歩く

伊藤卍ノ輔

小説

2,097文字

BFC2落選作品です

歩くうちに晴れると思ったが、案外雨はやまなかった。彼岸花についた水の粒が、淡い光を透かしてきらきらしている。レインウェアを着ようと思ってやめた。汗と霧雨でシャツはじっとり湿っていた。
工事現場の警備員をしていたら、いつの間にか疲れ切っていた。転職を決めて、有給消化中に旅をしようと思いついた。旧東海道を日本橋から三条大橋まで歩く。歩き始めて三日目になる。初日の夕方が辛かった。昨日からストックを使い始めて脚はだいぶ楽になった。
民家に挟まれた田舎道を少し歩いて国道に出た。右手の高台に登山鉄道が並行して走っている。左手には幹の細い木々が枝を交えて、奥に広い川幅が見え隠れしている。流れは速かった。所々で岩にぶつかり白い泡を噛んでいる。河原に石が積まれている。草いきれに水の匂いが混じった。またしばらく歩く。
橋を渡ると温泉宿が並ぶ急な登りになった。奥に見渡す山からは白い煙が所々あがっていた。いつかどこかで見た送り火を思い出す。畑宿の一里塚を折れると山道になった。雨はいつの間にか止んで晴れ間が見えていた。
濡れた石畳が滑る。道は深い杉林に囲まれてどこまでも登り坂。ストックを岩の隙間にはめるようにしながら用心して歩く。
石畳の切れ間に白い沢蟹がいた。固そうな腹を上に向けて動かなかった。その横に同じ種類の少し大きい蟹がいる。動かない蟹を向いて、泡を口から出したり引っ込めたりしている。
モカを思い出した。五年か六年かそれくらい前までうちにいた。最期は癌で顎の下に大きな固い腫瘍ができていた。仕事から帰ると動かなくなっていた。お腹はまだあったかかった。翌日に荼毘に付した。骨壺はお仏壇に座らせて、いまもときどきお線香をあげる。
所々で枝の隙間から日の光が差し込んでいる。水を吸ってきらきらした羊歯の間に百合のような花が咲いている。秋に咲く百合があるか知らない。息を切らせて歩く。細い旧道の半ばに橋があった。すぐ下を冷たそうな小さい流れがゆっくりと流れている。
追い込み坂を抜けると広くなった所に丸太の椅子が並んでいた。逸れて見に行った。並んだ椅子の先に藁葺きのがっしりした茶屋があった。その昔はこの辺りには十数軒の甘酒茶屋があって、この一軒以外は全てなくなってしまったと看板にあった。
冷たい甘酒を注文して外で待つ。リュックを下ろしてストックを手首からはずすと体が軽くなる。
来た道から男の人がストックをつきながら歩いてくる。記憶にある祖父の姿に似ているような気がした。こちらを認めてにこにこして声をかけてくる。
山登りですか。
あ、というより、旅してて。旧東海道を。日本橋から来たんです。
その人はうんうんと頷いた。
登山ですか。
マァ と少し間を置いて 妻とよく歩いたもんで。
少し黙った。甘酒が運ばれてきた。
今日は山登りが終わったらね、妻の好きだった団子を買うんです。ホラ、結婚記念日でしょう。
あ、そうなんですか 少し迷って おめでとうございます。
その人は店に入らず行ってしまった。
甘酒は美味しかった。こっくりと冷たいのが喉の奥を滑り落ちるのは心地よかった。飲み終えてまたしばらく歩く。
道の左右は淡黄の笹で覆われていた。その奥に細い杉が折れている。枯れた切っ先が空をさして光る。ヒヨドリと、ヤマガラと、知らない鳥が鳴いている。黒い小さい虫が顔の周りをうんうん飛んで、振り払ってもきりがない。
冬になるとこの道はどう見えるだろうと思った。重い冷たい雪が静かに降り積もるのを想像した。急に、泣きたいような気持ちになった。色々な思い出が浮かんでは消えた。
箱根の山を下り終えて、石畳の綺麗な広い道路にでた。土産物屋が並んだ通りが弓なりに弧を描いて緩やかな登り。スマートフォンの地図に照らして、旧道をいつの間にか逸れていたことに気がついた。その道を歩く。
右手に芦ノ湖が見えた。
あ と思った。短い階段を降りて水辺まで駆けた。
水面は風に撫でられて、視界いっぱいに隆々と細波を立てている。厚い雲を割って覗く透き通った空が、水面に映って揺れている。遠くで魚が勢いよく跳ねる。足元でたっぷりの水が跳ね返る低い音がする。藻と水のむせ返る匂い。濡れたシャツを風が冷やす。歩き通したふくらはぎが痛い。
芦ノ湖はいつからあるんだろうと思った。何百年も何千年も、箱根の山と一緒にここにあったんだろうと思った。
胸の奥が苦しいほど熱くなる。甘酒茶屋で会ったおじいさんのことを想う。これからずっと楽しいことや嬉しいことだけで生きていってほしい。だけどそううまくいくものでもない。それでも、全部を肯定したい。
少し歩くと黒塗りの大きな門があった。箱根の関所だった。踏み固められた砂利道の左右には復元された当時の建物があった。隙間からどこまでも広がる水面が見える。
きっと関所ができてから、色んな人がこの道を歩いた。なくなってからも、たくさんの人が歩いた。行く人も来る人も、色んな想いがあったに違いなかった。そういう全部に関わりなく、芦ノ湖はここにあり続けた。そう思うと、熱くなった感情がすーっと穏やかになる。
関所を抜けると箱根宿。今日は三島まで歩く。三条大橋まで百里以上ある。

2020年10月25日公開

© 2020 伊藤卍ノ輔

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散文 純文学

"歩く"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2020-10-26 15:16

    映り行く風景というか、情景というか、とにかく描写に極振りしたような話だと思いました。私は描写が苦手で普段からそういうの一切やってないので、あれでした。ゴイスーって思いました。参考にさせていただきたいです。おじいさんの所ちょっと緊張感がありましたけど、でも、最後は肯定してるというかあるいは諦観なのか、わからないですけども。とにかくブンファイおつです。

    • 投稿者 | 2020-10-26 23:33

      小林さん感想とってもありがとうございます。
      自分はむしろ風景などの描写を読んだり書いたりするのがとっても好きなので、そう言っていただけると嬉しいです。
      ブンファイおつありがとうございます。

      著者
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