第55章

根津權現裏(第56話)

焚書刊行会

小説

6,230文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 もうまできてかんがえてみると、わたしいまいままで、それとばかりおもいこんでいたように、おかけっして、たいみやけんためさいしたのではない。かれするまえに、もうかれせいしんじようをきたしていたのも、それはけっして、かれねんらい宿しゆくしつのせいでもない。一にのきたる所以ゆえんざすところは、みなこれかれびんぼうだったからだ。だから、てんからえば、かれくまでさつしたのではなく、まさしくかれびんぼうにかかって、えなくもころされていったのだ。
 そうとわかるとわたしは、こんみやたいしても、おおいにじくたらざるをなくなってきた。なるほどみやおかたいしてったたいは、けっしてしようようすべきものではなかった。それはみなかれしきにそうしたのではあろうが、すくなくともかれは、おかじよせいするにあずかってちからあったことだけはいささかのうたがいもないことだ。そして、それはくまでしようきよくてきにおいておこなわれたのだ。とうのは、ときみやが、そくおかしやざいれてやったとしてからが、いっぽうかれしっかんぜんしないかぎり、かれきっほかにそれらしいもんだいとらえてきて、ためにまたさつしてしまっただろうから、それをらずに、わたしはただ一に、みやとうがいしやだとのみおもいこんでいただけに、いままでわたしは、あますなくかれどんかんさをげ、かれきようりようさをらして、かれとうしていたのがはずかしくなってきた。
 いまし、ぜんぜんじつてんとうして、一も二もなくおかさつがいしたものはみやだとする。みやみずからくだして、おかくびくくったものだとうなら、どうわたしは、したからおかあしっぱったことになるのだ、そうではなかろうか。なんいっぺんあたうるでもなく、やすやすとあくにもすべきものわたしてやったのはわたしだから、いよいよけっさんするになると、それまでにわたしみやくわえていたなんなかばは、とうぜんわたししんわねばならないことになってくるのだ。それがわたしにはおそろしかった。
 それにしても、どうしたらわたしに、へくるまで、おかいてじんそれとづかなかったのだろう。げんかれは、するまえぜんかいわたしのところへやってきているのだ。そして、ときかれげんこうが、かなりじよういっしていたのはわかっていた。それでいてわたしは、じんそれがかれじようあるせいしんじようたいからきていることにづかなかったのだから、かんがえてみると、もうわたしは、ぶんはらをもりさきたいほどはらだしく(※はらだたしく)なってくるのだ。
 しあのあいわたしがそれとったからとて、ちよくせつわたしぶんちからではどうすることもなかったにそうない。だがしかし、わたしときそれとさとることがたら、わたしかぎりのほうほうこうじて、かれびよういんれるようにしてやるのだった。そして、いますこげんじゆうかんしゆをしていたなら、かれだってなにこんのようにさつしなくともかったのだ。かれは、おもむろにしっかんりようをしながら、せいようせいようかさねたなら、みごとけんこうかいふくすることがないことでもなかっただろう。それをおもうと、わたしたまらなくなってくる。
 あい、そしてんだるいっしゅさつじんざいおそろしいざいあくを、だれかれひととがめるまでもなく、もうわたししんがそれをおかしているのだ。いまいままで、わたしこえおおきくして、べんなんこうげきしてかなかったみやてつを、わたしんでいるのだ。つぐないは、なにったらるのだろう。おかのことは、いまさらくらくやんだところでもうかえらないことだ。だからせめてうえは、きゆうばいするさいしんちゆうをして、二ふたたびこうったいはのこさないようにしよう。そして、しゆだんひとつとして、こんせいがくかいぼうがく、それにびようがくいっぱんくらいまなぶことにしたいものだとかんがえてくると、こんはまたわたししんあしのことがになってきた。
 そうだ。これもけっしてひとごとではない。いまわたしびようせいは、どのてんまですすんできているのだろうか。それと、いったいしっかんは、なるげんいんからしてきているのだろうか。これは、あいいではっせいしてくるばいきんかんけいから、こうったふう宿しゆくしつになってくるのだろうか。しそうだとすれば、それはどんなせいしつばいきんなのだろう。それをこんぽんからぼくめつするほうほうはないものだろうかとおもってくると、わたしなにいてもかねしくなってきた。──びようりしらべるうえからも、またりしらべてみて、りようわかってからも、ひつようなのはかねだ。かねがなければ、わたしおかしようがいるように、むなしくをつかねて、はいしつになるのをっていなければならない。それにつけても、しいものはかねだ。これがなければ、いっぽんのバットだってくちにすることがないのだ。いわんや、ぶんわずらっているしっかんびようりしらべたり、りようほうこうじたりしたうえに、いてはにんために、一ぱんせいがくかいぼうがく、それに、びようがくなどをることがようかとおもうと、わたしはてしもないこうなかに、ただひときくれてしまったようなちになってきた。
