第59章(完)

根津權現裏(第60話)

焚書刊行会

小説

6,438文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 宿やどはいるとわたしは、かさたおしかけていて、けにぎすてていたやぶれスリッパーをっかけると、いまにもずりちそうになっている、かいちゆうのものをさえながらぶんはいってきた。そして、いきなりすわろうとすると、わたしすそみずなかへでもとおしてきたようになっているのだ。それからてみると、すそをはじめひだりかたさきも、あめためにびしよれにれているのだ。
 で、わたしはそれとわかると、こんかいちゆうざっしよってげだすがはやいか、ぐとそれをぎすてて、おしれにれてあるまき、それはまたぬぐいているうえに、てられないほどきたなくよごれているのだが、かたなくそれをりだしてえることにした。そして、ぎすてたこんじまひとりあげて、それをかたえのはしらくぎけようとしていると、ときわたしむねへ、ぜんってもまだはくだったが、とにかくわたし宿やどいしざきのところへたずねていったことがおもいだされてきた。そして、いしざきのところでは、おもいこんでいったあわせしんも、ついりだすことがなくなってしまって、くうきよな、さびしいおもいをきしめながら一宿やどかえってきて、はじめてそれとって、それからそれまで、おかあにっていたことが、ときまた、こうなんだかとおむかしのことででもあるようにおもわれてきた。
 がもなく、おかあにのところへくまでには、それからってっているあいだには、どんなにすぼらしいぶんなりがかえりみられたかとおもうと、かなしいちがまた、こうのようになってわたしめんぜんかえってきた。そして、ときまた、わたしってももなくよるければ今日きようだが、今日きようれに、もう一おかあにうようにとって、かたやくそくしてきたことがおもいだされてきた。するとこんは、あとにもまえにもいまはもうそれ一まいになってしまったひとが、それまでにかわくかどうかとうことがあんじられてきた。がしかし、そううことはあいくらかんがえたところではじまらない。れのことは、れになってみなければわからないとおもったから、とにかくそれは、くぎっかけてくことにした。
 それから、っているついでだとおもったから、またおしれからあせあぶらりかたまっているせんべいとんしてきて、一まいしたき、一まいうえからけられるようにしてうえくと、こんはそれへたおすようにしていて、わずかにほっとすることがてきた。がしかし、それもほんのつかだった。ほっとおもうがさい、もうもうけていたように、ひだりあしいたむのが、るようにはっきりこころからまりついてきた。わたしときほってきじようはんしんおこすと、みぎでもって、しずかもっといたぶんしてみたのだが、したとおもうと、もうてのひらは、あぶらがみそそいだみずのようになってはんぱつされてきた。それだけいたみがはげしいのだ。わたしこころはまた、ぼくじゆうでもってりかためられたようになってきた。
 いったいどうしたとうのだろう。ほんとうに、いたみらしいいたみをおぼえだしたのは、二三にちあとか、はやくもいつとはまだならないのだ。そして、それをつうせつしたのは、いまではもうまえましたときからだ。がときは、こんなにはげしくはなかった。わにまれているようないまいたみにくらべてうなら、それは、へびまれているにひとしかった。
 ひよっとするとこれは、昨日きのうれからいしざきのところへって、かえってくるとこんはまたおかあにのところまで、いにってきたせいだろうか。そうだ。それにおかあにっていたときには、はじめからおわりまで、じっせいしていたのがいけなかったのではなかろうかと、わたしは、またへきてそれをおもいかえしてくやんでみたが、そううことはのこぎりかれているようないたみにたいしては、なんのこうにもならなかった。かえってあしいたみはわたしちゆうさをあざけるもののように、だんだんととうつうしてくるのだった。
 になるのはこれがつうちようじようで、あとたてるにしたがって、かみぐようになってってくれればもんはないが、はんたいにこれが、いよいよはげしくなってきて、てはでもしゆじゆつをしなければならなくなったらどうしようとおもうと、わたしむねやみまよとりのようになってきた。ただわたしは、いっしんかねしくてたまらなくなってきた。どうにかして、すこまとまったかねにするほうはないものかとおもって、こころのようにしてみたけれども、それらしいしゆだんは、てんでつからないのだ。もうげんざいわたしは、いちどきに十とまとまったかねにするには、それはぬすかたりでもするよりほかには、これとってほかにはないのだ。そして、さいのこされたゆいいつほうほうは、さきにもわたしったように、じっさいもんだいとしてかんがえるあいには、わたしりようしんゆるさないのだ。それにしてもなんとにくさだろう。わたしかねのないばっかりにろくろくりようこうぜられずに、むなしくあしうしなってしまわねばならないのだろうか。かんがえると、いまはもうかたあしばかりではない。こころりさいなまれてくようないたましさをおぼえてくるのだ。
