次は其の翌日だ。
其の翌日また岡田がやってきて、例に依って例の如く、私の床の中へ入ってきて、ひとしきり泣いていた。私も例に依って例の如く、床の中から飛び出して、机の前へきて坐っていた。ただ此の日違っていたことは、彼のきた時間が、何時もよりは少し早かったのと、私が床から飛びだしたのは、それはそれまでのように、不安に驅られたり、恐怖に打たれたりしたのではなくて、うるさいところから始まっていた位のものだった。
それから、私は彼の泣きやむのを待って、どうしたのだと云うと、彼はまた前の日の日暮れから、宮部のところへ行ってきたと云うのだ。私はそれは、絕交の通告と同時に、雜誌編輯上の引きつぎなどを兼て行ってきたのだろうと思った。だがそれにしては、それまで彼が、例に依って例の如くと云えばそれまでだが、私の床の中で、泣いていた謂われが分らなくなってきたから、それに疑いを抱きながら、
「どうだったい。宮部は何と云っていたい。」と云うと、彼は自分の云いおとした言葉を思いついたように、あわてふためいて、
「僕は昨夜、あやまりに行ってきたんだ。」と云うのだ。
私はそれを耳にすると、もう此の上は、岡田の云うように、彼自からの死ぬのなどを待たずに、私は私の手にかけてではない、私の足にかけて、ひと思いに蹴殺してしまってやろうかと思った。が私は幾くらそうは思っても、相手が人間だけに、そうたやすくそれが實行されもしなかったから、仕方なく私は、苛立つ胸を押ししずめながら、
「なんだろう君は、そんなくだらないことばかりして歩いてて、てんで仕事を見つけようともしないんだろう。」と云うと、
「いや、僕は昨日、仕事を探してきたんだ。」と云うのだ。
此處でまた、話が分らなくなってきた。假りにも、新に仕事を見つけに歩いた者が、何處をどうしたら宮部のところなどへ、あやまりに出かけたのだろう。それが疑われてきた。だから私は、今度はそれを云って詰ると、岡田は前の日に私のところを出ると、眞直ぐに宿へ歸って、晝飯を食ってから、以前彼がいたことのある日本橋の、植松辯護士のところへ出掛けたのだそうだ。と云うのは、植松は其の後もずっと引きつづいて、靑雲堂書店の法律顧問をしているところから、彼はそれへ賴んで、若し入れるものなら、其處の編輯へ入ろうと云う志願でもって出掛けていったのだそうだ。
行くと、植松は裁判所へ行った留守だったが、其處は以前暫くいたことのある家だけに、それから奧へ通って、婦人に會って、世間話をしながら、主人の歸りを待っていたのだそうだ。すると間もなく、植松が歸ってきたから、具に自分の現狀を談じて、靑雲堂への斡旋方を懇願してきたのだそうだ。そうだ、それから、其處で夕飯の馳走になって、外へ出るとまた溜らなくなってきたのだそうだ。──
自分はこうして、他に職を見つけて、其處へ勤めることになれば、先ず喰うにことは缺かない。それにしてもかわいそうなのは宮部だ。宮部は明日にも白井が一度自分が洩したことを問題にして起つが最後、もう囹圄の人(※投獄された受刑者)とならなければならないのだ。そして、刑の確定するとともに、それまでに贏ちえていた地位や名望をもみな失ってしまわなければならないのだ。其の上、刑期が滿ちて出獄してきても、以後は刑餘の人として、廣く社會から、侮蔑され排斥されなければならないのだ。──だがしかしそれも好い。そうなれば宮部だって、所詮は動かしがたい因果律の前に淚をのんで觀念するだろうから。ただかわいそうなのは、彼に連れそう妻子達だ。彼ら二人は、夫たり父たる宮部が入獄するとともに、急轉直下の一大逆境裡に泣かねばならなくなるだろう。其處にはまた、此の世に於ける悲哀と云う悲哀、苦痛と云う苦痛が、十重二十重に渦卷かえしていて、繊弱な此の二人を幷呑しなければ置かないだろう。そして、それは皆、此の自分が誤り洩らしたことから始まっているのだ。