第50章

根津權現裏(第51話)

焚書刊行会

小説

2,752文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

ぼくなかに、ものほどおそろしいものはないとおもいますね。それとともに、くらひとがくしきがあっても、ひとしんがおぼっちゃんなくらいかなしいことはないとおもいますね。こんのことなどは、それをしようてるのには、もっとれいでした。ぼくはそうおもいますね。──あのみやさんですね。あのひとは、ぼくだんからそうぞうしてたよりも、もっともっとおぼっちゃんだったのにはおどろきました。なにしろ、こんのことでぼくは、あのひとにんげんとして、どんなにやくざなひとかとうことがわかりました。ところであのひとは、これからもいままでどおけんからは、あいかわらずいっゆうすうひととして、しんがくしやとしてむかえられてくでしょうが、しかし、ぼくだけは、もううえじんそんけいしやしません。もう、そううことはなくなっちゃったんです。──し、とうけいがくしやとうけいひようつくるようにです、あのひともただたんしんがくせんこうしやとして、これからますますゆうめいになるのはすこしもさまたげませんが、ただぼくは、いちじんかんとしてのあのひとそんけいすることは、とうぶんやしません……」
「なるほど。もっともやわいね。」
 わたしがまた、ちょっとことって、ひといきついているところへ、おかあにがこうってきた。それはぜんわたしせつさんどうしたもののようないぶりだった。がしかし、わたしなにらそれを、のままけいれるにはなれなかった。
 だいかれは、ぜんわたしせつかいすることがたのかどうか、それにたいするうたがいもあった。よしまた、それをかいすることがたとしても、かれたちからして、ぜんそれをこうていられるのかどうか、それにいてのうたがいもあった。ようするにわたしは、そうったふうな、わばけいじようがくのことをともにだんずるひととしては、おかあになるひとは、かなりてきとうにんげんだとうことが、へくると、ちようみちまよっていたものが、よるしらむにつれてだいにそれをはっけんするように、わたしにもそれがかんがえられてきた。だからわたしは、もういいげんに、もうもくあいかいせつめいそうとおもったが、ひとつはわたしせいへきしからしむるところなのだろう。そうおもいながらまたわたしは、ついことつづけてしまった。
いまになるとぼくは、あのひときっぶんのしたことにいて、ほぞんでるだろうとおもいます。──あのひとが、それがぶんとはってもれないかんけいのあるけんだっただけに、とくさんのすることなすことを、べてうたがいのってむかえたのでしょうが、とくさんがけんためいっしゆちがいになったあげに、とうとうくびをくくってんだのをときには流石さすがにあのひとも、ぶんかれるようにおもったことだろうとおもいますね。ことぼくは、たまたまあのひとが、しんがくけんきゆうしやだけに、いまになるとけいにそれがはっきりしてきて、たまらないだろうとおもいますね……」
「あのひとのやってるがくもんてのは、どうするがくもんやいね。」
「あのひとのやってきたなあしんがくがくもんなんです。がくもんは、しきげんしようしくはせいしんじようたいいてけんきゆうするものなんです。──むずかしくえばそうなんです。つまり、ひろにんげんこころはたらきにいてのことを調しらべるがくもんです。」
こころはたらきてうと、どんなこっちゃいね。」
たとえば、にんげんだれでも、きてくには、どんなことでも、──ぜんあくかまわず、どんなことでもしかねないもんですが、これはどうかんけいからなのかとうことですとか。にんげんだれでも、かねの十えんにするとうれしくなるところから、しもぶんが、いまひやくえんかねったら、どんなにうれしいだろうなどとうことをかんがえたがるものですが、これはなんのひつようからきてるのだろうかとうことですとか。にんげんだれでも、つかむとあついとおもうのとおなように、こおりむとすずしくなりますが、これはどうわけからそうなるのかとうことですとか。にんげんだれでも、ったひとかおると、ぐこれはだれだったかとうことをおもいだすようにてますが、これはどうはたらきからきてるのかとったふうなことをけんきゆうするがくもんです。──これはほんの一れいですが、こうったふうにんげんこころちのことを、つまり、こころはたらきにいてのことを調しらべるがくもんなんです。」
「そうわけかいね。なるほど……」とうのをわたしきのけるようにして、
「ですからあのひとは、ほうめんのことにけちゃ、なかなかくわしくってるひとなんです。ところであのひとほうめんがくにはせいつうしてますが、いざこれをぶんじっにやるになると、まるでしんこころかわらないものどうようになっちゃいますから、まつわるいんです。そうじゃありませんか。いまったように、あのひととくさんが、うえまつさんのことやしんぶんしやのことをはなしますと、それはわばやりにです、ぶんえきほうめんにばかりそうぞうしたけっが、それにいちゃちっともつみとがっていないとくさんをとらえて、やけにざんぼうするってふうですから、憎にくらしくなっちゃうんです。そして、ぼくいたいのはなんです。の『そうぞう』とうことにいちゃ、流石さすがあのひとせんもんだけに、ぼくたちそうぞうしてるよりももっともっとせいつうしてるでしょう。すくなくとも、ぼくなんぞよりはだいがくしやそうありません。つまり、『そうぞう』とうもののおこなわれる所以ゆえんようぼくたちにんげんもたららしてくるこうったふうなことにいちゃ、きっあのひとくわしいだろうとおもいますが、それがいざじっさいつかって、いままではいっしゆけんきゆうざいりようとしてとりあつかってたの『そうぞう』なるはたらきをぶんしんでやることになると、みなことこわし(※うまくいかないありさま)なんですから、ぼくしくなっちゃうんです。とって、ぼくなにも、そうったこころはたらきを、しんがくしやにだけ、しちゃいけないなんてわからないこたあやしません。おそらくはあのひとたちだって、だんぶんもそれをやるところから、やがてそれをけんきゆうしてみようとにもなったんでしょうから、そんなわからないこたあやしません。ただぼくいたいのは、それをするにも、ひとしんが、ろうをしていなきゃいけないってことなんです。すこしむずかしくえば、ひとは、ためいたずらに、ひとめいわくなどをけないだけのようを、つまり、じんかくってかからなきゃいけないってことなんです。ってえば、ようおこたってると、ちようこんのように、ために、ひとひところすようなことになるからです。……」と、やみきこんでかたってくると、れながらぶんっていることが、なんだかふくろなかのものでもさぐりながらっているようにおもわれてきた。だい一、わたしかたが、あまりにちゆうしようてきかたむいているのにづいてきた。しよせんこうふういていては、おそらくはおかあにだってやみくもとらえられたようなちだろうとおもうと、わたしぶんかなさげんかえりみられたりして、はずかしくさえなってきた。で、わたしはそれとづくと、こんへ、ひとつのってくることにした。

2020年11月3日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第51話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

私小説 純文学

"第50章"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る