九龍城

齋藤雅彦

小説

990文字

 明日は何をしよう。とりあえず横浜に行ってみるか。たまにはおしゃれな雰囲気を浴びないと、調子が悪くなってしまう。

 何度も乗り越しながら(なぜ乗り越すのかって? そりゃもちろんぼうっとしているからだ)やってきた一年半ぶりの横浜は、深い霧に包まれていた。

 霧を浴びながら記憶を頼りに歩いてゆくと、あった。ビールの美味い、多国籍料理の店。内装はトルコふう。壁から床、カウンター、テーブルに至るまですべてタイル張り。どのテーブルもカップルで埋め尽くされている。カウンター席に、我一人。冷やしローマトマト、ラム肉炒めヨーグルトソースをピルスナーで。

 三十年前の香港も、こんなふうに霧が立ち込めていた。春だった。香港の春は一年で一番湿度が高いのだ。

 当時俺は、写真家として世に認められたいと考えていた。だが何を撮ればウケるのか、さっぱりわからない。ある日、香港返還のニュースに目が釘づけになった。巨大な生命体のような建造物の空撮。九龍城だ。これだ、と思った。香港なら英語でいけるし。写真店の給料では渡航費用もままならず、だらしのない話だが、親に借金した。

 キヤノンのEOSとライカをさげ、意気揚々と乗り込んだ九龍城。さっそく歯科医に声をかけて、EOSをかまえた。

 刹那、十四、五歳くらいの少年二人組が現れたと思ったら、たちまち地面に引き倒されていた。

 カメラを二台ともひったくられた。自警団がいるから白昼堂々窃盗が行われることはないときいていたが、甘かった。

 立ち上がり、追いかけようとする俺の腕を歯科医がつかんだ。

 命がおしかったらあきらめろ。

 俺は泣きそうになった。

 ここまで来て。いったいどうすりゃいいんだ。

 すると歯科医はこう言った。

 こんなときは白酒(バイジュウ)だよ。

 脱力した俺は歯科医に連れられ、近くの食堂らしきに向かった。

 干杯(ガンベイ)。一気にいけ。

 もうどうでもいいや、と酒を身体に流し込み、つまみの肉を口に運んだ。たれは美味かったが、肉はぱさぱさしていた。

 これは牛肉? 豚かな?

 犬だ。

 酒を飲んだのはそれが初めてだった。犬の肉を食ったのも、もちろんそれが初めてだった。犬の肉に関しては、その後遭遇する機会のないまま現在に至る。

 自分のぶんは払うとテーブルに出した札を歯科医は押し戻し、誘ったほうがおごるのが中国の流儀だと言って笑った。

 結局写真家にはなれなかった。何者にもなれなかった。いや、酒飲みにはなった。

2020年11月21日公開

© 2020 齋藤雅彦

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