自分と宮部一家の關係はと云えば、それは一種主從に近い關係において繋がれていたのだ。なるほど其處には、幾多の不平もあれば反感もありはあったが、しかし、其の報いとして何も彼等二人までも賣るには當らなかったことだ。それもこれも皆、此の自分の輕佻浮薄さからきているのだ。だから、なにを措いても、もう一度彼のところへ出掛けていって、自分の過失を詫びて、是非彼の許しを受けてこなければ生きては居れないと思うと、それまで感じていた恥もみえも忘れてしまって、岡田の足はひとりでに代代木の方へ向って動きだすのだそうだ。──宮部は代代木にいたので、自然と彼の足は、目に見えぬ何者かに引っぱられるようになって、其の方へ向っていくのだそうだ。
それから、宮部のところへきて、また言葉をつくして、いろいろあやまって見たのだそうだが、何時かな宮部は聞いてくれないのだそうだ。其の時岡田は、一つは自分が、今度の過失失言に就いて、どんなに後悔改悛しているかと云うことを證しする爲からも、現在までやらして貰っていた「二葉」の編輯を辭する覺悟だと云うこと。そして、當然自分は此の際他で新たに職業を見つけねばならないから、其の爲に實は今日、自分が元いたことのある日本橋の植松辯護士のところへ行って、其のことに就いて依頼してきたのだと云うこと。目處と云うのは、靑雲堂書店の編輯部なのだと云って話しているのを能くも聞かずに宮部は直ぐとそれを誤解して、
「君は何か、そう云うあさましいことをしなきゃ居れない人間なのか。僕の行爲が、現行の法律上、如何なる責めを負わなきゃならないものか知らないが、僕は法律の名において、爾く決定され命令されたら、潔くそれに服するまでだ。僕は、そう云うことに就いてまで、君達の干渉を受けようとは思わない。もう此の上僕は君に會う必要はない。──僕は、法律に問われるよりも、君の顏を見てる方が不愉快だ。歸ってくれたまえ。歸りたまえ。」と云って、今にも突きだしそうな權幕なのだそうだ。
つまり、宮部は、岡田が植松へ、就職事項を賴みに行ったのを、たまたま其の相手が辯護士のところから、これはてっきり、自分の犯罪事實に就いての鑑定を依賴してきたのだろう。そして、彼は陰に陽に其の楯を振りかざして、自分を恐喝しようとしているのだと誤信したらしいと云うのだ。で、岡田はそう誤解され譴責されると、取りつく術を失ってとぼとぼと歸ってきたのだそうだが、考えれば考えるほど、自分は生きては居れない。自分の罪は、僅に死に依ってのみ贖うことが出來るのだと云うのが岡田の云い分なのだ。
私は先ず、想像と實際の相違をも、はっきり差別し得ぬ岡田の低能さ加減が憫れになってきた。そうじゃなかろうか。彼は、たまたま植松の事務所へ出掛けていって、就職の斡旋方を依頼すると、もうそれが雇傭されることに確定した者のように思うと云うのだから可笑しいのだ。それからして彼は、今度の事件の當時者たる宮部を思いおこすと、それはもう白井の手に依って告訴され、其の受訴者たる檢事の起訴に依って、まるで豫審にでも附せられたもののように信じてしまうのだから情けない。そればかりではない。そうなるともう彼は、宮部が公判され、判決が確定されて、もう苦役に就いてでもいるもののように妄信してしまうのだから叶わない。其の上に、宮部の妻子までを其處へ連想してくると、それがまた直ちに、蟻地獄へ陷っていく蟻のように、生死のほども計りがたいものにしてしまうのだから恐ろしいのだ。つまり彼には、想像と實際との辨別がないのだ。彼の想像は即事實なのだから、畢竟するところ、今度のような誤解をも生んでくるのだ。彼はもう少し落着いて、冷靜に思索し批判しさえすれば、今度のようなことは見なくとも好かったのだ。何のことはない彼は、毛を吹いて疵を求めて歩くも同然なのだから助からないのだ。と同時に、私は其の時に取った、宮部の態度にも慊らなかった。
