第42章

根津權現裏(第43話)

焚書刊行会

小説

6,346文字

芝公園にて凍死体で発見されるという最期をむかえた「破滅型の私小説作家」藤澤淸造の代表的長編の電子化テキスト

 つぎよくじつだ。
 よくじつまたおかがやってきて、れいってれいごとく、わたしとこなかはいってきて、ひとしきりいていた。わたしれいってれいごとく、とこなかからして、つくえまえへきてすわっていた。ただちがっていたことは、かれのきたかんが、もよりはすこはやかったのと、わたしとこからびだしたのは、それはそれまでのように、あんられたり、きようたれたりしたのではなくて、うるさいところからはじまっていたくらいのものだった。
 それから、わたしかれきやむのをって、どうしたのだとうと、かれはまたまえれから、みやのところへってきたとうのだ。わたしはそれは、ぜっこうつうこくどうに、ざっへんしゆうじようきつぎなどをかねってきたのだろうとおもった。だがそれにしては、それまでかれが、れいってれいごとくとえばそれまでだが、わたしとこなかで、いていたわれがわからなくなってきたから、それにうたがいをいだきながら、
「どうだったい。みやなんっていたい。」とうと、かれぶんいおとしたことおもいついたように、あわてふためいて、
ぼくさく、あやまりにってきたんだ。」とうのだ。
 わたしはそれをみみにすると、もううえは、おかうように、かれみずからのぬのなどをたずに、わたしわたしにかけてではない、わたしあしにかけて、ひとおもいにころしてしまってやろうかとおもった。がわたしくらそうはおもっても、あいにんげんだけに、そうたやすくそれがじっこうされもしなかったから、かたなくわたしは、いらむねししずめながら、
「なんだろうきみは、そんなくだらないことばかりしてあるいてて、てんでごとつけようともしないんだろう。」とうと、
「いや、ぼく昨日きのうごとさがしてきたんだ。」とうのだ。
 でまた、はなしわからなくなってきた。りにも、あらたごとつけにあるいたものが、をどうしたらみやのところなどへ、あやまりにかけたのだろう。それがうたがわれてきた。だからわたしは、こんはそれをってなじると、おかまえわたしのところをると、まっぐに宿やどかえって、ひるめしってから、ぜんかれがいたことのあるほんばしの、うえまつべんのところへけたのだそうだ。とうのは、うえまつあともずっときつづいて、せいうんどうしよてんほうりつもんをしているところから、かれはそれへたのんで、はいれるものなら、へんしゆうはいろうとがんでもってけていったのだそうだ。
 くと、うえまつさいばんしよっただったが、ぜんしばらくいたことのあるいえだけに、それからおくとおって、じんって、けんばなしをしながら、しゆじんかえりをっていたのだそうだ。するともなく、うえまつかえってきたから、つぶさぶんげんじようだんじて、せいうんどうへのあっせんかたこんがんしてきたのだそうだ。そうだ、それから、ゆうはんそうになって、そとるとまたたまらなくなってきたのだそうだ。──
 ぶんはこうして、ほかしよくつけて、つとめることになれば、うにことはかない。それにしてもかわいそうなのはみやだ。みやにもしらが一ぶんもらしたことをもんだいにしてつがさい、もうれいひと(※とうごくされたじゆけいしや)とならなければならないのだ。そして、けいかくていするとともに、それまでにちえていためいぼうをもみなうしなってしまわなければならないのだ。うえけい滿ちてしゆつごくしてきても、けいひととして、ひろしやかいから、べつされはいせきされなければならないのだ。──だがしかしそれもい。そうなればみやだって、しよせんうごかしがたいいんりつまえなみだをのんでかんねんするだろうから。ただかわいそうなのは、かれれそうさいたちだ。かれふたは、おっとたりちちたるみやにゆうごくするとともに、きゆうてんちよっの一だいぎやっきようかねばならなくなるだろう。にはまた、けるあいあいつうつうが、うずまきかえしていて、せんじやくふたへいどんしなければかないだろう。