「それはこうです。──日はいつかでしたっけ。なんでも今から五六日前でしたが、ああそうです。たしかそれは先週の火曜日でしたから、丁度一週間前です。僕はまだ寢てたんです。するといきなり僕の耳元で、一種異樣な音がしたようでしたから、はっと思って目を覺ましてみると、驚いちまいました。それは德さんなんです。──德さんが僕の床の中へ入ってきて、僕の體にしがみついて、おいおい男泣きに泣いてるんですから、喫驚しちまいました。……」と云って、先ず私は口をきった。
岡田が私のところへ、自殺の相談を持ってやってきたのは、前後四回だった。後の一回は、それから一日間を置いてやってきたのだ。そして、これは最初も最終も同樣だった。何時も私のところへやってくると、先ず私の床の中へ入ってきて、私にしがみついて、おいおい泣くことに定っていた。だから私は、其の度每に度膽を抜かれたのだ。殊に、最初の日は全く驚いた。私はそれと知ると、恐ろしい者の手からでも逃れるように、夢中で床の中から飛びだして、窓際に据えてあった、机の前へきて坐った。そして、
「おい、どうしたんだよ。」と云って聲をかけたが、岡田はそれには何とも答えずに、ものの三十秒も、若しくは一分間位も泣いていただろうか、私の方へ背中を向けたまま、身も世もないと云った風に泣きつづけているのだ。それを見聞きしていると、私は何だかこう薄氣味惡くなってきた。で、人間がこう寂しくなったり、恐ろしくなったりすると、ちょっと聲を出してみたくなるものだが、丁度私もそれと同しで、
「おい、どうしたんだよ。泣いていちゃ分らないじゃないか。」と云ってやったが、其の時も岡田はなんとも云わずに、ただ泣いてばかりいるのだ。終いに私も少し癪に觸ってきたから、
「おい餘り人を……」と、今度は少し聲を尖らかして、更に呼びかけようとすると、其の時岡田が、泣き聲でもって、
「僕は死ぬんだ。僕は死ぬんだ。」とこう云うのだ。そして、今度はそう云って口を利いたのが惜しまれるように、またおいおいと泣きつづけるのだ。私は其の時、催眠術にでも掛かったような氣持ちになってきた。──其の癖私はまだ催眠術に掛けられたことなどはないのだが、しかし、若しそれを掛けられでもしたら、こうもあろうかと云った風な氣持ちがしてきた。つまり、催眠術に掛けられて、恐ろしいことの暗示でも與えられているような氣持ちなのだ。がそうしている中に、私はまた苛苛しくて溜らなくなってきた。と云うのは、岡田はそれからもずっと泣きつづけていて、私の方を振りかえって見ようともしないのだ。何のことはない、支那の葬いにあると云う、泣き男のようにしているのだから、私は本當に莫迦莫迦しくなってきた。終いに私は、
「おい、好加減にしろよ。」と、まるで怒鳴りつけるようにこう云ってやった。すると岡田は、まるで其の山彥のように、
「僕は死ぬんだ。僕は死ぬんだ。」と云って、前に云ったのと同じことを繰りかえすのだ。それがまた癪だったから、
「死にたきゃ勝手に死ねば好いじゃないか。だが君は、何故死ななきゃならないんだ。くだらないことは、云いっこなしにしようじゃないか。」と云っているところへ、いきなり宿の爺が、其處の障子を開けたかと思うと、
「どうしたんじゃ、谷口さん……」と云いながら、しょぼしょぼと、腐ったようになっている目でもって、じろりと甞めまわすように、私の部屋をひと渡り眺めていた。私は好加減業を煮やしていた矢先だったから、
「何だって好いじゃないか。斷りもなしに、人の部屋を開けるってやつがあるもんか。」と云って、飛びついでくる犬にでも對するように、一氣に蹴飛ばしてやった。それを其處まで語ってくると、折から岡田の兄は、無理やりに其處へ手を突っ込んで、
「ほいから、どうなったがいね。」と云って、それから先を促してきた。
「そう云って怒鳴りつけると、爺は直ぐと引っかえして行きましたが……」とつい私は話の調子に引きいれられてこう云ったものの、考えてみると、彼は宿の爺のことなどを聞いているのではないのだ。彼は、こう云う部分部分のことや、または直接本題に關係のない挿話などには、なんらの興味も持っていないのだ。彼はそう云う末のことよりは、一氣に岡田と宮部の關係、つまり、岡田の死因なるものを知りたくて、胸をわくつかせているのだ。それが私にも能く分っていたけれども、また私は私で、一旦話す日には、出來るだけ委しく、其の事實を語りたいと思ったから、
「それから、僕の話は少し長くなるかも知れませんが、暫く辛抱して聞いてください。」
と斷りを云うと、
「ええ、わしゃちっとも構わんわいね。幾くら長うても……」と云いながら、彼はかたえ(※傍)の湯沸しを取って、其處の急須へ湯を注ごうとしたが、生憎と湯はもう殘りすくなになっていた。それを彼は私の茶碗へ注いで、
「冷とうなったがいね。一つどうやいね。」と云って、私の方へ勸めてくれたりした。そして、「丁度湯もなくなってしもうたがいね。」と獨語を云ったりした。
「ええ、ありがとう。頂きます。」と云って、私は直ぐと後をつづけた。
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