天使の翼

齋藤雅彦

小説

10,356文字

葉加瀬ユウイチはよく気持ち悪いと言われる。

 が、しかし、気持ち悪いと言われることで、不快になることはない。

 なぜかというと、ユウイチは次のように考えているからである。

 人はどうして気持ち悪いと感じるのか。

 脳が違和感をおぼえるからである。

 なぜ違和感をおぼえるのか。

 理解できないからである。

 つまり自分のことを気持ち悪いと言う奴は自分を理解できない馬鹿だということになる。

 不快になるどころか、優越感にひたれる。

 以上である。

 かなり激しめに気持ち悪いと言われることもあるがユウイチは反論したりしない。

 馬鹿を相手にむきになったら馬鹿と同レベルになってしまうからである。

 ユウイチは今年二五になるが、まだ童貞である。

 性欲は普通にある。

 女は嫌いではない。

 童貞であることを恥ずかしいとも思っている。

 なら風俗に行けばいいではないかとおっしゃるかたもおられるだろうが、ユウイチは初体験は素人でないと嫌だと考えているのだ。

 なぜ素人でないと駄目か。

 これにはなんとなくではない明確な理由がある。

 その理由とは、初めてのセックスを金で買うようでは人生の敗者確定だから。

 しかも処女でないと駄目。

 これも明確な理由がある。

 性体験のある女性は性体験のない自分より立場が上だから。

 ユウイチは負けが嫌なのだ。

 非処女を抱くのは童貞を卒業してからというのがユウイチのビジョンである。

 困ったものである。

 べつに困る必要はないかもしれないが、とりあえず困っておかないと話が進めにくいので一応困っておくことにする。

 さらに困ったことにユウイチは面食いときている。

 これについては明確な理由はない。

 美人で処女。

 そりゃいるだろうがユウイチのような痛い青年とつき合うことはないだろう。

 おまけにユウイチは、イケメンでも金持ちでもない。

 イケてないフリーターだ。

 まったく救いようがない。

    *

 恵方巻ノリエは処女である。

 昭和っぽい名前だがぴちぴちの二六歳。

 二六歳でぴちぴちということはないか。

 昭和っぽい名前につられたのかつい、ぴちぴちなどという昭和っぽいフレーズを使ってしまったことを深くお詫びする。

 ノリエはなぜ処女なのか。

 容姿に特段問題があるわけではない。

 中の上くらいじゃないか、とよく言われる。

 ではなぜ処女なのか。

 忙しいからだ。

 そのうえノリエは生理周期で気分が変動しやすく、月の半分は目の前のことを処理するのがやっとというタイプ。

 ノリエの脳は男性寄りの脳である。

 

 女性ホルモンに対する感受性の低い、男性脳に近い脳の女性は、純粋な女性脳の女性に比べより多くの女性ホルモンを神経伝達に必要とする。ゆえに生理周期で女性ホルモンが低下すると、情緒の安定が保てなくなる。それに対して純粋な女性脳の女性は、生理周期による脳への影響が少ない。また、純粋な女性脳の女性は、微量の女性ホルモンでも脳がはたらくため、閉経による脳への影響が少ない。(ワンチョリカンガジ大学医学部生理学講座より)

 

