それからだ。今度は岡田が問わず語りに、前夜宮部のところへ行ってきた顚末を語り出したのは。──
「僕は昨日の朝、起きると間もなく、伊勢町へ出掛けてみたんだ。そして、植松氏に會って、いろいろ譯を話して、僕は急いでるんだから、一日も早く、話のつくように心配して貰いたいと云って、懇懇賴んできたんだ。──賴みっ放しにして置いちゃっちゃ、何時になったら埒があくか分らないから、向うではさぞ、うるさいやつだと思っただろうが、とにかく僕はまた賴みに行ってきたんだ。それから暫くワイフと無駄話をしていて、晝飯を馳走になって、一時頃だった、其處を出たのは。それから僕は、ふと其の氣になって、東洋新報社に行ってみたんだ。そして、樋口に會って、君の社に明きがないだろうか。實は僕は、今までの方の仕事は、少し事情があって止しちゃったんだから、若し明きがあったら僕を使って貰ってくんないかと行って賴んできたんだ。樋口は、一つ社の者に聞いてみよう。ほんの形式だけで好いから、履歴書を置いて行きたまえと云うから、其處の給仕に賴んで、近所から罫紙を買ってきて貰って、それへ書いて置いてきたんだ。樋口は、何方みち返事は直ぐにするからと云っていたが、僕が此處を出て、數寄屋河岸を歩いてくると、また其の氣になったので、其處から電車に飛びのって、宮部のところへ行ってみたんだ。──行く路路も僕は、君が聞いたら嘸怒ることだろうとは思ったが、しかし僕は一旦そうと思いたつと、もう行ってみなきゃ凝としちゃ居られなくなってくるんだ。こうなんだか、まるで憑きものでもしたような風になってくるんだ。幾くら途中で、止そう止そうと思ったって駄目なんだ。もうそうなると、獨りでに引っぱられて行くような風になってくるんだから……」と云うのだ。
何しろ岡田の云うところを聞いて判斷してみると、彼にはただ感情あるのみで、微塵理性らしい理性さえも持っていないのだから始末が惡いのだ。つまり彼は、こうしたいと云う氣持ちだけがあって、それは實行して善いことか惡いことか、それを考える心の働きがないのだから困るのだ。で、私はもう口を利くまいと思っていたのだが、しかしそれを耳にすると、それから先どうなったのか、それが氣になってきたから、
「僕は、開いた口が塞らない。君はまた、どうしたら、そんな莫迦莫迦しい氣になるんだい。」と云って聞いてみたのだ。すると彼は、
「だって僕は、一言彼から許すと云うのを聞くまでは、どうも生きてる氣になれないんだ。だから、僕はまたあやまりに行ったんだ。──向うでは許してはくれまいとも思ったが、しかし僕は、もう一度と思ったので、それで出掛けていったんだ。」と云うのだ。
「で、どうだったい。許してくれたかい。」と聞くと、
「いや許してくれないんだ。幾くら言葉をつくしてあやまっても、一向に聞いてくれないんだ。」と云うのだ。私が想像するように、また彼が想像していたと云うように、其の結果は相變らず失敗に終ったのだ。私は其の時、また今までにも説いたと云うように、もう謝罪しに行く謂れのない所以を説いてやろうかと思ったが、しかし此の場合は、それよりも相手が何か彼の犯罪事實を、岡田が新聞へ投書でも企てでもいるもののように、誤解しているらしいと云った岡田の言葉の方が餘計と氣になったから、私はそれを彼に聞いてみたのだ。
「いやね、僕がそう云って幾くらあやまっても、彼奴は一向に聞いてくれないから、僕は話のついでに、今日新聞へ出ている友達のところへ行って、口を賴んできたんですと云ったんだ。そうだ。そして、僕は其の時、其の話をしながら、ふとこっていた原稿用紙を取りだして、洟を掻んだんだ。で、後になって考えてみると、其の原稿用紙が、餘計と彼奴にそう思わせたんじゃないかと思うんだが、そうしてると彼奴は、もう火のようになっちゃったんだ。──僕は何もそう云うことは直接、あやまりに行ったこととは關係はないんだから、しゃべらなくなったって好かったんだが、しかし僕は其の時また、丁度此の前植松のところへ行ってきたことを話した時と同しような心持ちから、それをちょっとしゃべったんだ。すると彼奴の怒りようったらないんだ。──『此の間も僕は君にそう云ったじゃないか。これっきり會わないからって、僕はもう君に用がないんだから、歸ってくれたまえ。