ハートに火をつけて

齋藤雅彦

小説

2,394文字

男がロバに乗って旅をしている。男は預言者である。なんてことはなく、ただの中年男である。

 人間に自由意思などない。そもそも自分の意思で生まれていない。にもかかわらず、人間はなぜ自由意思があると思い込んでしまうのだろうか。それは可能性を妄想することができるからだ。

 そんなことを考えて、にやにやしているところに、若い、まあまあの美女が現れる。男はロバから降り、手綱を引きながら女に近づく。女が微笑む。

「乗るかい?」

「いいの?」

「そのつもりだろ」

 二人はロバに揺られながら、話を始める。

「おじさんは何の仕事してる人?」

「油を売ってる。さぼってるって意味じゃないよ」

「油商人ジョークね。……わたし、旅行が好きなの……海外行ったことある?」

「台湾とニューヨークに行ったことありますね」

「わたしは海外行ったこと一度もない」

「ないんかい」

 不意に女が口をつぐむ。男が振り返ると、女は懇願するような目で男を見てから口を開く。

「わたしの身体に油をかけて火をつけて」

 男は動揺して、なぜ、と問う。女は続ける。

「この世のすべての不幸はわたし発信なの。わたしが死ねば不幸の種が消える。一人の犠牲で世界が救われるの。お願い」

 男は女を見つめて言う。

「俺は世界より目の前の愛する人間を優先する」

 表情から、女のハートに火がついたのがわかる。

 男が満足して前を向き、崖っぷちに来ていることに気づいたときにはもう手遅れ。男と女はロバとともに谷底に落ちていく。

 会社帰り、今日はコンビニ弁当ではなくしっかりしたものを食べようと、男は駅近の中華料理店に入った。

 厨房に、明らかに中国人とわかる男が三人。ホールに、女の店員が二人。一人は、茶色い髪の巨乳。もう一人は銀縁の薄いフレームのメガネをかけた黒髪のまあまあの美人。カウンター席に案内される。

「愛も憎しみも、論理的にものごとを考える能力を失わせてしまうという点において差はないんだ。愛で世界を救うことはできない。わかるか?」

 隣のじいさんが男にやたらとからんでくる。もともと扁桃体が未発達なのか、からみ酒なのかそれとも扁桃体が未発達なうえにアルコールでさらに脳がやられてしまっているためなのか、いずれにしても落ちぶれるべくして落ちぶれたような落ちぶれた風ぼうであるゆえ男はガン無視である。相手にしてやりたいのはやまやまだが、調子に乗って長居されたら店が迷惑する。

 客がはけてきてカウンター席に男とじいさんだけになったタイミングで美人店員が訛りのない日本語で、奥の席に移りますかと言ってきたが男は、いや大丈夫だとこたえた。厨房では中国語でやりとりをしていたので、おや、と思い、男は紹興酒のロックを追加注文したついでに、中国語上手だね、と言ってみた。すると店員は笑って、中国人です、と言った。

「バイトは何時まで?」

「一二時です」

「終わったら近くのバーで飲まないか?」

「いままだ七時ですよ」

「待ってる」

 男が目を開けると、女の泣き顔が見えた。

 後頭部の下にぬくもりがあった。女の膝に頭がのっているのだ。

 起き上がろうとするが、力が入らない。

 明かりの漏れているほうに目をやると、ロバがあらぬ方向に首をねじ曲げて倒れている。

「ここは?」

「ここは谷底の裂け目です。わたしたちは裂け目に落ち込んだのです」

「どうして泣いてる」

 女に視線を戻して男は言った。

……だって……またわたしのせいで人が不幸に……えぐっ……えぐっ……

「気にするな。もう生きるのにも飽きていたところだ」

 男がそう言うと、女は泣きやみ、きっぱりとした口調でこう言った。

「いいえ、あなたは死にません」

「えっ? ああ、そうなの。じゃあどうして身体が動かないんだろう」

「新しい身体に馴染んでいないだけです」

「身体?」

 女は今度はためらいながらこう言った。

「あなたはロバになってしまったのです」

 男がちょうど十杯目のテキーラをおかわりしたところで、店のドアが開いた。

「お酒強いんですね」

 女が男の隣に立って言った。

「とりあえず座りなよ。……なんにする?」

「ビールで。……おじいさん、めんどくさかったですね」

「過剰にフレンドリーな奴ってのは扁桃体が未発達か壊れてるんだよ。扁桃体に問題があると、知識があるのにリスク回避ができなかったり他者の微妙な表情が読めなかったりする。結果まともな人生が送れない」

 女は理解できたのかできなかったのか、ただ曖昧にうなずいた。

「うん。べつにどうでもいい話だ……ところで前に君と、どこかで会ったような気がするんだ」

「気のせいよ」

 男は首をひねってみた。

「自分の身体を確認したいのだが……おかしいな」

「ロバは目が横についているのでいまの姿勢では見られません」

「つまり俺はいま、まさにロバだってことだな……しかしなぜロバに?」

「ロバとあなたの身体が、入れ替わってしまったからです」

「ではあそこで死んでいるロバは……

「あれは数日前に狼に追われ、足をすべらせて落下したロバです。あのロバがクッションになってわたしたちは助かったんです」

「俺のロバではなかったのか」

「いいえ、あなたのロバです」

「どゆこと?」

「この場所は時空がゆがんでいるのです。ここは時空の裂け目でもあるのです」

「では俺たちと落ちたロバは」

「どこかで途方に暮れているでしょう。あなたの姿で」

「想像したくないな。そもそもなぜロバと入れ替わってしまうのだ」

「すべてわたしが悪いのです。だから殺してくださればよかったのです」

 男は黙った。

 男と女は、バーを出ると、ホテルに向かった。

「わたしね」

「うん」

 ひと仕事終えてまどろみながら男はこたえた。女がシーツを引き上げてから続けた。

「前世は馬だったような気がするの」

「僕は前世がロバだったような」

 男は目を閉じたまま薄笑みを浮かべて言った。

 くすくす笑いながら二人は、再び愛し合った。

 一年後、二人は結婚し、やがて子どもができた。子どもは、ラバだった。

2020年11月12日公開

© 2020 齋藤雅彦

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