コビャータはクソ野郎なので、コロナ禍の休校に正直ほっとしていた。
コビャータ、とはいってもほんとうは小日向という苗字で、あ、コヒナタじゃなくてコビナタです、という訂正を繰り返しながらの人生で、滑り止めの大学を滑りまくった挙句なんとか滑り込んだ大学でサークルの仲間からいつの間にかコビャータ、とあだ名をつけられて、そんな褐色の恋人スジャータ――たぶんインドあたりからの留学生だ――と甘やかに仲よくしてる彼氏みたいなあだ名はよしてくれ、と思いながらも、実はまんざらでもなかった。でも、彼がいま付き合っている恋人の名前は菊枝という名前の古式ゆかしい、どころかあらゆる性技を駆使して彼を留年まで追い込ませる勢いの性豪で、彼の童貞をあっけなく奪っていったひとつ下の、サークルの後輩だった。
「ねえ見て、あの人またぼけっとベンチに座ってる」
おおやけに付き合うようになってから、キャンパスの中で菊枝はささやいたものだ。
「やっぱ頭おかしいんじゃないの? ほら、どこ見てんのかわかんないようなあの目。てかあのメイクなに? どんどん濃くなってない? 舞台女優かってんだよ、気色わる」
コビャータは菊枝の指をそっと制しながら、「だめだよ、そんな指さしちゃ」と言ってみるものの、匂い、あの香水の匂いをかすかに嗅いだような気がするのだった。
「あ、こっち見てる」
そう言って菊枝は歩きながら急にコビャータにしなだれかかり、腕に腕を絡ませてきた。やめろって、と振りほどこうとするものの、それで菊枝の機嫌を損ねて前立腺を刺激されながらのジュポジュポフェラのおあずけをくらうには我慢ならないほど、コビャータはこのひとつ下の、はっきりいってかわいいとも言えない、いやむしろ不細工と言っても差し支えない、けれどもクソエロい、いや、だからこそクソエロい? とにかくそのテクニックにおぼれてしまっていた。
「ねえ、こっち見てるよ、めっちゃ見てる。よかったね、あんなメンヘラと別れられて。それもあたしのおかげだよ、感謝してよね」
そう言う菊枝の指先がそっと股間に触れた。背徳感。と同時に鼻がむずむずする。
でかいくしゃみをしたあと、空いた手で鼻水を拭うコビャータを、菊枝はたしなめた。
「何してんの、台無しじゃん、ここであたしらしあわせそうに歩かないと意味ないじゃん、しあわせそうにキャンパスを闊歩しないとだめなんだよ」
「なんで?」とコビャータは鼻水のついた指をパンツに擦りつけながら訊いた。
「なんでって……あたしらはしあわせな恋人同士なんだから」
まるで自分に言い聞かせるみたいな菊枝の口調に圧倒されて、コビャータは彼女がさっき指さしたところをちらと見てみた。ユイのすがたはなかった。
――同じようなことが何度も繰り返されたのだ、菊枝が悪意をこめてささやく、コビャータがなだめる、菊枝はとたんにイチャイチャしはじめる、股間をまさぐられてまぎらわすように首をめぐらせる、そうしていつもユイは消えている。そのたびに、ユイがつけていた香水の匂いがかすかに、いつまでも鼻腔の細胞の奥の奥まで染み込んでいるような気がして、ハックション、とコビャータはくしゃみをするのだ。
おれはひどい男なんだろうか、とコビャータはクソ野郎なりに考えることもあった。同い年のユイに入学当初から一目惚れしていて、猛アタックの末に付き合うことになったけれども、でもなんとか手をつなぐことはできてもその先は、……腰に腕を回したり頭に手を置いただけでビクッと身体をこわばらせる、そんな相手に、童貞の悶々と鬱屈した欲望をぶつけられるはずなんてない。
菊枝との関係はちょっとした出来心で、でも出来心で終わらせるにはあまりにすさまじいスリル&サスペンスな快楽で、おれの童貞は花火大会のいちばんの目玉みたいな火薬に詰め込まれて夜空に派手に打ち上げられた、――見てくれ、おれの童貞の散るさまを!
とはいえその頃まだ菊枝は浮気相手に過ぎず、でもおれがその性技に溺れていくごとに、菊枝はユイと別れろ、としつこく迫ってくるようになった、そうしておれは適当な理由を並べて、ユイに別れ話を切り出したんだった。……
喫茶店で嗚咽を殺しながら涙をぼろぼろこぼすユイに、さすがのコビャータも胸が痛まないでもなかった、でもなんとか早く話をつけてその場を後にしなきゃいけなかった。
「ちゃんと別れてきたら、ご褒美ご奉仕したげるね☆」と菊枝に送りだされたのだった。
ご褒美ご奉仕ってなんだ? そもそも日本語としておかしいんじゃないか? とコビャータなりに頭の隅で冷静に考えながらも、目の前でマスカラまじりの黒い涙を流す女の相手をするよりは、〈ご褒美ご奉仕〉のほうが圧倒的に気持ちいいのは明白だった。ユイが泣きっぱなしで話にならないので、ごめん、と言ってコビャータが席を立とうとすると、ユイは引き絞るような声で言った、あなたのこと忘れられるまでは、好きでいさせて。
"鈍行の女神"へのコメント 0件