第53章

根津權現裏(第54話)

焚書刊行会

小説

2,656文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 かんがえてみると、なるほどおかあにかたにも一ある。わたしいまかれから、おかおとこきにいたあげに、ぶんさいして退けるのだとってかなかったてんてきされたときには、わたしすこあいまいにではあるが、いったんそれをみとめてきながら、さらかれげんことないようが、じんかれへいぜいもどるようなところがなかったとって、てんからいっさいおかせいしんじようたいまでしようしようとした。がいまいっ退いて、れいせいにこれをかんがえてみると、わたしうことが、ろんごくなものかとうことがわかってきた。えば、わたしすでに、おかごえはなったことや、さいけんだいして、ためさいして退けるのだとってかなかったてんいては、おかあにどうように一だいもんにしていたからだ。ところでそれをあいからてきされると、げんにそれをにんしたばかりか、にんゆうとしては、なんゆうにもならないゆうげたのにぎないのだから、れながらあきれざるをない。
 たまたまあいものが、なところから、えてろんそうしかけてこないからいようなものの、むこうがそれとづいて、しかえんりよわたしせつじゆんどうちやくさをてきしながらしつもんしてきたときには、わたしなんっておうせんしたらいのだ。ごえはっしながら、さいして退けようとものと、わたしはんぷくおおいつとめて、さいすることのわれない所以ゆえんくにいたってようやくそれをこうていしたものとは、うまでもなくどういつじんなのだ。どういつじんだとすれば、それらのようは、かくことなったせいしんからおこっているのだとうような、そんなじようなことがわれるはずがない。それがようやへきて、はじめてわたしにもりようかいされてきた。りようかいされるとわたしときわたしりようえぐりとってしまいたくなった。そして、ぶんあたまを、じようちつけて、やぶらしてしまいたくなった。
 まったおかあにとおり、おかはもうそれとこうがいしたしつづくとともに、もうかれせいしんじようていしてきたのだ。すくなくともかれは、わたしのところへやってきて、しやざいをしにってきたとうことをだんじたときには、まさしくそれだったに相違ちがいない。それにしてもかれなにげんいんで、そうふうになってきたのだろう。これがさいのこされたもんだいだ。
 ところでわたしは、はっきよううのか、それともせいしんびよううのからないが、それらのものは、なにげんいんおこってくるのか、それにいては、ほとんどしきらしいしきさえもっていない。ただわたしっているのは、せいしんびようには、せんてんせいのものと、こうてんせいとのものがあるとうことだけだ。あいおかは、いずれにぞくするものなのだろう。
 わたしおかとは、十三ねんかんまじわっていた。あいだわたしは、いろいろかれから、かれていのことをかされたものだ。だがわたしは、かれけつとうせいしんびようでんがあるなどとうことは、ついぞみみにしたことはなかった。これはうたがえば、よしそれはじつあったにしたところで、じんほこりになることでもないところから、流石さすがかれもそれだけはめていて、わたしにもえてかたらなかったのかもれない。だからわたしは、一で、じっおかあにしつもんしてみようかともおもったけれど、あまりにことがとうとつであるばかりか、そうったしゆくすべきことでもないことをしつもんするとうことが、せいらいえんりよわたしにも、流石さすがはばかられてきて、それだけはなかった。
 で、わたしは、こんかたなく、これをこうてんせいのものとして、げんいんたんきゆうしてみることにした。がかなしいかな、これにいても、わたしかくたるしきらしいしきっていないのだ。ただわたしっているのは、それはおうおうしんけいすいじやくからくることがあるとくらいのものだったが、ではおかしんけいすいじやくにかかっていたかどうかともんだいになると、わたしはそれにいても、たしかにこれとって、てきするになにものをもっていなかったから、ほとほとよわってしまった。へくると、もんだいはまた、いっしゅめいきゆうはいったかたちだ。がしかし、ままにしてわけにはいかない。なんとかして、びよういんのきたる所以ゆえんたんきゆうしなければならないが、さて、それがいっさいなになにやらわからないのだから、わたしほうれてしまった。
 ──わたししたしくけんぶんしたおかげんこうと、いままたかれあにからちようしゆしたるかれげんこうとをそうごうしてかんがえてみると、どうやらかれせいしんにはじようがあったものらしい。いや、じようがあったものらしいではりない。たしかにあったものだとけっていしてもさしつかえないようだ。いや、さしつかえないようだでは、まだはっきりしない。それにそうなかったのだ。とすれば、それにはげんいんがなければならない。げんいんには、たいべつして二しゆある。ひとつはせんてんせいすなわでんからくるものと、いまひとつはこうてんせいすなわほかしっかんからくるものとがある。ところで、おかあいは、せんてんせいのものではないとう、これはわたしていだが、ていからしゆっぱつすると、どうしてもかれは、こうてんせいのものでなければならなくなってくる。そしておうおうにしてそれをじやっしてくるものにしんけいすいじやくがある。とわたしはまた、もう一もとかえってかんがえてみたのだが、やはりまでくると、だいわたしには、かれいてそれらしいてんがあったとうことをすこしもつかんでいないので、はたときづまってしまうのだ。しかし、くらかんがえたところで、わたしっているしきは、これをほかにしては、さらるところがないのだから、でもういっさきすすかりがなくなったとすれば、ざんねんだが、ちきってしまうよりほかはない。がしかし、わたしにはどうもそれがおもいきれないのだ。とって、これよりじようには、どうすることもなければ、こんくらがんっても、ぜんしようめつするのを、じっをつかねてていなければならなくなってくるのだ。がいったいどうしたらいのだろう。どうなってくるのだろうとおもって、れんなようだが、またいろいろとかんがえてみたのだ。するとこんは、こううことをおもいついてきた。──
 げんざいわたしっているかぎうのは、「しんけいすいじやく」なのだ。それをもってわたしは、おかびよういんなるもののしようめんけようとしたが、それはわたしにしているかぎほうちいさくてなのだ。だから、どうでもかぎでもって、ないはいろうとするには、こんうらぐちまわってみるよりほかにはようがない。そして、じようまえあたってみるよりまえに、わたしわたしっているかぎけいじよう、またはこうぞうを一おうとり調しらべてみるひつようがあるとおもったのだ。つまり、しんけいすいじやくなるものは、なるてんからしようじてくるものか、それを一たしかめてかかるひつようがあるとおもったのだ。うえで、うらぐちってみてわなかったときには、またほかさくこうじてみようとうとこへがついてきたのだ。

2020年11月6日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第54話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

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