多くの場合に、誤解と云うことは、決してないことではない。だがしかし、それは多くの場合に誤解する側の不注意または獨斷から生ずるのだ。そして、今度の如きは、まさに宮部の輕卒さ、臆病さからきているのだ。彼も其の時、岡田同樣にもう少し沈着に、冷靜にこれに對していたなら、女子供の間に見るような誤解はしなかったに相違ない。そうすれば、自分の氣持ちを害した上に、岡田をして、再び死を願うような哀れさに、導いてこなくとも好かったのだ。
岡田の云うところに依ると、彼は岡田が植松辯護士のところへ行ってきたと云う話をすると、能くもそれを聞かずに、岡田に向って、
「君は何か、そう云うあさましいことをしなきゃ居れない人間なのか云云。」と云って、彼岡田を罵倒したそうだ。なるほど、宮部の立場からして、岡田が自己の犯罪事實に對する鑑定でも依賴してきたものと見る場合には、岡田は此の世における、最もあさましい卑劣な人間にも見えただろう。がしかし、今これを第三者たる私の目からすれば、其の輕卒さ、臆病さにおいて、それを口にして憚らない夫子(その人)自身も、餘りあさましくて卑劣な人間でないこともない。ましてそれが、全然そう云った不德さから胚胎された誤解だとすれば、其の非難は、自己の口を通して人に加える前に、先ず夫子自身が受けねばならないものではなかろうか。私はそう思う。そう云う無知淺薄な態度を取る人間だから、今度のような委托金費消と云うのか、それとも、保管金横領と云うのか知らないが、そう云う悲しい破廉恥罪を犯して、なお恬として兒童敎育の任に當っていたり、心理學の研鑽に從って居れるのだと思ったので、私はまた口を極めて、宮部を非難攻撃してやった。そして、其の矛を轉ずると今度は岡田に向って、
「それと云うのも、みんな君がそうしちゃ、あやまりになんぞ行くからいけないんだ。僕に云わすれば、あやまりに行くのも人に依りきりだ。そう云った風な、まるで狐か狸みたいに、猜疑と憶測でもって凝りかたまっているような人間を捉えて、謝罪も懺悔もないじゃないか。第一君は、ともすると死ぬんだ。死んで謝罪すると云うが、君は何かい、犯罪と云うものは、其の犯人が死にさえすれば、それと同時に其の犯罪事實も消滅するものだとでも思っているのかい。若しそうだとすれば、君も好いノンセンスだぜ。」と云って、彼の頭上へもそれを加えてやった。
それからまた、私は言葉をついで、
「考えてみたまえ。犯した者は死んでしまうんだから、それで好かろうが、犯した罪はつまり、其の罪に依って害われた人間やまたは事物は、其の犯人の沒後もなお現存するんだ。だから其の現存された損失なり危害なりを、君はどうして償却しようと云うのだ。今これを君の場合に就いて云えば宮部だ。宮部が君に依って摘發された犯罪事實なるものは、君の死とともに消滅するものだと君は信ずるのか。まさかにそうじゃあるまい。だとすれば、何も君は死ぬには當らないじゃないか。少なくとも君は、君の犯したと云う罪の贖いとして、何も死ぬには當らないじゃないか。そうじゃないか。どう考えても、君の死は、直接君の犯した罪の贖いにはならないだろうじゃないか。だから僕は、徒らに君が死に就こうと云うのは、餘りに卑怯だと思う。君が果して、死を決するほど、君が君の犯したと思う罪惡に對して、それを痛感するなら、なおもって僕は、今は死ぬ場合ではないと思う。それどころか君は、此の際一段と自愛して、永く生きなきゃいけないと思う。そして、今後において君は、今度の過ちを、つまり、今度君がなした不法行爲なるものを、償うだけの善行をして退けなきゃいけないと思う。でなきゃ眞の意味における正義の士ではないと思う。そうじゃないか。」とも云ってやった。
岡田は、此處へきても、なお歔欷嗚咽していて、何とも云わなかったから、私はまたこうも云ってやった。──
