「お父さんは年を取らなかったと考えたまえ。彼は老いという苦痛を免れたのだとね。この苦痛は長く続くものだよ。」『最初の人間』アルベール・カミュ(大久保敏彦訳/新潮文庫)

齋藤雅彦

小説

860文字

 朝から胃が痛かった。俺は中年になっていた。もう死んだ父の年をこえたはずだ。父は二度離婚し、三度目の結婚をする前に事故で死んだ。二度目の離婚のとき父は、娘(俺の異母妹)と別れるのがつらかったのだろう。しゅんしゅんと泣いた。でかいなりした、いい大人が、しゅんしゅん。離婚の原因を作ったのは自分自身なのに。

 その年、初めての彼女ができた。二歳上の、小柄で、胸の大きな。多くの男性が大きいバストに魅了され、女性が大きいバストに憧れるのは、授乳期の母親の乳房に刷り込みされているからだとか。俺はプレゼントの包みをほどくようなわくわくした気分でブラジャーを外した。あらわになった胸の大きさよりも、ブラジャーの大きさに驚いた。

 父はヘビースモーカーだった。俺は吸わない。父の妹、叔母も喫煙者だ。孫ができて、禁煙を何度か試みたが三日と続かない。高齢出産で生まれた子どもは煙草をやめられないケースが多い。母親の授乳能力が低下しているため、乳離れが早く、乳児期の口唇性の欲求が満たされないまま大人になっているから口に何かないといられないのだ。煙草のほかに、茶、コーヒーなどの嗜好品も不可欠だ。アルコールも、飲めればの話だが。

 煙草を吸いながら──いまにして思えば大人っぽく見せたかっただけだったのだろう──胸の大きな彼女が俺に、「くだらない話をしていることを気づかせたかったら、相手の言ったことをおうむ返しにすればいいの」とよく言っていた。俺はだから彼女の言うことをすべておうむ返しにしていた。

 どうでもいい汎用性のない話ばかりする人間に対して、こいつは何を考えているのだなどといぶかってはいけない。何も考えてないに等しいのだから。

 彼女はよく、俺の行動を実況していた。何も考えてない奴は人のやっていることに目を向ける。考えている奴は人の考えていることに目を向ける。彼女とは、半年で別れた。

 考えることができない人間に考えることを強要しても意味がない。

 彼女は結婚したのだろうか。そりゃしただろう。子どももできて。自慢の乳房も、たれてしまっているだろう。

2020年11月11日公開

© 2020 齋藤雅彦

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