウンターで順番待ちをしていたら、ふと自分の前に並んでいる女子に見覚えがあるような気がして、僕はその後ろ姿をまじまじと見てしまいました。その視線に気づいたのか浅田はやにわに振り返って、僕の眼前数十センチで目が合うかたちになりました。制服じゃなかったのでその女子が浅田だと気づくのに遅れ、僕は虚を突かれました。
「あ」と間抜けな声を出し、間抜けな声をとり繕う言葉を探すんですが、頭の中が真っ白で言葉はことごとく指の間をすり抜けて落ちていきます。やっと拾い上げた「なにしてんの」というまったく埒外の挨拶をまさに返そうとしたとき、浅田に機先を制されました。
「北見くんが図書館なんて、珍しいね」
浅田はさも自分が図書館の常連であるかのように、言いました。じっさい僕よりは頻繁に図書館を利用しているんでしょうけど、なんだか下に見られているようで気分が悪かったです。僕は少しでもやり返そうと、手に持った本を示しました。
「これを返しにね」
浅田は僕の手の中にある本を見ました。僕にとって、そのときの浅田との距離は近すぎました。心臓が早鐘のように打ってどぎまぎします。せめて心理的に安全な距離を保つために、高い城を作りたいという抑えがたい気持ちが、僕の中に沸き起こりました。自分を高い楼閣の上に押し上げて、壁をつくり、堀を掘って、眩しすぎる浅田との間に正気を保つ空間をつくりたかったんです。
「この伝記は読んでおくべきだよ。日本には絶対いないタイプの人だからね」
雄ちゃんがその本を僕に薦めてきたときとまったく同じ売り文句でした。僕はてっきり、僕の城はもう完成したと思っていました。浅田よりも高い場所に自分を配置することができたと思っていました。位置エネルギー的に優位であると確信していました。
しかし浅田の次のひと言ですべてが脆くも破壊されました。
「うん、私も、鳩村くんに同じこと言われて、読んだよ」
顔から火が出るってのはこんな気持ちなんだろうな、と思いました。僕は雄ちゃんに頭をぶん殴られたような気がしました。いや、雄ちゃんがバットでも振り回すように、浅田を振り回して僕の頭をぶん殴ったような気がしました。しかも二度殴られたんです。一度目は得意になって本を薦めた僕の鼻っ柱をへし折ったとき。二度目は、浅田に対する僕の柔らかくて温かい思いが、汚されたような気がして目の前がまっ暗になったとき。
記者さんは笑いますか? 僕だって、あとになって考えればとるに足りない、くだらない失敗だと思いました。でも当時の僕にとってはそれこそ世界が終わるくらいの大惨事で、しばらくはトラウマを引きずらなければなりませんでした。
思えば浅田にとって僕は何者でもなく、僕にとって浅田は妄想の中でだけ生きていたわけだから、仕方ありません。そこへ雄ちゃんという現実の存在が入ってくれば、僕の儚い夢想など煙のように消し飛んでしまうでしょう。
朝、学校へ行く。大抵の場合雄ちゃんは僕より先に教室に着いており、クラスの誰かと話している。昨日見たテレビ番組の話や新作ゲームソフトの話。あるいは少年誌の連載マンガのストーリーと今後の展開の予測。
雄ちゃんは巧みに相手の興味のある話題を窺ってはそれに合わせて話す内容や話し方まで変えていました。変幻自在でした。大したものです。
相手が男子や比較的敷居の低い女子ならば僕はただ感心していれば済みます。でも雄ちゃんの誰でもトークが浅田にまで通用しているのを見ると、僕はどうしようもない焦燥を覚えます。おちんちんの辺りがきゅっとなります。
僕はほら、白昼夢の中で浅田と特別な関係にあるでしょう。浅田と一緒に襲撃から生き延びるのが僕の喜びになっているんですから、雄ちゃんに現実を突きつけられるのは、自分のぜんぶを否定されるような気がして、許しがたかったんです。
今なら異性をどうにかしたいという抑え難い気持ちに性欲という名前を付けて、理屈で説明をつけられます。でも、当時はおちんちんの辺りがむずむずするだけで、どうして浅田を見るだけでむずむずが堪えられないくらいに酷くなるのか、ちっとも分かりませんでした。僕が妄想の中でヒーローになろうとしたのは、きんたま袋にくっついたおちんちんを引っぺがすのと同じで、何とも名状しがたい不快感に苛まれたからでした。具体的に浅田とどういう関係になりたかったとか、考えたことはありません。
ところで浅田は、後から知ったんですが、男子の間では学年で一二を争う人気だったらしいです。つまるところ僕の異性趣味は平凡というか、ありきたりだったんです。もし姉ちゃんが聞いたら「はーん」と思いっきり小馬鹿にした含み笑いをされただろうと思います。
だから浅田への思いはひた隠しにしていました。本人はもちろん、家族やクラスメイトや雄ちゃんにも。間違っても雄ちゃんに「浅田と馴れ馴れしく話すな!」などと言うことはできませんでした。言えば「何でだよ。はーん、お前、浅田が好きなんだな。おーいみんな、北見は浅田が好きなんだってさ!」という最悪の展開が容易に想像できましたし、もう一つの最悪な展開としては「浅田は僕と付き合ってるんだ。馴れ馴れしくして何が悪い?」というのもありました。後者である確率は低くはありませんでしたが、僕は絶対にないと信じ込んでいました。雄ちゃんの趣味がそんなに平凡でありきたりなわけがない、と根拠もなく考えていたんです。
「私はね、これを返しに来たの」
と、浅田は僕が打ちひしがれているのを知ってか知らずか、楽しそうに言います。そうして一冊の本を僕に見せました。夏目漱石の『こゝろ』という本でした。漱石といえば『吾輩ハ猫デアル』しか知らないのがデフォルトという学年の話ですよ。
「なにそれ面白いの?」
当時の僕にとって、おそらく同年代の連中も同じでしょうけど、何かを評価するなら面白いか面白くないかしかなかったでしょう。本もそうです。僕の質問は決して馬鹿げてはいませんでした。でも浅田は一瞬、侮蔑とも憐憫ともつかないような顔をしました。そして言いました。
「とってもいい本よ。長いけど、読んでみれば?」
浅田が携えているのは、たしかに小学生向けにしては分厚い本でした。原文はいくらなんでも難しいので、おそらくジュヴナイル版があったのでしょう。それでも十分長すぎる本でした。
「それも雄ちゃんに薦められたの?」
浅田は笑いました。僕の質問が雄ちゃんを意識しすぎていたのが、可笑しかったのだと思います。
「違うよ。鳩村くんは関係ないよ」
そっか、と返事をしながら、僕はとてもキラキラした、素晴らしいアイデアを思いつきました。
「それ返すんなら、次借りていい?」
僕の意図はこうでした。僕が『こゝろ』を読むでしょう。雄ちゃんが『こゝろ』を読んでいないなら、『こゝろ』を読んだ体験は僕と浅田だけで共有することができます。幸い雄ちゃんはアメリカに行っています。少なくともアメリカから帰ってくるまでは、僕に追いつけないわけです。
雄ちゃんを出し抜く、滅多にないチャンスでした。
「うん、いいよ」
浅田が返却の手続をして、後ろの人が借ります、と司書のひとに口添えをしてくれた。僕は有頂天になって、白いソフトカバーの表紙の本を、大事に抱えて持ち帰りました。
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