──君がそう云った風に、友人が新聞社に居れば何よりじゃないか。其の友人に話して、書きたきゃ好きなように書かせれば好いじゃないか。もうそれで澤山じゃないか。なんだぜ、僕はこう見えても、君から新聞や辯護士を枷に使っておどかされたって、直ぐとべそを掻くほどまだ耄碌はしていないんだから、君も男なら飽くまで男らしくやるんだなあ。僕は一旦、君の手に依って摘發された事件を、また君の手に依って、それを抹殺して貰うなんて、そんなけちなことを考えてる人間じゃないんだから、こうなったら君も、人の氣心なんぞを引いてみたりしてないで、正正堂堂これを公の問題にしたら好いじゃないか。其の時は僕も、潔く法廷に立って、公の審きを受けようじゃないか。』と云って、其の怒りようと云ったらないんだ。それから、こうも云うんだ。──『君は曾て知己先輩から借りてきていた物品を、據ない必要に驅られた際に、一時それを融通したことはないか。例えばそれを質に入れたりして、金策したことはないか。僕はないとは云わさない積りだ。と云うのは何時だったっけ、君はこれは友人から借りてるんだと云っていた「樗牛全集」を、質に入れてくるんだと云ってたじゃないか。そうだ、なんでもそれは君が羽織がない羽織がないと云っていた時分だったから、たしか此の春だったと思う。君が旣にそう云ったことをしときながら、一面には君は、殆んどそれに類したことを僕がすると、それを發きたって、飽くまで其の罪を鳴らそうとするんだから、僕は鳴らして貰いたいと思うんだ。』と云うと、一時にどっと溜淚と云った風に、またおいおいと泣きだすのだ。其の時私は、
「で、君はまた、それで死のうと云うのかい。」と、半ば本気に、半ば皮肉にこう云うと、
「そうだ。僕は死ぬんだ。死んで云いわけをするんだ。それより外に、道がないじゃないか。」と云って、彼はなおも泣きつづけるのだ。私はまた暫く、默ってそれを見ていたが、もう此の上私の力ではどうすることも出來ないと思ったから、今度は半ばやけになって、
「君くらい分らずやもないじゃないか。何のことはない君は、まるで錆刀でもって、目にも餘るような大きな石を兩斷しようとするんだ。そして、それが思いどおりに行かないと、俺は死ぬんだ、俺は死ぬんだと云うのも同然なんだから。傍に見ている者は溜らなくなるじゃないか。僕に云わすれば、みんなこれは君が無知だから、そんな愚劣な考えも起るんだ。つまり君は、好きこのんで、自分で自分の命を棒に振ろうとしてるんだ。」と云って冷笑してやった。また私は、
「もう僕は、君と云う者にも、ほとほと愛想がつきちゃった。もう此の上は、口を利くのも厭になっちゃった。だから君は、君の思いどおりに振舞うのだなあ。そうすれば君の氣も濟むだろうから。」とも云って、嫌味を並べてやった。しかし、私がそう云っても、岡田は相變らず泣いていて、何とも云わなかったから、更に私は、前の言葉の意味を强めて、謂わば君の命は君のものなんだから、君の好き放題に振舞うんだなあ。僕はそう思うよ。死にたけりゃ死ねば好し。厭になったら生きながらえてるんだなあ。」と云って、嚙んではほきだしてやった。すると、流石の岡田も溜らなくなったのだろう。泣きじゃくりながらだが、
「君は薄情だ。本當に君は冷酷だ。──そうたやすく死ねる位なら、僕は君のところへこんな話なんぞ持ってくるものか。君は人のことだと思うから、そんな殘忍なことも云えるんだ。」と云ったかと思うと、後はまた泣き聲に變ってしまった。ところで、其の云いぐさがまた私の氣を煽ってきた。だから私は、まるで目の先へ飛んできた蛾蝶でも叩きおとすようにして、
「そんな分らないやつがあるもんか。──だって、君は今し方、『僕は死ぬんだ。僕は死ぬんだ。』と云ったじゃないか。そして、これは必ずしも今日ばかりじゃないんだ。此の間中から、君はくるたんびに何時も、口癖のようにそう云ってるじゃないか。僕ははなから君の說には反對なんだ。だから何時も僕は死ぬのは止せ。そして、何も特別に此方から足を運んでまで、あやまりに行く必要はないことなんだから、そんなことに氣を病むやつもないもんだと云ってるじゃないか。すると君は、僕の前では、じゃそうしようと云って置きながら、僕のところから歸ると、丁度君が僕のところへやってくると、今も云った通り『僕は死ぬんだ。僕は死ぬんだ。』