それにしても彼はどうして、縊死する時間を持ったのだろう。ところが假りにも腦病院だとすれば、患者に對する監視は、嚴重な上にも嚴重でなければならぬ筈だ。それともそれは、欲する者の前には、銀行へ預金を下げにいく時の手續同樣に、自分の考え一つでどうにでもなるものなのだろうか。それが疑われてきた。だから私は、
「何ですか、德さんには看護婦は附いていなかったんですか。どうしたらまた、そう云った風な、首を縊る間があったんでしょう。」と云って聞いてみた。すると岡田の兄は、
「そりゃ附いていたんだそうやわいね。それが、惡い時には惡いもんじゃわいね。丁度其の何じゃわいね。其の看護婦さんが、交代する時間になったもんで、それまで附いていた看護婦が、ちょっと部屋を明けてる間に、德が外へ出て、首を吊ってしまったんだと云うこっちゃがいね。何ちゅうだらなやっちゃろいね。」と云ったかと思うと、今度は直ぐ話頭を轉じて、「それよか、あんたのところへ、德が相談に行ったそうやが、其のことを一つ聞かして貰えんかいね。──德がなんの爲に、首なんぞ吊ったのか、あんたは分っているやろがいね。」と云うのだ。
「そりゃ分っています。ですが、それよりも僕は、あなたの知っていらっしゃる、病院の方の話を先にお聞きしたいんです。」と云って賴んでみた。
なるほど考えてみると、私が彼の話を待望しているように、岡田の兄も私の話を待望していたことだろう。いや彼は、肉親と云う關係において、私などよりはもっともっと待望の念うたた切なるものがあったことだろう。それは私にも察することは出來たが、飽くまで我がままな私は、此の時もそれと知りながら、徒らに彼を先にしようと思ったのだ。そして、そう云いながらふと傍を見ると、また其處に並べられている柳行李が目についてきた。私は思わず、
「これはどうしたんです。誰がしたんです。」と云って聞いてみた。
「こりゃ、わしゃきた時からこうなっていたがいね。今も此處の大將と話したのやが、こりゃ、德が此處を出掛けに、自分でこうやって、みんな引きやぶって行ったとみえるがいね。」
私はそれを耳にしながら、片手を伸して、其の中の一個を引きよせて中を掻きまわしてみた。掻きまわしてみると、多くのノートや原稿用紙の破片の中から、彼が編輯していた「二葉」と云う幼年雜誌をはじめ、文藝雜誌や心理學雜誌の類が出てきた。私は何氣なく其の中の一部を自分の膝の上へ持ってきて、目次を繰りながら、
「若しか、僕に宛てた書置きが見つかりませんでしたか。」と云ってみた。これは、ノートの破片や原稿用紙の斷片を目にしたところから、突差に思いついたからだった。すると岡田の兄は、心持ち顏を染めながら、
「書置きってのはこれかいね。」と云って、傍にあった海老茶色したメリンスの風呂敷包の中から、二重になっていて、上からはピンク色に見える封筒に入れられた、一通の手紙を取り出した。そして、「机の抽斗の中にあったがいね。」と云いながら、それを私に手渡した。
私はそれを受取ると、それこそ家宅搜索に出張している豫審判事が、偶然思いがけない場所から、最も有力な材料でも發見した時のように、心のときめくのを覺えた。先ず封筒を見ると、表に私の姓名を書いて、裏へは自分の署名がしてあった。何を隱くそう。私が其の封を切ろうとした時には、怪しく私の雙の手は、あの一本の蠟燭の裸火を見るように顫えていた。そして、其の時は流石に口にのぼすことは憚られたから、それは敢えてしなかったものの、衷心私は、私がそう云って尋ねるまで、凝とそれを隱匿していた岡田の兄の心情が猜疑されてきた。若し私が其の時思いつかず、從って切りださなければ、彼は岡田が最後の思いでに、私へ宛てて書いた其の手紙も、遂に私が墓に入った後までも、屹度見せる氣はなかったのだろうと思うと、私は彼の面上へ唾してやりたくなってきた。だがそれもこれも、實行出來ないもどかしさは、やがて私の右手を驅って、如何にも疎暴そうに其の手紙の上端を破棄させてきた。そして、其の中へ息を吹きいれるとともに、中なる紙片を撮みだして開いてみると、それは一葉の原稿用紙だった。今度は呼吸をも殺して、一氣にそれを讀みくだしてみた瞬間に、私の心はうつろになってしまった。私は餘りの腹立たさに、それを其處へ叩きつけてしまった。そして、我れに返った時には、私の唇へただ冷めたい苦笑がのぼってきた。無論それは、自嘲の意味を籠めたものだったことは云うまでもない。
ところで、私がそれを其處へ投げだすが早いか、岡田の兄は、まるで飛びつくように、「なんと書いてあるいね。」と云って、今にも火花の散りそうに思える雙の眼でもって、凝と私の方を見詰めてきた。それを見返しながら私は、漸くのことで、
「これは、そうじゃありません。」と云った時には、また更に新しく、私の唇へ冷めたい苦笑がのぼってきた。其の時岡田の兄は、
「そうかいね。」と云いながら、それを取りあげて見ていた。
私は今が今まで、ただ一筋に、岡田が私に宛てた書置きだとのみ思っていたそれは、彼が千駄木から此處松風館へ轉居した時の通知なのだ。思うにこれは、彼は移ってきた晩に若し私が留守の場合は、私の宿の者へ托していく考えでもって、ものしたものなのだろう。ところで、事實はきてみると、案に相違して、私が宿にいたものだから、用件は口上で濟して、歸ってきてから思いだしたそれを、懷中から取りだすと、何氣なく彼の坐っていた机の抽斗の中へ入れて置いたのだろう。それに相違ない。そう思うと私は、岡田の兄に對して、暫時にしろ恨みを抱いていたのが恥かしくなってきた。其の氣持ちを、窃と見るともなく見ていると、今度は岡田の仕打ちが恨めしくなってきた。
彼は旣に、數あるノートや原稿まで、一切破棄してしまったのじゃないか。だから物はついでだ。何故其の時に、此の手紙も同樣に破棄してしまわなかったのだろうと思うと、やがて其の恨みは憤りに變じてきて、どんなに私を苛苛させたか知れない。終いに、飽くまで卑怯未練に生まれてついている私は、其の憤りを振りかざして、八つ當りちらさなければ、氣が濟まなくなってきた。
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