 久々の休日、ノリエは生理前で気が狂いそうになっていた。

 ベッドのなかでノリエは思った。こんな身体は捨ててしまいたい。

 するとどうだろう。一瞬身体が軽くなり、ブルーな気持ちが嘘のように消えていた。

 目を開けると、ベッドで寝ている自分が見えた。

 身体から魂が抜けてしまったのだ。

    *

 馬鹿は分析能力がないから経験のないことには違和感を持つだけ。結果もっぱら違和感を払拭するためだけの発言をして馬鹿をさらすことになる。

 頭のいい奴は状況を分析した結果を話す。馬鹿は見たままを話す。さらなる馬鹿は見たことと異なることを話す。

 ユウイチが思索にふけりながらコンビニで買った棒つきアイスを食べ食べ歩いていると、空中に、魂がさまよっているのが目に入った。

 運動神経の鈍いユウイチだったがレジ袋を振り回すといとも簡単に捕獲できた。

 捕まえたはいいけど、どうしようかな。レジ袋の持ち手を二重に結んでからユウイチは思った。

 べつにこんなの集める趣味もないし。逃がそうか。

 持て余していると、親子連れが不思議そうに見ている。

 とりあえず自宅アパートに持ち帰ることにした。

 ユウイチはレジ袋をほどき、部屋に魂を放してから、インスタントラーメンを作り始めた。

 なぜなら、腹が減っていたからである。

 キッチンでインスタントラーメンを鍋からじかに食べ、こたつに戻ると、魂が消えていた。

 はて、成仏したかと、こたつに足を入れると、生足の感触があった。

 立ち上がり、向こう側をのぞくと、スウェット姿の女が、仰向けで寝ていた。

 コツメカワウソを連想させる、離れた目に低い鼻。下がり眉、長い黒髪。皮膚は薄く白い。総合的に見て、まあ美人と言えなくもない感じであった。

 近づいて女をまじまじと見た。スウェットが、豊満なバストを強調している。かつ、乳首が浮き彫りになっていた。

 ノーブラは和製英語だというのが定説になっているが、ナショナルノーブラデーというのがあるし、ニューヨークアイラブユーという映画では、ずばりノーブラとセリフに使われている。ちなみにノーブラのあとにノーパンティというセリフが出てくる。

 そんなことを思い出しつつユウイチはスウェットの裾をめくった。

 女が目を開けるのとほぼ同時に乳房がぷるんと飛び出した。

 そのあとのことはよく覚えていない。

 女は初めてだったと言った。ユウイチも初めてだったと言った。言ってから、わざわざ言う必要はなかったな、と思った。

 ユウイチは、なぜ抵抗しなかったのかときいた。すると女は、身体がなくなったらこだわりもなくなったのだとこたえた。ユウイチはがっかりした。自分に魅力があったから、というこたえを期待していたからだ。

「いま身体はどうなってるの」

「多分、腐ってる」

    *

 果たして、魂とやって、童貞を卒業したことになるのだろうか。

 あれから一週間、ノリエはまだ、部屋にいる。

 部屋でノリエはどのように過ごしているのかというと、ずっとこたつでテレビを見ている。

 覇気のない女だ。

 これではまるで廃人だ。

 

 いわゆる廃人は、動物のような単純な意識はあっても、複雑な意識はない。(中略)複雑な意識とは、脳の各部位を連携させることによって生じる。(『馬鹿とかしこ』ミツタタツミ著/ワンチョリカンガジ出版)

 

 彼女はおそらく脳を部分的にしか使えないマニュアル型である。

 

マニュアル型の特徴

 能力に汎用性がない。

 簡単に依存症になる(治療はほぼ不可)。

 認知症になりやすい(優秀かそうでないかは関係ない)。

 など。

 

 そろそろ出てってくんないかな、とユウイチは思っているが、口に出せないでいる。

 

 馬鹿は瞬発力はあるが持久力がない。(『馬鹿とかしこ』ミツタタツミ著/ワンチョリカンガジ出版)

 

