いや、それは少し違っている。其の日はそれから、私達は誰云うとなく、上野の公園でもひと廻りしてこようかと云うのでもって、連立って外へ出たのだ。
それから私達は、團子坂下を眞直ぐに、谷中三崎町から同じく初音町を通って、同じく茶屋町へきた時だった。岡田はこれから、其處の墓地へ入ってみようと云いだしたから、好かろうと云うのでもって、私は彼について、あちこちとひと廻りしてきた。其の間に私達のしたことはと云えば、それは期せずして、私達二人の貧しい身の上を嗟嘆しあったことだった。
「今此處に、百と纏った金があれば、僕は何も、こんな苦しい思いをしなくっても好いんだ。──餘計にはいらない。百圓もありゃ澤山だ。そうしたら、ゆっくり仕事の口も見つけられるんだがなあ。」
これは岡田だ。
「全く金が欲しいなあ。僕は幾くら掛かるか知らないが、ゆっくり落着いて、脚の治療が出來るだけの金が欲しいや。それこそ、君の云いぐさじゃないが、僕は此の脚のことを考えると、生きてる身空がないよ。」
これは私だ。
「全くだ。」
岡田は、如何に同感に堪えられぬように、感じ深くこう云った後へ、
「と云って、金の入る當てはなしさ。と云ってる中にも、麺麭の問題は刻刻に迫ってくるしさ。こう云う時なんだろう。人間が泥棒をする氣になるなあ。」と附けくわえた。
「あるいは然らんだ。僕はそう思うよ。──人間が金の必要に迫られてきて、而も金を得られない場合には、それは許しがたいことだとは知りながらも、今此處に窃盗を働きさえすれば、幾くらかの金を手にすることが出來て、優に其の難關を切りぬけることが出來るとなると、自然そう云う氣も起りうるものに相違ないと思うよ。つまり、それは恐ろしいことだ。爲てはいけないことだと知りながらも、今此處に幾らかの金があれば、自分の命にも係わろうと云う大問題をも、みごと解決することが出來るんだと云うような場合に臨むと、人間は最後の手段として、詐欺や横領は固より、窃盗でも强盗でも、やり兼ないものだと思うなあ。」と云ってくる中に、ふと私の頭へ、宮部のことが思いだされてきた。そして、私はひとりでに、自分の顏のほてってくるのが、はっきり感じられた。
──私は今が今まで、他人から委托され保管していた金を、濫りに費消しているらしい宮部のことを卑しみ憎んでいた。それが、如何なる理由の下に費消されたのか、微塵それに就いての動機や原因も考えずに、ただ徒らに其の結果のみを見て、それを非難し擯斥していた。それが此處へきて恥かしくなってきた。
苟くも、他人から保管を委托されていた金錢を、敢えて私の爲に費消して退けると云うのには、其處には私達第三者の想像を絕した、辛苦さ切迫さがなければならない。果して彼にも、そう云った事情があったとすれば、それは今私達が語りあった意見からして、深く咎むべき問題ではない。少くとも私にあってはまさにそうだ。現在私が、假りにも宮部の行爲を憎むことが出來るとすれば、それはまだ私に、彼ほど爾く金の必要を感ずる機會もなく、若しくは、其の切迫さをも覺える場合がなかったからだ。だから、ただ其の一事に依って、彼を卑醜な者に思い、反對に自分を高貴な者のように妄信している哀れさが、ひしひしと私の身を攻めてきた。
で、私は此のことを、其の時岡田に語ろうかと思った。がしかし、目に見えぬ何ものかに妨げられて、それを口にのぼす譯には行かなかった。仕方なく私は、
「ああ、それにつけても、金の欲しさよだ。僕が今此處で拾うと、それでもって今日はこれから、何處かで一杯飮むんだがなあ。」とついまたつかぬことを云ってしまった。
見ると其處は、眞直ぐに行けば御隱殿坂の方になり、右へ廻れば、音學學校の裏通りになるところだった。私は其處を廻って、ずっと公園の方へ拔けようとすると、岡田は、
「もう、此處から引っかえそうよ。──公園を廻ったってつまらないや。」と云って、立ちどまってしまった。
「じゃ、歸ろうか。」
私はまた、直ぐと彼の提議に從って、元きた方へ踵を返したが、これは恐らくは、私が若し此處で金でも拾得したら、何處かで酒でも買うことにしようと云った言葉から、彼は俄に歸心を起したものなのだろう。──飮酒と云うことから、彼はふさのことを思いだしたに相違ない。ふさのことを思いだすと、ふさの所在地と、公園廻りをしての歸途とが、期せずして、逢初橋上で合うことになっている點に思いいたったところから、途上邂逅と云う萬一の出來ごとを恐れて、比較的安全な路を採って歸ろうと云うことに思いついたのだろう。私には、どうやらそう思われてならなかった。
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