 それにつけても、ただしいのはかねだ。かねさえあれば、こんなかなしいおもいはしなくともいのだ。そうだ、かねさえあれば、ちどころにちゆうてんとうすることもるのだ。きっきようふくも、のままにして退けることがるのだ。とおもえばおもうほど、こんはまたつうあいために、あたらいっしようやみからやみほうむっていったおかのことがしのばれてきた。──まずしいものしようちようのようなおかいっしようしのばれてきて、わたしはもうに、じっすわっていられなくなってきた。もうわたしには、それまでおぼえていた、ろうなどはもんだいではなかった。ただわたしは、ざんぶんかおを、おかあにまえに、らしているにえられなくなってきた。わたしいっこくはやくもうはずして、そとたくてならなかった。そとて、ぶんひとになって、そして、もっとふかふかおかのことをかんがえてみたかった。うえわたしは、ぶんげん、またんだつみまえに、ざんなみだをながしたかった。だからあいだにおけるわたしこころちは、ちようをかけられたへびのようにてんてんはんそくしていた。とへ、
「いや、わしゃそうおもうがいね。なさけないやっちゃわいね。──だいおとこが、おいおいとばなしにくなんて、そんなだらくさいことはないがいね。」とおかあにことくわした。──なかどくのようにって、たんしているそれにくわした。それをみみにすると、わたしはいよいよすわっているわけかなくなってきた。ろんときは、流石さすがわたしも、しようめんからことかさねて、さらつよせつしゆちようしようとうようなちなどはなかった。それはもうはいのようになってすたれてくずおれていた。それでいてごうじようわたしは、ひとつはきがかりじようぜんぶんせつりけして、はんたいあいのそれをぜんこうていしようとちにもなれなかった。もうわたしは、ひようそとみはずしているとはおもいながらも、
「どうもぼくにはそうはおもえませんね。──ひょっとしたら、そうです、ひょっとしたらそうかもれませんが……」とうような、れながらあいまいごくなことをって、それをっちゃろうとした。そして、ひようめん憎憎くしいまでにおちはらってこうはったものの、くせないしんは、いまにもちっそくしそうになっていた。そして、わきしたへ、ぽたりぽたりと氷柱つららさきからちるしずくのようなあせながれるのをおぼえた。そして、わたしときすかさず、
「あなたは、ぐおかえりですか。」とっていてみた。ろんこれは、わたしがはっきりしきしてったのに相違ちがいないが、しかし、とういってんして、すきにつけこんで、げてしまおうとこころのたくらみは、おおうべくもなく、あいだあらわれていた。だい一それは、あまりにきゆうであり、したがって調ちようかには、かくしてもかくしきれないきゆうはくさをっていた。だからわたしは、こころぜんおどりあがるむねをおさえながら、じっあいかおいろをみていた。するとおかあには、
「ええ、もうようんだから、…」といかけて、ちょっとって、「明後日あさってあたりかえろうかとおもうがいね。」とうさまが、あんがいぞうなのだ。には、わたしちゆうはかっているらしいところなどはじんられなかった。それがうれしかったとえばうれしかったが、どうわたしは、うちぶんきようこうかつさにたいして、げんしやくかんじなければならなかった。そして、一づるをきってはなれたるいんぼう(※せんじよう)は、きつくところまでかなければならなかった。
「で、て、それから、らっしゃるんです。」
「ええ、たけおとうとさんのところへこうとおもうとるがいね。──あのひとは、したたけちようの五ばんにいるがいね。」
「そうですか。そいじゃぼくは、またたけさんのおたくほうへおたずねすることにしましょう。あなたはおさしつかえありませんか。」
「わしゃいわいね。いるわいね。あんたがきてくださりゃ、わしゃっとるがいね。かでさけでもんではなそうかいね。」
 それをくと、わたし流石さすがおかあにだとおもった。それは、さけんでだんじようとうことは、なにもひとりおかあにのみにかぎられたことではないが、あいわたしには、それがにもおかあににふさわしくおもわれた。そして、それがまた、わたしをして、いんしゆへきうのかそれともあいいんうのからないが、とにかくおりにふれ、じようじてさけぶことをわすれなかった、おかのことをおもわせもした。
「じゃぼくこんはこれでしつれいします。」とってあいさつすると、
「そうかいね。おかえりかいね。」とって、まじまじとわたしかおながら、「こうふうとんもないので、もらうちゅうわけにもかんまつやがいね。ほんまにまんこっちゃがいね。」とってから、またことをついで、「ああ、そうやがいね。どうやいね。あんたがるようなもんがあったら、っていかんかいね。みんなふるざっばかりのようやけど。」といながらって、かさねられてあったざっの一やまと、さんせいどうからはっこうした、「はんえいてん」一とを、わたしまえってきてくれた。
「じゃ、えんりよなく、いただいてきます。とくさんのかたですから。」とって、わたしなかから、ぶんしようかいと、ぶんがくとのぞうかんかくずつと、ほかに「はんえいてん」とをりわけてから、「そいじゃ、これだけいただいてきます。」とうと、
「あとはらんかいね。わしにはようのないもんやさかいに。」とって、なおもわたしすすめてくれた。
「ありがとうござんす。そとあめってますし、それにぼくは、あしわるしますから、これだけいただいていきます。」とうと、
