ディンゴ・ブルー 2

ディンゴ・ブルー(第2話)

鈴木 沢雉

小説

5,907文字

カリフォルニア州ロンポック連邦拘置所における北見誠司の接見メモ その2

雄ちゃんの家は、僕が住んでいる木造平屋建ての借家から数えて二軒隣にありました。

二軒といっても、都会の建て売り住宅みたく、桐箱にきっちり詰め合わされたカステラのように軒を連ねているわけじゃないので、たとえば僕の家の窓を開け放してあらん限りの大声を出しても、二軒隣にいる雄ちゃんにやっと聞こえるか聞こえないかくらいには離れていました。

間に挟まれた一軒についてはよく知りませんでした。焼杉板で化粧された日本家屋には年寄り夫婦しか住んでいませんでしたから、家に上がったこともなければ挨拶以外に言葉を交わしたこともありません。両親は町内会や何かでそれなりにつきあいがあったようですが、僕たち子供には関係ありませんでした。

だから僕にとっては雄ちゃんちが事実上のお隣さんでした。
「あら北見さんのぼっちゃん、お早う」

始業式の日だから、花散らしの雨が降った翌日だったと記憶してます。

頭の上からとつぜん老婆の声が降ってきて、僕は首をすくめました。焼き板壁の下を足早に駆け抜けようとしていた僕はちょうど「だるまさんがころんだ」で鬼の号令がかかったときのように足を止め、ついでにからだ全体の動きも止めて窓を見あげました。窓は思いのほか近くまで迫っています。止めた足が朝露をたくわえた下草に触れて冷たく濡れました。すぐに拭き取りたいと思いましたが、身じろぎひとつできません。

窓から顔を覗かせているおばあちゃんは名前も知らないけれど、玄関の前に水を打ったり庭をいじったりしている姿をよく見るので間違えようもなく「間に挟まれた一軒」の住人でした。さもなければ人の気配がない家の中から青白い顔をした老婆がいきなり声をかけてくるというのはあまり気分のよい体験ではありません。落ち着け、このおばあちゃんは知っている人だ、と僕は自分に言い聞かせました。おばあちゃんの口調には、他人の土地に勝手に入りこんだ僕の行為をあげつらう色はありません。

僕がおばあちゃんの家の敷地に侵入するのは雄ちゃんちへの近道だからで、もしそうしなければ僕は玄関からいったん表の広域農道へ出て、ぐるっと回って雄ちゃんちの玄関から入らないといけません。雄ちゃんちの玄関は僕の家からみて反対側にあります。一方、僕の家の勝手口と雄ちゃんちの勝手口を結ぶ経路はほぼ直線の理想的なコースでした。難点は「間の一軒」の裏手を通り抜けなきゃいけないことと、その裏手というのが草ぼうぼうの湿った陰気くさい場所だったことです。年じゅう陽の届かない狭い空間はエアコンの室外機とプロパンガスのボンベ置き場としての役にしか立っていません。夏には雑草が茂りすぎたり、冬には屋根からの落雪がうずたかく山をなしたりして、通れない時期もありましたから、通路として使うにはあまり向いていませんでした。それでも僕は使えるときにはできるだけその通路を使ってショートカットをしていました。結果として住居侵入を日常的に犯していたんです。
「あ、お早うございます」

僕はともかくおばあちゃんに返事をしました。返事をしながら、自分のおちんちんを触りたくなったのを懸命に我慢していました。べつに変なことを考えていたわけじゃなくて、僕はいつも、おちんちんの裏側がきんたま袋にくっつく感触がすごく嫌いで、くっついたときはいつもズボンの上から引っぱって剥がすようにしていたんです。

僕以外にもそういう癖のある人がいるのかどうかは知りません。訊くのもなんだか恥ずかしいし、訊いた結果として同志を見つけてしまって、その人と妙な連帯感が生まれてしまうのもあまり気分がいいものじゃなさそうなので、おちんちんを引っぱる癖については僕一人の胸の内に収めるようにしています。少なくとも、僕が身の回りの人々を観察するかぎりでは同じ性癖をもっている人はいなそうですね。

記者さんはどうですか? ないですよね。そうですよね。だから僕がたまにズボンの上からおちんちんを触っても気にしないでくださいね。

で、おばあちゃんは窓から僕を見下ろしたままチェシャ猫みたいな笑いを浮かべています。その皺だらけの顔は山県のばあちゃんを彷彿とさせました。笑った口があんまり横に長くて大きいので、僕は薄気味悪くなってきました。で、一刻も早くその場を立ち去るべきだと思って「それじゃ」と自分にしか聞こえないような声で答えると、下生えを蹴り分けて早々に窓の下から離れました。

雄ちゃんちの勝手口までたどり着いてから、ようやくうしろを振り返ると、窓はもう閉ざされていました。僕は、ひょっとしたらいま見たおばあちゃんは僕の不安がうみ落とした幻だったのではないかと思いました。そう考えると、おばあちゃんの声や窓の中にぼうっと浮かんだ青白い顔はなんの実体も伴わない、錯覚のようなものだったかもしれません。確かなのは脚にわずかばかり残っている下草の露の、冷たい感触だけでした。