 俺は馬鹿じゃない。

 ふと窓を見ると、雪がちらついている。

「雪だ」とユウイチが言うとノリエは、首をちょっと後方に動かしてからすぐにテレビに戻り、「ほんとだ」と無感動にこたえた。

 ユウイチは本を読み始めた。ユウイチは読書家なのだ。

 テレビの音で集中できないからか、本が難解なのか、全然頭に入ってこない。

 難解な文章を書くのは脳を部分的にしか使えない奴である。脳全体を使って書く奴はわかりやすい文章を書く。

「ノリエさんは本読んだりしないの」

「しない。本読むの苦手なの」

 マニュアル型は自我の発達が遅い。ゆえに言葉の発達も遅い。言葉の発達が遅いから脳の中で音を形成することが上手く行えず難読となる。

 暗くなる前に晩飯を買ってこよう。

 本を読むのをあきらめ、傘をさし、コンビニに向かった。

 人間は気流の変化を気配として察知している。帰宅し、ドアを開けると、人の、いや、魂の気配がなかった。

 出かけたのか。

 というかさまよっているのか。

 希望的観測だと出て行ったのか。

 ひとまずほっとした。

 狭い部屋にずっと一緒にいるのは息がつまる。

 ほっとしたら便意をもよおした。

 トイレのドアを開けた。

 ノリエが立っていた。無表情で。基本ノリエは無表情だ。

「驚いた?」

「驚いた。どうしたの」

「驚かそうと思ったの」

 雪は珍しく積もった。

 

 ──てんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてん、てれれ~♪ ミッドナイトゾーン。

「よかった~。助かりました」

 シートベルトを締めながら、女が言った。最近あまり見かけない、いかにもギャルといったファッションだ。日本おたくの外国人みたいに見える。

「ヒッチハイクで旅行なんて無謀だ」

「日本人は親切だってきいてたもので」

「やっぱり外国の人か。さすがにそう簡単に車に乗せたりはしないよ」

「はい。三日間立ちっぱなしでした」

「もう歩けよ」

「へへへ」

「へへへって……日本は満喫できてる?」

「秋葉原の漫喫で満喫してきました」

「どこで覚えたんだよそんな駄洒落」

「あ、紹介遅れました。わたしはチャンシャガチャンドリンアスパルクです」

「すごい名前だね」

「ワンチョリカンガジ語で天の上の出っ張った谷、輝ける暗闇の閃光です」

「支離滅裂だ……ワンチョリカンガジ語ってどこの言葉?」

「世界で三人しか話せる人いません」

「失われゆく言語か」

「ちなみにワンチョリカンガジ語が話せるのはわたしとお父さんとお母さんです」

「君の一族で伝承してるんだ」

「いえ、わたしとお父さんとお母さんで考えた言葉なんです」

「そんなの言語として認められるか」

「ところでお家はどのへんなんですか?」

「この近くだけど。もっとにぎやかな所まで送るよ」

「あの、なんかヒッチハイクするのも疲れちゃったんで、お宅に泊めてもらえませんか。よかったらワンチョリカンガジ語教えますんで」

「降りろ」

「まあまあ」

「なにがまあまあだ」

「あ、そこのお蕎麦屋さんの前でいいです」

「そこで? 車なんてまず来ないぞあんな通り」

「もういいんです。くにに帰ります。記念にお蕎麦食べて」

「宇宙から円盤でも迎えに来るのかぁ?」

「あはは、まさか」

「じゃあな。気をつけて」

「どうも。久しぶりにドライブできて、楽しかったです」

 これはCMです。

 むかし、桃太郎という、桃から生まれた男がいた。桃太郎は桃から生まれただけあって、カリスマ性があった。ゆえに自然と金の集まる身分となった。

 桃太郎は大企業の社長を歴任したのち、中学時代の同級生、商工会のみなさんなどにおされ、大統領選挙に立候補した。公約は、武器を捨て平和な国家を作ろう。桃太郎は見事勝利した。

 桃太郎が大統領に就任してから二日後、桃太郎の国に鬼が攻めてきた。桃太郎の国は三分の一の人口を失った。なぜ三分の一ですんだのか。降伏したから? 反撃したからだ。桃太郎は他国に搾取される道より公約違反を選んだのだ。桃太郎は武器商人に通じている高校時代のパイセンの力太郎に頼んで武器を調達し、傭兵を雇って鬼を撃退したのである。

 精神文化が高くなり、完全平和主義を目指したとたん野蛮な国が攻めてきて滅ぼされるのが世の常。でも大丈夫。お金さえあればね。急な出費には、二四時間いつでも審査オッケー。キャッシングなら、ピーチ銀行カードローン。ご利用は計画的に。