そして、それはみなぶんあやまらしたことからはじまっているのだ。ぶんみやいっかんけいはとえば、それはいっしゅしゆじゆうちかかんけいにおいてつながれていたのだ。なるほどには、いくへいもあればはんかんもありはあったが、しかし、むくいとしてなにかれふたまでもるにはあたらなかったことだ。それもこれもみなぶんけいちようはくさからきているのだ。だから、なにをいても、もう一かれのところへけていって、ぶんしつびて、かれゆるしをけてこなければきてはれないとおもうと、それまでかんじていたはじみえわすれてしまって、おかあしはひとりでにほうむかってうごきだすのだそうだ。──みやにいたので、ぜんかれあしは、えぬなにものかにっぱられるようになって、ほうむかっていくのだそうだ。
 それから、みやのところへきて、またことをつくして、いろいろあやまってたのだそうだが、かなみやいてくれないのだそうだ。ときおかは、ひとつはぶんが、このたびしつしつげんいて、どんなにこうかいかいしゆんしているかとうことをあかしするためからも、げんざいまでやらしてもらっていた「ふた」のへんしゆうするかくだとうこと。そして、とうぜんぶんさいほかあらたにしよくぎようつけねばならないから、ためじつ今日きようぶんもといたことのあるほんばしうえまつべんのところへって、のことにいてらいしてきたのだとうこと。うのは、せいうんどうしよてんへんしゆうなのだとってはなしているのをくもかずにみやぐとそれをかいして、
きみなにか、そううあさましいことをしなきゃれないにんげんなのか。ぼくこうが、げんこうほうりつじようなるめをわなきゃならないものからないが、ぼくほうりつにおいて、しかけっていされめいれいされたら、いさぎよくそれにふくするまでだ。ぼくは、そううことにいてまで、きみたちかんしようけようとはおもわない。もううえぼくきみひつようはない。──ぼくは、ほうりつわれるよりも、きみかおてるほうかいだ。かえってくれたまえ。かえりたまえ。」とって、いまにもきだしそうなけんまくなのだそうだ。
 つまり、みやは、おかうえまつへ、しゆうしよくこうたのみにったのを、たまたまあいべんのところから、これはてっきり、ぶんはんざいじついてのかんていらいしてきたのだろう。そして、かれいんようたてりかざして、ぶんきようかつしようとしているのだとしんしたらしいとうのだ。で、おかはそうかいされけんせきされると、りつくすべうしなってとぼとぼかえってきたのだそうだが、かんがえればかんがえるほど、ぶんきてはれない。ぶんつみは、わずかってのみあがなうことがるのだとうのがおかぶんなのだ。
 わたしず、そうぞうじっさい相違ちがいをも、はっきりべつおかていのうげんあわれになってきた。そうじゃなかろうか。かれは、たまたまうえまつしよけていって、しゆうしよくあっせんかたらいすると、もうそれがようされることにかくていしたもののようにおもうとうのだからしいのだ。それからしてかれは、こんけんとうしやたるみやおもいおこすと、それはもうしらってこくされ、じゆしやたるけんって、まるでしんにでもせられたもののようにしんじてしまうのだからなさけない。そればかりではない。そうなるともうかれは、みやこうはんされ、はんけつかくていされて、もうえきいてでもいるもののようにもうしんしてしまうのだからかなわない。うえに、みやさいまでをれんそうしてくると、それがまたただちに、ありごくおちいっていくありのように、せいのほどもはかりがたいものにしてしまうのだからおそろしいのだ。つまりかれには、そうぞうじっさいとのべんべつがないのだ。かれそうぞうそくじつなのだから、ひっきようするところ、こんのようなかいをもんでくるのだ。かれはもうすこおちいて、れいせいさくはんしさえすれば、こんのようなことはなくともかったのだ。なんのことはないかれは、いてきずもとめてあるくもどうぜんなのだからたすからないのだ。とどうに、わたしときった、みやたいにもあきたらなかった。