僕はぶるっと身震いすると、勝手口の重そうなドアにむきなおりました。雨は止んだけど花冷えは相変わらず続いていました。

雄ちゃんの家は「鳩村はとむら銃砲火薬店」という商店を営んでいました。

店舗は自宅とは別に、僕たちの家がある地区からはもう少し町に近い国道沿いに構えられていました。店舗には厳重な警備システムがそなえられていて、何かあればすぐに警備会社と地元警察に通報がいくようになってました。雄ちゃんや僕も例外ではなくて、いくら経営者の息子やその幼馴染みでも正当な理由なしに店のバックヤードには入れてもらえませんでした。

店では店長である雄ちゃんのお父さんと、アルバイト店員の松丸まつまるさんが働いていました。松丸さんはアルバイトといっても歳はたぶん雄ちゃんのお父さんと変わらないくらいで、でも結婚とかはしてなくてずっと町のアパートで一人暮らしをしていました。
「僕は天涯孤独だからねえ」

というのが松丸さんの口癖で、よく雄ちゃんのお父さんに招かれては雄ちゃんちで食事をしていくんですが、酔っ払ってくると子供にでも平気で絡んでくるらしく、雄ちゃんはその赤黒い顔と酒臭い息が嫌いなので自分が晩ご飯を食べ終わるとあとは部屋に閉じこもってやり過ごすんだといってました。

雄ちゃんのお父さんは松丸さんが来るときには一滴も酒を飲まず、夜九時くらいになって松丸さんがいい加減酔っぱらってくると、彼をネクサスの後部座席に乗せて送っていきました。なるほどこんなに酒癖が悪く世話のかかる人と結婚しようと思う人なんていないだろうと、当時の僕は子供心に納得していましたが、世の中にはもっと酒癖が悪くてもお嫁さんをもらっている人はたくさんいて、そんなもの松丸さんの孤独を説明する理由には全然なっていないのだと、ずっと後になって知りました。

雄ちゃんちには玄関ばかりでなく勝手口にまでピンポンがついていました。僕の家にはピンポンがなかったので、雄ちゃんちに二つもピンポンがあるのが羨ましかったです。僕の家に来た客はピンポンがないので玄関の引き戸をガラガラと開けて「ごめんくださーい」と家の中に向かって大声で呼びかけるしかないんです。ちなみに、家の玄関に鍵がかかっていなくて、誰でも玄関をガラガラと開けられるのは、都会の人にとっては信じ難いんだと後になって知りました。さらにアメリカでいきなり玄関をガラガラと開けようものなら雄ちゃんのお父さんの店にあるようなライフルで問答無用とばかりに撃たれても不思議ではないと、もっと後になって知りました。雄ちゃんちのピンポンを鳴らすと、小気味のよいピンポーンという音がして、やがて雄ちゃんのお母さんが重厚なドアを細い腕で軽々と推し開けます。
「お早うございます。雄ちゃんはいますか」

僕が訊ねると、雄ちゃんのお母さんは目尻の細かいシワをさらに増やしてこたえました。
「いらっしゃい、二階にいるわよ。ちょっと待ってね」

二階にいる、二階の子供部屋、二階に洗濯物を干す、二階へ上がる階段、二階から目薬。ああ、なんて素晴らしい響きでしょう! 僕は階段なんてほぼ学校の階段くらいしか上り下りしたことがありませんでした。家の中に階段があるという考えただけでもわくわくするような環境を、雄ちゃんは当たり前のように享受していたんです。

雄ちゃんのお母さんが二階の雄ちゃんを呼んでいる間、僕は雄ちゃんのお母さんに気付かれないようおちんちんに手をやってもぞもぞしていました。きんたま袋に貼りついたおちんちんはなかなか剥がれませんでした。僕はとうとう剥がすのを諦めて、代わりにおちんちんを太股の間に挟みこむようにして身をよじりました。

二階から雄ちゃんが下りてきました。雄ちゃんと入れ替わりにしてお母さんは廊下の右手奥にあるキッチンに戻っていきました。
「おじゃまします」

僕は雄ちゃんにさえ聞こえるか聞こえないかくらいの小声でそう言うと、靴を脱いで廊下に上がりました。雄ちゃんは僕の先に立って二階に向かいます。階段はいちばん奥にあって、廊下に面した引き戸が開いていれば、階段に向かって歩く途中にリビングを見ることができます。お店の定休日か営業時間外には雄ちゃんのお父さんがリビングで寛いでいるのをみるときもあります。銃砲火薬店の店長というくらいだから僕はてっきり家でもソファに座ってライフルの銃身を布で拭いたりグリースを塗ったり銃の手入れに余念がないと勝手に想像していましたが、雄ちゃんによればどうも家に銃を持ち帰ることは一切ないんだそうです。