「ただいま」

「お帰りなさい。どうしたの? なんだか顔色が悪いけど」

「ああ、いや、大丈夫だ。瞳は起きてるのか?」

「もう寝たに決まってるでしょ、十時よ。蕎麦打ち体験で打った蕎麦、パパに食べさせるって楽しみにしてたのに」

「そうか」

 なぜ自宅を通り過ぎてしまったのだろう。会社を出てからの記憶がまったくない。

「ナルゴルンギュンギュワベイ?」

「なんだって?」

「ワンチョリカンガジ語でビール飲みますかって言ったの」

「なんだそれは」

「瞳と二人で、家族だけに通じる言葉を考えようって、さっきまで遊んでたの。面白いでしょ」

「家族だけに通じる言葉か。そりゃいいや」

 俺は缶ビールを開け、一口飲んでから、明日はドライブでも行くか、と妻に言った。ワンチョリカンガジ語で。てんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてん、てれれ~♪

 次回もお楽しみに。

 

 テレビを見ながらノリエは寝てしまった。

 ユウイチは隣で、ノリエの胸が上下するのをぼんやりながめていた。

 と、そこに天使が現れた。

 天使はノリエの顔をのぞき込んでから、「寒っ」と言って翼をぱたぱたさせ、ユウイチと向き合う形でこたつに入った。

 レトロな形の白いワンピース、ダークブラウンのセミロングに浅黒い肌。スペイン系の、ハリウッド女優に似ていた。

「彼女を迎えに来たんですね」

 ユウイチはきいた。

「連れてったら駄目?」

 天使がいたずらっぽい目をして言った。

「大丈夫です。どうぞどうぞどうぞ」

 あわててユウイチはこたえた。

「それでは」

 眠りから覚め、ユウイチはまた一人の生活に戻った。

    *

 ノリエのことが意識にのぼらなくなったころ、再びあの天使が現れた。ユウイチはビールを飲みながら、鍋をつついていた。

「俺を迎えに来たの?」

「ううん。遊びに来たの」

「鍋食べる?」

「食べる」

 シメのうどんを食べてから天使が、「そういえばさ、あなたとしばらく過ごしてた娘、悪魔になったよ」と言った。

「まじで」

「まじで。あの娘、男性脳で空気の読めないタイプだから。そういう娘ってSの素質あるんだよね。んで、そこを見抜いたスカウトマンが事務所連れてって即採用」

「ほー。ちゃんと働けてんの?」

「それがすごい優秀らしいよ」

「アイス食べる?」

「食べる」

 アイスを食べる姿を見てユウイチは、最初の印象では長身に見えたが、天使がけっこう小柄であることに気づいた。

「身長いくつ?」

「一五〇」

「コガラーだね」

「それ、マヨラー的な表現?」

「そう」

「天使の採用は体格制限があるの。翼の構造上、制約があるから。ほんとは大して影響ないらしいけど」

「上層部の好みの問題か」

「まさにそれ。ま、何の取り柄もないちびにはありがたいルール」

 三〇分後、天使はユウイチの腕枕で寝ていた。

 激しめにしたので、羽根があちこちに飛び散っていた。

 ユウイチがそっと腕枕をはずそうとしたとき、天使はいきなりがばっと起き上がった。

「やばっ、帰らないと」

 あたふたと服を身に着けている天使にユウイチは言った。

「また来る?」

「当たり前じゃん」

「いつ?」

「クリスマスかな。空けといて」

 そう言ってユウイチにキスをすると、天使は出て行った。どこから? もちろん窓から。

    *