 わたしかつんだことのあるせいしよなかには、ところどころわたしたちまずしいものこうふくさをいてある。──せいしよでは、かみくにすなわなんじのものだ。だからまずしいものさいわいだとうのだ。わたしいまいままでは、はっきりわからないながらも、それをじつだとおもっていた。まずしいぶんづけちからづけるてんから、わたしわからないながら、からでもそうおもいしんじていた。だがげんざいこうふくために、ずんずんとさかおとしに、こうおちいっていくのをにしては、せずしてに、いくうたがいがしようじてくる。ことに、おわりまでしのぶなどとうことのないよわわたしには、一だんとそれがはげしいのだ。
 なるほど、なぐさめをてなごむものは、かなしみにひたっているものにのみかぎられているから、なぐさめをあたえられるとじようけんづきでそれをしているものは、あるいはこうふくかもれない。おなにおいて、きっあとにはめぐまれるものだとじようけんづきでもって、えているものしあわせかもれない。えば、「ひとくことをベければなり」だからだ(※マタイでんえるものはそれをもとめるほどたされるからこうふくである)。がしかし、これはみなあたえられめぐまれることをじようけんとするあいにのみはじめてすことであって、げんざいわたしのように、くるしみにくるしみ、えにえて、なくなってこうとしているものっては、あまりにことである。だからげんざいわたしには、「それてるものあたえられてなおあまりあり、たぬものてるものをもらるるなり」(※マタイでん。タラントのたとえ。こころがけのものあたえられてさらにゆたかになり、こころまずしくあらためないものっているものさえげられる)とことのみがしんのようになってわたしせまってくるのだ。こんなかなしいことがあるだろうか。
 げんざいわたしは、くらそれがおそろしいことでもい。らくはりあなとおるのよりは、もっともっとてんごくはいることがむずかしくともい。わたしめるものになりたい。そして、さしあたっては、つうになっている宿しゆくしついやして、うえわたしつちにおけるかんらくかんらくをつくしてみたい。それからなら、八だいごくちていくこともいとわない。わたしには、にすることのないらいよりは、ちようせきせきしつくしている(※いやになるくらいちょくさせられている)げんざいのことのほうおもいのだ。からしてもわたしは、げんざいだけはこうふくでありたい。だいしようとして、らいはどんなおそろしいつうたにとうぜらるるとも、それはするところではない。
 いまわたしかされているあしのことをおもってみても、ひっきようするところはこれも、みなまずしさからはじまっているのだ。
 わたしはじめてしっかんたのは、かぞどし十三のはるだった。ときは、わずかのもとめて、わたしわたしまちびよういんはいってしゆじゆつけたのだ。ところで、もうころちちくなっていて、ただひとまずしいははかんしてくれたのだが、まいしゆうはらわなければならないにゆういんりようも、ついとどこおりがちになったところから、ものの一げつもすると、びよういんほうからていこうじつのもとにいたてられててきたのだが、それがいんして、ねんこんにちまでも、つうゆうさは、わたしからだから、またわたしこころから、ろうとしてけなくなったのだ。それをおもうとわたしは、いまさらしっかんのものよりも、まずしいことのほうけいうとまれてくる。
 まったく、とうにゆういんちゆうごとなどは、をもってあらうにまさったくるしみを、わたしたちめなければならなかった。そして、びよういんわれてからこっち、まずしさゆえにそれらしいてもず、いっさいるがままにうっちゃっていたところから、ごとごととうつうわたしめてきて、でもわたしは、のきはしにきてさえずりかわすすずめこえみみにするまではまんじりともせずに、てんてんはんそくしてててきたのだ。
 ごろでもわたしには、ちゆうてんとうされているかたちがある。なるほどこれは、ひとつはわたしせいかくからして、よるでなければぶんかんらしいちがしないてんからきているものの、ならわしをつくり、しくはそれをたすけているものはとえば、それはねんかされどおしてきた宿しゆくしつつうあずかっていることはうたがいのないじつなのだ。だから、それをおもい、これをおもうにつけても、わたしにはまずしさがてしもなくうらまれてくるのだ。
 がしかし、ひっきようするところ、これがうところのうんめいなのだろう。そして、みずそだものみずおわるように、まずしいものまずしさゆえてなければならないのだろうともおもわれてきたので、やけになってまたわたしへ、ちようきゆうぼくたおれるようにたおしてしまった。するとときひだりはしらけていたひとについてきた。かたちおりからわたししや姿たいおもわせてきた。いてはもうそれがおかさいかんがえさせてきた。わたしおもわずじたものの、そううことはあいっつかなかった。こんおかわたしこころうちよみがえってきて、なんとしてもわたしからはなれないのだ。かたなくなって、わたしがそれをめていると、かれなにやらっているらしいのだ。──
いまきみにもおもいあたるだろう。きみはくだらなくひとうらんだり、かみほとけのろったりしてるひまがあったら、このさいひとつどうだい、きみぼくくわえたどおりのことをきみじっこうしたら。それがずに、きみおんなたいまなんでいるうちには、きみあしくさっちゃうから、かくがなくちゃいけないぜ。──どうだい。すこぼくんできたみちわかったかい。それがどんなにせつないものだかとうことが。だがしかし、それがほんとうになるにゃ、きみもっともっとさきって、ぶんぶんいのちをかけてみるようになるときがこなきゃうそだ。そうなったときはじめて、ぼくたちろううものが、──まずしいうえに、びようどうでもって、これでもかこれでもかとったふうに、めさいなまれるくるしみとうものがわかるのだ。」とったかとおもうと、どうしたなのか、いままでつむっていたをかっとおしひらいて、にたりにたりとわらうのだ。それから、またことをつづけるのだ。──