「君はとにかく、自分の罪を知って、もう宮部のところへ詫びに出掛けたんだ。ところで宮部がそれを容れてくれないんだ。其處で君は死のうとこう云うんだ。死んで謝罪をしたいとこう云うんだ。が、それが僕には分らないんだ。──君の云うところに依ると、若し相手の者が君の罪さえ許してくれれば、君は死などを考えそうもないんだ。これが僕なら、そして、君が若し死を選ぶなら、まるで君とは反對に出ただろうと思う。──一體に僕に云わせると、これは獨り君のみでなくだ、人間と云う人間は、如何なる罪の前にも、また、如何なる事件の前にも、自ら死ぬなどと云うことは、許されないことなんだ。若しそう云うことを敢えてする者があれば、それは自己の罪を、更に二重三重するものなんだ。だから人間は、他から殺されるまでは、自分から進んで死ぬ必要などはないのだ。と云うよりは、そう云うことは、一切許されていないんだと云った方が好いかも知れない。それを君は、ともすると、自ら害して退けようと云うから、僕は慊らないんだ。殊にそれが君の謝罪を宮部が容れてくれない點からきてるらしいのがなおと僕には慊らないんだ。僕は君の罪なるものは、君が最初に宮部へ告白したことに依って、もう全部許されてるものだと思う。相手がそれを許すの許さないのと云うことは、要するに末の問題だ。それを君のように、それにばかりこだわって、今更死ぬの生きるのと云うから、僕には分らなくなるんだ。──云うことが少し曖昧になってきたが、とにかく僕は、君が宮部に容れられはしたが、なお其の責めに堪えられないから、死ぬと云うならまだしも好いと思う。が君のはそれとは正反對なんだから、僕は君に同ずる譯にはいかないんだ。で、幾くらあやまっても、相手の者が容れてくれないとなりゃ仕方がないじゃないか。君は生きながらえていて人格の人となった上で、其の罪の贖いをすれば好いじゃないか。僕はそう思う。──今君が、自殺して退けるとするんだ。すると、差當り君の死を聞いて、不愉快な思いをする者は、誰でもない宮部だと思う。これが宮部の身にすれば、君はただ單に、不貞腐れの餘にそう云うことを敢えてし出かしたのに過ぎない。要するにこれは、自分に對する面當てにしたのに過ぎないと思うに相違ないと思う。だから、何方からみても、何も君は此の際死ぬには當らないことだ。僕は、そんな愚劣なことにかまけてる隙があったら、面でも洗いなおして、今後における自分のことでも考えた方が身の爲だと思う。」
それからも岡田は暫く、噦りあげていたが、やがて、
「ああそうだ。僕はどうして、こう愚劣な人間になっちゃったんだろう。そうだ、誰が死ぬものか。人間謂うところの、强者となって終ることが出來ないからと云って、自から好きこのんで、弱者たろうとする必要が何處にある。僕は死なないよ。僕は世間を向うへ廻して戰っても、自分から死ぬなんて愚劣な眞似はしないよ。」と云って、また此處で、例に依って例の如くと云わなければならないように、まるで生れかわったような風になってきた。そして、これも例に依って例の如く、それから間もなく彼は、歸ると云うから、
「もうなんだぜ、それこそたとえ死んでも、宮部のところへ行くのだけは止したまえ。──借りた物があると云うなら、それは手紙と一緒に、小包で出したまえ。そして、君は何よりも先に、早く仕事を見つけなきゃいけないじゃないか。」と云って、それを繰返してやった。また、「若し夜になって、寂しくて溜らなくなるようなことがあったら、何時なん時でも構わない、僕のところへやってきたまえ。表の戶は、夜っぴて明けっぱなしなんだから。」とも云ってやった。そして、私達は其處で別れたのだ。
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