「俺の妹は小学校就学前まで、サンタクロースが実在すると信じていて、就学後間もなく、同級生にフィクションだときかされたとき、ショックで泣いてしまったそうだ」

「通過儀礼だよね」

「かく言う俺は小学校就学前まで、トナカイはフィクションだと思っていて、ある日、動物番組を見て実在すると知ったとき、とても嬉しかった」

「それはちょっとないな」

「ところでトナカイはアイヌ語起源の日本語。英語圏ではカリブー、レインディアと二つの呼称があるが、サンタクロースのそりを引いているのはどちらで呼ぶのが主流なのかはわからない。赤鼻のトナカイの原題は、ルドルフ・ザ・レッドノーズドレインディアなので、英語圏の人に説明するときはレインディアと言ったほうがいいのかもしれない。個人的な見解としては、トナカイを食肉用に飼育し、そりを引かせる文化は北欧のものだから北米語のカリブーよりヨーロッパ語のレインディアのほうがふさわしいように思う」

「なるほど」

「まあどちらでもいいっちゃいいんだけどね」

「いいんかい」

 白ワインで乾杯し、ケーキを食べる。

 クリスマスを女子と一対一で過ごすのは、ユウイチは初である。

 人間の女子ではないが。

 ユウイチはいつか天使と外でデートしたいと思った。

 だがそれにはちょっとした困難がともなう。

 翼である。

 目立ってしょうがないからね。

 

【補足】帰国子女にきいてみたところ、アメリカ──全土かどうかはわからない──ではヘラジカの意味であるエルクと言うのが主流であるとのこと。ソリを引くのはトナカイよりもヘラジカのイメージが強いのか?

 気になってエルクで検索したら北米ではアメリカアカシカのことを指すとあった。ブリタニカ国際大百科事典にはヘラジカは、アメリカではムース、ヨーロッパではエルクと呼ばれる。とある。

 アメリカアカシカがソリを引くのがアメリカ人の本来イメージするところなのか。

 アメリカでも、ヨーロッパ式の呼びかたを採用しているというセンもあるか。

 結局厳密な区別はないのだろう。

    *

 長いこと天使が来ていない。

 普通のモテない男だったら、浮気してんじゃねえか、などど考え、悶々とするのだろうが、ユウイチは違う。

 合理的な判断力のある人間は悶々としたりしない。

 悶々としたところで、何がどうなるわけではないからだ。

 ユウイチは合理的な判断のできる人間である。

 正月休みももう終わりだし、どこかに出かけようかな。でも金ないしな。

 などと考えながらこたつでちょっと高いみかんを食べていると、ノリエが現れた。露出の多い、ボンテージふうの衣装に身を包んでいた。

「あ、ノリエさん」

「ノリエじゃなくて悪魔だから」

 そう言ってノリエはユウイチの斜め向かいに女の子座りで座った。よくよく見れば、山羊の角、コウモリの翼、牛の尻尾。スタンダードな悪魔のスタイルだ。

「みかん食べる?」

「食べない」

「まあ遠慮せずに」

「してない。いらない」

「そう言わずにどうぞ」

「めんどくさい」

 ノリエが吐き捨てるように言った。ユウイチはみかんをのせた手を引っ込めた。これ以上すすめることに合理的な理由が見いだせなかったからである。

 ふと、ユウイチはこんな言葉を思い出した。

 未来の人類の精神構造は現代人とはまるで違うだろう。精神構造がまるで違うということは別種の生きものであるのと同じことだ。自分を犠牲にして別種の生きものに貢献する気はない。