だから雄ちゃんのお父さんがいるときは、たいてい新聞や雑誌を読んでいるか、テレビを見ているかのどっちかでした。お父さんは僕に気づくと「こんにちは」と低音ボイスでにっこり笑いかけてきます。まんまる眼鏡の髭面はくしゃっと皺で縁取られ、僕は慌てておちんちんにやった手を離します。オットマンの上に投げ出された脚は僕のお父さんのものより三十センチくらい長くて、まあとにかく色々とサマになっていました。

僕は居間のソファに向かって「こんにちは」とこれまた相手に届いているかどうか怪しい声量で挨拶しました。広い洋間からは何ともいえない匂いが流れでてきます。花でもない。食べ物でもない。ちょっと甘いような、スッとするような、不思議な香り。

雄ちゃんのお父さんには僕の消え入るような挨拶が聞こえたらしく、まんまる眼鏡越しに目を細めて会釈をかえしました。それきり、また手元の本に目を落とします。表紙には『わたしを離さないで』と印刷されており、中身は当然、文字だらけでした。東大だもの、あたりまえだろう、と僕は思って、またおちんちんを触りたくなるのを我慢します。

僕のお父さんがあんなに文字だらけの本を読むのを見たことはありません。たいていはマンガか雑誌、それも芸能人の誰それが不倫しただとか覚醒剤を使って捕まったとか、そういう話ばかりが載っている雑誌でした。とうぜん文字は少なめで写真が多い。その雑誌も、お父さんが自分で買って帰るわけではありません。客が新規契約や機種変更の待ち時間に読むために置いてある店用の雑誌で、古くて捨てられそうになったものを貰って持ちかえっているんです。お母さんは、そんなどこの誰とも判らないたくさんの客の手垢に汚れた雑誌を家に持ち帰ることを嫌がりましたが、お父さんは一向に構わないようでした。

雄ちゃんのお父さんが座っているソファの背後には背の高い観葉植物があって、開け放した窓から入ってくる風にぺらぺらとなびいていました。東向きの窓にはまだ低い朝の陽が射して、黄金色に塗られています。爽やかな香りの出処はわかりません。
「いこう」

雄ちゃんが僕の袖を引いて促しました。僕は雄ちゃんの後について階段を上りました。

「なにして遊ぶ?」

階段を上りきると、廊下の先に二つの部屋があります。一つは雄ちゃんの部屋、もう一つは雄ちゃんの弟の部屋です。ただし雄ちゃんの弟はそのとき三歳だったので、弟用の部屋はまだ使われてませんでした。
「ディンゴやろう」

雄ちゃんはドアノブに手をかけながら言いました。部屋に入ると、リビングとはまた違う芳香が鼻をつきます。花のような甘さや酸っぱさとは違う、熟れすぎた果物の濃密な匂い。僕はその匂いをどこかで嗅いだことがあるような気がしました。

部屋のど真ん中に据えられたゲーム機は二十四インチの液晶テレビに繋がれており、画面にはめちゃくちゃ格好いい字体でDINGO BLUEと表示されています。略してディンゴと僕たちは呼んでいました。一か月前に発売されたばかりの最新ゲームでした。

僕たちはひとしきりそれをプレイしました。ディンゴは一人称視点のシューティングゲーム、FPSと呼ばれているジャンルのゲームで、主人公すなわちプレイヤーは画面に現れる敵を手に持った銃でとにかく撃ち殺していく。途中倒した敵からさらに強力な武器や弾薬を手に入れたり、ステージをクリアするとボーナスをもらえたりするので、それらを使ってさらに装備を強化していきます。スタンドアロンモードではコンピュータを相手にステージをこなしていくんですが、ネットに繋いで他のプレイヤーと共同してシナリオに挑んだり、チーム同士で対戦をするモードもありました。最新ゲームだけあってCGの綺麗さもさることながら、プレイの自由度も高くシナリオもよく練られていて人気が高かったようです。
「北見、ずっとフルオートじゃだめだ。弾がなくなるよ」
「いいじゃん、切り替えるの面倒くさい」
「だめだめ」

雄ちゃんは僕と違って新しいゲームをプレイするときには攻略サイトやゲーム雑誌をチェックしてなるべく無駄なやりなおしとか回り道を避けたがりました。僕がいい加減なことをやっていると、すぐに口を挟んできます。
「このステージ、ボス戦でグレネードいっぱい要るから取りこぼさないで……あー言ってるそばからもう」
「はいはい」

新しいおもちゃやゲームを手に入れると、説明書さえ読まずに遊び始める僕にとっては雄ちゃんの用意周到さが偏執的にさえ思えました。
「これか! おおおー、強え!」僕がやたらめったらボスに挑むものだから二人ともあっという間に画面の中で天井を向いて視界が血に染まります。ユー・アー・デッド。「やられた」

雄ちゃんは憮然としてステージの最初からやり直します。はじめは僕が指示に従わないと小うるさい姑のように横から口を出してきますが、何度も同じ失敗を繰り返すうちに、もう細かい指示を出したりしないどころか、僕の方を見ようともしない。ただこう呟きました。「言ったとおりにしてよ。じゃないともう北見にはやらせてあげないよ」

2020年10月22日公開

作品集『ディンゴ・ブルー』第2話 (全5話)

© 2020 鈴木 沢雉

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