 おおくのあいに、かいうことは、けっしてないことではない。だがしかし、それはおおくのあいかいするがわちゆうまたはどくだんからしようずるのだ。そして、このたびごときは、まさにみやけいそつさ、おくびようさからきているのだ。かれときおかどうようにもうすこちんちやくに、れいせいにこれにたいしていたなら、おんなどもあいだるようなかいはしなかったに相違ちがいない。そうすれば、ぶんちをがいしたうえに、おかをして、ふたたねがうようなあわれさに、みちびいてこなくともかったのだ。
 おかうところにると、かれおかうえまつべんのところへってきたとはなしをすると、くもそれをかずに、おかむかって、
きみなにか、そううあさましいことをしなきゃれないにんげんなのかうんぬん。」とって、かのおかとうしたそうだ。なるほど、みやたちからして、おかはんざいじつたいするかんていでもらいしてきたものとあいには、おかにおける、もっともあさましいれつにんげんにもえただろう。がしかし、いまこれをだいしやたるわたしからすれば、けいそつさ、おくびようさにおいて、それをくちにしてはばからないふう(そのひとしんも、あまりあさましくてれつにんげんでないこともない。ましてそれが、ぜんぜんそうったとくさからはいたいされたかいだとすれば、なんは、くちとおしてひとくわえるまえに、ふうしんけねばならないものではなかろうか。わたしはそうおもう。そうせんぱくたいにんげんだから、こんのようなたくきんしよううのか、それとも、かんきんおうりよううのからないが、そうかなしいれんざいおかして、なおてんとしてどうきよういくにんあたっていたり、しんがくけんさんしたがってれるのだとおもったので、わたしはまたくちきわめて、みやなんこうげきしてやった。そして、ほこてんずるとこんおかむかって、
「それとうのも、みんなきみがそうしちゃ、あやまりになんぞくからいけないんだ。ぼくわすれば、あやまりにくのもひとりきりだ。そうったふうな、まるできつねたぬきみたいに、さいおくそくでもってりかたまっているようなにんげんとらえて、しやざいざんもないじゃないか。だいきみは、ともするとぬんだ。んでしやざいするとうが、きみなにかい、はんざいうものは、はんにんにさえすれば、それとどうはんざいじつしようめつするものだとでもおもっているのかい。しそうだとすれば、きみいノンセンスだぜ。」とって、かれじようへもそれをくわえてやった。
 それからまた、わたしことをついで、
かんがえてみたまえ。おかしたものんでしまうんだから、それでかろうが、おかしたつみはつまり、つみってそこなわれたにんげんやまたはぶつは、はんにんぼつもなおげんそんするんだ。だからげんそんされたそんしつなりがいなりを、きみはどうしてしようきやくしようとうのだ。いまこれをきみあいいてえばみやだ。みやきみっててきはつされたはんざいじつなるものは、きみとともにしようめつするものだときみしんずるのか。まさかにそうじゃあるまい。だとすれば、なにきみぬにはあたらないじゃないか。すくなくともきみは、きみおかしたとつみつぐないとして、なにぬにはあたらないじゃないか。そうじゃないか。どうかんがえても、きみは、ちよくせつきみおかしたつみつぐないにはならないだろうじゃないか。だからぼくは、いたずらにきみこうとうのは、あまりにきようだとおもう。きみはたして、けっするほど、きみきみおかしたとおもざいあくたいして、それをつうかんするなら、なおもってぼくは、いまあいではないとおもう。それどころかきみは、さいだんあいして、ながきなきゃいけないとおもう。そして、こんにおいてきみは、このたびあやまちを、つまり、このたびきみがなしたほうこうなるものを、つぐなうだけのぜんこうをして退けなきゃいけないとおもう。でなきゃまことにおけるせいではないとおもう。そうじゃないか。」ともってやった。
 おかは、へきても、なおきよえつしていて、なんともわなかったから、わたしはまたこうもってやった。──