 なぜ思い出したのかというと、単に、こいつは自分と別種の生きものだな、と思ったことによる連想から。

 悪魔が生きものかどうかはともかくとして、種類が違うのは間違いない。

「で、悪魔さんがどういったご用件でいらっしゃったんで」

 ユウイチは慇懃にたずねた。するとノリエは急にかしこまり、「あなたの願いをかなえてあげようと思いまして」とこたえた。

「それって、何でも三つかなえてくれるやつ?」

「そうです」

「それで、三つかなえたら命を引き換えにいただくっていう」

「そうそう」

「けっこうです」

 きっぱりとユウイチは言い放った。

「は?」

「間に合ってます」

「まあ遠慮せずに」

「遠慮してない。お引き取りください」

 手を顔の前でひらひらさせながらユウイチは言った。

「そう言わずに。ねっ、一回だけ」

「だから願いなんてないんだって」

「ノルマが達成できなくて困ってるの。助けて」

「俺には関係ない」

「はぁ、めんどくさい」

「めんどくさいのは君だ」

 視線をこたつの天板に落とし、少し黙ってからノリエは言った。

「ユウイチ君さあ、いま天使とつき合ってるでしょ」

「つき合ってるといえるのかどうか」

 ユウイチは首をかしげた。ユウイチの言葉は無視して、視線を落としたままノリエは続けた。

「天使が人間とつき合うのって、天界のルールで禁じられてるんだよね」

 ユウイチがややたじろぐ気配を察知したノリエは、胸をそらしてユウイチを見てから、「神に報告したらどうなるか」と続けた。

 脅迫か。

 谷間をちら見するとユウイチは、なぜか冷静さを取り戻していた。

「じゃあ、もう会わない。彼女に迷惑をかけるわけにはいかない」

 沈黙が流れた。

 沈黙を破ったのはノリエであった。

「ずっ……ずっ……ずっ……あっ……えふっ、えふっ……ずっ」

 うつむき、泣いていた。

 そういうことなのでお引き取りください、とユウイチが言いかけたところでノリエは、「純愛~」と言って涙でぐしゃぐしゃの顔をユウイチに向けた。

 きわめて不細工だった。

 不細工さにひいているユウイチにノリエは言った。

「別れる前にぃ、やっておきたいことってなーい?」

 今度はそう来たか。

 泣いて撹乱しようとしたのだろうが、その手に乗るか。

 魂胆が見え見えである。

 そもそもユウイチは人前で泣く奴はソーシャルスキルの低いあほだと考えている。

 いかなる理由があろうとも、例外は認めていない。

 だいたい子どものころ妹をいじめてさんざん泣かせているので、女が泣く姿を見ても動揺することはない。

 いずれにせよ、女が騙せるのは、その女に気のある男だけである。

「悪いな。願いはないんだ。帰ってくれ」

 ぼそっとユウイチが告げるとノリエは、モノスゲーこえー目つきでユウイチをにらみつけ、消えた。

 直後、天使が現れた。ユウイチはノリエとのやりとりを話し、別れを切り出した。

 天使はきょとんとして言った。

「そんなの嘘に決まってるじゃん。悪魔の言うことなんて信じちゃ駄目だよ」

    *

 社会的には異性愛だが中身はバイセクシャルというのが典型的日本人像である。

 群れるのが好き、噂話が好き、排他的。男の脳みそのなせるわざではない。(『日本人とは何か』ミツタタツミ著/ワンチョリカンガジ出版)

 

 子どものころからユウイチは、一人でいるのが好きだった。

 同志を求めるような時期もあるにはあったが、思考回路が違う人間に自分の考えを理解してもらうのは不可能。仮に理解できてもいっときのものだとわかってからは、人づき合いを避けてきた。

 自分のことをわかってくれている、わかってくれるかも、という幻想を失ったら人づき合いは苦痛でしかない。

 ユウイチがずっと一緒にいて苦痛を感じないのは天使だけだった。

 人ではないが。

「ガブリエラ」

 ユウイチは本を閉じ、キッチンでもやし炒めを作っている天使に声をかけた。

「もうすぐできる」

「外でデートしたい」

 天使は眉を上げてユウイチを見た。

「それは言わない約束でしょ」

 そう言ってから天使はもやし炒めを大皿に盛り、いそいそとこたつにのせたかと思うとキッチンに戻り、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。