ほんとうのこたあぼくにはわからないが、しかし、ぼくのこうにらんだところでは、きみあしあまたちじゃないぜ。もうこつずいはんぶんまいっちゃってるらしいぜ。だから、なおすのならいまうちだなあ。それを、ないからとうのでもってうっちゃっといたにゃ、いんかんとおからずだ(※おほんあんがいちかくにある)。ちようぼくみたいなふうに、いやでもおうでも、きみあしせつだんしちまわなきゃいけないぜ。そうなったらあとは、あのびっこきりぎりすみたいになって、までもまでもごうらすんだなあ。くとぼくのは、こうこうらないが、きみとおしんけいけいとうしっかんだけに、こいつがひとついけなくなると、ぼくみたいにとちくるってきてさ、しまいのはてがせいしんびよういん便べんじよくびくくってしまうとったふうに、ごとあまっともくないが、かわりそんなにがかからないからまついとうもんだ。きみのはそうはいかないや。そうしてきみあしもががれてしまってからも、までもまでも、いきのつづくかぎりは、ごうさらしッぱなしとうんだからなあ。かわいそうだとえばかわいそうなものさ。だがしかし、それもこれも、びんぼうにんのなさけなさだ。ったがいんでしょうがないや。くところまでってみないじゃ。そして、きついたら、きみかたがないから、おこも(※物乞いの異称)にでもなってやるんだなあ。もうぼくたちちていくあなはきまってるよ。なにもそんなにびくびくするがものはないよ。どうだい。やっぱりいたむのかい。」とって、かれかぜのようにすうッとばして、わたしあしうえってきたかとおもうと、わたしあしはまたのついたようになってくるのだ。たまらなくなったから、またわたしは、あやつられているようにおこして、ぬすむようにしてかんをやってみると、それにれたかれないうちに、もうまりのようになってびあがってしまうのだ。そして、ゆびさきに、までもまでも、とうつうのこっていようとうのだから、たすからないのだ。わたしはまた、はじかれたもののようになってたおすと、のはずみにあいかわらず、ひだりはしらけてあるひとについてくるのだ。
 ときにはもう、にはおかかげかたちえなかった。ろんわたしあたまなかにもえていなくなっていた。ただときには、れにうようにことつがえてきた、おかあにのことがかんがえられてきた。それが、るみるうちちようあのれいしよ(※じゃがいも)のけいでもるようにして、わたしにははっきりと、わたしっているぐちなかとうさせてきた。するとにはでんしやちんはあるからそれはいとしても、それをさしくとあますところは、一にちめしだいにもりなくなってくるのにづいてきた。だからこんは、ひとりしてめたがさいなにいてもまた、ほうようをしなければならないので、それをかんがえていると、あたまなかたいふうかれているようになってきた。ところへとまたごろたずねなければならないとうはかのことがおもいだされてきた。そして、それがまたみやくいて、いしざきのことがうかんできたとおもっていると、ぐとそれをしのけるようにして、それがおかかわってきた。とうのは、れんそうもののことからはかまのことにうつっていったからだ。──わたしためには、はかまかしぬしおかだったからだ。
 で、そうおもったときひらいてみると、またおかおもかげがはっきりとしているのがえてきた。かれにくもののようなしようくちもとにあらわして、じっわたしほうているのだ。わたしたまらなくなってきたので、こんはまたいきなりつぶしでもったように、はっとおもってじてしまった。そして、とらて、わたししばらあたまゆうっていたが、あいだにもえずかんじられてくるのはあしとうつうなのだ。あるときりむすぶさきひかりのように、あるときは、たもとけい(※かいちゅうけい)のセコンドをきざおとのように、はっきりさしつらぬいてくるそれが、わたしからだじゆうを、はちのようにしてくるのだ。そして、あなからは、くるしみのしずくとでもいたいようなのうじゆうが、なかかけいおと(※といながれるみずおと)でもいているように、たら、たらと、いらいっぱいながれおちてくるのだ。わたしはもうときなにかんがえるりよくもなくなって、いしばりながら、じっながれおちてくるのうじゆうおとみみをとめていた。
 すると、へまた、うえかねしずかしてきた。おそらくはかねは、けのかねうのだろう、それがにもしずかきこえてくるのだが、しかしわたしには、それがれのかねのようにかなしくきなされてきた。──ふたつ、みっつ、よっつときこえてくるそれが、わたしあたまなかで、ながれおちてくるのうじゆうおといっしよになるせつに、くろく、そして、なまりのようになってかたまってくのが、はっきりとわたしには、にするようにかんじられてきた。わたしまでもまでも、のままにじっとしていた。──かなしくもまた、おそろしいさいつもののようにして、わたしまでもまでも、のままじっとしていた。

2020年11月12日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』最新話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

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