「ああ、そうかいね。さっきからすっかりわすれてしもうて、ついおたずねもしなんだが、あんたのあしはどうやいね。」と、わたしあしほうそそぎながら、こうってってくれた。
「ええ、ありがとうござんす。ごろまたいけないんです。──でも、こうかわりめにはきっいけないんですが、こんはまたすこしいけないんです。」
 わたしときこころひだりあしちあげるようにして、ひざうえからかけて、ずっとしたほうでおろしてみた。そして、またさびしくなってきた。
「そりゃどうもいかんこっちゃがいね。わしゃちよっこりもらんもんやさかいに、きもせんでしたが、ほいならさっきから、ひざくずしてもろうたらかったがいね。だから、わしゃそううたがいね。ほんまにまんこっちゃったがいね。」
 おかあには、にもどくそうに、しみじみとこううのだ。
「いいえ、なあに、たいしたこたあないんです。」とこうってからわたしていとうして、「ではしつれいいたします。またおにかかります。」とあいさつして、わかれをげることにした。じつわたしはこれよりまえに、おかそうのことにいて、かれはかってみることにづいていたのだが、なにぶんにもときは、もうすわっているとうことは、わたしにははなしごくはりむしろすわっているもどうぜんだったから、それもこれも、さいのことはみなかいゆずって、とにかくかえってくることにしたのだ。
 それともひとつは、ほんらいならわたしことあらためて、おかあにたいしておかいたみ、またかれこころなぐさめてやろうかともおもったが、しかしときなにらそうったふうことは、ちょっとわたしくちびるにのぼらなかった。おそらくこれは、ともするとそうったことなるものは、わざとらしくつけやきになるおそれのあるのをわたしっていたから、それをおそれるこころちが、ぜんわたしくちつぐませてきたのではなかろうか。どうやらわたしにはそうおもわれる。
 で、わたしがそうってりよういて、ていとうして、それからもらったざっしよかたにしてちあがると、どうようおかあにもそれにむくいてから、
「いろいろと、ありがとうござんしたがいね。あんたのおかげさんで、すっかりことわけわかったがいね。ほんまにありがたいこっちゃったがいね。それにあめなかを、あしわるいのにきてもろうて、ほんまにおどくなこっちゃったがいね。なんのあいものうておどくやったがいね。」とって、ようやちあがった。そして、わたしあとからいててきた。
「いや、わかってますから、あなたはやすんでください。」
 わたしは、三がいかいだんぐちへくると、ちどまって、おかあにおくりをしやぜつした。だがおかあには、
いわいね。わしもしたまでくわいね。」とって、ちさろうとはしないのだ。わたしかたがないから、あしもとをつけながら、ときには一だんだんひろうようにしておりてきた。──そうしておりながらも、さいぜんをのぼってきたときいきおいをおもいだしたときには、それがとおいくとせまえの、そうだ、わたしがまだあしまないまえごとかなにかのようにおもわれもした。
「そいじゃしつれいいたします。おやすみください。」
 やがてわたしへおりつと、こんざってんとをかいちゆうして、かたきつねいろをしたむぎわらぼうを、かたやぶじやって、こうってあいさつすると、
「おやすみ。」とってそれをけて、「いろいろありがとうござんしたがいね。」と、あとけてくわえたりした。
 わたしあいだに、きあたりのはしらにかかっているけいぬすみみてみた。するとちようちようたんしんが、三のところにかさなりっていた。それをるとわたしは、
「さよなら、おやすみなさい。」とまたあいさつをして、「ああ、それから、ぼくたずねするのは、れになるだろうとおもいますから、そのおつもりでいてください。」と、あぶなわたしいわすれようとしたほうもんかんのことをおもいついたので、それをことわっておくことにした。
「ええ、いともいね。わしゃっとるから、きてくれんかいね。」
 それをわたしみみにしながら、そっとがらけてそとてきたときには、ほんとうはなたれたもののみにゆるされているあんさをつうかんした。──ろんには、おかあにがんぜんからはなたれたよろこびがあったのはうまでもないが、しかしときわたしには、なおほかにもひとわたしよろこばしてくれるものをっていた。とうのはなんだとえば、それは、わたしがそれまであんわずらっていた、しゆじんとのあいだに、なんらいざこざもなく、しゆけでてきたうれしさがあったからだ。──わたしへおりってからも、どんなに宿やどものどうせいになったかれなかった。それと、おかあにいっしよに、かいだんをおりてくるあいだにもわたしいっそくごとに、どんなにおんきようづかわれたかれなかった。わたしには、はりすようにそれがわたしむねひびきわたってくるときには、ちよういまにもおっつかまえられでもするときのようなあんさをおぼえた。ところで、それもこれもつうしてきたのだから、わたしだいくちづけしたいようなうれしさをつうかんしたのだ。

2020年11月8日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第56話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

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