「天使と魔女は、女子のコスプレの定番らしい」

 缶ビールを受け取りながらユウイチが言うと、天使は目をくりくりさせてから、ぱっと顔を輝かせ、「あ、ハロウィン」と言ってビールを飲んだ。

「ユウイチは、どんなコスプレするの?」

「しないよ」

「どうして?」

「君だってしないだろ」

    *

 外で改めて見ると、天使の翼はけっこうなでかさだった。

 本物の白い翼はとても目立った。

 そして彼女は美しかった。

 誰もが振り返った。

 ユウイチは鼻高々だった。

 駅から出ると、天使のコスプレをした人たちが次々と魔女のコスプレに襲われているのが目に入った。

 

 SNSを開くと、魔女による天使狩りが行われているとあった。

 ユウイチと天使は高層ビルの屋上にいた。

 魔女に取り囲まれたタイミングで天使はユウイチの手をとり、飛び立ったのだ。

「悪魔のしわざね。言葉のとおりの意味で」

 天使が下界を見下ろして言った。

 高い所が苦手なユウイチは座り込んだまま、「こんなことになってしまってすまない」と言った。

「あなたのせいじゃない」

……これから君はどうする?」

「わたしはここから直接帰る」

 振り返ってそう言うと、天使は再び下界に顔を戻した。

「そうか」

「ユウイチ」

 天使は少しためらってから言葉をついだ。

「もう会えないかもしれない」

 ユウイチは天使の後ろ姿を見つめた。翼がふるえていた。

 何か天使が気に入るような言葉がないかユウイチは考えた。

 思いつかなかった。

 ゆっくりと天使がユウイチに向き直る。

 と、突然。

 天使が倒れた。

 爆風に吹き飛ばされたような倒れかただった。

「いたたたた……

 起き上がろうとする天使にユウイチは駆け寄った。

 膝から血が出ている。

 肩を貸しながらユウイチは、天使にも血が流れているのだな、と思った。

「さすがに雑魚には捕まらなかったみたいね」

 声のするほうにユウイチが顔を向けると、ノリエが立っていた。

 今回はボンテージふう衣装ではなく、シーツのようなワンピース。右手に剣、左手に天秤を持っている。角も翼もない。

「悪魔!」

 ユウイチが言った。

「悪魔じゃないわ、女神よ。昇格したの」

……自分の傷つきをごまかすためにさらなる傷つきや刺激を求める。かわいそうな娘」

 天使の言葉にノリエは一瞬、ちょっと泣きそうな顔を見せたが、すぐにサディスティックな笑みを浮かべた。

 ノリエが動いた。天使はユウイチをわきに突き飛ばした。ユウイチは見事に一回転した。

 身を起こしたユウイチが目にしたのは。

 翼を切断された天使がくずおれる姿だった。

 コンクリートが見る見る血に染まってゆく。

「正義の裁きよ」

 そう言い残し、ノリエは意気揚々と天に昇っていった。

 しばらく呆然としていたユウイチだったが、天使のうめく声を耳にして、はっとし、おぼつかない足どりで近づき、抱え起こした。

 それからスマホを取り出し、救急車を呼んだ。

 

 正義は悪の同義語である。(出典不明)

    *

 一年間のリハビリを経て、天使は社会復帰した。

 いや、社会復帰と言ったら語弊がある。

 天使は地上で、人間として生きるようになったのだ。

 しばらくユウイチと暮したが、一人で生きてみたい、と言って天使はユウイチのもとを去った。

 いまユウイチは、偶然再会した大学時代の同期が立ち上げた母子生活支援施設で指導員として働いている。

 ちょっと前のユウイチだったら、善の対価として金をもらうなんてのはいやしいことだ、などと言って敬遠しただろうが、同期の熱心な誘いに、いつまでもフリーターでいるほうがかっこ悪いな、と引き受けたのだった。もし天使が生活に困窮することがあったら力になってやれるかも、という思いもどこかにあった。

 地方の給食センターに就職したというメールを最後に、天使からの連絡は途絶えた。

 いつのころからか、ユウイチは気持ち悪いと言われなくなっていた。

2020年12月1日公開

© 2020 齋藤雅彦

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

ファンタジー ライトノベル

"天使の翼"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る