「僕は此の世の中に、無知な者ほど恐ろしい者はないと思いますね。それとともに、幾くら其の人に學識があっても、其の人自身がおぼっちゃんな位悲しいことはないと思いますね。今度のことなどは、それを證據立てるのには、最も好い例でした。僕はそう思いますね。──あの宮部さんですね。あの人は、僕が不斷から想像してたよりも、もっともっとおぼっちゃんだったのには驚きました。何しろ、今度のことで僕は、あの人が人間として、どんなにやくざな人かと云うことが分りました。ところであの人は、これからも今まで通り世間からは、相變らず一個の有数な人として、心理學者として迎えられて行くでしょうが、しかし、僕だけは、もう此の上は微塵尊敬しやしません。もう、そう云うことは出來なくなっちゃったんです。──若し、統計學者が統計表を作るようにです、あの人もただ單に心理學の專攻者として、これからますます有名になるのは少しも妨げませんが、ただ僕は、一個人間としてのあの人を尊敬することは、先ず當分は出來やしません……」
「なるほど。御尤もやわいね。」
私がまた、ちょっと言葉を切って、ひと息ついているところへ、岡田の兄がこう云ってきた。それは全部私の說に賛同したもののような云いぶりだった。がしかし、私は何か知らそれを、其のまま受けいれる氣にはなれなかった。
第一彼は、全部私の說を理解することが出來たのかどうか、それに對する疑いもあった。よしまた、それを理解することが出來たとしても、彼の立場からして、全部それを肯定し得られるのかどうか、それに就いての疑いもあった。要するに私は、そう云った風な、云わば形而上學のことをともに斷ずる人としては、岡田の兄なる人は、かなり不適當な人間だと云うことが、此處へくると、丁度夜路に迷っていた者が、夜の白むにつれて次第にそれを發見するように、私にもそれが考えられてきた。だから私は、もう好加減に、盲目相手の繪畫の說明は止そうと思ったが、一つは私の性癖の然らしむるところなのだろう。そう思いながらまた私は、つい其處へ言葉を續けてしまった。
「今になると僕は、あの人も屹度、自分のしたことに就いて、臍を嚙んでるだろうと思います。──あの人が、それが自分とは切っても切れない關係のある事件だっただけに、德さんのすることなすことを、凡べて疑いの目で持って迎えたのでしょうが、其の德さんが其の事件の爲に一種氣違いになった揚句に、とうとう首をくくって死んだのを見た時には流石にあの人も、自分の身を割かれるように思ったことだろうと思いますね。殊に僕は、たまたまあの人が、心理學の研究者だけに、今になると餘計にそれがはっきりしてきて、溜らないだろうと思いますね……」
「あの人のやってる學問てのは、どうする學問やいね。」
「あの人のやってきたなあ心理學と云う學問なんです。其の學問は、意識の現象、若しくは精神の狀態に就いて研究するものなんです。──むずかしく云えばそうなんです。つまり、廣く人間の心の働きに就いてのことを調べる學問です。」
「心の働きて云うと、どんなこっちゃいね。」
「例えば、人間は誰でも、生きて行くには、どんなことでも、──善惡かまわず、どんなことでもし兼ないもんですが、これはどう云う關係からなのかと云うことですとか。人間は誰でも、金の十圓も手にするとうれしくなるところから、若しも自分が、今百圓の金を持ったら、どんなにうれしいだろうなどと云うことを考えたがるものですが、これはなんの必要からきてるのだろうかと云うことですとか。人間は誰でも、火を摑むと熱いと思うのと同しように、氷を飮むと涼しくなりますが、これはどう云う譯からそうなるのかと云うことですとか。人間は誰でも、知った人の顏を見ると、直ぐこれは誰だったかと云うことを思いだすように出來てますが、これはどう云う働きからきてるのかと云った風なことを研究する學問です。──これはほんの一例ですが、こう云った風な人間の心持ちのことを、つまり、心の働きに就いてのことを調べる學問なんです。」
「そう云う譯かいね。なるほど……」と云うのを私は突きのけるようにして、
「ですからあの人は、其の方面のことに掛けちゃ、なかなか委しく知ってる人なんです。ところであの人は其の方面の學理には精通してますが、いざこれを自分が實地にやる日になると、まるで心理の心も皮も知らない者同樣になっちゃいますから、始末が惡いんです。そうじゃありませんか。今も云ったように、あの人は德さんが、植松さんのことや新聞社のことを話しますと、それは謂わば無理やりにです、自分に不利益な方面にばかり想像した結果が、それに就いちゃちっとも罪も咎も持っていない德さんを捉えて、やけに罵詈讒謗するって風ですから、憎らしくなっちゃうんです。そして、僕の云いたいのは此處なんです。此の『想像』と云うことに就いちゃ、流石あの人は專門家だけに、僕達が想像してるよりももっともっと精通してるでしょう。少くとも、僕なんぞよりは大學者に相違ありません。つまり、『想像』と云うものの行われる所以、其の作用の僕達人間に齎らしてくる効果と云った風なことに就いちゃ、屹度あの人は委しいだろうと思いますが、それがいざ實際に打つかって、今までは一種の研究材料として取扱ってた其の『想像』なる働きを自分自身でやることになると、皆こと壞し(※うまくいかない有様)なんですから、僕は可笑しくなっちゃうんです。と云って、僕は何も、そう云った心の働きを、心理學者にだけ、しちゃいけないなんて分らないこたあ云やしません。恐らくはあの人達だって、不斷に自分もそれをやるところから、やがてそれを研究してみようと云う氣にもなったんでしょうから、そんな分らないこたあ云やしません。ただ僕の云いたいのは、それをするにも、其の人自身が、苦勞をしていなきゃいけないってことなんです。少しむずかしく云えば、其の人は、其の爲に徒らに、人に迷惑などを掛けないだけの用意を、つまり、人格を持ってかからなきゃいけないってことなんです。何故って云えば、其の用意を怠ってると、丁度今度のように、其の爲に、人一人を殺すようなことになるからです。……」と、無闇と急きこんで語ってくると、我れながら自分の云っていることが、なんだか袋の中のものでも探りながら云っているように思われてきた。第一、私の說き方が、餘りに抽象的に傾いているのに気づいてきた。所詮こう云う風に說いていては、恐らくは岡田の兄だって闇雲に捉えられたような氣持ちだろうと思うと、私は自分の氣の利かなさ加減が顧みられたりして、恥かしくさえなってきた。で、私はそれと氣づくと、今度は此處へ、一つの比喩を持ってくることにした。
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