きみはとにかく、ぶんつみって、もうみやのところへびにけたんだ。ところでみやがそれをれてくれないんだ。きみのうとこううんだ。んでしやざいをしたいとこううんだ。が、それがぼくにはわからないんだ。──きみうところにると、あいものきみつみさえゆるしてくれれば、きみなどをかんがえそうもないんだ。これがぼくなら、そして、きみえらぶなら、まるできみとははんたいただろうとおもう。──いったいぼくわせると、これはひときみのみでなくだ、にんげんにんげんは、なるつみまえにも、また、なるけんまえにも、みずかぬなどとうことは、ゆるされないことなんだ。しそううことをえてするものがあれば、それはつみを、さらに二じゆうじゆうするものなんだ。だからにんげんは、ほかからころされるまでは、ぶんからすすんでひつようなどはないのだ。とうよりは、そううことは、いっさいゆるされていないんだとったほういかもれない。それをきみは、ともすると、みずかがいして退けようとうから、ぼくあきたらないんだ。ことにそれがきみしやざいみやれてくれないてんからきてるらしいのがなおとぼくにはあきたらないんだ。ぼくきみつみなるものは、きみさいしよみやこくはくしたことにって、もうぜんゆるされてるものだとおもう。あいがそれをゆるすのゆるさないのとうことは、ようするにすえもんだいだ。それをきみのように、それにばかりこだわって、いまさらぬのきるのとうから、ぼくにはわからなくなるんだ。──うことがすこあいまいになってきたが、とにかくぼくは、きみみやれられはしたが、なおめにえられないから、ぬとうならまだしもいとおもう。がきみのはそれとはせいはんたいなんだから、ぼくきみどうずるわけにはいかないんだ。で、くらあやまっても、あいものれてくれないとなりゃかたがないじゃないか。きみきながらえていてじんかくひととなったうえで、つみつぐないをすればいじゃないか。ぼくはそうおもう。──いまきみが、さつして退けるとするんだ。すると、さしあたきみいて、かいおもいをするものは、だれでもないみやだとおもう。これがみやにすれば、きみはただたんに、くされのあまりにそううことをえてしかしたのにぎない。ようするにこれは、ぶんたいするつらてにしたのにぎないとおもうに相違ちがいないとおもう。だから、何方どちらからみても、なにきみさいぬにはあたらないことだ。ぼくは、そんなれつなことにかまけてるひまがあったら、つらでもあらいなおして、こんにおけるぶんのことでもかんがえたほうためだとおもう。」
 それからもおかしばらく、しやくりあげていたが、やがて、
「ああそうだ。ぼくはどうして、こうれつにんげんになっちゃったんだろう。そうだ、だれぬものか。にんげんうところの、きようしやとなっておわることがないからとって、みずからきこのんで、じやくしやたろうとするひつようにある。ぼくなないよ。ぼくけんむこうへまわしてたたかっても、ぶんからぬなんてれつはしないよ。」とって、またで、れいってれいごとくとわなければならないように、まるでうまれかわったようなふうになってきた。そして、これもれいってれいごとく、それからもなくかれは、かえるとうから、
「もうなんだぜ、それこそたとえんでも、みやのところへくのだけはしたまえ。──りたものがあるとうなら、それはがみいっしよに、づつみしたまえ。そして、きみなによりもさきに、はやごとつけなきゃいけないじゃないか。」とって、それをくりかえしてやった。また、「よるになって、さびしくてたまらなくなるようなことがあったら、なんどきでもかまわない、ぼくのところへやってきたまえ。おもては、っぴてけっぱなしなんだから。」ともってやった。そして、わたしたちわかれたのだ。

2020年10月26日公開 (初出 日本図書出版 大正11年発行 単行本

作品集『根津權現裏』第43話 (全60話)

© 2020 焚書刊行会

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