と云うのが口癖のように、何時でも君は、あんなに堅く僕が止せと云ってる宮部のところへ出掛けて行くじゃないか。──宮部のところへ君はあやまりに出掛けて行くじゃないか。そして、其の結果は、これまた何時でも判を押したように、定って拒絕された上に、さんざん辱められて、追いかえされてくるんじゃないか。そして、君から云えば、それが當然自然の歸結なんだから、敢えてそう云うのだろうが、追いかえされてくると、またまた君は、『僕は死ぬんだ。僕は死ぬんだ。』と云うに定ってるんだ。其の君を捉えて、如何に君が紋切型に出るからと云って、僕までがそれを模して、君同樣に、死ぬのは止せ、死ぬのは止せと云ったって始まらないじゃないか。と云うのは、そう云うと君は、僕の前にいる間だけ、同感履行するように云っといて、僕のところを離れるが最後、もう手の裏を引っくりかえしてしまって、宮部のところへお出掛けあそばすんだからなあ。僕に云わせると、今度のことは、君が洒落半分にやってるんだろう。でなきゃ君は、惡戲にやってるに相違ない。これが若し正氣なら、こんなくだらないことは、賴まれたってやれることかい。もう好加減にしろい。」と云って、私は嘲罵してやった。が岡田は泣いてばかりいて、それには別になんとも云わなかった。ただ僅かに口にすることと云ったら、それは、
「君は薄情だ。君は人のことだと思って、そんな勝手なことばかり云ってるんだ。」と云う位のものだった。──何處まで行っても、彼は紋切型を出ないのだ。私は、一羽殺すとまた一羽襲來してくる蛾蝶でも見るように、それが癪に觸ってくるのだ。疳高い私は、なおもそれを追っかけて、打ちのめさなければ納まって居れなかった。
「もう泣くのは止せやい。もっとはっきりして、話合おうと云うなら、話合おうじゃないか。君は僕を、かなり自分勝手な人間で、他人のことに對しては、微塵同情も持たなきゃ、從って、其處にはなんらの理解もないように云うが、しかしこう見えても僕だって、僕自身が自惚れてるほどえらい人間じゃないかも知れないが、同時に君が云うほど、そんな愚劣な人間でもない積りだ。今度の君のことに就いてだって、僕は、僕としちゃ出來るだけ嚴正にも臨み、君の爲にも、僕としちゃ出來るだけのことを計ってやった積りなんだ。ただ君はそれを、──僕の云うことを、僕の前にいる間だけ、全部肯定して置きながら、一歩僕の前から離れると、また全然僕の意見を裏切って、正反對な行動を取るから、終いには僕だって、自然君に對して反感を持ってくるようになるんだ。──僕は今度のことに對しては、君がそんなに躍起になって、騒ぎまわるに當らないことは、はなからちゃんと云ってることなんだ。死ぬ必要のないことは云うまでもない。ところで君は、半ば僕の說を容れ、半ば自說を取って動かない結果として、幾度も幾度も、宮部のところへ行ったりなんかするから、一度は植松に鑑定させたのだろうと誤解されたり、また昨日は昨日で新聞を借りて、これを社會に發表しようと企ててるのなどと云う邪推を買ってくるようなことになるんだ。そして、それもこれも、みんな君が、僕があれほど行っちゃいけない、行く必要のないところだからと云ってるのも聞かずに、まるで戀人にでも逢うようにしちゃ出掛けていくからいけないんだ。だが、もう過ぎちゃったことは仕方がないが、もうこれからは二度と再び、宮部のところへ行くことだけは止すんだなあ。出來るなら宮部のことは、斷然忘れてしまうんだなあ。それが何より最善の方法だ。それを打捨て君が、なお此の上ともに重ねて、宮部のところへ日參するようなら、今日限り僕は、斷然此の問題には關係しないから、君は君で自由行動を取るんだなあ。そうするより外に仕方がないじゃないか。」と云うと、彼はそれからも暫く泣いていたが、やがて。
「僕だって何も、死にたくて死のうと云うんじゃないんだ。──相手があんまり分らなさ過ぎるからだ。」とこう云うのだ。──云うことが相變らず不徹底なのだ。
「そうさ。だが相手の分らないのは、何も今にはじまったことじゃないじゃないか。其の分らずやに向って、君が理解を求めるから、期せずして其の結果は、徒らに君に忿懣を齎してくることになるんじゃないか。だから、そんな開かずの門を叩くことは、もう止すんだなあ、そんなことをして、拳を破るだけが無駄じゃないか。僕達はお互いに、もっとはっきり自分を摑まなきゃ噓だ。人を恨み、人を呪う前に、もっともっと、自分を見詰め自分を固めなきゃ噓だ。」
