第49章

根津權現裏(第50話)

焚書刊行会

小説

3,057文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 おかあには、それまでは、
「ああ、そうかいね。」とったり、またはわたしが、かれどうもとめるようにするときには、「もっとも。」とったりして、にもしんみようきいっていたが、へきてわたしことらすと、
「そうわけかいね。ほんまにだらなやっちゃわいね。これもみんな、ぶんでそんなことを、しゃべってあるくからわるいのやわいね。」と、ひときわこえおとしてえいたんした。にはおとうとちにたいして、くらくやんでもくやみつくせず、くらうらんでもうらみつくせないかなしみが、まわるようにはげしくうずまきっているのが、わたしにもはっきりむことがた。だがしかし、ったかれなんいては、わたしまえにも一わたしかんがえをべたとおり、わたしはそれをしかいやしみ憎にくにはなれなかったので、にはべつなんともわずにいた。ただあいだにも、わたしにはそうったふうなくだらないもんだいために、むなしく一めいしてしまったおかのことが、にもあわれにかんじられてならなかった。
 おかあにがまた、
「それにみやさんもみやさんやがいね。そうやないかいね。なにもそんなに、ぶんからまわして、とくいじめないでもかろうがいね。あのひともえらいがくしややとうがいね……」とってふかためいきとともに、むねあふれるへいらしてきた。それをみみにすると、むすれていたわたしむねひらいてきた。また、くちかるいてきた。
わたしもそうおもいます。がしかし、あのひとがおぼっちゃんで、すこしもろうらしいろうもせずに、わばところてんきだすようにだいがくしだされてきたんでしょうから、こんのようなけんにぶつかると、いきなりこしをぬかしてしまうのは、むしとうぜんかもれませんね。いったいけんひとたちは、がくだとかはかだとかかたきさえあれば、さもえらそうなにんげんのようにおもっていますが、までもそうったふういっしゅめいしんいだいているから、みずなかからたまびだすようなことになるんです……」とってきて、わたしがちょっといきをついでいると、
もっともですわいね。」とって、おかあにりこんできた。ところで、の「もっともですわいね。」とうのは、けっしてかれが、わたしせつこうていしたところからったのでないことは、わたしにもはっきりわかっていた。──かれは、わたしせつとうかんなどは、とうていかいべくもないことだ。だからかれは、それにさんひようするためにこうったのではなくて、ただけいしきじようわばはなしいのとして、いっしゅのおざなりにそれをったにぎないのだ。がしかし、それをけるわたしになると、──それはくまでいっしゅのおざなりにぎなかろうとも、それがどんなにうれしかったかれなかった。
 わたしこんけんたいするみやたいいては、ちゆうしんおおいあきたらないものがあったから、わたしはなから、わたしおかとのこうしようてんまつかたったあとには、くちあらたにして、かれとくさ、かれどんかんさをかぞえて、おもいきりかれとうしてやるかんがえだった。ちようへ、おかあにはなしくちてんじてくれたから、わたりにふねでもって、いよいよぶたってはなったのだ。するとこんはとにもかくにも、たるおかあにからわたしは、ひようめんだけでもわたしせつどうすることたから、それにってなお一だんゆうくわわるのをおぼえた。で、わたしぐとあとっかけて、
「そうじゃありませんか。にんげんだいがくで二ねんねんまなんで、それでいっゆうしゆうにんげんになれるなら、もうろうひつようがなくなりますからね。それもです。がっこうほんとうに、こんぽんからにんげんこしらえるのをもくてきとして、それぞれのがっさずけているならまだしもですが、あのひとえてきただいがくうところは、いっさいそううことをきにして、ただかくがくせいぼうする一もくだけをせんもんおしえるところですからたまりません。──おそらくはだいがくでは、そうったがっは、しようがくからちゆうがくちゆうがくからこうとうがっこうてくるうちさずけてあるはずだ。それに、がくせいみなそれぞれのていにおいて、それぞれのから、そうったりんきよういくけてるはずだとかんがえから、えてきようじゆしようとはしないのでしょうが、じつえんりよにこれをうらってるから、あわれになりまさあね。じっしようすなわみやさんです。あのひとをみれば、いっとうあいだしようそくわかります……」とってくると、おかあには、またくびっこんで、
「そりゃそうやがいね。」とうのだ。わたしへくると、もうそうおかあにさんかんなどはもんだいではなかった。ただわたしは、たんなくわたししんずるところをかたるのにきゆうだった。だから、それにっかぶせるようにして、
しもだいがくうところが、ほんとうにおいて、にんげんこしらえるところなら、つまりほんとうにんげんじんかくさずけるところなら、だいみやさんは、くらひつようがあり、くらこまったからとっても、ほかからたくされてるきんいんわたくしするような、そんなとくなことはしないはずですからね。ところで、それははらえられないとったようなゆうがあって、ばんばんとくなことだとはりながらも、むにまれずつむって、一それをゆうづうしたのだとうなら、これはじようじようしやくりようして、いましばらもんしときましょう。ですが、ゆるしがたいのは、じつり、そして、あやまってそれをほかこうがいしたものが、あとぶんとくさをかくすると、もうあのひともとけつけてって、ひたすらしやざいしてるのに、それにみみさなかったことです。じつごんどうだんじゃありませんか……」とうと、わたしは一こうふんして、むねしつぶされるようになってきた。だから、おわりのほうことも、──「じつごんどうだんが、かぜたれている蜻蛉とんぼのようになってきた。ときわたしは、これではいけないとおもった。めて、「かんがえてらんなさい。ぶんげんに、とくさんどうように、いやそれじようせめうてるんじゃありませんか。それをあのひとれようとはしないんですからね。とうのも、あのひとほんとうていないからです。あのひとが、ほんとうろうらしいろうをしていないからです。それもはずです。──がくりっこうしたものいやしみ憎にくんで、ひとおのずからたかしとのみおもってるんですから、もないとえばそうもえますが、どうみやひとは、におけるもっといやしい、もっとみにくにんげんだとうことをかんなくばくしたことにもなります。わたしなにもあのひとに、ぶんようきゆうをしようたあおもいません。ただとくさんがあやまりにったときに、ただひとこと、『ゆるす』とさえってくれれば、それでかったんです。そうさえってくれれば、おそらくはとくさんだって、ななかっただろうとおもいます。それをあのひときよぜつしてれなかったばかりか、しまいには、とくさんがはなしのついでにしたしんぶんのことや、うえまつさんのことまでじやすいきよっかいして、とくさんをざんぼうしておかないんですから、なさけなくなるじゃありませんか。わたしわせると、とくさんをのうびよういんかんきんして、そして、これをのうびよういん便べんじよころしたものだれでもありません。それはじつにあのひとです。あのひとが、みずからをくだして、ころしたもどうぜんです……」とってくると、わたしはまたんだときのようになってきた。──こうちゆうすなふくんだようにかわいてきた。そして、まぶたあつくなって、いまにもなみだちそうになってきた。それをわたしじっえていた。ろんあいだくちけなかった。がなかにも、ちてきそうになるなみだを、おとしてはならないとおもうので、それをんでいるのに、どんなにつかったかれない。しまいにはかたなくなってきて、それとなくもせぬはなすすったりした。そして、ひとつはそれをまぎらかすうえから、またぐとあとつづけねばならなかった。

2020年11月2日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第50話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

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