私が彼の言葉を受けてこう云ったのだ。此の間に彼は泣きやんできた。──泣きやんで暫く噦りあげていた。それから彼は、
「そうだ。僕達の現在および未來は、ただそれあるのみだ。それを外にして、僕達の生涯は考えることは出來ない。全く君の云う通り、人間のする仕事の中で、最も意味ある仕事と云うのは、苦勞することだ。それに相違ない。例えば、最も樂しかるべき戀にさえ幾多の苦痛が伴ってるんだ。僕は今になって始めて知ったんだが、苦痛の伴うあって戀は始めて樂しいんだ。其の點から云えば、僕が今度の事件に坐して、かなりの苦痛に攻められたことも、決して僕の爲には無意味なことじゃなかった。僕はこうして、大きく成っていくんだ。成っていかなきゃならないんだ。」と云って、これもまた例に依って例の如く、軒昂たる意氣を示してきた。がしかし、なんら持續性のない、謂わば空中樓閣のような彼の言葉には、私は容易に信を置く譯にはいかなかった。恐らくはこれも、また例に依って例の如く、今後悲愁ともつかず、寂寞ともつかない、一種ある不安な感じに襲われた。なおそれでいて不思議なのは、それが爾く信賴するに足りないものだと思いながらも、彼の口から發せられるのを聞くと、憤りの爲に乾ききっている私の心も潤されてくるのだ。
「そうさ。君が其の氣にさえなってくれれば、僕もうれしいんだ。そして、僕達は、これから先にも、まだまだどんな辛竦な試しに遇わなきゃならないかも知れないが、しかし、どんな苦痛の前にも僕達は、自分で自分を殺すなんてことだけは止さなきゃいけない。それが一等卑怯な態度だから。僕達は、それが病氣の爲か、または何人かの手にかかって殺される以外には、決して死んじゃいけない。そして、僕達は最後の息の絶ゆるまでは、苦勞と云う苦勞と戰うだけの覺悟がなくちゃいけない。僕はそう思うよ。苦しみを積みかさねて成った土地でなきゃ、本當に樂しい喜びの花は咲かないものだ。僕は一生其の土を耕しておわる覺悟だ。」
「全く其の覺悟がなくちゃいけない。僕もこれからはそうする積りだ。誰が今度のようなくだらない問題の爲に死ぬもんか。そんなことは、考えただけでも情けなくなる。僕達は、自分の成長を計るとともに、一面にはまた、世間の人達の爲に、少しでも好いから幸福になるように心掛けて努めなきゃならない。其の一つの手段として、飽くまで不正惡德なことを矯めなきゃいけない。其の點から云えば、僕が關係した今度のことなども、それは數えるに足りないほどちっぽけなものに相違ないが、しかし、それにしても、僕は一つの善事をしたことになるんだと思う。」
「そうだよ。それに違いない。君はたしかに一個の善事をしたんだ。だから、其の善行を否定するようなことは止すんだなあ。もうこれからは、殺されたって宮部のところへ行くことだけは止すんだなあ。うるさく云うようだが、出來るものなら宮部のことなどは、斷然忘れてしまうんだなあ。そして、一日も早く新らしい門出に就くんだなあ。──僕は若し、君が今後宮部のところへ行くのは、死人を呼びいかそうとするも同然で、僕は餘りに無意味だと思う。」
「大丈夫だよ。もう僕だって、死んじゃったって行きやしないから。それよか僕は早く口をみつけて、一心に其の方の仕事をしなきゃならない。そして、たとえ一日一時間が三十分でも好いから、自分の時間と云うものを得て勉强するよ。そして、少しでも早く自分を固めなきゃならない。凡べてはそれからのことだ。」
私達は最後に、こう云った會話をしあった。そして、ちょっと正午を廻ってからだった、岡田が歸っていったのは。それからずっと引きつづいて彼は、私のところへ顏をださないのだ。が此處へきて私はまた困ってしまった。丁度、息せきながらまっしぐらに駈けてきた者が、ふと越えがたい一大障壁に打つかった時のようになってきた。と云うのは外でもない。これから先私が彼に對して取った態度に就いて、何と云って彼の兄に話したら好いか、それが分らなくなってきたからだ。それには私も弱ってしまった。
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